ネロポリスの黙示 8


 6、狂戦士(承前) 

 三人は、おそろしく広い庭園をつきぬけ、暗い宮殿内にずかずかと踏み込んでいった。
 宮殿内の兵士は全員駆逐されてしまったということなのか、彼らを阻む者は誰一人としてない。だだっ広い回廊に、ただ三人の影がゆらめいているだけだった。
 誰も、口を利かない。
 どんな言葉よりなにより、この重苦しい沈黙が、今の彼らの胸のうちを語っていた。
「ダバ」
 アクリアヌスが口を開いたのは、最低限ダバに伝えねばならぬ事を思い出してしまったからであった。        
「妖気が、強まっています」
「……敵か」
 ダバはぼそりといった。
 魔道師は頷く。
「大物です。気をつけて」
「わかった」
 ダバは、いま一度剣を握り締め、アクリアヌスは両手に印形を結んだ。
 そして、注意深く回廊を進んでゆく。
 一歩進むごとに、怪しげな空気はぐんと強まり、次に控える敵が、ただならぬ存在であることを感じさせた。その気配は、何の霊感も持ち合わせないシラでさえ、悪寒を覚えるほどだった。だが、彼女に何のなす術もあろうはずがなく、黙ったまま、二人の間に隠れていることしかできなかった。  
 不意に、二人が足を止めた。
 先程から足が竦みそうなシラは、躓きそうになった。彼女は、泣きそうになって二人の顔を見上げる。だが彼らは、まるで別のものに視線を釘づけにされていた。
「やはり、貴様か」
 アクリアヌスの喉から、絞りだすような声が漏れた。
「必ず、現れると思っていた。二度も決着を逃すのは、貴様も耐えられまいと思っていたからな」
「ご明察だな、魔道師」
 回廊の向こうに、陽炎のようにゆらめく影
が立っていた。闇から切り取ったかのような漆黒の衣を纏う、その影――
「シモン・マグスか」
 ダバが、重々しく口を開いた。
「おぬしもまた、片を付けねばならぬな」
「左様」
 妖術師の言葉には、今までのような、人を小馬鹿にしたような様子がまるでなかった。「儂も少々、遊びが過ぎたようでな。おかげで、本当にわがあるじの機嫌を損ねてしもうた。そろそろ本腰を入れねばなるまいて」
 彼は両手を広げ、鋭く呼気を吐いた。
「今度こそ殺す。最初から手加減はせん」
 その指が、怪しげな図形を宙に描いた。
 その直後、彼の両腕はばん、と風船のように膨れ上がり、二匹の巨大な蛇となった。そして物理法則を超えた速さで伸長し、宙を切り裂いてダバたちに襲いかかる。
「ダバ、さがって!」
 アクリアヌスが叫んだ。
 彼の掌から青い光がほとばしり、二匹の蛇を撃ちおとす。
「ここは、僕に任せて。ダバ、あなたはシラを連れて先に進んでください」
「ひとりで、大丈夫か」
 ダバは、剣を構えつつ、
「今の俺には、ルクレティアがある。おぬしが無理をすることはないのだぞ」
「いいから」
 アクリアヌスの声には、有無を言わせぬものがあった。
「お行きなさい、ダバ」
 ダバは、一瞬険しい目で彼を見たが、すぐに頷き、
「頼んだぞ」
 ひとことだけ告げると、シラの手を取って駆けだした。
「逃さん」
 シモンが、次なる呪文を唱えた。
 再び彼の腕が変化し、大蛇の顎ととなってダバを阻もうとする。だがダバは、少しも走るスピードを落とさぬまま、ルクレティアを振り上げ、
「通してもらう」
 大蛇の頭部を一刀両断した。
 そしてそのまま体勢を崩さず、シラを抱えたまま全速力で駆けていった。
「やるのう」
 シモンは、真っ二つにされた蛇の頭を見ながら、
「あの剣が、ルクレティアか。あの男、とんでもない物を手に入れたようだの」
「どこを見ている」
 アクリアヌスが、敵意に満ちた声で言った。
「貴様の相手は、この僕だ。今度こそ、決着をつけようじゃないか」
