ネロポリスの黙示 6


 5、異教徒

 ローマ。
 自らを世界で最も高貴だと自惚れる者たちが、享楽の限りを尽くす都。
 そして、その者たちが世界の中心だと信じて疑わぬ、猥雑で醜くも美しい都。
 七つの丘に囲まれた、高くそびえる城壁、白亜の、巨石の建造物たちが描く、果てしなく巨大な円。
「遂に来たぞ」
 ダバは、ローマの南の入り口であるカペナの門と、それに向かって真直ぐにのびるアッピア街道を小高い丘の上から見下ろしつつ、呟いた。
「ネロのいる都だ」
「わたしたちの、目的地。そして……」
 シラは、道の真ん中でひざまずき、祈りはじめた。
「たくさんの、神を信じる人々が、天に召された場所。主よ……ペテロ様もここで殉教されたのですね」 
 彼女の真剣な横顔は、一点の曇りもなく、哀しいほどに美しく輝いていた。
 ダバは少し眩しそうに目をひそめながら、
「そういえば……シラがいた村にも、ペテロはやってきたのだったな」
「そうです」
 シラは、きつく両手をよじり合わせた。
「あの方が、わたしたちの魂を救ってくださったのです。あの人が……初めてイエスさまの教えをわたしたちに伝えたのは、あの人なのですから」
「憎いか、ネロが?」
 ダバは訊いた。           
「おまえたちの救世主を残酷に殺し、同胞を殺した、やつが」
「憎しみは、ありません」
 シラは、ダバのほうを見た。
「わたしたちはネロを救いにゆくのです」
「何故だ?」
 ダバは不可解そうに首をふった。
「やつはおまえたちの敵ではないのか」
「憎しみは、悲しみしかもたらしません。そしてその悲しみは、また新たな憎しみを生みます。この世の悲しみをなくし、人が幸せになるには、どこかで憎しみを捨てるしかないのです」
「わからないな、やはり」
「あたしは、よくわかるぜ」
 バランは、退屈そうに笑った。
「このお嬢ちゃんのいう理屈が、とてもよくできた理想論だって事が。ただ、人間って生き物は、そんなに賢くないんだ。もう随分長いこと同じような間違いばかりやって、どうすればそれがなくなるか大体わかってるくせに、やっぱり同じ事ばかりやってるんだ」
「だから、主はイエスさまを遣わされたのです」
 シラは十字をきった。
「罪深い、わたしたちのために」
「それほど慈悲深い神なら」
 ダバは小さく、しかし烈しい口調で、
「人間なぞ創らねばよかったのだ」
「……」
 シラの目が、哀しげに曇った。
 ダバは彼女から視線をひきはがすと、
「いよいよだ」
 アクリアヌスとバランを見た。
 二人は、無言で静かにうなずいた。
 そして、
「さあ、ローマに入ったらさっそく、あたしの住みかに案内するぜ。あんたら、絶対気に入るはずだ」
 バランが言う。
 四人は、カペナの門にむかって、丘を降りはじめた。

「どうだい、あたしが言ったとおりだろう?」
 バランが、誇らしげに笑った。
「隠れ家としちゃあ、ちょっとしたもんだろうがよ?」
「たしかに、立派だ」
 ダバは無感動に答え、
「本当に凄いですね、まるでお城みたい」
 シラは素直に賞賛した。
 バランがダバたちに提供したいわゆる『隠れ家』は、どちらかといえば『要塞』に近いものであった。
 歓楽街の一角にある小さな居酒屋の地下に造られたそれは、広大な迷路のように入り組み、食料・黄金が大量に保存され、何十人もの人間がかなりの長期間潜伏できる機能を備えている(実際、バランの部下がかなりの人数駐在していた)。
「これが、ガルバ卿がローマを手にするための切り札のひとつですか?」
 アクリアヌスが訊く。
 バランは少々面映ゆげに、
「まあ、そういうことだ。わかってると思うが、このことは他言無用だぜ」
「喋るような知り合いは、ダバとシラの他にはローマにいませんよ」
 魔道師は、面白くもなさそうに笑うと、それきりガルバのことには触れなかった。
 そしてダバ、アクリアヌス、シラの三人はバランによって、古びた絨毯のしかれたあまり広くない部屋に案内された。
「こんな部屋しかなくてすまんが、ここでしばらく旅の疲れを癒すといい。食事を運ばせるから、少し待っていてくれ。それから、下手にこの部屋を出てうろつくと、迷子になるからな。注意してくれよ」
 バランは、そう言い置くと姿を消した。
 ダバは絨毯の上にどっかと腰をおろすと、
「どうする?魔法使い」
「何をです」
「どうやって、ネロに憑いているものを倒すかだ」
 ダバは、ちらちらとシラの様子を窺いつつ訊く。
「ここでは話しづらいですね」
 アクリアヌスは無表情のまま、
「理由は、あなた自身もおわかりのはず」
「それは、無論。それに、ここだけの話、バランにはあまり知られたくないとも思っている」
 ダバは、アクリアヌスを見据えた。
「だが、バランの協力を全面的に得ようと思うのなら、あやつに我々を信用させるだけの材料が必要だ。策も道もないでは、あやつらの力を利用することなどできんぞ」
「では、あなたには件の問題の解決案がおありなのですか?」
 アクリアヌスの言葉は、そのやんわりとした調子と反して、ダバを鋭く揺さぶった。
 ダバは、しばらく黙ったままアクリアヌスを見ていたが、
「意地の悪いことを言うな」
 ためらいがちに首を振る。
「おぬしにすら見当がつかぬものを、俺ごときに分かるはずがなかろう」
「ともかく、彼らには迂闊に手の内は見せない方が良いでしょう」
 アクリアヌスは肩をすくめた。
「たしかに、切札をふせたまま、いかにバラン殿をはじめとするガルバ軍を納得させるかは問題ですが」
「そのとおりだ」
 ダバは少し居心地悪そうに、
「それはともかく、なあ、何か手がかりはないのか?その……どうすれば例の力を呼び出せるのか」
 アクリアヌスは珍しく愛想のよい笑みをうかべて、
「あったとしても、ここではない場所でお話ししたいですね」
「やれやれ」
 ダバは嘆息して肩をごきりと鳴らした。
「致し方あるまい。ならば、ネロの許にどうやって潜入するかだけでも、詰めておこう。やはり、俺とおぬしの二人でゆくのか?」
「三人です」
 シラが天真爛漫に言った。
「ここまできて、置いてきぼりなんて許しませんから」
