ネロポリスの黙示 9
7、天使
「ネロが、覚醒した」
シモンは、毛もくじゃらの触腕でアクリアヌスの顎をつかんで、嬉しげに言った。
「カダル神が正体を現すぞ。まだこの世界では完全な力は得ておらぬにしろ、それでも神だ。所詮人であるダバに、勝ち目はない」
アクリアヌスは、シモンの触腕にとらえられ、ぐったりしている。
しかしそれでも、瞳だけは闘志を失ってはいなかった。
「ダバは、勝つ」
喉の奥から絞りだすように、
「必ず」
「まだ強がりをいう元気があるか、この小せがれは」
シモンは、哄笑した。
「そうでなくてはな。もうちょっとの間、儂も楽しめるというわけだのう。それでこそ、人を捨てて、この姿に変化した甲斐があるというもの」
アクリアヌスは、何も言わなかった。
ただ、じっと自ら父の堕落した姿を、憎悪をこめて睨んでいる。
「その目」
シモンは、陶然として呟く。
「その目を見るたび、思うわ。おぬしはやはり、儂の息子じゃ。いついかなるときも、戦いを放棄せぬ。たとえ髪の毛ひとすじでもこの世に残っておれば、必ず最後には敵を打ち負かさずにはおかぬ――そういう目じゃ」
「負けたくせに」
アクリアヌスの目が、さらなる憎しみに輝く。
「己れの力への欲望に、負けたくせに」
「儂は、最後まで闘うために、力を欲したのだ」
シモンの複眼が、ぎょろぎょろと動いた。
「闘う相手が、儂の場合、儂が長年共に暮らした一族であった、それだけの話よ」
「わからんな」
アクリアヌスが呟く。
「何故、一族をそれほど憎んでいたんだ。我々は、余の人々よりはなれ、偉大なる古代の秘術を守護することを定められた、魔道の民――わずかな仲間同士ひっそりと、魔道をきわめ、新たな世代に引き継いでゆくだけのささやかに生きるをよしとする一族。なのに何故」
「それはおそらく、おぬしには永遠にわからぬ」
シモンはまた笑った。
「また、わかってもらおうとも思わぬ。こうして敵同士として相争うからには。今は、我が神の命に従い、おぬしを屠るが使命」
そうして、牙だらけの口を蠢かせる。
(ダバ。死ぬな)
アクリアヌスは、力なく抵抗しながら、神との絶望的な戦いに挑む、頼るべき唯一の同志の名を呼んだ。
空間が、張り裂けた。
その名に、宇宙が、次元が、すべてのものが怯え、猛り狂った。
(カダル・バエロディウス・エグン)
別名、ヨグ・ソトホート。
宇宙で最も不浄でありながら、しかも最も神聖である神々の一神――それがいま、ネロの肉体を介して、この世に姿を現そうとしている!
かつて聖者ペテロが死の間際に目のあたりにした、あの存在――形ある絶望そのものが、そこにいる。
ばちん。
太い縄が切れるような音をたて、ネロの背中が裂けた。
そこから、暗緑色の、ぬらついた巨大な球体が、めしめしと姿を現す。
その球体の上に、泡のようにもうひとつ球体が生まれた。
その球体の横にまた、もうひとつ球体が。そしてその球体からももうひとつの球体がぼこりと増殖する。
ぼこ。ぼこ。ぼこぼこぼこここぼこ。
気泡のようにぼこぼこと、その球体は増え続け、たちまち宮殿の天井に届くほどになった。ネロ本人の姿は、その中に埋もれて既に見えなくなっている。
ダバは――その人知をこえた光景を、ただ呆然と見ているしかなかった。
黄金宮殿に辿り着くまでに、かなりのおぞましいものたちと戦いこの悪夢のような敵たちにもいくらか慣れたつもりでいたが――今彼は、自分の目の前にいるこの敵が、今までのものとはまるで階梯の違う存在であることを思い知らされつつあった。