「自分から、貴重な援軍を見送るとは」
 シモンが、嘲笑する。
「あの妖剣を手にした男と一緒であれば、おまえにも勝ち目があったものを」
「御託はいい。僕は今度こそ貴様を倒す。それだけだ」
「強気だのう、おまえは」
妖術師は気怠げに首を振った。
「昔から、少しも変わっておらん」
 アクリアヌスの眼が、ぎょろりと見開かれた。
「言うな」
 別人のように、低く、威圧的な声。
「貴様の口から、昔話など聞きたくない」
「怒ったのか。全く、感情の制御ができておらぬのだな。魔道師は、この世にあまねく存在する見えざる力を操ることにより、力を得る。己れの心さえ御すことができぬようでは、必ずや命取りになるぞ」 
「黙れ」
「儂は、ちゃんと手解きしておいたはずなのだがな」
「黙らないか」
 アクリアヌスは、繰り返す。
 だが、シモンは一向に気にする様子もなく、
「それにしても、あのダバとかいう男にえらく肩入れしておるのだな。儂にはわかっておるぞ。おまえが何故、危険を承知であの男を先に行かせたのか。知られるのが、恐かったのであろう?儂と、おまえが…」
「言うなと言っている」
 それでもシモンは、執拗に続けた。
「知られれば、あの男の信頼が崩れると思ったのだろう?それが恐かったのだよ、おまえは。臆病者めが」
「何度も言わせるんじゃない。言うな。それ以上言えば…」
「それほど、おまえは自らを忌み嫌うか。己れの存在の一部分を、無きものにしようとするか。それもよかろう。それが、因果律の定めた宿業とあらば。だがおまえは、変われぬ――どんなに拒もうと、おまえの存在そのものの源は消すことができぬ。それ故、おまえは永遠に、儂から逃れることはできぬのよ。こうして幾度も、図らずも儂と相対しておるのが、何よりの証拠。そうは 思わぬか?いい加減、己れの宿命を受け入れるがいい、アクリアヌス」
 アクリアヌスは、歯を食いしばって震えていた。恐怖か、怒りか。どんな感情が彼を苛んでいるのかはわからない。だがいずれにしろ、彼は完全にシモンの言葉に呪縛されていた。
 その彼を嘲笑うように、
「――アクリアヌスよ。愛しい我が…」
「やめろ」
 アクリアヌスは擦れた声で抗う。
「やめろ」
 シモンは、嗤った。
 そして、その言葉を、
 ゆっくりと口にしたのであった。
「アクリアヌス……愛しい、我が息子よ」

 束の間――
 時が停止した。
 アクリアヌスは、ひき歪んだ表情のまま凍りついている。
 シモンは、微動だにせず、彼を見据えたままだ。
 彼らを取り巻く全てのものが、恐れ戦き、強ばり凝結しているかのようだった。
 その言葉――たった一言のその言葉が、二人の時間を止めてしまっていた。 
「わが息子よ」
 シモンは繰り返した。
「儂を、何故拒む。おまえは幼い頃より、儂をも凌ぐ天賦の才を示しておったではないか。我が神の力を受け入れれば、おまえこそ真実、地上で最強の魔道師になれたであろうに」
「……だ」
 アクリアヌスの、硬直が解けた。
「黙れえええええ!」
 絶叫とともに、魔法陣を宙に描く。
 そして、
「サラマンドラの吐息に灼かれよ!」
 呪文と同時に、真紅の炎の柱が噴き上がった。そして、蛇のように鎌首をもたげると、ごおっとうなりをあげて シモンに襲いかかる。
「無益なことをするなと言うに」
 シモンは、黒衣の袖を振った。
 ただそれだけで、炎の蛇はみるみる痩せ細り、微細な火の粉のようになって分解した。
「まだわからぬか。おまえの小技など、我が神の前には児戯ほどの力もないのだ」
 アクリアヌスは、何も言わない。即座に新しい印形を結び、別の呪文を唱える。
「キュクロブスか鍛えしいかづちの剣よ」