「勿論、きみも連れて行くさ」
 アクリアヌスは、シラの蜂蜜色の髪をそっと撫でた。
 ダバは二人を代わる代わる見つめて、
「今の状態で、連れて行って大丈夫なのか」
「ここに一人で置いておくのも危険でしょう。それに、邪神に接近すれば、その影響で何か変化が起こるかもしれない」
 そこに丁度、バランが大きな皮袋を抱えて戻ってきた。
「全く、しけてやがるぜ。食料係のメギウスめ、あたしに給仕の代わりをさせるたあ、どういう了見だ。客人がた、待たせたね。たいしたものはねえが、腹の足しにゃあなるだろう」
 彼は、三人にパンと干し肉を配ると、部屋の真ん中にどっかと腰をおろした。
「さあ、そろそろ聞かせてもらおうか。もうここは、敵の懐の中だからな。ここまでくりゃあ一蓮托生だ。あんたら、一体どうやってネロと戦うつもりだ?そして、あたしたちはそのために、一体どんな手助けができるんだ」
 ダバは、アクリアヌスに目くばせをした。
 アクリアヌスは厳粛な表情で、
「黄金宮殿に、ぼくとダバ、そしてシラの三人で侵入します。そして、ネロのもとに直接向かい、対決するつもりです」
「なるほど、やっぱり隠密戦法を使うってわけだね。それにしても、なんでこの娘っ子まで連れていかねばならねえんだ」
 当然予想された質問であった。
 シラが何か言いかけるのを、ダバが素早く手で制する。
「俺たちの側にいるのが、いちばん安全だからな」
 バランは舌打ちして、
「あたしらのとこにおいとくのが、それほど危険だってのかよ。信用がないんだねえ。けど、あんたらのいうことは矛盾してるよ、そんなに大事なお姫さまなら、どうしてこの危険な道行きにつれだそうなんて気を起こしたんだい」
 彼の目は、あからさまに彼らの態度を探っている様子だった。
 また、シラが可愛い声で何か言おうとする前に、
「実は、このことは伏せておきたかったんだが」
 ダバが厳かに口を開いた。
「絶対に、ここだけの話にしてくれるか」
「ああ、もうあたしらは仲間だ、秘密は守る。わかってるだろ?」
「ならば話そう」
 ダバが何を言いだすのか、シラも、アクリアヌスも、固唾をのんで見守っている。
 ダバは周囲をはばかるように声をおとし、
「実はシラは、ネロの隠れた落とし胤なのだ」
「なに?」
 バランは眉をひそめた。
「ほ、本当かい、そりゃあ」
「ああ、絶対に他言無用だぞ」
「わかってる。しかし、そんな話、全然きかねえぞ。ネロにユダヤ人の隠し子がいるなんざ」
「ネロ本人も、知らないことだ」
 ダバはしゃあしゃあといった。
「奴が気紛れで手をだしたユダヤ出身の奴隷が、子種を宿してしまい、生まれたのがこの子なのだ。この子は、我々のネロ暗殺計画を偶然知った。父の顔を知らぬこの不憫な子は、一度でいいから父の顔を見たいと、健気に同行を申し出たのだ」
「……」
 シラは口をぱくぱくさせ、アクリアヌスは神妙な顔でうなずいている。
 バランはまだ半信半疑そうな表情で、
「しかし、妙な話じゃあねえか。父親に会いたがっている娘が、どうして親父の暗殺計画の片棒を担ぐんだよ。止めようとするのが本当じゃないのかい」
「この子は、キリスト教徒だ」
 ダバは、やけに大仰に手を広げた。
「自らの父が、神をおそれぬ所業に手を染めるのにこれ以上堪えられなかったのだ。黄金宮殿に赴き、皇帝を退位して罪を償うように説得するのだそうだ。俺は無駄だと何度も言っているんだが」
 ダバは、ため息をついてかぶりをふった。
「もし駄目ならしかたがない、その時は父を殺してくれ、これ以上罪を重ねるよりは、と泣いてすがってきたのだ、この子は。気丈な子だ、全く。キリスト教徒の女は、みんなこのような苛烈な魂を持っているのだろうか」
 バランは、しばらく不可解きわまるといった顔をしていたが、じきに真剣な表情に戻ると、
「エホバの神の十の戒めとやらは、それほどまでにして守らなくちゃならんものなのかねえ――あたしにゃ、さっぱり理解できねえが。まあ、いい。秘密は守るぜ。よく話してくれたな」
 すっかり信用した様子である。
 ダバとアクリアヌスは、彼に勘付かれぬ程度に目くばせを交わした。
 バランはさらに、質問を投げかけてくる。
「そのことはさておくとして、あんたら、あのだだっ広い黄金宮殿の地理に詳しいわけじゃあないだろ。案内役は要らないのか?」
「誰か案内できる者がいるのか」
「この隠れ家の中には残念ながらいねえ。しかし、黄金宮殿の中に、何人か内通者がいる。そいつらに頼めば、手引きしてもらえる手筈になってるぜ」
「ぜひとも、力をお借りしたいな」
 アクリアヌスがいう。
「道案内もなくあの広大な宮殿に踏み込むのは、クレタ島のラビリンスで迷うのより始末が悪そうだ」
「そうだろ?」
 バランはわけ知り顔で頷く。
「そいつには、急いで連絡を俺のほうからつけておくようにする。決行は、いつにするんだい?」
「明晩だ」
 と、ダバ。
 バランは、干し肉をかじりながら立ち上がると、
「了解した。ところでダバの旦那、明日朝食が終わったらちょっと、あたしに付き合ってくれんかね」
「何だ、一体?」
「あんたに引きあわせたい人がいるんだよ」
「ガルバか?」
 ダバは、あからさまに嫌そうな顔をした。
「いくら金を積まれても、奴の剣闘士になる気はないぞ」
「違うよ」
 バランは溜息をついた。
「あんたが、そんなくだらねえことに耳を貸す輩じゃねえことぐらい、わかってるよ。それに第一、ガルバは今ローマにはいねえ。あたしがあんたを会わせたいのは、もっとあんたにとっても知り合って損のない相手さ」
「ほう」
 ダバはすっと目を細めた。
「俺にどんな利益があると?」
「力さ。今まで以上のな」
 バランはにやりと唇を歪めた。

 その後、少しの間ローマの地理についての知識を披露したあと、バランは部屋を出ていった。そしてダバたちは、明日の修羅場に備えて絨毯に体を横たえたのだった。
 一刻ほど休んだあと――
「ダバ?」
 シラが小さな声で、
「眠ってしまいましたか?」
「いや」
 ダバも小さく答える。
「何だ」
「いえ……何となく眠れなくて」
