ネロポリスの黙示 7


 6、狂戦士 

 ネロは、黄金宮殿のバルコニーに独り、夜のローマを見下ろして立っていた。
 その端正な顔は、蝋燭のごとく白く無表情で、一体何を思っているのか窺うことはできない。
「シモン」
 彼は、囁くように言った。
「いつまで隠れておる。姿を現せ。結果を報告せぬか」
 彼の背後で、黒い靄のようなものが渦巻き黒い長衣の人間の形になった。
「陛下。無念ながら」
 シモンは重々しく口を開く。
「剣闘士ダバ、ならびに魔道師アクリアヌスの始末は…」
「よい。そなたの力をもってしても抹殺できぬとは、いささか想定外ではあったが。彼奴らにあのような伏兵があったことなぞ、予測不能であれば。そなたを責めても始まらぬ」
「はっ……しかし」
 シモンが平伏しながら、絞り出すように言おうとするのを制して、
「悔しいか、シモンよ」
 ネロは目を細め、シモンの方を振り返った。
「魂をもたぬ傀儡の分際で、己れを恥じておるのか。あのような小倅に虚仮にされ、プルートーの司祭ごときに敗れたことを」
「それ以上はご容赦を」
 妖術師の声は震えている。
「後生ゆえ、それ以上は」
「そなたは、屍に妖気を吹き込んで造った人形。人形を責めても始まらぬゆえ、余はそなたに対して怒りを感じぬのだ。しかし、その人形が出来損ないであれば」
 ネロは、跪くシモンの頭を鷲掴にし、粘土を捏ねるようにわしわしと撫で回した。
「いつ壊してもよいのだがな。その人形がどうしたわけか人がましく、無念がったり恥辱に震えておる。滑稽この上ない。余にここまで侮辱されて、何か思うことがあろう。余を殺したいか。だがそなたにはわかっておるな、そなたのような人形が余に絶対勝てぬことは。されば、その憎しみを向けるべくは何者か、それもわかっておるな」
「……」
 シモンの全身は、小刻みに震えている。
「いま一度、そなたを壊さずにおく。彼奴らを、なんとしてでも血祭りにあげよ。余に傀儡よ人形細工よと嘲られるを難儀に思うなら、そなたに与えられた最後の機会を、見事活かしてみせよ」
「御意」
 妖術師の体が、再び黒い靄になり、闇に溶けこんで消えた。
 ネロは闇の中、また独りになった。
「彼奴らが、くる」
 彼は低く呟き、そしてにやりと笑った。
「この世で唯一、余を追いやる力を持つ者たちが。面白い……面白うなってきた」
 そしてケープを翻して振り返ると、
「ティゲリヌス!ティゲリヌスはおらぬか!」
「ここに……」
 ティゲリヌスが、土気色な顔でのろのろと現れる。
「ここにおります、陛下」
「朗報だぞ、ティゲリヌス」
 ネロはねばっこい調子で言った。
「剣闘士のダバが、この宮殿に向かっているそうだ」
「左様で」
 ティゲリヌスはうんざりした顔をして、感情のこもらない抑揚のない調子で、
「誠に、申し訳ございませぬ。わたくしめが奴を味方につけるのに成功さえしておれば……魔道師を逃がしさえしておらねば、このようなことはなかったものを。このうえは、どのような罰でも受けましょう」
「罰など、どうでもよい」
 ネロは嘲ら笑った。
「こうなったものは仕方がない。だが、責任は、とってもらうぞ。わかっておろうな、ティゲリヌス?」
 ティゲリヌスは頭を垂れて、
「は……」
「宮殿内の全兵士を集めよ。ダバはおそらく正面から来る。全力で食い止めよ」
「全兵士ですと?馬鹿な。いくらダバが強いといっても、そこまでする必要はないでしょうに」
「聞こえなかったか、ティゲリヌス」
 ネロの声は、有無を言わせない。
「全ての兵力を集結させるのだ。そうでなくては彼奴は止められぬ。カエサルなる余が申しておる」
「ははっ……」
 ティゲリヌスはすくみあがり、
「し、しかし、恐れながら、正面のみに兵を集結させるのは、あまりに危険。もし裏をかかれれば、いとも簡単に賊の侵入を許すことになります。やはり……」