 今度は、凄まじい電光が奔った。
 雷撃は光の剣となり、一直線にシモンを貫く。
「愚か極まれり、息子よ」
 シモンは、平然と言い捨てた。
 アクリアヌスの魔法は、少しも効いてはいなかった。
「泣きわめく馬鹿息子をあやすも、いささか飽いたわ。その下らぬ手妻が二度と使えぬようにしてくれる」
 彼の腕が、新たな変化を始める。
 いや、腕だけではない――黒衣の下で、何かおぞましいものが、うぞうぞと蠢き――彼はまるで違う生物へと変身を遂げようとしていた。
「喰ろうてやるぞ、息子よ」
 シモンは、牙だらけの、肛門のような形の口で言った。
「おまえが我が神に従わぬというなら、せめて儂とひとつになろうぞ」
 ぎょろりと、八つの複眼が魔道師を睨む。
 背中が張り裂け、数本の巨大な触腕が生え出る。
 胴体は丸く膨張し、黒衣を引き裂いて膨れ続ける。
 そして、小刻みに蠢動しながら、ごわごわと伸びる剛毛。
 この世のものならぬその姿を、辛うじて例えるなら、それは巨大な蜘蛛だった。
 青紫色の触腕をゆらゆらくねらせる、悪夢の化身。
 アクリアヌスは微動だにせず、そのおぞましきもの――自らの父親のなれの果てを見つめていた。
「そこまで、腐り果てたか」
 彼は、憎々しげに呟いた。
 大蜘蛛と化したシモンは、いまわしい形の口を開いたり閉じたりしながら、
「無力な人の子の分際で、何を言うか」
 甲高い声で笑った。
「儂は、おまえらが一生かかっても辿り着けぬ領域に達したのだ。儂は不死身じゃ。儂は不敗じゃ。儂は、至高の存在となったのじゃ!」
「『古きものども』に闇に魂を売り渡して手に入れた、仮りそめの力ではないか!」
 アクリアヌスが叫ぶ。
「貴様は、おのれの力の限界を認めたくなかったのだ。だから、邪神の法にまで手を染めた。自分の弱さから逃れるために。貴様には自分自身と向き合う勇気すらない。弱いのは貴様だ、卑怯者!」
 そして懐から、青白く輝く守り石を取り出し、
「ヴォルヴァドスのしもべらよ!」
 シモンに投げつけた。
 守り石はまばゆい閃光を発し、大蜘蛛の体は青い炎に包まれる。
 しかし。
「こそばゆいわ!」
 シモンが哄笑する。
 青い炎などものともせず、蜘蛛はアクリアヌスにむかってきた。
 アクリアヌスは顔面蒼白になりながらも、何か呪文を唱えようと印形を結んだ。
「遅いぞ、息子よ」
 シモンの口から、灰色の物体が矢の如く吐き出された。
それはアクリアヌスを直撃し、包みこんだ――弾力のある粘液質の塊が。
アクリアヌスはその重みに耐えきれず、そのままそこに倒れこんだ。 
「う……」
 魔道師は、立ち上がろうとあがくが、手足の指先まで痺れて動けない。
(これは……毒?)
 全身が、麻痺していた。無理に動こうとすると、鋭い痛みが走る。
「動けまい、アクリアヌス」
 揶揄するような、シモンの声。
「そのまま、おまえの体は徐々に腐ってゆく。美しい我が息子、醜い屍を晒すのはおのが愚考の報いぞ」
(黙れ)
 アクリアヌスは、激痛をこらえながら、指先を動かし、呪文を呟いた。
「カドケウスにかけて、解け消えよ、不浄なるもの!」
 灰色の塊は白く発光しはじめた。そして、日に晒された氷のように、みるみる小さくなって消滅した。
「まだだ」
 アクリアヌスはよろよろと立ち上がった。
「殺しあいは、これからだ。貴様を殺すまでは、僕は絶対死なないと決めてるんだ……」
「しぶといな」
 シモンの眼が、ぎょろりと光る。
「勝負は見えておるというに」
「まだだ!」
 アクリアヌスは絶叫する。
「貴様は、ぼくが殺す。我が一族の恨み、ぼくが晴らす!」
 彼の手に、ばちばちと音を立てて爆ぜる、青い光の玉が現われた。