「眠っておけ」
 ダバはにべもなくいった。
「少しでも疲れを取っておかないと、明日はそれが命取りになる」
「ねえ、ダバ」
 シラは溜息をついて、
「私には、分かりません」
「なんだ」
「どうしてバランさんたちは、ネロを殺そうとするんですか?」
「ネロを殺したあと、ガルバを帝位に就けるためだろうな」
「何故、あの人たちは、そんなくだらないことのために殺しあいをするのでしょう?それに、あの人、ガルバという人を馬鹿にしているみたいだった。どうして、尊敬もできない人を自分たちの王に就けようなんて思うのでしょう?」
「それは……」
 ダバは、口籠もったあと、ひとつ咳をして、
「おまえは、知らなくていいことだと思う」
「アクリアヌスと同じ事を言うのね」
 闇の中で、何かが微かに光った。
 それは、シラの涙だろうか。
「何も泣くことはなかろう」
 ダバは、嘆息して寝返りをうった。
 冷血漢のアクリアヌスも、シラに関しては彼と同様の思いを抱いていたのだろうか。
 この純真無垢な少女に、この世の下らない仕組みなど見せたくない――と。
「だって、悲しいから」
 シラは、震える声で答えた。
「私はペテロ様に救っていただきました。だから次は、あたしが誰かを救ってあげたい。私みたいなちっぽけな人間がそんな風に思うのなんて、思いあがりかもしれないし、そもそもそんな力はないのかもしれない。だけど、それならばせめて、人の心の重荷を減らすことくらいは、できるはずだと思うの。なのに、私の周りにいる人たちは、みんなあなたやアクリアヌスと同じようにいう。自分の肩にのしかかっているものを見せないように、私に目隠しする。私はそんなこと、望んでもいないのに」
 ダバは、もう一度溜息をついた。
(やれやれ、こういうのを、父親の心境、というのか)
「それでは、シラ。俺の重荷を減らしてくれるか」
「どんな重荷ですか?」
「恐怖だ」
 ダバは、ゆっくりと言った。
「俺は、恐いのだ」
「あなたほど強い男の人が、何を恐がるんですか」
「俺は」
 剣闘士は、大きく息を吸い込んだ。
「いつだって、恐かった。人を殺すとき、獣を殺すとき。剣をとって戦うとき、いつだって心のなかでは震えていた」
「信じられない」
 シラはくすりと笑った。
 ダバは鼻を鳴らして、
「おまえもみんなと同じことを言っているではないか。人のことを言えた義理か」
「ごめんなさい」
 シラはもぞもぞと顔を隠した。
「そんなつもりじゃ」
「馬鹿、冗談だ」
 ダバは苦笑した。
「初めて剣闘試合に駆り出されたときは、歯の根が合わないほどだった。それでも、殺さなければ殺される。生きてゆくためには、恐怖に打ち克つしかなかった。殺し続けるしかなかった。だが本当に恐ろしいと思ったのは」
「なに?」
「一回殺すたびに、少しずつ恐怖が消えてゆくことだった。人を殺すことが、自分にとって当然になっていくことだった。俺が戦い、殺している相手が、人間や、動物や、命あるものであることを忘れそうになることだった。そして俺は、今でもそれを恐れている。自分が、他のものの命を奪うことに、何も感じなくなることを」
「何となく、わかる気がします」
 シラが闇の中で微笑むのが、ダバにはわかった。
「きっと、それがあなたの強い理由なんですね」
「あと一つ、言い忘れてる」
 ダバは頭を抑えた。
「俺は今度の相手は、今まで出遭った敵の中で、一番恐ろしい。今までに遭ったことのない、それどころか見たことも聞いたこともない怪物どもだ。あの、ワズルカとかいう妖怪に出喰わしたときのこと――思い出すだけで背筋が凍る」
 その時、冷たく乾いた笑い声が響きわたった。
「剣闘士のダバともあろうものが、随分と臆病なことを。しかし、おのれの弱さを認識できるというのも、大きな強さの一つですからね。シラもいったとおり、あなたは恐怖を知っている故に強い、それが結論といえそうですね」
 アクリアヌスだった。彼はずっと、二人の会話を聞いていたに違いない。
 ダバは、苛々とした口調で、
「盗み聞きか。いい趣味だ」
「どういたしまして」
 アクリアヌスは、毛布をはねのけて起き上がった。
「後学のために、もう少し剣闘士ダバの告白を聞いていたかったのですが。そういうわけにもいかなくなったようなのでね」
「おぬしがそういうものの言い方をするときは、決まっているな」
 ダバも、ゆっくりと体を起こした。
「来たのか、奴らが」
「残念ながら」
 魔道師は、ダバの顔を見つめた。
「もうすぐ、バラン殿が慌ててこの部屋に飛び込んでくるでしょう」
 言い終えぬうちに、
「大変だ!旦那がた」
 バランの小柄な影が、彼らの部屋に転がり込んでいた。
「恐ろしいことになっちまった。いったいなんだってんだ、あたしは、こんなこと、初めてだぞ。畜生」
「落ち着け、バラン」
 ダバはいった。
「何があった」
「怪物だ。得体の知れねえ化物が、隠れ家のなかで何匹も暴れまわってやがる」
「バランの後ろです、ダバ!」
 アクリアヌスが叫んだ。
 ダバの体は、咄嗟に反応していた。剣を引きぬき、音もなくバランの背後の現れた異様な影に、斬りつけた。
 深緑の液体が派手に飛散し、そのものはバランの頭上に倒れかかる。
「わあ」
 バランが跳びすさると、それはダバたちの足元に重々しく転がった。
 巨大な、ぬらぬらと光る白い芋虫。
 体長はダバの身長と同じくらいある。それだけでもおぞましく醜いのに、この怪物の体の表面には、皺だらけの人面が紋様のようにびっしりと刻みこまれているのだ。
「"腐りゆくもの"ウルガリス」 
 アクリアヌスが呟いた。
「低級な地の精です。おそらく、この隠れ家に、地下を掘り進んで直接潜入した」
「なんだと」
 バランは目を見開いた。
「あたしたちの相手は、そんなこともできる奴らなのかい」
「他に、何もない空間から現れたりもしますよ」
 アクリアヌスは、こともなげに言った。
「地中を進むのくらい、可愛いものです」
「畜生!とにかく、逃げにゃあならん。案内する、いくぞ」
 バランは冷汗を拭い、ダバたちを招いた。
「こっちだ」

 地獄が、そこにあった。