「ティゲリヌス。先ほどから余の言葉が耳に届いておらぬようだが」
「は……そ、そのようにいたします。必ず。最高司令官の仰せのままに」
「よい、よい」
 ネロは蔑みきった目で彼を見下ろすと、
「ところで、ティゲリヌスよ」
「は?」
「そなたは、最も余に近しき兵、我が近衛隊の責任者だ。相違ないな?」
「勿論であります」
「近衛兵たちを率い、最後の一兵になるとも勇敢に戦う。そうだな?」
「は?」
 ティゲリヌスは、一体何を言われているかわからない様子できょとんとした。
「無論。わたくしめは、陛下の最も忠実な臣であってみれば」
「ならば」
 ネロの口元が不吉につりあがり、爬虫類めいた笑みを形づくった。
「余はそなたに、余を守るための力を与えよう」
 そして、がっしりとティゲリヌスの両の肩を捕まえる。
「へ……陛下」
 ティゲリヌスは身じろぎしたが、彼を掴むネロの手はびくともしない。
「一体何を」
「動くでない。すぐ終わる」
 ネロの口が、裂けた。
 耳のあたりまで、みしみしと音をたてて。
 細かい牙がずらりと無数に並び、まるで獲物を前にした食虫植物のように、粘液で溢れた口腔がばっくりと開く。
「へ……陛下っ」
 ティゲリヌスは悲鳴をあげた。
「い……いかがなさるおつもりで……私なぞ、食っても美味くないですぞ」
 ネロの耳には、既に彼の声は届いていない。
 彼の牙だらけの口は、なおも変形を続けている。
 だがどうやら今度は、かつてティゲリヌスが目撃した、あの奴隷娘を食らったときとは、また違う変貌を遂げつつあった。その怪異な顎は、収縮し、蠢動し、そして伸長して、象の鼻のような太く長い管の形になった。
「あわ」
 ティゲリヌスは、恐怖とおぞましさのあまりくずおれ、嘔吐しようとしたが、ネロの腕が彼をがっちり抱擁する。
「受け取れ、ティゲリヌス」
 管の先端が蠢き、その言葉を発した。
「そなたに、我が分身なる力を授ける」
 そして、するするとティゲリヌスの口を求めて伸びてゆく。
 ティゲリヌスは、吐瀉物で口の中があふれるのにも関わらず、必死で口をつぐんだ。
 しかし肉の管は器用に彼の口をこじ開け、割り入り、ぐんぐんと、巨大な寄生虫のように、彼の体内に侵入していく。
 哀れなティゲリヌスは声もだせず、がばがばとあふれる自らの汚物にまみれ、全身を痙攣させているだけだった。
 どれほどの間、その悪夢の抱擁と接吻が続いたであろうか。
 ネロはやっと手を体を放し、ティゲリヌスの体は無造作に床に転がされた。それから数秒もたたぬうちに、ネロの姿は元の人間の形に戻っていった。
「感謝するがよい、ティゲリヌスよ」
 ネロは、何事もなかったかのように淡々と
「取るに足らぬ、虫けらほどの力も持ち合わせぬそなたに、人を超えた力を与えてやろうというのだ。ダバを打ち負かすことはできなくとも、少しばかり奴をからかうくらいはできようぞ」
 ティゲリヌスが、のろのろ起き上がる。
 その目は泥水のように腐りきった光をたたえ、顔は大理石よりも白く無表情だった。
「行け、ティゲリヌス」
 ネロが命じる。
「黄金宮殿の護衛軍ならびに近衛兵団、その一兵卒に至るまで全身全霊をもって戦え。剣闘士ダバと魔道師アクリアヌスを命に替えても阻止せよ。それが、そなたの使命だ」
 ティゲリヌスは頷くと、暗闇のなかにのろのろと消えていった。
 ネロはその背中を何の感慨もない様子で見送りながら、
「せっかくの賓客だ。それにふさわしい舞台を整えてやらねばな」
 そして、にやりと不気味な笑みをうかべると、
「余を、楽しませよ」
 呟く。
 その彼の背後で、不意に小さな白い影がゆらめいた。
「何者だ」
 ネロは鋭く振り返った。
「またか。亡霊ども。世にいくら祟っても無駄だと言ったであろう」
(また、人殺しをしようとしているの?)
