ネロポリスの黙示 5


 4、暗殺者

 ダバは、果てしない不毛の荒野を、足を引きずりながら歩いていた。
 彼の頭上には毒々しい紫色の空が広がり、時折青白い稲妻が閃く。
 一体ここが何処なのか、何故こんな土地を歩いているのか、まるで見当もつかない。
 そしてまた、彼の腰に剣はなく、周りには誰一人いない。アクテも、シラも、アクリアヌスも――彼が頼むべきものは、己れ自身にはなにもないのだ。
 未曾有の孤独のなかで、彼は歩き続けているのだった。
 不意に彼の足が、ぶよぶよしたものを踏んづけた。
 足元を見ると、いつか串刺しにしてやった人面ヒトデが、彼の足元で痙攣している。
 悲鳴をあげて跳びのこうとすると、ヒトデは巧みに足に絡みついた。
 ダバは気持ち悪いのをこらえ、素手で掴んでひき剥がそうとする。ヒトデはあっさりと剥がれ、地面にどさりと落ちた。
 だが、もう一方の脚をなにものかが掴んだ。
 一〇本の足をもつ、おぞましい大蟻。
 アクリアヌスがワズルカと呼んだ、あの怪虫だった。
 ダバは恐怖に駆られて、ワズルカに襲いかかろうとする。だがその刹那、自分の周囲に異様なまでにたちこめている妖気に気づいたのであった。
 はっと目をあげたダバは、絶望のあまり絶叫するしかなかった。
 人面ヒトデとワズルカが、地面を埋め尽くしている。果てしなく広がるこの荒野の、地平線の彼方まで。
 ダバは、頭をかきむしりながら、叫んで、叫んで、喚きちらした。
 大地を覆い尽くすほどの妖魔どもは、みなダバの方へ向けてぞろりぞろりと押し寄せてくる。
そしてほどなく、彼の全身は怪物どもの群れのなかに――

「うわあああああっ!」
 ダバは叫びながらとび起きた。
「お目醒めですか?」
 アクリアヌスが、冷たい美貌をこちらに向けて言う。
「随分うなされておいでのようでしたが」
「ああ……」
 ダバは荒い呼吸を整えながら、自分の周囲の状況を確認した。人面ヒトデも、ワズルカも、どこにも見当らない。そして彼がいるのは、紫色の空の下、どこまでも広がる荒野のど真ん中ではなく、巨木に囲まれた暗い森のなかの空き地だった。
 そして彼は、今自分が何故この場所にいるのかをぼんやりと思い出した。
 彼は、三日ほど前に、シラとアクリアヌスと共にポンペイを出立し、ローマへむかっている最中だったのだ。
 そして今日も日の暮れに合わせ、この場所を野営地に定め、火を囲んで食事と休憩をとっていたのだった。
 焚火をはさんで反対側に魔道師アクリアヌスが座り、その傍らでシラが猫のように丸くなってすやすやと眠っている。
「俺は、どのくらい眠っていた?」
 ゆっくりと身を起こしながら訊く。
「さあ?四刻ほどではないですか」
「そんなに眠ったのか。おぬし、その間ずっと眠らなかったのだな」
「誰かが見張り役をせねば」
 アクリアヌスは、相変わらず素っ気ない。
「ぼくも死にたくありませんから」
「感謝する。俺は十分に眠ったようだから、交代しよう。あとは俺が、不寝番をするから、おまえは眠れ」
「あれほど、うなされていたのでは、十分な休養にはならなかったでしょう。いいですよ、もう少しお眠りください」
「いや」
 ダバは先程の悪夢を思い出し、顔をしかめた。
「そういう気分ではない。遠慮ではなく」
「どんな夢を見たのです?言いたくなければ言わずともかまいませんが」
「言いたいから言わせてもらう」
 ダバは少しむすっとした様子で、
「あの、人の顔をしたヒトデや、馬鹿でかい蟻の大群に食い殺されそうになる夢だ」
「恐ろしかったですか?」
 ダバはすぐには答えなかったが、やがて苦笑して、
「ああ。恐ろしかったぞ。あんな恐ろしい夢は久しぶりに見たな。ポンペイの死神が、随分情けのないことだが」
「お気をつけください」
 アクリアヌスは、少しも表情をかえず、折った小枝を火に放りこみながら、
「奴らの中には、人の夢のなかにまで入りこんでくるのもいますからね」
「夢のなかだと?」
 ダバはげっそりとして、
「そんなものに出くわしたら、一体どうすればいいんだ」
「早く、自分が夢の中にいることに気づくことですよ。ああ、これは夢だ、早く目を醒まして現実に戻ろうと強く願う」
「それが出来ねばどうなる」
「精神を食い荒らされて、あなたの体は心のないただの肉人形と化します」
「……」
 それきり、二人は黙り込んでしまった。
 夜の静寂のなか、焚火の炎がパチパチはぜる音だけが、彼らの世界の音だった。
「アクリアヌス」
 沈黙に耐えられなくなったのは、ダバの方だった。
 可笑しなものである。ポンペイでは彼が寡黙でつっけんどんにものをいうので、周囲の人間が彼と会話するのにはいちいち言葉を選んで喋らなくてはならなかったのに、この若い魔道師が相手だと、今度はまるっきりダバがその立場に立たされてしまうのである。
「なんです」
 アクリアヌスは、輝く銀髪を指先で梳きながら彼を見た。
「アクテは……アクテは大丈夫だろうか?」
 アクテは、あれだけ協力を熱望していたにもかかわらず、今回のこの旅には同行できなかった。
 アクリアヌスが、一緒に旅をすることは危険だ、始終命の危険にさらされることになる、と強硬に主張したのである。一方ダバは、アクテを一人でおいておくのはなおさら危険だ、自分たちといれば守ることができるのにと反論したが、アクリアヌスは、頑固に首を振り、