 一体、どれだけの数のウルガリスが侵入したのか――いたるところで、バランの部下たちが妖虫の餌食になっていた。その屍の有様から、ダバたちはウルガリスがどのように食事をするのかを知った。体中に浮かび上がる人面は決して飾りではなく、それぞれの顔にはちゃんと口がある。その数えきれないほどの口で、貪欲に食い荒らすのだ。獲物となった人間の死体は、無論原形をとどめない。
「畜生……畜生」
 ダバたちの先頭に立ちながら、バランはずっと狂おしく罵り続けていた。さっきまで彼のもとで働いていた、あるいは共に戦った仲間たちが、いまはただの肉塊にしかすぎなくなっているのだ。いくら殺し合いに慣れているといっても、これは普通の人間の死に様ではない。少なくとも、こんな死に方が存在することを彼らは知らなかった。
「アクリアヌス」
 ダバは、魔道師の方を青ざめた顔で振り返った。
「勝てるのか?」
「無論」
 アクリアヌスは、涼しい顔で言い切る。
「ただ、少し数が多いのは、厳しいですが」
「俺の剣で斬れるか?」
「さっき試したでしょうに」
 アクリアヌスは冷笑して、
「ウルガリスには、物理的攻撃が十分効果があります。剣で斬れば斬れる。殴ればふっとぶし踏めば潰れる。あなたの腕なら、いくらでも斬り殺せる」
「気楽に言ってくれるな」
 ダバは、額の汗を拭った。
 その聴覚が、異様な音をとらえる――
 ずるり。
「来たぞ!」
 ダバたちがたった今通過した丁字路の陰から、白い芋虫が飛び出した。
 シラが悲鳴をあげる。
 ダバは神業のような速さで彼女を背後にかばい、宙に舞う妖虫を串刺しにした。
 それが合図ででもあったかのように。
 ずるりという這う音は大量の湿った布を引き摺るような重々しい音に変わり、一斉に芋虫どもが闇の中から押し寄せた。
『腐りゆくもの』の名にふさわしい凄絶な臭気が、泥水のように彼らのもとに殺到する。 
 ダバは吐き気を無理矢理のみこんで、剣をひたすら振り回した。たちまち、毒々しい緑色の体液が、雨のように降り注ぐ。バランも、短剣をふるい、白蛆を次々とと屠る。
「なんとかしろ、アクリアヌス」
 ダバが絶叫した。
「これじゃあ、きりがない!こっちの体力がもたん」
「そのようですね」
 そのときにはもう、魔道師は宙に魔法陣を描き終わっていた。
「サラマンドラの吐息に灼かれよ!」
 かっと、彼の目が見開かれた。
「ダバ、バラン、シラ、伏せなさい!」
 即座に、三人は頭を沈めた。
 その直後、アクリアヌスの周囲に火炎の渦がまき起こり、彼らの頭上を通り越して波状に広がり、芋虫どもの群れに襲いかかっていった。
 白い肉の壁に見えるほどひしめいていたウルガリスたちは、紅蓮の炎に灼かれて声もなく崩れ落ちていく。
「すげえ」
 バランは、息を呑んで妖虫たちの断末魔を見つめた。
「初めて見た。これが魔道ってやつか」
「見とれてないで行きましょう!」
 アクリアヌスが叱咤する。
「時間を無駄にしないでください!」
「承知!」
 バランは、まだ炭化したウルガリスの屍を踏み砕きながら、走りはじめた。
「もう少しだからな、旦那がた!」
 そしていくつかの角を曲がり、階段を一つ上がると、
 バランは天井を指差した。
「出口はここだ!裏通りに出るはずだ」
 彼はぴょんと跳びあがると、天井にくっついていた奇妙な形の把手をつかみ、引いた。 乾いて重い音をたて、天井の一部が開く。
 そこには人一人が入れる大きさの、地上へ続く縦穴があり、縄梯子がぶらさがっていた。
「さあ、もうひと頑張りだからな」
 バランはシラに励ましの言葉をかけると、さっさと縄梯子を上りはじめた。
 アクリアヌス、シラ、ダバの順にそれに続く。そして、その梯子を上りきると、バランの言葉どおりに地上の新鮮な空気の下にでた。
「脱出成功だ!恩に着るぜ、旦那がた!」
 バランは、嬉々としていった。
「別に、隠れ家はここだけじゃあねえ。ここには少々劣るが、潜伏するのに都合のいい場所はまだいくつかある。急いでそこに案内する。そこでもう一度休養をとっ……」
 次の瞬間だった。
 巨大な何かが、いきなりバランの体を引き裂いた。
彼の体は右肩から、真っ二つに切断されていた。
「ぐが」
 バランは、自分の身に起こったことが理解できないといった表情で、ぼんやりと噴き出す鮮血を見つめていた。
「そんな。あたし、死んじまうのかよ」
「バラン!」
 ダバは叫び、彼の崩れる体を抱きとめた。
「くそっ」
 しっかりしろ、とは言わないし、大丈夫かとも言わない。
 そんな言葉が既に意味をなさぬことは、彼の姿を見れば一目瞭然である。
 ただ、ゆっくりと命を失ってゆくバランの体を、食い入るように見つめるしかなかった。
 だが、アクリアヌスは、全く別のものに魂を奪われている。
「また、来たのか!」
 彼の視線は、彼らの頭上に浮いている、奇怪な物体に釘づけになっていた。
 真っ赤な翼を生やした、手足をもつ巨大な磯巾着。ゆらゆらと触手を揺らしながら空中に浮かぶそれ、その上に立っていたのは――
「それはこちらの台詞だ、アクリアヌス」
 漆黒の長衣にくるまった人影は、嗄れ声で言った。 「わかっておろうな。今度会うときは、容赦せぬと言うたぞ」
「くっ」
「何者だ?アクリアヌス」
 ダバは、天空の妖魔を睨みながら訊いた。
「知っているのか」
「ああ」
 アクリアヌスは、その呪わしい名をしぼりだすように呟いた。
「我らの仇敵――シモン・マグスです」
「シモン……」
 ダバは、息を呑んだ。
「あの、邪神を呼び寄せた魔術師か?だが奴は、ペテロに敗れて死んだのでは?」
「愚かな人間」
 シモンは、低く呪文のように呟いた。
「貴様らには、説明する気さえおこらぬ。何の力も持たぬ人のこの分際で、我らが神に歯向かうとは。だが、ダバとやら、儂は貴様を殺すわけにはゆかぬのだ。はがゆいことにな」
「ほう、なぜだ?妖術使い」
 ダバは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
 シモンは含み笑いをもらすと、