 そこに立っていたのは、いつか亡霊どもと共に彼のもとに現れた、一〇才ほどの色白な少年だった。
(そんなことをしても、少しもあなたの痛みは和らぎはしないのに。傷はますます広がるだけだというのに)
「また、貴様か」
 ネロの眼が、深紅に輝いた。
「いい加減、正体を現すがいい。余は貴様を殺していない。余は貴様に祟られる憶えはない。だのに何故、貴様は余の前に姿を現すのか?」
(あなたは僕のことなど、とうの昔に忘れてしまったんだね)
 少年は、哀しげに微笑んだ。
(僕は今も昔も、あなたの一番近くにいたというのに)
「わからん……わからんぞ」
 ネロは牙を剥きだして唸った。
「余の近くにだと?何を言うか。余は、ずっと孤独であった。だれも、己れの母さえ信ずることができぬこの都で、ずっと一人であった。貴様なぞ知らぬ。さっさと消え失せよ」
(そうだね、ネロ)
 少年の姿はまた、白い霧のように薄れ、消えていった。
(生まれてから僕らはずっと、ひとりっきりだったね)
「黙れえい!」
 彼は、近くにあった彫刻をひっつかみ、少年の方に投げつけた。少年が消えたそのあとに、彫刻は虚しく砕け散った。
「今度姿を現したら必ず食らうぞ、この糞餓鬼めが。世迷ごとばかり唱えおって。くそいまいましい」
 そして彼は、闇に向かって咆哮した。
「貴様もだ、ダバ!ローマいちと謡われるそなたの強靱な肉体を、必ずや我が手で引き裂き、貪り啖ってくれる。楽しみにしておれい!」

 そして、ダバ、アクリアヌス、シラの三人である。
 彼らは、ルクレティアというおぞましくも強力な戦力を手に入れたあと、入ったときと同じ不可思議な方法で、プルートーの神殿からローマの市街地に戻ったのだった。
 その別れ際、神官ギルリウスは思いがけないものを彼らに提供した。
「そなたらの心配事をひとつ減らしてやろう」
 それは、ローマの伏魔殿、黄金宮殿の見取り図であった。
「少し前に、バラニウスから譲り受けたものだ。持っていくがいい」
 ギルリウスは言った。
 だが、ダバは訝しげに眉をひそめ、
「やけに準備がいいことだな」
 神官はそ知らぬ顔で、
「我には必要のないものゆえ、どうせなら有効に役立てられる御仁に譲りたかっただけだ。他意はない」
「あなたは、本当にプルートーの司祭などという者にしか過ぎないのか」
 アクリアヌスは、思わず訊ねた。
「そのような姿は、あなたにとって数多ある顕現の一つにしかすぎないのではないのか。あなたの本当の呼び名は――もしや、『這い寄る混沌』――」
 老人は、嗄れた笑い声を上げ、
「その名を口にすることはまかりならぬ、小さき魔道師よ。我はカダルめがこの星を食いつぶし、宇宙の力の天秤が揺らぐことを望まぬ者。どのような姿であろうと、どのような名であろうと、そんなものに意味はない。我にとっても、そなたらにとっても。ただ、授けた力だけは紛い物ではないゆえ、安堵せよ」
 そうして、彼は三人を送り出したのであった。
 そうして――今、三人はまさに黄金宮殿に迫りつつある。
 オピウスの丘のふもとに広がる壮大なそれは、偉大なるローマの富の、まさに集大成であった。
 広大な森や湖、果ては葡萄園や牧場までもを有する庭園に囲まれた、黄金の巨大なラビリンス。
 それ自体が一つの都市であると錯覚しそうなほどの、想像を絶する広大な宮城。
 その入り口である、まるで巨人用に造られたかのような門の前に、三人は立っているのである。
門の傍らには、ネロ自身の巨像が立ち、侵入者たちを冷たく見下ろしていた。
「遂に、決戦ですね」
 アクリアヌスが、淡々と言う。
「なにか作戦はおありですか、ダバ」
「何も考えておらん」