「それは、あなたが奴らの恐ろしさを本当にわかっていないからですよ。我々がローマに行くのを、奴らは知っています。なんとしてでも、奴らは我々を抹殺しようとするでしょう。奴らが本気で襲ってきたとき、あなたにも、ぼくにも、アクテ様を無事に護りきれるだけの力があるとは思えませんね」
「なら、どうするというのだ。秘密を知ったものは例外なく狙われるといったのはおぬしだぞ。たった一人でアクテは、どうやって己の身を護るのだ」
「これを」
 そういってアクリアヌスは、一つの握り拳大の青い宝石を取り出したのであった。
「これは、奴らと敵対する原始地球の神々の一人、『焔焚きつける者』ヴォルヴァドスの力が込められた、守護石です。これがあれば、大抵の妖物は恐れて寄ってこない。寄ってきたとしても、これを投げつければ、とりあえず追い払うことはできる」
「こんなものがあるのなら、おぬし自身が持っておいて、それでアクテも同行させれば、一番安全ではないのか」
「自分の分はちゃんと持ってます。それでも怪物どもが襲いかかってくるほど、我々がローマにゆくことは奴らに目障りなのです」
「ううむ」
 そこまで理詰めでこられると、ダバもアクテも反論しようがなく、アクテはポンペイに残って、後から従者たちとローマに帰ることとなった。
 一応納得して別れてきたはずではあるけれども、誰よりアクテを崇拝するダバのこと、気にならないわけはないのである。
「あなたは」
 アクリアヌスは無表情に、
「あの守護石の効力が信じられない、ひいては、ぼくの言葉が信じられないと」
「そういうわけではないが」
 彼の高圧的な言い方に、ダバは少しむっとした様子で、
「もしものことがあったとき、やはり我々が傍にいないと、危険ではないのか」
「安全です。何度も申し上げたとおり」
 アクリアヌスはうんざりといった調子で、
「ぼくが彼女に何度も注意したとおり、あの石を肌見離さず持っているかぎりはね。あの守護石で護りきれないような敵が現れたなら、我々がいたって何もできやしない。ただ、殺戮されるのみで終わりですよ」
「そうか」
 ダバは無愛想に、
「それで、そういう連中相手に、我々は一体どうやって戦うと?」
「それも何度も説明したはずです」
 魔道師は苛々とダバを睨む。
 ダバは睨み返して、
「策があるが今は言えぬというのだろう」
「わかっているなら訊かないでください」 
「それでは、今夜は違うことを訊くぞ。この少女――シラは、いったい何のために連れているのだ?このか弱い娘を、おぬしがいうほど危険な旅に何故連れてゆこうとするのだ」
「話したところで、あなたには理解できませんよ」
「すべてそれか」        
 ダバは彼の腕をいきなり掴んだ。
「おぬしは、少しも俺やアクテを信頼しておらぬのだな。たしかにおぬしにとって、巻き込まれたのは俺たちの勝手かもしれんが、おぬしも知っているとおり、俺たちはネロと無関係ではないのだ。おぬしはそれを了解したから、俺たちを味方として認めたのではないのか。それなのに、おぬしの態度はあまりに不透明すぎる」
「いい加減にしてください」
 アクリアヌスはダバの手を振りほどいた。
「信用してないのはどちらなんです。ぼくはあなた方にネロについての真実をほとんど話したではないですか。それに、ネロを倒すための方法も、シラを旅に連れてゆく理由も、あなたに話さないとは言っていないでしょう。話すべき時が来れば話す、少し時間が欲しいといっているだけではありませんか。物事には順序というものがある、それがわからないほどあなたは愚か者でも子供でもないでしょうに。物見遊山でここまでついてきたのでもないでしょう。そんなに何もかもをお知りになりたいのなら、いちばん手っ取り早い方法を教えましょうか。奴らと契約して、人間であることを捨てておしまいなさい。そうすれば何もかもがわかりますよ、ついでに知りたくもないおぞましい宇宙の真実までふきこまれて、正気でいられなくなるでしょうが」
 アクリアヌスが、こんなに感情的になるの
を、ダバははじめて見た。ダバは、しばらく息を呑んで彼を見ていたが、
「すまない」
 素直に詫びた。
「おぬしのいうとおりだ。信頼が足りないのは、俺の方だったようだ」
「ぼくにも、今の時点で何もかもが分かっているというわけではないのです。話したくとも、どう話したら良いか判断出来かねることもある……」
「了解した。おぬしが話す気になるまで、俺はもう何も言うまい。その時が来るまで待とう」
 ダバの言葉は、穏やかだが断固たる信実に満ちている。
 アクリアヌスは、ばつが悪そうに顔を背けた。
 そのまましばらく無言だったが、
「とはいえ……たしかに、何も知らぬまま死地に赴け、というのは士気に影響するかも知れませんね」
 大きく溜息をつく。
「理路整然とは話せませんよ。今の時点で言えることだけを、とりあえずお伝えすることにします。理解できなくても、文句を言わぬようお願いします」
「話してくれるのか」
 ダバの口元が少し緩んだ。
「おぬしが俺の気持ちを汲んで、そう言ってくれるのなら、それ以上は望まん。黙って傾聴するのみだ」