「ネロ様がな、貴様を食らいたがっておるのさ。できることなら、生のまま持って帰れといわれておるでな」
 ダバは、ぞくりと悪寒がはしるのに耐えながら、
「ふざけるな」
 剣の切っ先をシモンに向けた。
 妖術師は哄笑し、
「おお、可愛いことよ。おのれの無力も知らずに肩肘はりよって。ネロが食らいたがるも道理かもしれぬわ。ともかくも、アクリアヌスよ」
 彼はアクリアヌスの方に顔を向けた。
「今度こそ、死ぬ気でくるがよい」
「言われなくとも、そうさせてもらう」
 アクリアヌスは、印形を結んだ。
「風の長、アイオロスよ」
 アクリアヌスの体が、宙に浮き上がった。
 それと共に、ダバたちの体もまた、空中に釣り上げられた。
「どうするつもりだ?」
 シモンが揶揄するようにいう。
 アクリアヌスはひきつった笑いを浮かべると、
「貴様が言ったように死ぬ気で――逃げるのさ」
 同時に、一陣の風がまき起こり、アクリアヌスたちは矢のように空中を流れていった。「恐れをなしたか、こわっぱが」
 シモンの眼が、殺意に輝く。
 彼の翼ある磯巾着は、その重そうな見かけとは裏腹に、凄まじい速度でダバたちを追いかけてきた。
「この間の威勢はどうした、アクリアヌスよ。儂を殺したいのではなかったか?それとも、ようやく我が神と儂の力が分かったか?ならばくるがよい、今ならば、貴様の数々の背信も我が神は許されるであろう」 
「どうする気だ、アクリアヌス」
 魔法の風に流されながら、ダバはアクリアヌスに訊ねる。
「あの男、地の果てまでも追いかけてくる気だぞ。戦わんのか」
「今は、勝ち目がない」
 アクリアヌスは、早口でいった。
「僕たちの持つ守護石もあの男相手にはあまり効果がないことが分かったのです。ネロとの対決を前に、無用な戦いは少しでも避けなければ」
「だからといって、逃げきれるのか。俺たちだけならともかく、バランはもたんぞ」
 ダバの腕の中で、バランはもはや虫の息となっていた。つやのよい黒檀のようであった肌は、もはや消し炭のようにくすみ、生気をなくしている。この次の瞬間には、もう呼吸を止めていても不思議はない状態であった。
 その彼の手を握りしめ、シラは必死に神に祈っている。
「残念ですが、という他ありません」
 アクリアヌスは、額の汗を拭いながら、
「酷いと言われるなら責めはぼくが負う。とにかく、今は逃げるしかないのです。犬死にはできない!」
「いいんだ、だんな……」
 バランが、かすれた声でいった。
「わかって……る……あたしは……もう、助かりゃあしねえ……」
「喋るな、バラン!」
「あ……りがとよ、心配……してくれて……あたしは、助からない……でも、あたしは、あんたらを……最期に助けられる……かもしれねえ」
「……」
「こいつは……賭けだ。あの人が、来てくれるかどうかは……勝てるかどうかも……わからねえ。しかし……あたしにできるのは……これしか」
「いい……やめろ、バラン」
 ダバは、震える声で、喚いた。
「くだらん事を言うな。俺たちの心配をする余裕があるんなら、死神と戦え。一瞬でも長く生きることを考えろ」
「あんた……優しいな」
 バランは土気色の顔に、弱々しく微笑みをうかべた。
「短い間だったが……あんたらと……旅ができて、たの……し、かった……死ぬ前に、礼を……させてもらいてえ……それだけだ……」
 そういって、バランは地球上の空気と別れを惜しむかのような、大きな深呼吸をした。 そして、
「常闇の王、深淵の王、すべての死者の王よ!我、とこしえに汝の玉座にかしずかん!我が魂魄と引き替えに、薄暮の使者を遣わされよ!」
 これが、本当に瀕死の人間の声か、と思うような、威厳に満ちあふれた声で叫んだ。
 それが、バラン――バラニウス・バラスの最期の言葉となった。
 彼の眼はそれきり生気を失い、丸い頭ががくりと前にのめる。
「バラン……」
 ダバは、掌でそっと、彼の目蓋を閉じてやった。
「俺も、おぬしと話すのは愉快だった。こんな出会いでなければ、一杯酌み交わしたかったと思う」
「ダバ」
 アクリアヌスが、声を上擦らせつつ前方を指差した。
「あれを」
 バランの最期の言葉は、何かの呪文ででもあったのだろうか。
 遥か彼方から飛来してくる、黒く巨大な影があった。
 そしてそれは、いかなる猛禽でも追いつけぬであろう壮絶な速度で、ぐんぐんと近づいてくる。
「いったい……なんだ?」
 ダバは目を細めた。
「あれは……」
 それは、ポンペイでアクリアヌスらと出会って以来何度も遭遇した妖魔どもと同じく、ダバが日常で目にしたことのあるいかなる生物とも異なる姿態を持っていた。
 彼の知識の中で最も近しい言葉を探すとすれば――漆黒の翼を持つ、蛇。
 ただし、その頭部は錐のように細長く鋭く尖り、眼や鼻や口といった部品は一切見あたらない。また、その鱗は黒く禍々しいながらも輝かしい、金属質の光沢を放ち、そのくせよく見ると奇妙に脈動していた。
 それがシモン・マグスたちと同類でないことは、一目で判別できた。彼の使役する妖物は例外なく醜悪でおぞましいが、この漆黒の翼ある蛇は、異形と魁偉さの中にも美しさがある。
「バランの"助ける"というのは、こいつを呼ぶことだったのか?」
 ダバは、アクリアヌスを見た。
 魔道師は何もいわず、重々しく頷く。
 翼蛇は、あっという間に彼らの横を通り過ぎ、空とぶ磯巾着に猛然と襲いかかっていった。
 シモン・マグスの口から、絞り出すような呻きが洩れる。
「シャンタク鳥だと……馬鹿な」
 彼は何か魔法で応戦しようとした様子だったが、彼が呪文を唱え終わるのより、翼蛇の嘴が磯巾着を貫くほうが速かった。
 妖術師は、均衡を失った磯巾着の背中から投げ出された。
 そこにすかさず、蛇の第二撃が見舞れる。
 シモン・マグスは、ボロ布のようにひき千切られ、ローマの市街へと落下していった。
「すごいな」
 流石のダバも圧倒され、ただ息を呑むのみである。
「怪物対怪物の対決というのも初めて見たが……あのおぞましい妖怪が一瞬で」
「やつは、死んではいませんよ」
 アクリアヌスが言う。
「不意をつかれただけです」
(負け惜しみか?)