 ダバの声もまた、同様であった。
「立ち塞がる者全て、このルクレティアで斬り捨てるのみ」
「心強いですね」
 魔道師の口調は、多分に懐疑的である。
「仮にも神と名のつくものが、その程度の剣で殺されてくれればよいのですが。ところで、どういう経路で侵入します?」
 ところがダバは、何もいわず門に向かって前進しはじめたのである。
「待ってください、ダバ」
 いつも冷静なアクリアヌスが、珍しく動揺する。
「どうしたのです、ダバ。せっかく地図があるんです、何もこんなところから、のこのこ入らなくとも」
「正面から行く」
 ダバは宣言した。
「小細工はせん」
「小細工がどうとかいう次元の話ですか。正気の沙汰ではありません」
 アクリアヌスの眉が、ぎゅっと釣り上がった。
「あなたは、少しその剣の力を頼みすぎているようだ。いくらその剣が神ですら斬り殺してしまえるほども魔力を持っていたとしても、何百人の兵士を一度に倒すことはできないでしょう。ああ、僕がこんなことを言わねばならないほど、あなたは馬鹿ではなかったはずだ。一体どうしたというのです」
「言ったはずだ」
 ダバの返答は、あくまで素っ気なかった。
「小細工は無用だ」
「くだらない、正々堂々と、などというきれいごとに縛られているのではないでしょうね」
 魔道師の舌は、一層辛辣さを増した。
「あなたもわかっているでしょう、相手は人間ではない、我々の持っている常識や道徳律や、物理法則ですら通用しないのですよ。そんな相手に真正面からかかっていって、勝てると思うのですか」
「わかっている」
「だったら何故!」
「無意味だからだ」
 ダバはアクリアヌスの方を見ようともしない。
「相手は神なのだろうが。こちらがやってくることなど先刻承知のはずだ。それに」
 そして、ルクレティアを振りかざした。
「途中、少々の邪魔にあってやられる程度なら、ネロのもとに辿りついたとて勝つことなどできない」
 そこまで言われると、アクリアヌスにも反論の余地はない。押し黙って、不遜な表情でダバを見つめるだけである。
 彼らは無言のまま、巨大な門に向かって突き進んでいった。
 その彼らを待ち受けていたかのように、門が重苦しい音と共に開く。
 そして、アクリアヌスが予想したとおりの光景が、そこに現れた。
 正規兵の装備である兜と盾、槍または中剣で完全武装した何百のローマ兵が、刃の壁となって彼らの行く手を阻んでいる。
「待たせたな」
 ダバは、狼のような笑みをうかべる。
「おぬしらの主人に、会いにきた。熱烈な歓迎、いたみいる」
「剣闘士ダバよ」
 先頭で胸を張っている兵士が、宣告した。
「我らがインペラトル、ネロの名において、そなたを一歩足りとも先へ通すわけにはまいらぬ」
「知っている」
 ダバは静かに、ルクレティアを構えた。
 ローマ兵たちの間に、微細なざわめきが広がる。
 これだけの数の軍勢を前に、何の怯えも動揺も見せずに戦闘の姿勢を見せるこの男の行為に、何か尋常ならざるものを感じ取ったのであろう。
 ダバは、槍と剣と盾で出来た歪な藪のような彼らの姿を、左から右にじっくりと睥睨すると、
「覚悟は、できたか」
 次の瞬間、ごおっ、と空気が爆ぜるかと思われるほどの殺気が、ダバの体から噴き出した。
 数では明らかに絶対的優位にあるはずの兵士たちが一人の例外もなく、じりっと一歩後退した。
「行くぞ」
 ダバの一言の後に振るわれた最初の一太刀を、誰一人肉眼で見ることができなかった。
 先頭にいた十数人の兵士の首が同時に刎ね飛び、それが宙を舞って地面に到達する前には、もう別の兵士たちが盾ごと胴を両断されていた。