 アクリアヌスは、彼と目を合わさぬまま、ごそごそと懐からアクテに渡したのと同じ品物――ヴォルヴァドス守護石を取り出し、
「原始地球の神々は、この地球が生まれた時に宇宙から飛来するか、もしくはこの地球を構成する生命の根源の中に生まれ給うた大いなる意識体です」
 ダバは、口をへの字に曲げて腕組みした。
 魔道師は眉をひそめて、
「やはり、理解できませんか?」
「そんなことはない。おぼろげながら分かる。続けてくれ」
「わかりました。それらの神々は、この大地の底で、悠久の時の大半をまどろみの中で過ごしていますが、かつてカダル神をはじめとする外宇宙の古き神々がこの星を襲い来たりし時には、一致団結して立ち向かい、幾度かそれを退けました。その大地の神々の中で最も勇猛果敢に闘った一柱が、『灰白湾のヴォルヴァドス』」
 ダバは眉間を押さえながら微かに唸っている。
 アクリアヌスは、先ほどまでの勿体ぶりようが嘘のように、饒舌に話し続けた。
「古き邪神との激しい闘いの中で、ヴォルヴァドスの肉体は度々砕け散り、地球のあらゆる場所に飛散したといいます。その、ヴォルヴァドスの肉体の一部が化石となったものが、この守護石なのです」
「ほほう」
 ダバは、アクリアヌスの掌の上で不可思議な光を放つ宝玉を、しげしげと眺める。
「そんなもの凄い品物だったのか、これは」
「ですから、護符としての効果は保証できます。なにしろ神の力そのものの結晶なのですから。そしてシラはの住んでいた村は、この守護石の最大規模の鉱脈を有する土地だったのです。実際、我らの一族は永らく、その地で密かに石を採取し続けていた」
 ダバの眉がぴくりと動いた。
「それが、シラを今回の旅に連れて行く理由か」
 アクリアヌスは静かに頷く。
「シラは、ヴォルヴァドスの欠片の間近で生まれ育った。それが直接の原因なのかどうかは分かりませんが――彼女の体内には、ほとんどヴォルヴァドス神の本体と同じだけの密度の霊力が蓄積され、凝縮されて宿っているのです」
「この子に――そんな力が」
 ダバは息を呑み、傍らで無邪気にすやすや眠る少女を見つめた。
「この子は――自分の力を知っているのか」
「無論、知りません。僕がこの子の力を発見したのも、ほんの偶然です。カダル神と闘うための準備として、守護石を採取しようと、彼女の村を訪れた。その際に、たまたま彼女と出会った」
 アクリアヌスは肩をすくめた。
「ですが例の預言者ペテロは、布教で彼女の村に立ち寄ったとき、僕より先に彼女の存在がどんなものか、勘づいたようです。彼女にイエスの教えを説く一方で、彼女には大きな使命があると言い聞かせていた」
「使命?その男はおぬしがやってくることも、ネロを斃しに旅立つことも、全て予見していたというのか」
「それはわかりませんね。ぼく自身はペテロの言葉を直接聞いたわけではありませんから。機会があれば、シラ本人に訊ねてみてください」
「そのことは別にどうでもいい。それより」
 ダバはアクリアヌスの方に身を乗り出す。
「シラの体にそれほどの力が眠っているのがはっきりしているのなら、ちゃんとかの邪神相手に立ち向かう手段はあるということなのではないのか。何をおぬしは、それほど懸念しているのだ」
「事はそう簡単ではありません」
 魔道師は大きく嘆息する。
「どんなに強大な力があろうと、どんなに万能な武器や道具があろうと、その使用方法が分からなければ、飾り程度の役にも立ちませんから」
「何だと」
 ダバは青ざめる。
「おぬし、魔道師なのだろう。日頃、そうした不可思議な力を扱っているのだろう。なのに、『使い方が分からぬ』とはどういうことだ」
「魔道とて万能ではありません。剣士のあなたに、剣で断てないものがあるのと同じこと――シラの体の中には、確かに神すら滅ぼせるほどの霊力の結晶が眠っている。しかし、それはシラの肉体そのものとほとんど同化していて、どのようにシラから解き放ち武器として用いられるのか、方策が見つからないのです。そんな状況でシラをローマに連れて行くことがいかに無謀かは承知していますが――日ごとにネロとカダル神が力を増してきている以上、その術が見つかるまで悠長に待っている猶予はない。ともかく、旅の道すがら方法を探しつつ、ローマに向かうしかなかったのです」
「なるほど……」
 ダバは腕組みして唸る。
「『策はあるが今は言えない』というのは、そういうことだったのか」
「理解が早くて助かります。嘲笑ってくれていいですよ――神と戦うなどと大それたことを試みるものが、このような薄弱な希望をあてにして敵地に向かおうとしているなど、正気の沙汰ではない」
 アクリアヌスは、自虐的な笑みをうかべ、周囲をゆっくりを見回しながら言う。
 ダバは厳かな動作でかぶりを振ると、
「いや。神に立ち向かうなどという、人知を超えた試みに挑もうというのだ。勝てる見込みが少しでもあるのなら、その方法に賭けるのは当然のことだし、このような一刻を争う状況で、何もかも準備万端整えて戦いに臨むのは、難しかろう。おぬしの判断は正しいと思う。だが、それより」
 彼は、腰の剣に手をやりながら、
「なぜ、おぬしはこんな絶望的な戦いに、たった一人で乗り出したのだ?義に駆られて、というには、おぬしの表情はあまりに、悲愴すぎる」
「それはまた、いずれ」