腐臭を放つ球体の集積物――その間から、蛸のような触手が、幾本も生え出て、ダバの頭上をゆらゆらとゆらめいた。
(これが、カダル神)
ダバは、絶望的に呟いた。
(しかも、アクリアヌスの話だと――これでも完全体ではない)
一体、この怪物が完全に力を取り戻したらどうなるのか。アクリアヌスが命懸けで阻止しようとした理由が、今やっと実感できる。
(この怪物が完全となったら)
(世界は、食われる)
真剣に、そう思った。
今、彼の目の前にいるのは、怪物のからだのほんの一部分に過ぎない。
宇宙というものがどれほど広大であるものか、一介の剣闘士にすぎぬ彼には知るすべもなかったが、今彼がこのおぞましいものに感じているのは、まさに宇宙的規模の恐怖であった。
(勝てん)
ダバは、シラを庇いながら、心底そう思った。
(これほどの相手に、所詮人の身――いくら ルクレティアを携えているとはいえ、どうして太刀打ちできるというのか)
かといって、逃げられる訳もない。
彼はネロを完全に怒らせたのだ。
あの触手にたちまち捕まり、ばりばりとむさぼり食われるのが関の山である。
それに、この場はうまく逃げおおせたとしても、どうせこの世界はこの神に支配される。 そうなれば、どうせ彼も遅かれ早かれ、生贄の一人として捧げられることになろう。
(俺は別に、構わん)
ダバは呟いた。
(どうせ、今まで死に場所を探すために生きてきたようなものだ。いまここで食われてしまったとて、なにも大したことではない――この世の全てがこの神によって滅ぼされる運命であるならば)
(だが)
アクテの顔が、ダバの脳裏に浮かんだ。
(ネロを救って)
彼女は、心から願っていた。愛するものが、その罪深き生から解放されることを。
そして。
彼の腕の中で震えている、この少女。
(シラ)
ダバは心から、彼女を不憫に思った。
(普通の人間なら耐えられぬ、こんな争いに巻き込まれて)
(このようなことがなくば、成長し、誠実な夫と結ばれ、子を産み――信仰に生きていたであろうに)
(俺は)
喉仏が、ごくりと鳴った。
(この娘やアクテを救えぬまま死ぬのか)
(俺は)
自分が、人を救えるような存在でないことは分かっている――だが。
(少なくとも、犬死するためにここに来たのではない)
ネロを救う。
度々シラが繰り返していた、あの言葉。
彼がアクテに約束した、旅の目的。
(どうにもならないのなら、殺して)
アクテは、そこまで追いつめられていた。 彼女の魂から血が滴るのが見えるような、切実な哀しすぎる願いだった。
その姿に打たれ、彼はたしかに約束したはずだ。
無論、約束とは――果たすためにするものである。
(だが――どうすれば、この怪物と闘えるのだ)
(ルクレティアは、たしかに俺に力を与えてくれるが)
(この怪物はあまりに次元が違いすぎる)
思考は、再びそこに戻る。
彼は、どうしようもない悔しさに歯を噛み締めた。
その時。
(そなたは、勝てる)
その声は、ルクレティアのものだった。
「何だと?」
と、訝るダバを叱咤するように、剣は語りはじめた。
(そなたは、わが主。そなたが我を手にすれば、この世に打ち負かせぬものなど存在せぬ)
「あれは、この世のものではないという話だがな」
ダバは皮肉にいう。
剣は、怒りに震えるかのように振動した。
(よいか、わが主よ。あの怪物は、本来であれば人の身では倒すどころか傷ひとつつけることさえかなわぬ、大いなるものだ。だが、今はまだ違う――アクリアヌスとやらが口癖のように申していたであろう――この世界でかの神は、まだ本来の力を取り戻しておらぬ、と。そこに現れたるも、かの神の肉体のほんの一部分。今なら、勝てる。今をおいて、我らがあの妖神に太刀打ちできるときはないのだ)