 一太刀浴びせるどころか、誰一人として、ダバに向けて一歩たりとも足を踏む出せた者はいない。
 一方的な、殺戮だった。
 たちまち隊列は乱れ、ローマ軍は総崩れになった。「ひっ」と、喉を鳴らして逃げ出そうとする者。
「ひるむな!敵はたった一人だぞ!」
 と、なんとか怒号をあげ勇敢を装う者。
 ルクレティアの洗礼は、誰もの上に平等に見舞われた。
 ダバが一回剣を振る度に、三、四人の兵士が確実に死んだ。
 兵の間に噴き出す血は絶えることがなく、ダバの周囲一帯が赤い霧でおおわれているかのようにさえ見えた。
 ダバは全身を朱に染めながら、少しも休まず剣を振るいつづける。
 鬼神。悪魔。死神。
 ただ殺されるだけの存在に成り下がったローマ兵達に、彼の姿がどのように映っているかに関わらずダバの表情は、狼の笑みのまま彫像のように固定されていた。
 何もいわず、剣を振るだけの動作に撤する彼は、まさにロードス島の青銅巨人タロスのごとく、無敵だった。
 その彼の後ろ姿を、シラとアクリアヌスはただ呆気にとられて見ているしかなかった。
 とくにシラは、今まで見たこともない壮絶な流血の宴に、もはや絶叫する気力すら奪われてしまっていた。
 アクリアヌスは何もいわず、卒倒しそうな彼女の肩をしっかりと支えている。
「やめて」
 シラは、かすれた声で呟いた。
「こんなの……こんなの」
「見てはいけない、シラ」
 アクリアヌスは言ったが、もう遅いことは自分でわかっていた。彼は今更のごとく、彼女をこの戦いに連れてきたことを痛烈に後悔していた。
 シラは彼に向き直ると、その胸にすがりついて、
「あんなの、ダバじゃない」
 全身が小刻みに震えている。
「ああ、ダバじゃない」
 アクリアヌスは、歯噛みした。
 この間も、ダバの剣は兵士の命を吸っていた。今のダバを止められるものが、はたしてこの地上に存在するのだろうか。
「今の彼は、あの剣の言いなりになっているだけです。本当の彼じゃない」
「でも、人を殺してる。あんなに沢山」
 シラは、顔をあげた。涙と鼻水と絶望で、ぐしゃぐしゃになった顔を。
「あんなにもいっぱい人が死んでる。あたしたちと同じ人間なのよ。それが、あんな、土くれみたいに……どうにか、どうにかしなくっちゃ」
 アクリアヌスには、何も言えなかった。
 既に彼自身が、恐怖に足が竦んでいるのだ。 なす術があろうはずもない。
 やがて、敵兵は誰一人ダバに歯向かおうとしなくなった。剣や槍を放り出し、三々五々に逃走を開始する。彼らをその場に止め、指揮しようとする人物さえ、どこにも見えなかった。指揮官とは戦いの采配を振るうもの、如何せんこれは戦いではなく虐殺である――無理からぬことではあった。
 流石のダバも、敗走する者たちの背中を追い掛けて行ってまで、彼らを殺そうとはしなかった。
 それだけが、ルクレティアを握った彼に残された、彼らしさの片鱗であった。
 ダバは剣をおろし、悠然と歩いていった。
 木々と屍の山の向こうに見える、宮殿の入り口へと続く道を。
 ダバはちらりと、シラとアクリアヌスを見た。
「もう、ついてくるな」
 乾ききった声だった。
「地獄を、これ以上見たくなくば」
「ダバ」
 シラは、彼の腕にしがみつき、
「帰りましょう、ダバ」
 半狂乱で言う。
「帰りましょう。そして、方法をもう一度考え直しましょう」
 ダバは、濁った目で黙って彼女を見下ろす。
「こんなの、駄目。こんなに罪のない人達を殺して、ネロのところに辿り着いたって、何になるの。それはネロのしたことと同じだわ。だから帰りましょう。今すぐ」
 ダバは、
「どけ」
 とだけ発し、彼女を振り払おうとする。