 アクリアヌスは素っ気なく言い、立ち上がった。
「とりあえず、胸を張って誇らしげに語れるような動機ではありませんよ。どちらかといえば取るに足らない、くだらない私情です」
「私情で世界が救えるのなら、それもまたよかろうさ」
 ダバはひどく優しい眼差しで魔道師を見た。
「ともかく、よく話してくれた。聞いたところで俺に出来ることは格別にはなさそうだが、覚悟を固める助けにはなりそうだ。もう寝ろ、魔道師。不寝番は交替だ」
「いいんですか」
 アクリアヌスは、急に声をおとした。
「あなたらしくもない。森の中から、我々を見張っているものがいますよ。お気付きになりませんか?」
「とうに気付いているさ」
 ダバはにやりと笑った。
「どうやらポンペイで襲ってきたような妖怪ではないようだから、俺だけでも十分相手ができると思ったのだ。それにどうやら、今すぐ俺たちをどうこうしようというわけでもないようだからな」
 すると――
 その言葉に反応したかのように、彼らの周囲の森の木々の隙間から、ざわざわと何者かが動く気配がした。
「出てこい。上手に姿を隠したつもりだろうが、気配はまるで消えておらんぞ。もし殺しあいをしたいのなら、俺が相手になる。そうでなければ、立ち去るか、姿を見せて名を名乗れ」
 ダバは、声を張り上げた。
 同時に、ざっ、と闇のなかの気配たちが身構える音がする。
「よさんか、馬鹿者ども!」
 厳しく制する声が聞こえて、森の中から、一人の男が姿を現した。
 小柄な体の、黒い肌の男である。頭には毛髪がまるでなくつるつるで、白い歯と大きな目が異様に目立つ。
「いやあ、そんなにもとっくにばれてたとは、かなわんなあ」
 男は、白い歯をむきだして、にやにやと笑った。
「二人とも、よほどの使い手と見たね。我々は、姿を隠すことにかけては右にでるものはねえと自負していたんだが」    
「それはご愁傷さまだな」
 ダバは鼻を鳴らす。
「何故、俺たちを見張っていた?ポンペイから尾けていたのか」
「おお、尾けるなんてとんでもねえ」
 男は、大仰に手を振ってみせた。
「ただ、同じ方向に旅している最中に、あんたがたが面白そうな話をしているのを聞いちまったんで、ちょいと聞き耳を立てさせてもらっただけの話さ。あんたがそんなに目くじらをたてるほどのことじゃありゃあしねえよ」
「御託はいい」
 ダバは、剣の柄に手をやった。
「名を名乗れ。そして、盗み聞きをした理由をいえ」
 男のにやにや笑いが、不意に怪しげに歪んだ。
「嫌だといったら?」
「斬る」
 ダバの全身から、鬼気が噴き出した。
「おぬしらが俺たちの敵でないという保証はどこにもないのだからな。無駄な殺生は好まんが、不安の要素は少しでも取りのぞいておくに限る」
「そうかい」
 男の小柄な体が、ゆらりと動いた。
「そういう人、好きだぜ。俺も、天下の剣闘士ダバ様と、一度やりあってみたかったんでね。それに、あんたがたをふんじばって、もっと詳しい話も聞いてみてえしな」
「やれるものならな」
 ダバの口元がゆっくりとつりあがり、戦闘時の狼の微笑がうかんでくる。
「予定通り、ぼくの助けは要らなそうですね」
 と、アクリアヌス。
「ああ」
 ダバは剣を抜きながら頷いた。
「シラを頼む」
「では、ゆくぜ」
 男の体が大きくゆれた。次の瞬間、彼の姿は幾つにも分離し、都合七人にもなってダバたちを取り囲んだ。
 ダバは剣を握りしめ、ゆっくりと男の分身たちを見回した。
「どうだい」
 男の声が得意げに響く。
「さすがの剣闘士殿も、こんな芸当を使う相手には、はじめてあったろう。わかるかい?どれが本物のあたしか」
「思ったよりくだらんな」
 ダバは素っ気なくいうと、
「そこだ」
 いきなり剣を頭上にむかって跳ね上げた。
 その切っ先の直線上には、真っ直ぐ降下してくる黒い男の姿があった。
 男の目は、眼窩から飛びださんばかりに見開かれている。
「……見事」
 男は、咄嗟に体をひねり、転げるような無様な体勢になりつつ着地する。
 ダバの剣の串刺しになることは免れたものの、肩をざっくりと切り裂かれている。
 無論、彼の作り出した分身どもはもう消えていた。
「流石は、ポンペイの死神――参ったな」
 男は、肩の傷口を押さえながら、にやりと笑った。
「降参、降参しますよ。だから命だけは助けてくださいよ。無益な殺生はしないんでしょ?」
 彼の物言いはあくまで陽気で、少しも命乞いらしくない。
 ダバは静かに剣を収め、
「降参したのなら話せ。何故、俺たちを尾行した?」
「尾けたのではない、といったのは本当だよ。あたしらはあんたがたとはまた別の目的があってローマへ向かっていたんだ。だが、その途中でとても面白そうな一行を見つけたんでね」
「それが、俺たちか」
「そういうこと。びっくりしたぜえ、ポンペイ一の剣闘士が、ユダヤの小娘と魔法使いをつれて、街道をえっちらおっちら旅してたんだからな。風変わりな旅人たちのめざすは一体?だれでも知りたくなるぜ」
「……」
「あんたがた、一体何を企んでいるんです?」
 ダバとアクリアヌスは、互いに目くばせした。この男は、自分たちのローマ行きの目的を本当に知らないのか、それとも、知っていてかまをかけているのか。
「物見遊山だ」
 ダバは腰をおろして、無愛想にいった。