「ゆくぞ!」
 アクリアヌスは、光球を頭上に振り上げた。

 ダバとシラは、全てが巨大な回廊を駆け抜けていった。
 ネロがいるはずの、カエサルの間を目指して。
 あまりの広大さゆえに幾度か迷いそうになったものの、ギルリウスがくれた見取り図によると、このまま一直線に走り抜ければ、カエサルの間に着くはずである。
「大丈夫か、シラ」
 ダバがいった。その間も足を休めようとはしない。
 シラは、だいぶ呼吸が乱れてきており、ただ必死の表情で頷いただけであった。
 やがて、彼らの視界に、大扉が現れた。
 通路の奥に立ちはだかる、巨大な両開きの扉。
 そしてその向こうに、彼らの最後の敵――すべての元凶、ローマのインペラトル、ネロが待ち受けているのだ。
 どくどくと胸が高鳴るのを覚えながら、ダバは扉に接近していった。
 近くで見ると、ますます巨大で、頑丈そうな扉である。皇帝の間の扉に相応しく、飾りつけも金をふんだんに使った豪華なものだ。
「開けるぞ」
 ダバは、シラを見て、やわらかく、しかし断固とした調子で言った。
 シラは大きく深呼吸すると、ダバを真っ正面から見据えて、
「はい」
 力強く頷く。
 ダバは、ルクレティアを握る手に力をこめながら、巨大な扉をゆっくりと押し開けた。 重々しい音をたて、運命の扉が、開いてゆく。
 そして――
「ようこそ、ダバ」
 冷たい、地の底から響くかのような声が、彼らの頭上に降ってくる。
「ずいぶん、待ち兼ねた。そなたほどの戦士でも、あの人数が相手ではいささか手間取るようだな」
 その人物は、大広間の奥にしつらえられた玉座に、悠然と腰掛け、ダバたちを見下ろしていた。
 肌の色が、蝋のように白い。そのため、端正なその顔は、まるで大理石の彫像か何かのように見えた。ゆったりとしたトーガの下にのぞく筋肉は、この上なく均整がとれて美しい。
「貴様が、ネロか?」
 ダバは、搾りだすようにいった。
 男は、唇を歪めると、青い目でぎょろりとダバを見据えた。
「随分だな、余がこれほど待ち焦がれていたというのに。感動の対面の、最初の言葉がそれか」
 そして、ゆっくりと立ち上がると、
「左様。余は、ティベリウス・クラウディウス・ネロ・ドルスス・ゲルマニクス。偉大なるローマの支配者、帝国の最高司令官だ」
「そうか」
 ダバは、狂暴な笑みをうかべると、
「会いたかったぞ。俺は、貴様を殺しに来た、ポンペイの剣闘士……」
「名乗りは必要ない。そなたの名は、そなたが剣闘士としてアリーナに上り始めたときから、知っていた。そして、後ろの少女は、シラ。ユダヤからはるばるやってきた、キリスト教徒だ」
 シラは、何かいおうとしたが、口をぱくつかせるだけで言葉にならなかった。
 たとえ声になったところで、ネロの耳まで届いたかどうか。ネロの発する威圧感は、完全に彼女の全身を、金縛りにしていた。
「ポンペイの死神、ダバよ」
 ネロは、邪悪な霊気を撒き散らしながら、王者然と歩き始めた。腰にぶらさがった長剣が、ものものしく揺れる。
「よくぞ、よくぞここまで来た。誉めて遣わすぞ」
「貴様に賞されようとは思わんな」
 ダバは、ルクレティアを構えると、ぎらりとネロを睨んだ。
「俺と貴様の間に、言葉はいらん。俺は、貴様を殺しに来ただけだ」
「また、そのようにつれないことをいう」
 ネロの口元に、酷薄な笑みがうかぶ。
「余がどれほどそなたの剣の腕を買っているか、知らぬわけではなかろう。度々使者を遣わしたではないか。そう、ティゲリヌスや……そういえば、あの男とは会ったか?近衛隊長の名にかけ、余を一命擲っても護ると、息巻いておったが」
「なるほどな」
 ダバは、歯をぎりりと噛みしめた。