 そう思い、ダバは彼の顔を窺う。
 しかし、その表情は真剣そのもので、本当にシモンの力を恐れていることを察することができた。
 彼らを助けた翼蛇は、悠々と体をくねらせながら、ダバたちの方に向き直った。
「誰か、我を喚んだのは」
 蛇が喋った。
 低く重い、禍々しくも威厳に満ちた、神聖な響きのある声。
「喚んだ?」
「そうだ。我に救いの手を願う祈りが聞こえた故、やってきた。そこな褐色の男、そなたか?」
「いや、俺ではない」
 ダバは、バランの屍を見下ろしながら、
「この男だ。死の間際、最後の力を振り絞って、その祈りとやらを叫んだ」
「バラニウスか」
 蛇は無感動にいった。
「しぶといやつだったが、とうとう我があるじの御許にいかざるを得なくなったというわけだな。それより、そなたたちは何者だ?なに故にあのような妖かしのものに追われておった?あのものたちはどう見ても、こちらの世界のものではない」
「俺の名は、ダバ」
 ダバは名乗った。
「この男はアクリアヌス。娘はシラ。あなたは……」
「ダバ?」
 蛇の嘴の先が、微かに震動した。
「"ポンペイの死神"か?」
「そうだが」
 ダバは少し戸惑いながら、
「それより、あなたの方こそ正体を明かしてはもらえまいか」
「バラニウスから、話は聞いておる。そうか、そなたが」
「俺に名をきくからには、そちらも名乗るのが筋だろう」
 ダバは苛々と、
「名をお聞かせ願おう」
「我が名は、ギルリウス」
 蛇は、厳かにいった。
「サルトウヌスの長男、ユピテルとネプチュヌスの兄、全能の神々の長兄、冥界の王プルートーの最高司祭。生者の世界において、最も死に親しきもの」
 と、彼の巨大な体躯が、水に映った像のようにゆらいだ。そしてうねうねと形を変え、密集し、一人の堂々とした黒衣の老人の姿となった。
「待っておったぞ、剣闘士」
 老人は、鷹のような目でダバを見て、にやりと笑った。
「バラニウスから、我の話は聞いておるか?」
「あなたか?」
 ダバは眉をひそめた。
「バランが言っていた、俺に"力"を授けてくれるのは、あなたなのか」
「そなたこそ、我が永年求めてやまなかった最高の戦鬼だと、バラニウスが申しておった」
 ギルリウスは、骨張った手を差し伸べた。
「さあ、そなたを我が神殿に招待しよう。邪教の徒として虐げられてきた我らの、秘密の聖地にな」
 彼が両手を広げると、突然周囲が闇に閉ざされた。文字通り、鼻をつままれてもわからないほどの暗黒。
「怯えることはない。我らが神殿は、プルートーに全てを捧げたもの以外には、その場所を知られてはならんことになっておる。少しの間、目隠しをさせてもらうだけだ」
「アクリアヌス、どう思う?」
 ダバが耳打ちした。
 魔道師は鼻を鳴らして、
「魔道師がまやかしに遭わされるのはあまり愉快なものではありませんが。ここは、あのご老体の流儀に従うとしましょう」
 そして一瞬の後――
 彼らは、見慣れぬ場所にたたずんでいた。
 そこは黒耀石でできた、おそろしく天井の高い、寒々とした大広間だった。
「ここが、プルートーの神殿か?」
 ダバが呟く。
 ギルリウスが頷き、
「そうだ。そしてここが、我が住まい、我が宮殿。ようこそ、剣闘士。そして、魔法使いに、エホバ神の娘よ」
「エホバの娘?私が?」
 シラは目を丸くした。
 老人はにやりと笑い、
「エホバを信ずるものは、全て彼の子である。イエスとやらは、そう教えたのではなかったかな」
「あ、ああ……そうでした」
 シラは、ぎこちない笑みをうかべてうなずいた。
 ギルリウスはダバに向き直り、
「そなたと取引をする前に、まずバラニウスを葬っておかねばな」
「取引?」
「バラニウスの屍を、床に寝かせよ」
「取引とは、どういうことだ。ちゃんと説明してくれ」
 食い下がるダバに、
「屍を寝かせよ。聞こえぬか」
 鬼神のごとき形相で、ギルリウスは命令する。彼のその一瞥にどんな魔力があったものか。
 ダバは人形のように、いわれたとおりにした。
「バラニウス・バラスよ」
 ギルリウスは、バランの額に手を置き、眼を閉じた。
「汝は今、プルートーの玉座に赴く旅路へと踏みださん。願わくば、その旅路が静かなることを」
 バランの屍に、変化が起こった。全身の輪郭がまるで蜃気楼のように薄れていき、やがて、完全に透明となって姿を消した。
「汝、永遠にプルートーの玉座にかしずくべし」
 ギルリウスはいった。そして、
「バラニウスの葬儀は終わった。ダバよ、話をしよう――我がそなたに与えられる大いなる力の話を。そしてその力を得るためにそなたが支払うべき、些細な代償の話を」
「些細な代償?」
「来るがよい、この地上で最強の戦鬼よ。我が神プルートーが、そなたに相応しい死に場所を与える」

 そして、ダバは、司祭に神殿の奥へと案内されたのだった。
シラとアクリアヌスは、その間廊下で待たされることになった。
「我が神が地下の黄泉の支配者であることはわかっておるな」
 黒い神殿の廊下を歩きながら、ギルリウスはいった。
「ああ」
 ダバは素っ気なく答える。
 だが司祭はいっこうにかまわぬ様子で、
「プルートーは冥府の主。全ての死者を統べるもの。それ故、生者より忌み嫌われる。命あるものは、プルートーを崇めぬ」
「それでは、あなたは死者なのか」
「いったであろう。我は、生者にして死に最も親しき者。死は絶対なるもの。高貴なる者も、卑しき者も、生あるものはすべからく死には抗えぬ。我が望むのは、永遠の自由、絶対の平等。それすなわち、死。我は生者にして、最も死を強く望む者。幾度かそれを試み、カロンの渡し船に乗り込む寸前に現世に呼び返されし者。それ故に、我は生者でありながらプルートーに仕えることを許された。そして我と同じ条件を多かれ少なかれみたす者のみが、プルートーの下僕となる資格を持つ。」
「あまりよくは分からんが」
 ダバは訊いた。
「プルートーがあなたを必要としているのなら、なぜ自分の玉座に連れて行こうとしないのだ」
「わからぬのか。プルートーに仕える者が生者の世界に一人もいなければ、プルートーは生者に自らの言葉を伝えられぬ」
「全能の神の長兄が、人間の力を借りねばならんのか」
「神は、大いなるもの。しかしながらそれ故に、人は神を見ることができぬ。神も人を見ることができぬ。神と人との間には、仲介者が必要なのだ。そして神は、仲介者を得ることによって自らの力を地上に及ぼすことができる。そして、時に安息の場所として、人間の肉体を選ぶのだ。丁度、カダルの神がネロに宿っているようにな」
「知っていたのか」
 ダバは呟いた。