「おぬしに話すほどのことではない」
「嘘だね」
 男は、唇を歪めて笑った。
「アクテは、一体あんたに何を話したんだい?旦那」
 ダバの眼がぎらりと輝き、同時に銀光が閃く。
「おお、恐いな」
 男は、喉元に突きつけられたダバの剣を、おそるおそる手に取り、ゆっくりと下ろさせた。
「あんた、そう尖ってちゃあ、長生きできないぜ。穏便に話はできないもんかね」
「別に長生きしようとは思わん」
「まあ、そう言うもんじゃあないぜ」
 男は冷汗を拭いながら、
「そういやあ、まだ名乗りもしてねえな。俺の名はバラニウス・バラス。バランと呼んでくれ」
「では、バラン」
 ダバは、再び立ち上がってバランににじり寄った。
「おぬしがどこまで知っているか、いうのだな」
「あたしの話を聞いてくれよ」
「先におぬしが俺の質問に答えればな」
「これじゃあ、鼬ごっこだ」
 バランは、溜息をついた。
「わかりましたよ。話しゃあいいんでしょう。あたしが知っているのは、ネロ皇帝陛下の愛妾、ギリシャ生まれのアクテ様が、同じくギリシャにいたことのあるエジプト人剣闘士をポンペイくんだりまで訪ねていった。その何日かあと、剣闘士は闘技場を捨てて少女と魔法使いとともに街道沿いに現れた……これくらいだよ」
「本当にそこまでしか知らんのか」
「勿論……爪の先ほども」
「目下調査中、というところか」
「そんな、滅相もない」
 再び、ダバの剣が閃いた。
「見え透いた嘘をいうものじゃない、バランとやら」
 ダバの口元がつりあがる。
「俺とアクテが昔馴染みであることなど、どれほどの人間が知っていると思う?時間をかけて調べねばわからん事だな、明らかに。それに、おぬしはこのアクリアヌスが魔法使いであることを、何故知っているのだ?おぬしのいうことには、矛盾が多いようだ」
「どうもいけねえな」
 バランは少しも悪びれる様子もなく、
「たしかにここ一週間ほど、あたしらはアクテとあんたの素行を監視させてもらいましたぜ」
「何故だ」
「仕事だからですよ」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいませんや」
 バランは肩をすくめた。
「あたしはただの使い走りですぜ。誰の何を調べるにしたところで、それはあたしらのあるじが必要とするから調べるだけで、別に何故その情報が必要かなんて事は知らされねえ。これは責められたってあたしらの責任じゃあありません。それに、誰だって知りたくなりますよ、帝国にその名をあまねく知れ渡る剣闘士ダバが、その最強の名誉を捨て、どこへ行こうとしているのか。何故、風変わりな供を二人もつれているのか。アクテ様との会見で、一体何があったのか?」
「おぬしらのあるじは、醜聞の調査をするのが趣味か」
「何だ、あんただって冗談が言えるんじゃねえか。勿論違いますが、それはさっきも言ったように……」
「もういい」
 ダバは剣を収めた。
「質問を変える。おぬしらのあるじは誰だ?」
「……」
「別に、無理に答えんでもいいのだぞ」
 彼はまた剣の柄に手をやった。
 バランは慌てて、
「答えんとは言っとらんでしょうが。言いますよ、言やあいいんでしょう、言やあ。 全く、堪え性がないんだから。あんたがたに大変興味をお持ちなのは、セルウィウス・ガルバ。 ヒスパニアの大いなる年寄さ」
「なるほど」
 ずっと黙って話の行方を見守っていたアクリアヌスが、初めて口を開いた。
「ネロを殺したがっている連中の頭領ですね」
「そう、余生をカイサルの椅子の上で過ごしたがっている強突張りでさ」
「さもあらん、というところだな」
 ダバは目を細めて、
「それで、ガルバ老は、俺がローマに行く理由を、どのように見ているのだ」
「人の立場が分かった上で、そこまで聞くかねこの旦那は。いいでしょう、ここまで話しゃあ一緒、毒食わば皿までだ。こうじゃないんですかい?『ネロを他の女に取られたアクテが嫉妬に狂い、幼なじみに暗殺を依頼した』、と」
「斬るぞ」
 ダバはいきなりバランの首をつかんだ。
「俺の昔馴染みを侮辱する奴はな」
「く、苦しいよ、旦那。誰も、あたしがそんなことを思ってるとはいってないじゃあねえか。想像力の貧困な年寄が、そう勝手に邪推しているだけのことで」
 バランはダバの腕を押さえてばたばたとあがく。
 アクリアヌスは苦笑して、
「放してあげたらどうです、ダバ。彼はただ、今の質問に素直に答えただけですよ。それに、アクテの動機がそんな不純じゃなかったにしろ、暗殺を依頼しようとしたのは事実なのだし」
「ふん」
 ダバは、一旦手を放したものの、バランを睨みつけたままだ。
「まあいい。では、おぬしはガルバに命令されてそれを探り、一体俺たちをどうするつもりなのだ」
「そんなことまでは命令されてやしませんよ」
「指示はされてないかもしれんが、おぬしには何か目論見があるのだろう?そうでなければ、それほど何もかも俺たちに話しはしないだろうからな、脅されたとはいえ」
「あんた、頭の回転早いな。本当にただの解放奴隷出身の剣闘士か?」
 バランは、ひゅうと口笛を吹いた。
「好きだぜ、そういう人は。たしかに、あたしがあんたがたに全てばらしたのには訳がある」
「取引、ですね」
 魔道師が、上目遣いにバランを見た。