「だが……」
(そなたは、わが力を疑っておるな。だが我は、所詮人の心の力を物理的な力に変換する、触媒に過ぎぬ。そなたがそのように弱気であれば、我はただのなまくらと同じよ。だが、そなたの憎しみが強くなればなるほど我は無限の力を供給することができる――無限だ、ダバ)
「無限」
ダバの瞳に、昏い炎が宿った。
「憎めば、憎むほど」
(そうだ)
ルクレティアは、預言者のように厳粛に、
(憎め、ダバ。そなたの父母を殺めたは、ネロ。そのネロを操ったは、あのおぞましき神ヨグ・ソトホート。そなたは、そなたの手でかの神を葬らねばならぬ)
「わが手で」
「ダバ?」
ようやく落ち着いたシラが、彼を見上げる。
そして、彼の表情を見て、愕然とした。
(ああ)
彼女は、絶望にうち拉がれて呟く。
(とうとう完全に――ダバではなくなってしまった)
海よりも深い憎しみを瞳に湛え、ダバは蛇が鎌首をもたげるのに似た動作で立ち上がる。
「殺す」
その口が狂暴にひき歪む。
ルクレティアが、血のように赤い閃光を放った。
「殺す」
もう一度呟く。
次の瞬間――彼は稲妻のように宙に舞っていた。
カダル神の体が、ぶよぶよと波打ち、震える。ダバの動きに反応しているらしい。
何本かのおぞましい触手が、うぞうぞと伸長し彼を捕らえようとする。
だが、遅い。
赤い光の渦に包まれたダバの手元で、何かが閃く――そう見えた刹那には、もう邪神の愚鈍な触手は、一度に数本が輪切りにされて、床に転がっていた。
ルクレティアの切っ先の速度は、もはや視認不可能であった。
ぬるついた輝きを放つ球体の集積物は――どうやら怒りらしきものを感じているらしく一層激しく蠢動させる。
「怒るか」
獣じみた声で、ダバがいう。
「怪物が、生意気に」
くわっと、彼の眼光が更に鋭くなった。
「気にいらんな」
再び、触手がうねった。
今度は、ほとんど塊といって良い量が、先程よりはるかに速く、ダバとルクレティアに急接近する。
「それしか能がないか」
ダバの口から、鋭い呼気がほとばしる。
彼の腕が奔った。
赤い稲妻が再び、空中を乱舞する。
怪物が、また震える。
切り落とされる触手もあったが、剣を避ける触手もある。
壮絶な、力と力のぶつかり合いが、始まった。
触手は無限に増殖し、ダバの頭上に滝のごとく降りかかる。それをダバは、ルクレティアを神速でふるって、全てはねのけているのだった。
舞い踊る赤い光と、散開する青白い触手の群れ。
それはまるで、赤と青のヒドラが、激しく絡み合って格闘しているかに見えた。
(憎メ)
(モットモット憎メ)
(奴ハ、ソナタノ父母ヲアヤメタ)
ダバの剣は、更に加速する。
(憎しみが強ければ強いほど、我は無限の力を与える)
彼の脳裏で、ルクレティアの声が反響する。
そう――今の彼なら、神にすら勝利できるのだ。その濃密な憎しみの、どす黒い魂の力で。
(殺す)
(殺してやる)
触手も、彼の攻撃に応じて、更に増え、更に速くなる。更に、更に。
終わりの見えない、おぞましく人知を超えた鼬ごっこ。
ダバは、暗示のように己れの内奥に呼びかける。
(殺せ)
(殺せ)
(殺せ殺せ殺せ)
(憎め)
(憎め)
(憎め憎め憎め)
ルクレティアが、歓喜の叫びをあげる。
人の耳には聞こえぬ、人ならぬものの声で。
ダバにだけはわかる――ルクレティアを握る彼の掌から、どんどん流れこんでくる、邪ながらも素晴らしい、この力!