「ネロと、例の邪神のことを」
「勿論だ」
 ギルリウスは嗤った。
「それ故、そなたらに力を貸すのではないか。この地球には、数多の神々が支配権を争いひしめいておる。だがネロに憑いておるものは、我らの住む世界の外よりやってきた、侵入者だ。かの神は、我らの世界の物理および時空幾何学的法則をくつがえす――神々の世界をも脅かしかねぬ、邪魔者であるのだ。あれをそのままにしておけば、無事に済まぬのは人間だけではない――神々の間の法則も、この宇宙の秩序も、全てが崩壊する。無論それは、神々の、そしてわが神の望むところではない」
「よくわからんが、こういうことか。プルートーは、邪魔者を俺に始末させたい。だから力を貸す、と」
「察しのいいことだな」
「もうひとつ教えてくれ。バランは何故、あなたと交渉をもった?」
「ガルバが、我らを利用したがっていた。ローマでの覇権を握るために。そしてその見返りとして、彼らは捜さねばならなかった」
「何を?」
「あれを使いこなすことのできる、この地上で最強の戦士を、だ。すなわち、そなたのことだ、ポンペイの死神よ」
「俺は、最強などではない」
 ダバは首を振った。
「それに、あれ、とはなんだ?」
「それが、我がそなたに与える"力"だ」
 ギルリウスは、にやりと笑った。
「そしてそれは、ここにある」
 彼は目の前に立ちはだかる、巨大な鋼鉄の両扉を指差した。
「この扉の向こうに」
「勿体ぶらないでくれ。一体、何があるというんだ?」
 ダバは、焦燥に駆られて叫んだ。
「俺は一体、何ができるというんだ」
「"死者の剣"ルクレティア」
 司祭は謡うように、
「冥府で鍛えられた、暗黒の剣。プルートーが死者の血と骨を怨念の炎で鍛えた、最強の武器。普通の人間が触れればそれだけで気がふれる。この剣を振るい、大いなる力を手にすることが許されるのは、剣自身がそれにふさわしいと認めた者のみなのだ」
 そして、大仰に両手を広げ、
「それが、ここにある。そなたを待っておる」
「俺には、そんな武器は持てぬ」
 ダバは、頭を抱えた。
「俺は、最強などではない。そんなおぞましい剣に、認められたくなどない!」
「おぬしは認められる、ダバ」
 ギルリウスは、静かに断言した。
「そして、おぬし自身の選択で、ルクレティアを手に取る」
 ダバは、なおも頑固に首を振った。
「俺には、できん」
「剣と向い合い、よく考えてみることだ」
 老人は、ゆっくりと重い扉を引き開けながら、
「安心するがいい。この剣は自分の意志を持ち言葉を喋るが、そなたをたぶらかしたりする力は持たぬ。もしそなたがルクレティアを手にすれば、ネロですらそなたの敵ではない。そなたの運命だ――そなたが選ぶがいい。ただし、そなたの選択こそがこの世界の命運をも左右するのであることを忘れるな」

 そしてダバは、重い扉の向こうにひとり残されたのだった。
 その剣は、この五角形の部屋の中心に、ダバを誘うように突き立てられていた。
 炎のように輝く、真紅の大剣。
 魅せられたように見つめながらダバは、一体この剣はどんな物質でできているのか、と訝った。
ギルリウスが「死者の血と骨を鍛えた」というのさえ、本当のように思えてくるのだ。それほどに、この剣の赤さは鮮やかだった。
「俺は、最強などではない」
 ダバは、呟いた。
「この剣は、俺には持てぬ」
(そう思うか、戦士よ)
 穏やかな声が、ダバに呼びかける。
(迷いがあるなら、我を抜くのはよしたがいい。我を手にすれば、そなたはもはや元の人間には戻れぬ)
「それ以前の問題だ」
 剣が喋る、という不思議な現象を、ダバは何の抵抗もなく受け入れていた。
「俺には、資格がないのだから」
(資格は、ある。我は、そなたを待っていた。そなたのような激しく荒ぶる魂の持ち主を)
「……」
(だが、だからといって、我にはそなたを無理矢理に手に入れることはできぬ。そのような力は持ち合わせておらぬ。そなたが拒むなら、我は黙って次の戦士を待ち受ける。たとえ何百年かかろうとも)
「何故それほどにして、最強の戦士とやらを求める?おまえの目的は何だ」
(我は、剣だ。殺すために造られた。戦う者に、限りなき殺戮の力を与えるために。我は、我を本来定められた用途で十二分に使いこなしてくれる、あるじが欲しい。ふさわしいあるじが現れたなら、我はこの地上に並ぶもののない力を与えるであろう。わずかばかりの対価と引き替えに)
「対価とは、何だ?」
(憎悪)
 ルクレティアは楽しそうに言った。
(または、殺意、闘志といってもよい。そなたが戦わんとする相手に対する、『殺す意志』だ――我はそれを糧とし、その見返りに戦士に力を与える。その憎しみが強ければ強いほど、我はより強大な力を提供できよう)
「異界の魔神でさえ殺してしまえるほどの、か」
 ダバは腕組みした。
「そして、おまえを手にするしか、俺に勝算はないのだろう」
(そのとおりだ)
 ルクレティアが、微かに振動した。
(おまえは、おまえが守りたいと思う人間を守ることはかなわぬ。アクテも、シラも)
「アクテ……シラ」
 ダバは、ネロの抹殺を哀願するアクテの泣き顔と、シラのこの地上で最も無垢で無邪気であろう笑顔を思いうかべた。
(お願い、ネロを救って!それがかなわぬのなら、殺して!)
(あなたを見ていると、お父さんを思い出すの)
 そして、ダバはいつか自らが口にした言葉を思い出した。
(人間は、自分が守ろうとするもののために、全力で恐怖に立ち向かうんだ)
(あれは一体、誰に言ったのだったろうか)
 ダバは、自分の両手を見つめ、次に深紅の剣を見つめた。
「剣よ」
 ダバは、ゆっくりと剣に問いかけた。
「俺には、おまえを持つ資格があるか」
(我は、そなたを待っていた。そなたより他に、わがあるじとなれるものはおらぬ――少なくとも今のこの地上には)
「俺のものになってくれるか。俺の敵を滅ぼしてくれるか」
(そなたが戦うなら――そなたが我にそのための力を心より求めるのなら)
 ダバは、がっしりと剣の柄を握り締めた。
「俺は、たった今おまえを手にした」
 にやりと、狼のような笑みをうかべる。
「死者の剣よ。これからおまえは、間違いなく俺のものになると言うのだな」
(それに答える前に――我を引き抜く前に、いま一度問う)
 ルクレティアは、謡うように、
(我を手にするものは、すべからく殺戮の冥府魔道に堕ちる。そして、わが糧となる憎しみと鮮血を求め、暗闇をさまよい続ける運命となる。そなたには、我を抱いて地獄の業火に永遠に焼かれ続ける覚悟があるか?二度と戻れぬ罪の深淵に足を踏みいれる覚悟があるか?)