 バランの目が、一瞬輝いた。
「おやおや、こちらの美青年も、先程から随分と頭がきれるねえ。流石は魔法使い、ってとこかね。そのとおり、もしあんたがたの目的がガルバの爺いの読みどおりネロの暗殺だった場合、あたしらにはそれを援助する用意がある。あんたらの真意を確かめ、それ次第で接触をはかるのが、あたしらの役目だったのさ、本当のとこ」
「最初からそう言えばいいものを」
 ダバが苛々というのを、手で制し、
「いやいや、あたしは、馬鹿に手助けするのは嫌だからね。少々、試させてもらったのさ」
 バランは、げらげらと笑う。
「言いたいことはわかった」
 ダバはあくまで慎重に、
「俺たちの目的は、もう十分確認できたろう。おぬしらにはどんな助けを期待できるのだ」
「まず、ローマまでの旅の安全な隠れ蓑。ローマでの隠れ家。武器。資金。必要なら、兵力も多少は都合できる。もしまだ暗殺の段取りができていないのなら、こちらで計画を立案してもいい。もしくは、計画を立てるのに必要な情報も、あたしらが提供できる。また暗殺後、ガルバが帝位についた暁には、あんたらに望みの地位と褒美を与えるそうだ」
「最後のひとつは成功報酬ですね」
 アクリアヌスがいう。
 バランは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、
「そりゃまあ、カエサルにならなきゃ、実行したくてもできんわな、最後のは。とにかくその他のことでも、暗殺に必要なことなら、何でもいってもらえりゃあ、できる範囲で援助する。こいつがガルバのお達しだ」
 ダバはしばらく黙考していたが、魔道師をちらりと見て、
「どうする、アクリアヌス?」
「他のことはともかく、旅の隠れ蓑と隠れ家は魅力的ですね」
 アクリアヌスは、衣の埃をぱたぱたと払って立ち上がり、
「せっかく利害が一致しているんだ。信用していいのではありませんか」
「おぬしがそういうのなら、俺の方は反対する理由はない」
 ダバは、重々しく頷き、
「バランとやら。おぬしらの支援、受けさせてもらう」
「そうこなくちゃ」
 バランは、にやにやと笑い、
「それじゃあ、これからあたしらの馬車に乗って、ローマに行くとしよう。この近くにとめてあるんだ。ついてきてくれよ」
「待って」
 アクリアヌスが、不意に鋭くいった。
「その前に……この臭い」
「臭い……?」
 ダバとバランは一瞬戸惑ったが、すぐにはっとした。
「血の臭いだ!」
 バランは絶叫した。
「あたしの手下どもが!」 
「殺られたな」
 ダバは剣を静かに抜いた。
「迂闊だったな、バラン。お互いに」
「あんたが悪いんですぜ、殺気だって話すから、手下たちのことまで気が回らなくなっちまった」
「責任転嫁より先に、武器を構えて下さい」
 いちばん冷静なのは、やはりアクリアヌスだった。
「死にたいのでなければ」
 ダバは剣を、バランは短剣をそれぞれに構える。
「あれ……」
 折悪しく、シラが目を擦りながらむくりと起き上がった。
「ダバ、アクリアヌス、いったいどうしたのですか?」
 彼女が完全に目覚める前に、ダバが当て身をくらわし、再び眠らせた。
「乱暴だよ、あんた」
 と、バラン。
「手段を選んでいる余裕はない」
 ダバは突っ慳貪に言いながら、シラを肩に抱えた。
「シラの体重分の支援を頼む、魔法使い」
「なんとかしましょう」
 森の木々が怯えたようにざわざわ揺らぎ、邪悪な気配が、ぐんぐんとこちらに接近してくるのが感じられた。
「くるぞ」
 ダバは、剣の柄をにぎりしめた。
 そして、敵がゆっくりと木々の間から姿を現した。
 ローマ兵の甲冑を着けた、二人の男。
 一人は、おそろしく躰の大きな――誇張ではなく、身長はダバの約二倍、幅に至っては 四倍ぐらいあった――筋肉質の、顔のつぶれた男。もう一人は、これも背は高いが、体格はひょろ長い、骸骨のような男。彼らに共通しているのは、着ている鎧と、やけに顔色が青白く、全く表情というものがないことだった。
 大男は、体格にあわせてつくったと思われる巨大な斧、痩せ男は、両手に細身の剣をそれぞれに構え、じりじりとダバたちに歩み寄ってきた。彼らが手にしている得物はすでに血まみれである。
「こいつら、屍ですね」
 アクリアヌスが言った。
「カダル神の魔力によって、動かされている」
「カダル神?なんだそりゃあ」
 バランが眉をひそめる。
 アクリアヌスはふんと笑って、
「生き残れたら、説明しましょう」
「わかった……ふうん、こいつらは死体か。道理で、顔色が悪いわけだ」
 バランが呟いた。
「とにかく、こいつらがあたしの手下どもを殺しちまったんだな」
「ダバ、それに、バランでしたね」
 魔道師は、二人のほうを見た。
「ここはお任せしてよろしいですね」
「待たんか」
 ダバは眉をつりあげて、
「逃げるつもりではないだろうな」
「まさか。この屍どもは、自分の意志で動くことはできない。だから、この近くにこいつらを操っている魔力の源があるはずなのです。それを、退治してきます。あなた方にできるのなら、代わってもらってもいいのですけどね」
「遠慮する……しかし」
 ダバは、陰気にいった。
「俺はシラを背負ってるんだがな。さっきと話が違うぞ」