ダバは、全身がはち切れそうになるほどのパワーに突き動かされ、ルクレティアをふるいつづけた。
(勝てる)
ダバは心の中で、快哉を叫ぶ。
(勝てるぞ。このおぞましい怪物に)
(殺す)
(殺してやる)
そして、触手の間をかいくぐり、彼はひときわ強烈な一撃を振りおろした。
そしてルクレティアは――カダル神の胴体であるとおぼしき、粘球の塊を叩き斬った。 それはほんの、かの神の巨躯からすれば、掠り傷程度のダメージでしかなかったなかったが――
おお ぎゅ ぎゅいい ごぎゅう
おおおおおおおおおおおおおおお
ぎゅ ぎゅはら おおおお おお
おお
その異様な雄叫びと共に、空間が、かしいだ。
カダルは、激怒しているのだ。
超次元の王――そう呼ばれるほどの神が、いくら力が完全ではないとはいえ、たかが人の子に――とるにたらぬ、彼の食物以上の価値をさえ持たぬ虫けらごときに、傷をつけられたのだから。
そして、カダルの怒りは、時空間そのものを震わせ、歪め、鳴動させた。
「ははははは」
ダバが、けだものじみた笑いをあげる。
「いいざまだな、怪物の神様よ。たかが人間にここまでたてつかれて、それほど腹が立ったか!」
無論、カダルは言葉では答えない。
だが――
球体と球体のひしめくその間から、穴のようなものが一つ、現れる。女陰のような形の、肉色の陥穽。
そこから、噴き出た。
巨大な、オレンジ色の光の玉。空気を灼き尽くしつつ、うなりをあげてダバに迫る。
「くう」
ダバは咄嗟に身を翻し、それを回避した。
背後の壁にぶつかったそれは、閃光とともに炸裂する。
ダバがちらりとそちらを見ると、宮殿の壁にきれいな風穴が開いていた。
「こんな特技もあったか」
唇を歪める――間もなく、再びその光球が発射された。
今度は、避けられない。
「畜生」
ダバは鬼神のような形相でルクレティアを振りたてる。
魔剣は、見事に火の玉を受けとめ、またも閃光が一帯を照らした。
ダバは、飛び散る火の粉を振り払いながらカダルに向き直った。
だがそこで、更に恐ろしいものと対面した。
あの、卑猥な形の口がいくつも、ぶよついた神の体に出現している。
憎しみと闘争本能にしがみついていたダバだったが、これには青ざめた。
その口から、一斉に火球が吐き出される。
「うがあああああああ!」
ダバは絶叫する。
だがそれでも、反射的に剣を振り、同時に身をひねる。
ルクレティアが、いくつかの玉を弾きとばす。だがひとつだけ、ぎりぎりのところで回避し損ね、ダバの脇腹を掠め、皮膚の一部をもぎ取っていった。
ダバは呻き声をあげ、その場に蹲る。
「畜生」
真っ赤に爛れた傷口を押さえる。、
「畜生」
ダバは繰り返す。その瞳が、更に狂気の光を増す。
「殺してやあああああるうううううう!」
彼の口から、絶叫がほとばしった。
「殺す殺すコロス――殺すう!」
ルクレティアを、凄絶な勢いで振り回す。
カダル神のおぞましい口が、それを迎撃すべくまた開く。
だがダバは、火球が噴出するより先に、跳躍していた。そして、空中でルクレティアを振りかぶると、
「死ねええええええい!」
カダルの体に、ありたけの腕力と落下速度をこめて叩き降ろした。
ばちゅつり。
奇妙な音をたてて、神の体が裂けた。
それは無論、先程と同じように、神である身のカダルにとっては、ほんの掠り傷にすぎないはずだったが――
「ひひ」
ダバの喉元から、狂暴な吐息がもれる。
そして――彼は、ルクレティアの刃を突き立てたまま、神のからだの上を全力疾走した。
肉の裂ける音と、体液の噴き出す音、ふたつの音が混ざりあい、形容しがたい響きを生み出す。
今度は、掠り傷では済まなかった。
カダルの体は何度も痙攣し、空間を鳴動させて絶叫した。
それはさっきのような、神としての自尊心を傷つけられたなどという些細なものではなく――今、カダルは、本気で苦痛に悶えているのだった。
その様を見てダバは、狂喜の声をあげる。
「苦しいか。苦しいいかあああ」