「駄目、絶対に駄目よ」
 シラは、ますます強くダバにかじりついた。
「こんなこと、主がお許しにならない」
「どけと言っている」
 ダバの声が険しさを増す。
 シラはきっと彼の顔を振り仰いで、
「こんなのを見て、アクテ様が喜ぶと思ってるの!」
 ダバの頬が、ぴくりと動いた。
 シラはそれを見逃さなかった。
「アクテ様のことを考えて。あのやさしいアクテ様がこんなふうになったあなたのことを見たら、きっとお悲しみになるわ。だから、こんなことはすぐにやめて。こんなに沢山の人が死んでしまったけれど、せめてもう、一人も殺さないで。殺さないで、ネロのところに行ける方法を見つけましょう。ほら、ここには地図もあるから」
 ダバは無言で、ゆっくりだが堅固な動作で、彼女を押し退けた。
「……ダバ!」
 再び泣き叫びそうになるシラを、
「駄目だ、シラ。今の彼に何を言っても」
 アクリアヌスが押さえた。
「彼は、ネロを倒すことしか考えてない」
「そんなの」
 シラは、急にがくりと肩を落として、惚けたようにダバを見つめた。
「一体、わたしは何のためにここにきたの」
 そして、ぼたぼたと落ちる大粒の涙を拭おうともせず、
「ネロを救うためよ。ネロに苦しめられている人たちを救うためよ。なのに、こんな悪魔のような所業が行なわれるのを、何もできずに見ていなくてはならないなんて。本末転倒もいいところだわ」
 ダバは、無言のまま、真正面の宮殿を見据え、突き進んでいった。
 その彼を待っていたかのように、
「豪快だったなあ」
 円柱の後ろから姿を現したのは、剛い髭をたくわえた中肉の男だった。
 「ティゲリヌスか」
 ダバは、剣を構えたまま無表情に言う。
 「性懲りもなく、現れたか」
 だが、ティゲリヌスの表情は、ポンペイで会った時のように皮肉げでもいやらしげでもなく、なにか切迫したものを感じさせた。
「頼みがある」
 彼が口走ったのは、意外な言葉だった。
「あんたにしか、頼めないことだ。だから待っていた」
「なんだ」
 ダバは鋭く、
「ネロの命乞いなら、受けつけぬ」
「そんなことじゃあない」
 ティゲリヌスの額を、脂汗がゆっくり伝っていた。
「もっと、簡単なことだ。あんたなら、本当に造作もないことだ」
「早く言え」
「言うさ。言うとも…」
 彼の顔の輪郭が、一瞬ぐにゃりと歪む。その直後、
「俺を殺してくれえ!」
 胴体が、破裂した。
 長虫にも似た無数の触手が、洪水のようにあふれだし、ダバたちに一斉に押し寄せる。
「は……はは」
 ティゲリヌスは、口元から涎を滴らせながら、笑った。
「なあ、ダバさんよ、あんたなら分かるだろ?俺はネロに、こんな体にされちまったんだよ。死にたくても死なねえ、おぞましい体になあ。なあ、あんたならできるだろ?俺を殺してくれよ。お願いだ!」
 ダバは、アクリアヌスとシラを背後に庇いつつ、うぞうぞとうねる触手を避けた。
 アクリアヌスが、ダバに耳打ちする。
「僕が片付けましょうか」
「いや」
 ダバの顔に、狼の笑みがうかぶ。ルクレティアを手にして以来、初めて見せた人間らしい表情だ。
「せっかくの御指名だ。俺が相手してやらずばなるまい」
 そして、ルクレティアを握りなおして、一歩前に出る。
 それを見てアクリアヌスは、
(どうやら、完全にルクレティアの操り人形になったというわけではないらしいな)
 低く呟いた。
「ひひい、殺してくれえ!」
 ティゲリヌスが喚いた。同時に、触手の塊がダバめがけて、うねった。
 ダバはぎらりと目を輝かせると、気合いと共にに剣を一振りする。長く伸びる触手の群れは、丁度半分ほどのところで分断され、ぼたりと地面に落ちた。