「側にいて直接手伝うのだけが支援とは限りませんよ。それに、その程度の重りで動きが鈍るダバ殿でもないでしょう」
「死んだら祟るぞ」
「ご自由に」
 アクリアヌスは、印を結んで宙に舞い上がった。
「ではバラン」
 ダバは、ぎらりと狼の笑みをうかべた。
「ゆくぞ」
「どちらがどちらを相手にするんだい?」
「好きなほうを」
「じゃあ、あたしは細身の方だ」
 二人の生ける屍が襲いかかってきた。
 巨大な斧がうなりをあげる。
 二本の細剣が空気を切り裂く。
 二人の戦士は、それぞれの得物で攻撃を受け流した。
「バラン、競争するか。どちらが速く相手をしとめるか」
「いいのかい?そんなこといって。あんたはお荷物を抱えてるじゃあねえか」
「負けてもこれを言い訳にするつもりはない」
 彼らは、死人の刃を弾きとばし、一瞬で反撃に転じる。
 ダバは、獅子のごとく吠えると、剣を振り上げて大男の手首に叩きつけた。
「くっ」
 鉄の塊に斬りつけたような手応えに、ダバは呻いた。
 斬れない。
 剣はたしかに、肉に食い込んでいる。しかし、生ける屍はまるで堪えていないのは明かだった。
 大男はだるそうに腕を振って、簡単にダバを弾き飛ばした。
 ダバは子供のように地面に転がされたが、シラを庇いながらなんとか受け身を取る。
 同じ目にあって尻餅をついているバランと目が合う。
「旦那!」
 バランは叫んだ。
「この野郎、心臓を刺しても死にやしねえ!」
「あたりまえだ」
 ダバは、シラを抱えなおして立ち上がりながら、
「こいつらはもう死んでるんだからな」
「じゃあ、どうしろってんだ」
 バランはおろおろと、
「あたしらに勝ち目はないじゃねえかい」
「俺に文句をいうな。勝ち目はある」
「は?」
 ダバは、バランに素早く耳打ちした。
 黒い小男は、歯をだしてにっと笑った。
「なるほど。そいつは道理だな」
「いくぞ」
 二人は、電光石火で敵に斬りかかった。
 死人どもの武器とぶつかり合い、壮絶な打ちあいが始まる。
 激しく戦ううち、いつの間にか二人の戦士は背中合わせになっていた。
 屍たちはそれぞれに、斧を、細身の剣を、ものすごい勢いで振り上げる
「いまだ、バラン!」
「承知!」
 ダバは横へ跳びのき、バランは空中に舞い上がった。
 攻撃する相手を失った屍たちは、それでも必殺の一撃を止めることができなかった。
 大男の斧は骸骨男の胴を輪切りにし、骸骨男は大男の両腕を切り落としていた。
「やったぜ、旦那!」
 バランは、着地しながら歓声をあげた。
「目には目を、死人には死人を、ってわけだな。それに、殺すことができなくてもバラバラにしちまやあ、死んだも同然。旦那、冴えてるぜ」
「油断するな」
 ダバは、大男に再び斬りかかっていた。
「こっちは、まだ足も首もついている」
「こっちはもう大丈夫だな」
 バランは、上下半身を分断された骸骨男を 見てせせら笑ったが、その笑いは数秒で凍りついた。
 死体の、上半身、下半身のそれぞれの輪切りにされた胴の切り口で、何かが蠢いた。そして、ぐじゅる、ぐじゅると不気味な音をたて、蜘蛛の足とも蛸の触手ともつかないおぞましいものが数本、生え出てきたのである。
 バランは、そのさまを硬直して見つめていた。
 骸骨男は、立ちあがる。上半身の方は触手を足がわりに、下半身は胴体がわりにして。
 二つに分離した生ける屍は、のそのそとバランに迫ってくる。
「わあ」
 バランは、やっと金縛りから解けて悲鳴をあげた。
「旦那!あんたのせいだぞ。あんたがいらん事を考えるから……数が増えたじゃあねえか!」
 一方、ダバも恐しい場面に出遭っていた。
 大男の首が蛇のように伸び、ゆらりゆらりと彼の頭上から襲いかかってくるのだ。
「どうやら」
 ダバは長い首と戦いながら、
「アクリアヌスに期待するしかなさそうだな」
「何ですって?あの優男を?」
「彼がいったように、こいつらを操る魔力のもとを断たねば、こいつらは倒せぬのだろう」
「じゃあ、あたしらはどうすりゃあいいんだ」
「とにかく、時間を稼ぐしかない」
「なんてこった」
 バランは短剣を握りしめながら、
「あたしらは囮ですかい」
 ダバは、剣を振り上げながら、
「やるしかなかろう」

 アクリアヌスは、森の上空を飛行しつつ、霊感を最大限に開放して邪悪な力の発信源を探していた。
(どこだ)
 彼は焦っていた。
(早くしなければ。あの二人も、そう長くは保たない)
「何を急いておる、アクリアヌス?」
 嗄れた声が、彼を呼んだ。
 魔道師ははっとして、声の方を振向いた。
 彼と同じように、その人影は空中に浮いていた。黒い衣に全身を包んだ、小柄な人物。 顔までも、黒い布で覆いかくしている。
「貴様が、操り手か」
 アクリアヌスは、印を結んだ。
「北風のボレアスよ!」
 彼が叫ぶと、ごうっと風がうなり、見えない空気の刃が、敵に襲いかかる。
 黒衣の男は、無抵抗だった。
 手足がバラバラに切断され、空中に四散する。
(やけに弱い……あっけなさすぎる)
 アクリアヌスは、訝った。
(ぼくが感じた魔力は、こんなものではなかったぞ)
「どこを見ている?アクリアヌス」
 その声に、アクリアヌスは戦慄した。
 振り向けばさっきの人影が、何事もなかったかのように浮かんでいる!