そして、歯を剥出しにして笑いながら、刃を更に深く抉りこんだ。
カダルのからだが、膨張する。
激しく振動し、幾百、いや幾千という触手が爆発的に伸長した。そして狂える竜の群れのごとく、ダバの体に食らいついていく。
「ダバ!」
先程から、辛うじて正気を保っているシラが、叫ぶ。
白い触手の巨大なうねりは、たちまちダバの体を覆い尽くした。
「ああ、ダバ……」
シラはただ、彼の名を呼ぶことしかできぬ。
絶望が、彼女の胸をゆっくりと侵食していく。彼女の全ては、ダバが死んだその瞬間に消えてしまうのだから。
だが。
不意に、触手の間から、赤い輝きが、幾筋も洩れ出した。
それは点滅しつつ、次第に明るさを増す。
ぎょおおおらるおおるるらごおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおごおおおおおおおっ
カダルの絶叫が、黄金宮殿を揺らす。
赤光は血のように赤く空気を染めあげ――
ばつん、と弾ける音と共に。
触手の海の中から、カダルの体液にまみれたダバが、ルクレティアと共に飛び出した。
「ひきいいいいいいいい」
ダバの喉から洩れた声は、もはや、人のものではありえなかった。
獣。
それも、この地上には存在するべきでない、厭わしく、もっとも凶々しいもの。
今のダバは、まさにそれだった。
シラは、今自分が、彼の死を目撃するという、自分がさっきまで最悪だと信じていた事態より、更に恐ろしい現実に叩き落とされたのを悟った。
どろついた深紅の眼球をぎょろつかせる、この世にありえないもの。
(ダバ、ダバ、ダバ――)
シラは、彼の名を幾度も呼んだ。そうすれば、元の姿の彼が戻ってくるとでもいうように。だが無論、目の前の現実は――狂い歪み変異した剣士の形相は、変わらない。
(違う)
かぶりを振る。
(これは、ダバじゃない)
彼女の父によく似た、やさしい瞳。
彼女とアクリアヌスを救ってくれた、頼もしい腕。
こわいがつややかで、よく風になびいた長い黒髪。
(こんなの)
彼女のつぶやきは、カダルの次元を揺さ振る苦悶の声に、かき消される。
ダバは、跳躍し、再び地上に降り立った。
そして、
ひけひいいいかあああああ
魔物の声をあげて、歯を剥き出して笑った。
青黒い粘液にまみれ、荒く呼吸する彼の姿には、更にすさまじい妖気がみなぎっている。
シラは今、憎しみというものがもし形を得たとき、どれほどの力を持ち得るか、その具現を目撃しているのだった。
神。悪魔。
人の魂が真に一つの結晶として物理的な力を獲得したとき、そのような存在すら凌駕し得ることを、ダバは証明していた。
「ひいいいいきいいい」
ダバは、哭いた。
そしてまた、ルクレティアを掲げ、体液を流し続けるカダルに迫ろうとする。
(ダバ)
シラの顔は、もはや、涙と鼻水でぐしょぐしょだった。
(ダバ)
父によく似た、翡翠の瞳。懐かしい匂いの褐色の肌。風になびく黒髪。優しく彼女の頭を撫ぜる、武骨だけど繊細な手。
(ダバ)
父によく似た、翡翠の瞳。懐かしい匂いの褐色の肌。風になびく黒髪。優しく彼女の頭を撫ぜる、
(ダバ――ダバ)
父によく似た、翡翠の瞳。懐かしい匂いの褐色の肌。風になびく黒髪。
(ダバ――ダバ、ダバ――)
父によく似た、翡翠の瞳――
真紅の剣が、再び閃光を発して――憎しみに彩られた、深紅の瞳。
「いやああああああっ!」
シラは、飛び出していた。
何も、考えられなかった。
何ができる訳でもない。
ただ、そうせずにはいられなかった。
ルクレティアが、弧を描いて疾るその軌道上に、彼女は立ちはだかった。
その切っ先が稲妻のごとく降下する先、その軌道上で、彼女は両手を広げた。
「だめ。ダバ――こんなの、絶対にだめ」
シラの血が花を咲かすがごとく飛び散り、赤い魔剣をさらに赤く染めた。
(最終回に続く)
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