「あの男をあんな姿にしたのは、やはり貴様か」
「ティゲリヌスが、そう望んだのだ」
 カエサルは、こともなげに嗤う。
「余をなんとしてでも護ることが、あの男の使命。その使命を全うするに必要な力を、与えてやったまで」
 かっ――と、ダバの目の前が、血の色の靄で眩んだ。次の刹那、彼の腕は跳ねあがり、ルクレティアがネロにむかって疾っていた。
「危ないな」
 ネロは、ダバの一撃を、見事に受けとめていた。
「ティゲリヌスに、それほど情が移っていたのか?」
「違うぞ、最高司令官」
 ダバは、ルクレティアに渾身の力をこめて押した。彼の腕の筋肉が、丸太のように膨れあがる。
「俺は、誰が相手だろうと関係ない。貴様のやったことそのものが気にくわんだけだ!」
 血を吐くような叫びだった。
「死ね、怪物!」
「残念だ、剣闘士」
 ネロが、氷のような声で言った。
「そなたとは、戦士同士として戦いたかったのだが」
「きれいごとをぬかすな」
「仕方がない」
 ネロの眼が輝き、彼の長剣がルクレティアを弾いた。
 ダバは態勢を崩し、二、三歩後じさる。
「ポンペイの死神よ。余はそなたを殺す。好敵手としてではなく、汚らわしい反逆者として」
「俺も、ティゲリヌスのようにするのか」
 ダバは、ぺっと唾を吐き捨てた。
「やれ。ただし、高くつくぞ」
「見縊られたものだな」
 皇帝は、輝く剣の切っ先をぴたりとダバに向けた。
「戦士として戦いたいといったであろう。余は、小細工などせずとも、この剣だけでそなたを殺せる。それを証明してはじめて、余はこの地上で最強となる」
「いいのか、そのような悠長なことを言って」
 ダバは、再び剣を構えた。
「後悔するな」
「せん」
 ネロも、剣を持ち上げる。
「参れ」
 一瞬、両者の間に鋭い沈黙が疾り――ごおっ、と空気がうなった。
 凄まじい速度で繰り出された二人の剣は、宙を切り裂いて激しくぶつかりあった。
 剣を合わせたまま、両者はびくりとも動かない。少しでも動けば、弾かれる。それほどの力の押し合いである。
 一旦離脱したのは、ダバの方だった。
 渾身の力でネロの剣を押し返すと、後方に跳躍した。
 そして、ルクレティアを握りなおすと、鋭く呼気を吐く。
 ネロも、悠然と剣を構えなおす。
 束の間、身を切るような対峙が続いた。
「ぞくぞくするな、ダバよ」
 ネロが、うっすらと嗤う。
「そなたのことを地上最強と申したのは、誰だったか。まさに、その名に恥じぬ力量よな」
「無駄口をたたくな!」
 ダバは吐き捨てた。
「俺たちは、殺しあいをしているのだぞ」
「そうだったな」
 今度は、ネロの方が仕掛けた。上段に振りかぶり、ダバの頭上へ一直線に振りおろす。 それに対し、ダバは体を沈め、思い切りルクレティアを振り上げた。
 二つの剣が、またも凄絶な音をたててぶつかりあう。
 今度は、ダバの方が勝った。
 ネロの剣は、束の間はね上げられたが、彼はそこから再び一撃を繰り出した。
 ダバも、負けじと剣を振る。
 それからしばらくの間、二人はおそろしい速さで撃ちあった。
 剣と剣との間で、火花が散るかと思うほど凄絶な剣戟だった。
(いけない)
 シラは、人間を超えた戦いを繰り広げる二人の戦士を、ただうちひしがれて見ているしかなかった。
(こんなことをするために、私はここまで来たんじゃない)
(私は、アクテ様に言った。私がローマに行くのは、ネロを救うためだと)
(アクリアヌス――教えて。私は、こんな恐ろしい戦いの中で、一体何ができるというの?ペテロ様ーー私は、何をなすべきなのでしょう?)
 少女は胸を押さえ、その場に蹲る。
(主よ――私はどうすればよろしいのでしょうか?)