 だが、その触手は地面の上で再び密集し、まるで別個の生物のようにのたうち回りはじめる。
「こいつ」
 ダバがかすれ声で呟く。彼は、ローマに来る途中で出遭った、斬れば斬るほど分裂し増えてゆく怪物のことを思い出していた。
「不死身というわけか」
「ひひ」
 彼は、眼球をせわしなく動かしながら、神経質に笑った。もう既に、彼が正気を失っていることは明らかだった。正気でいられようはずがない――人の身でこのような姿に貶められて。
「そうだよ、だからあんたに頼んでるんじゃあないか。誰にも、俺を殺せないんだよ。だがあんたは死神だ、ポンペイの死神ダバと呼ばれた男だ。なあ、あんたなら俺を殺せるだろう?」
 再び、触手が伸びた。今度は、ふたつに別れた体から、挟み撃ちの形である。
 それでも、ダバは怯まなかった。
 ルクレティアを振り、それぞれの触手を神速で迎撃する。だがそれも、さらに事態を悪くするだけでしかなかった。断ち切られた触手たちは、またも密集し、蠢動し、別の固体を形成しはじめている。
「ひひ……いくら斬っても無駄だぜえ」
 ティゲリヌスが哄笑する。
「斬れば斬るほど、いくらでも増えるぜ。叩き潰して、挽肉にでもしねえかぎりなあ」
  その次の刹那。
 一斉に襲い来る触手に、絶望的な反撃を加えかかっていたダバは、振り降ろす剣の刃をいきなり翻した。
 そして、剣の腹を敵に叩きつけたのである。
 ぐちゃり、とおぞましい音がして、果物が潰れるように触手の塊が潰れた。
「いいことを教えてくれた」
 ダバが、冷たく呟く。
 そしてその瞬間から、彼の真の反撃が始まった。
 彼は剣の腹で、片っ端からと触手たちを叩き伏せはじめたのである。これっぽっちも原形をとどめないほどに、まさに血まみれの挽肉の塊としか見えなくなるほどに、彼は妖魔の断片たちを破壊した。
「ひいい……ひひ」
 ティゲリヌスは甲高く笑った。
「すげえ……すげえよ、あんた。本当に、挽肉だ。俺を挽肉にできるんだ。ひひ、殺せ、殺してくれえ!」
「望むとおりにしてやる」
 分裂した触手どもを完全にただの肉塊にし終わると、ダバは剣を本体であろうティゲリヌスの頭部に向けた。
「死ぬう!死んでやるう!」
 ティゲリヌスは、残った触手を爆発的に広げ、ダバに飛びかかっていった。
 ダバは、一瞬全身の筋肉を弛緩させると、渾身の力で遠心力をつけ、ルクレティアを叩きつけた。
 ティゲリヌスの醜い、もはや体とはいえなくなっていた体は、ぱあんと音をたてて粉々に飛び散る。
 彼の首だけが原形をとどめて、宙を舞い、地面に落下した。
「ひひひひっ、やった!死んだぞ!俺は死ねるんだ!俺はああ」
 だが、彼の首の付け根からは、しぶとく新しい触手が増殖をはじめている。
 ダバは、ぐわっと歯を剥きだし、獣のように吠えると、最後の一撃を見舞った。
 笑い続けるティゲリヌスの首は、石榴のように、ばしゃりと潰れた。
 彼の望みはかなえられた。
「くそ」
 ダバは、ルクレティアにこびりついた肉片をふるい落としつつ、狂おしく呟いた。
「後味が悪い。胸が、悪くなったぞ」
「ティゲリヌスを殺したことがですか?それとも、彼をあんな姿にしたネロの所業が」 アクリアヌスが、皮肉げに訊く。
 ダバは鷹のような眼を魔道師にむけて、
「この戦い、全部だ」
 吐き捨てるように答え、再び歩き始めた。
 シラとアクリアヌスも、仕方なく彼のあとに従う。
 彼らを呑みこまんと待ち受けている更なる冥府魔道に、彼らは足を踏み入れつつあった。

(続く)

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