「面白い」
 ダバの腕の筋肉が、ぐっと膨れあがる。
「俺の魂、おまえにくれてやる。地獄の果てまで、おまえにつきあうぞ」
 剣は引き抜かれ、ダバの頭上で赤い悪夢のように輝いた。
(契約は、交わされた)
 ルクレティアが、宣告のように呟いた。

 シラとアクリアヌスは、薄暗い神殿の廊下で、じっと待ち続けていた。
「ダバは、大丈夫でしょうか」
 シラが心配そうに呟く。
 アクリアヌスは、険しい表情で壁を見つめたまま、無言である。
「大丈夫かしら、アクリアヌス?」
 シラは彼の方に向き直るが、それでも彼は答えない。
「アクリアヌスは、彼が心配ではないの?」
「僕らが心配したとて、どうなるものでもないよ、シラ」
 彼は、氷のような声でいった。
「落ち着きなさい」
「ねえ、プルートーとかいう神は、悪い神なのでしょう?そんな神に与えられた力でネロを倒そうだなんて……悪魔と戦うために悪魔に魂を売る、というのと同じぐらいおかしな話だわ」
「刃物を持った相手と対等に戦うには、刃物が要る。理にかなった話だと思うけどね」
 魔道師は苛々と振り返った。
「我々は、あの怪物どもと戦うにはあまりに弱すぎる。ダバも、いくら超人的な剣の腕を持っているといっても、このままネロと対決すれば、間違いなく殺される。彼にも、より強い力を手に入れてもらわなければ――それにしても」
 彼は額を抑えながら、眉根を寄せて呟いた。
(しかし――シモンはあのとき、ギルリウスの姿を見て『シャンタク鳥』と言った。『シャンタク鳥』というのが僕の知っているものと同じものなら、あの老人の正体は――プルートーの司祭どころではないはず――全てまやかし、ということか?)
「私は何も出来ないの?」
 シラは、むきになっていう。
「ペテロ様は言ったわ。私は、大きくなったらローマにいき、そこにいる重いなる病に冒された男を、救う運命にあるって。そしてあなたは、私の村にきたとき、私の力が必要だと言った。なのに私はここまできて、ただあなたやダバに守られているだけ。なにもしていない。ダバはネロと戦うために、力を手に入れるって言ってる。しかも、死者たちを支配する邪な神の力を。ねえ、私はどうすればいいの?ネロを救うために、私は何をすればいいの?」
「ネロを倒すためには……」
 アクリアヌスは、重苦しい声で言った。
「たしかに、きみの力が必要だよ、シラ」
「なら、教えて頂戴。どうすればネロを救えるの?」
「それがわかれば、苦労するものか!」
 アクリアヌスは喚いた。
「ネロを倒すために、絶対にきみの力が要るんだ!だがしかし、その力がどうすれば発動するのか、どんなふうにすればその力を制御できるのか、それはぼくにも全くわからないんだ!」
「……だからなのね」
 シラの瞳が、暗く濁った。
「今まで、私に何も言ってくれなかったのは」
「軽蔑してくれてかまわないよ」
 アクリアヌスはその場にへたりこみ、神経質な笑い声をあげた。
「何もわからない。何も出来ない。なのに自分の中の陳腐な衝動に駆られて、きみを危険にさらすたびに連れ出した。ああ馬鹿だ。ぼくは馬鹿だ……どうしようもない大馬鹿者だ!ダバよりもネロよりも、そしてあの犬死にしたバランとかいう密偵よりもね!お笑いぐさだろう?シラ。笑えよ、シラ」
「……」
「どうしたシラ。笑わないのか?笑えよ、ぼくを。それとも、呆れ果てて何も言葉が見つからないか?」
 何も言わず、シラは、ただアクリアヌスを優しく抱き締めた。そして、
「お願い、そんな風に言わないで」
「……」
「あなたは、この世界を救うために、ネロを倒したかった。だから、危険を顧みずに、飛び出した。少しもおかしくなんかないわ。あなたは、素晴らしい人。少しも、恥じることなんかないのよ」
「違うんだ」
 アクリアヌスは、うちひしがれた顔でシラを見つめた。
「ぼくは、そんな立派な理由でネロに戦いを挑んだのじゃない。ぼくは」
 そこで彼は、何かに気付いたかのように目を見開いた。
「いけない。何かが来る!」
 彼がそう口走った次の瞬間、廊下の黒い壁がいきなり破れ、おぞましいものが姿を現した。その紫色のものは、ずるずると穴から這い出してくる。
一体どれくらいの長さがあるのか見当もつかない、それは巨大な蚯蚓だった。
 魔道師は咄嗟に、シラを突き飛ばし、呪文を唱えようと身構える。
 しかしそれよりも早く、蚯蚓が彼の体に巻きつき、凄まじい力で締めあげていた。
「誰か!」
 シラは悲鳴をあげた。
「ダバ、助けて!アクリアヌスが……アクリアヌスが!」
 その間にも、アクリアヌスの顔は血色を失っていく。
「ダバ!」
 そのシラの絶叫に応えるように。
 赤い稲妻が空中を奔った。
 そして次の刹那、紫の蚯蚓はいくつもに分断されて床に崩れ落ちた。
 そして、その断面から飛び散る黄色い体液の飛沫のむこうに、ダバが立っている。
 その手に、赤く妖しく輝くルクレティアを握りしめて。
 その背後には、氷のような瞳のギルリウスが後見人のごとく厳かにひかえている。 
「ギルリウス」
 ダバは憎々しげにいった。
「貴様、わざと結界をゆるめたな」
「何のことかな」
 ギルリウスは嗤う。
 だがダバは、鋭い眼光で彼を睨んで、
「俺がルクレティアをどれだけ使いこなせるのか見たかったのだろう。だから敢えてこの怪物を招き入れた」
「誤解だな」
「どちらにしろ、俺がこの剣を使いこなせることは、証明されただろう」
 彼は、シラとアクリアヌスの方に向き直った。
「俺は、力を手に入れた」
 彼は宣言した。
「行くぞ。ネロは俺が倒す。この剣で」
 薄闇のなかで、ルクレティアが凶々しく輝いた。

(続く)

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