 彼女の懊悩をよそに、ダバとネロは闘い続ける。実力伯仲の、まったく互角な戦い――傍目には、そう見えた。
 だが――もし、シラ以外に最初からこの戦いを見ていたものがいれば、両者の均衡が少しずつ、傾きつつあるのに気付いたろう 勝利の天秤を味方につけたのは、地上最強の剣士か、異次元神の化身か。果たして――
「うぬ」
 ネロの顔に、微かな焦りが浮かんでいた
「貴様・・・・・・本当に人間か。いくら地上最強とはいえ、なぜここまで全力で闘える?」 「残念だったな」
 ダバは、不敵に笑う。
「今の俺はどうやら人間ではないらしい」
 それに応えるように、ルクレティアが真紅に輝く。
 剣の腕が互角である両者の勝負の決め手となりつつあるのは、持久力。憎しみをエネルギーに変換するルクレティアを帯びるダバには、スタミナ切れということが 存在しないのである。ネロが邪神の化身であったところで、彼は自ら「剣のみの勝負」にこだわり、彼の獲得した神通力の類を封じている。純粋な剣対剣の戦いになれば、はじめからネロに勝ち目は――ルクレティアのことを考慮にいれると、あまり対等な戦いとはいえないが――なかったのである。 
 やがて、目に見えてダバが優勢になりはじめた。常に全力で攻め続けるダバに対して、 ネロは防戦一方の状況に追い込まれていく。
「どうした、インペラトル。ローマ軍の大将軍閣下」
 ダバは、狼の笑みを浮かべていた。
「俺を殺して、真の最強になるんじゃなかったのか」
「ぐ」
 ネロの蒼白な顔が一瞬 、さらに真っ白になった。
「余は必ず勝たねばならぬ!」
 渾身の力でルクレティアを弾き返し、神速の突きを放つ。
 だが、それですらダバは、あっさりと弾き返した。
 そして次の一閃で、勝負は決まった。
 大きく弧を描いて襲いかかるルクレティアの横薙ぎを、ネロはたしかに受けとめた――受けとめたが、その瞬間、彼の剣は半ばから折れて砕け散った。
 彼はそのまま後方にふきとばされ、投げられた人形のように壁に激突した。
 ネロの口からは、声も上がらない。
 ただ、信じられないという表情で、ダバの剣を見つめるのみである。
「勝負あったな。ネロ」
 ダバは、にやりと笑った。
「終わりだ」
「あああ」
 ネロの口から、苦悶とも驚愕ともとれる喘ぎが、ようやく漏れる。
「余は敗れたのか。このローマの最も偉大な統治者が、剣奴ごときに」
「信じたくないのはわかるがな」
 ダバは、ルクレティアの切っ先を彼の鼻先に突きつけた。
「誰が見ても、貴様の負けだ。その剣でまだ闘うというのなら別だが」
「ああ」
 ネロは、唇を震わせながらおのれの剣を見つめる。
「余が……余が……完全無欠の、世界の帝王であるはずの余が」
 ダバは、黙って剣をおろした。
 だが、彼の目はまだ、一部の隙もなくぎらぎら輝いている。
 このまま終わるはずがない。そのことを彼は、わかりすぎるほどわかっているのだ。
「ダバ」
 単純なシラは、ダバに駆け寄って言う。
「勝負はついたのでしょう?なら、この人を殺さないで。この人が死んだら、アクテ様がきっとお悲しみになるわ」
「さがっていろ」
 ダバが鋭く言う。
「ダバ……」
「近づくんじゃあない!」
 シラは、ダバの気迫に押され、おずおずと後退した。
 ネロは、まだ自分の剣を見つめている。
「余が、負けるとは」
 彼は、何度も絶望的に繰り返した。
「余が」
 そして、一回繰り返すごとに、彼の表情は崩れた粘土細工のように歪んでいった。
「余は、負けてはならない。負けることは許されぬのだ。余は世界を統べるローマの支配者、この地上で最も強くなくてはならぬ。余は、負けられぬ、負けられぬ」
(ヨハ、マケルワケニハイカヌ)
 その言葉が、何かの合い言葉であったかのように。
「伏せろ、シラ!」
 ダバは咄嗟に、シラを抱いて後ろに跳びすさり、床に転がった。
 轟々と宮殿が、鳴動する――否。
 ゆさぶられ、悲鳴をあげているのは、空間そのものであった。
 ネロは、ゆっくりと立ち上がった。
 彼を中心に、何か見えないエネルギーの奔流が渦を巻き――噴き上がり荒れ狂っている。
(ヨハ、マケラレヌ)
 彼の口が、陸に打ち上げられて喘ぐ魚のようにぱくぱくと動く。
(ヨハ、タジゲンウチュウノオウ、チノセイノオサ、マオウノナカノマオウ)
(ヨノ、マコトノ、ナハ)
「遂に、正体を現すか」
 ダバは、憎々しげに呟く。
「化物が」
(余の、誠の名は)
 そしてネロは、託宣のように厳かに、呪詛の言葉のようにおぞましく、高らかに告げたのだった。
(ヨグ・ソトホート――カダル・バエルディウス・エグン)

(続く)

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