「どうした、アクリアヌス」
 黒い人影は、くっくっと含み笑いをもらした。
「相変わらず血気盛んなのはよいが、腕の方も上達しておらぬようだな」
「まさか……貴様」
 アクリアヌスは、息を呑んだ。
「シモンか……?シモン・マグス」
 彼の声は震えていた。
「まさか……貴様は、ペテロに……」
「随分な言いようだの。まるで儂を仇のように」
 その男は、肩を震わせて笑った。
「ひどいのう。おまえと、儂とは……」
「黙れ」
 アクリアヌスは、再び呪文を唱えていた。
 シモン・マグスの体は、いきなり炎に包まれる。
「貴様とぼくは何でもない」
 アクリアヌスは、肩で呼吸しながら荒々しく呟いた。
「この、裏切り者が。貴様など、この世に細胞のひとかけらさえ残らぬよう焼きつくしてやる」
 だが、火だるまになったシモンは、まるで平気な様子で、
「小賢しい」
 パチンと、指を鳴らす。すると一瞬で、彼を燃やす炎は消え失せた。
「久しぶりに会うたに、そのようにつれなくするなら、こちらにも考えがあるぞ」
「黙らないか!」
 アクリアヌスは絶叫した。
「貴様とぼくは、いまは完全に敵同士だ。貴様が何をしでかしたか、忘れたとはいわせない」
「忘れるわけがなかろう」 
 シモンは嘲笑した。
「そのおかげで、儂は偉大な力を手に入れたのだからな」
「おぞましい、邪悪な、禁忌の力をな!」
 アクリアヌスは唇を噛んだ。
「あの時から貴様は、人であることを捨てたのではないか。いまさら、人がましい事をいうな!」
「たしかに、儂はもう人ではない。存在の階梯をひとつのぼり、神の力を得たのだ」 
「神に一度討ち滅ぼされた男が何をいう」
「一度は、な。しかしこうして、蘇ったではないか。儂は死をも超越したのだぞ」
「邪神の手で、生き人形にされただけではないか!」
 アクリアヌスは、すばやく印を結んだ。
「その呪われた生に終止符を打つのがぼくの役目。死ぬがいい!」
 彼の手のひらが白い光を放ち、そこから光の矢がつぎつぎと飛びだし、シモンにむかっていった。
「愚かな」
 シモンは、青白い手をすうっと宙に差し伸べ、
「わが神の力を身をもって味わうがいい」
 一瞬、邪術師の掌の上を、赤い稲妻が疾った。そして、
「クトゥグアの、紅の吐息に灼かれよ」
 その言葉とともに、紅蓮の炎が立ち上り、光の矢を呑み込んでしまった。
 そしてまるで深紅の大蛇のように、アクリアヌスのほうに襲いかかっていく。
「水辺にたゆたうニムフの涙よ」
 アクリアヌスは、凄い勢いで呪文を唱え、
「火界の民より我を守護せよ!」
 彼の周囲に、円筒形の水の壁が出現し、シモンの火炎から彼を守る。
「その程度か、裏切り者」
 アクリアヌスは不敵な笑みをうかべ、再び印形を結んだ。
「キュクロプスが鍛えしいかづちの剣よ」
 今度は彼の手から発射されたのは、青白い電光だった。空を切り裂いて、邪術師めがけて疾走する。
「欠伸がでるわ、こわっぱ」
 シモンの眼がぎらりと輝く。彼が手を広げると、アクリアヌスの稲妻は一瞬にそこへ吸い込まれてしまった。そして、
「一度だけきいておこう。その魔道の力、我が神のために役立てる気はないか」
「断じて、ない!」
 アクリアヌスは叫んだ。
「ぼくは貴様のように堕ちたりしない」
「よかろう」
 シモンは、くくっと肩を震わせて笑った。
「その意気に応えて、次で終わらせる」
 彼は手のひらを天にかざし、不健全な混沌との契約の言葉を詠唱した。
 すると、彼の手の指がまるで蔦かなにかのようにするすると伸長し、おそろしい勢いでアクリアヌスに迫った。
「面妖な」
 アクリアヌスは、避けようとしたが間に合わず、手足をシモンの指先にとらえられてしまった。
 シモンが哄笑する。
「死ね」
 再び彼の眼が輝くと、アクリアヌスは体を痙攣させた。
「くうっ……」
 彼は苦悶の表情をうかべ、シモンをねめつけた。
「貴様……何を」
「ゆっくりと力を吸われ、少しずつ死んでゆくのだ、おまえは」
 シモンはいった。
「すべて吸い尽くし朽ち果て、干からびた屍となったなら、儂の魔力を注ぎこみ、美しい奴隷として蘇らせてやろう。そしておまえは儂と我が神に、永遠に仕えるのだ」
「冗談じゃないぞ」
 アクリアヌスは、歯をくいしばって呪縛から逃れようとする。
 シモンは嘲笑し、
「やめておけ、動けば動くほど力を吸われて、死が早まるだけだぞ。潔く、儂の祝福を受けるがよい」
「くそっ」
 アクリアヌスは力をふりしぼって、懐から青白い色の丸い宝石を取り出した。が、それは激しく震える彼の手から、無情にすべり落ちてしまった。
「見苦しい。無駄だというのが解らぬか」
 シモンは暗い喜悦に満ちた声で、
「その石ころで何をするつもりだったかしらんが、それすらもおまえは失ってしまったのだ、もう諦めがついたろう」
「どうかな」
 アクリアヌスはにやりと笑った。
 そして、 残された力全てをぶつけて叫んだ。
「来たれショゴス!邪なる音色に乗りて舞え!」
 閃光が奔った。
 地面に落ちてしまった青い宝石から、半透明のぶよぶよした、肉の脂身にも似た触手が何本も飛び出した。その先端には、小さいが禍々しい牙だらけの顎がついている。
 それは、アクリアヌスを縛る悪魔の指を凶暴に食いちぎると、シモンの体に絡みつき、完全に彼の自由を奪った。
「謀ったな、こわっぱ。どこでそんなものを手に入れた?」
「貴様にいう義務は認めないな」
 彼と反対に自由になったアクリアヌスは、にやりと笑った。
「それに、ぼくは貴様を倒すためならなんでもするし何処へでも行くんだ。訊くだけ野暮だな。さあ、終わりになるのは貴様のほうだったようだな。引導を渡してやるぞ」
「くく」
 シモンは体を丸め、しばらく痙攣するように震えていたが、不意に、
「ははっ……よくやった。よくやったぞ、アクリアヌス!儂を出し抜くとは、おまえも成長したものだ」
 さも嬉しげに、哄笑しはじめたのである。
「何がおかしい」
 アクリアヌスは身構えて、
「気でもふれたか」
「久々に愉快だぞ、アクリアヌス」
 シモンは、彼の動揺など知らぬげに、
「おまえは、本気でわが神に楯突くつもりなのだな。しかも、ただ無謀に戦いを挑むのではない、ちゃんとおまえはお前なりに策も自信もあったのだな。見違えたぞ、アクリアヌス。それでこそ、全力で戦う気になれるというものだ」
 そして、ぶつぶつと怪しげな発音の呪文を唱え、
「ひとまず、おまえの命は、ショゴスを生んだ『大いなる古のもの』に預けておくとしよう。儂もまた、ここで本気をだすには少々都合が悪いゆえな」
 次の瞬間、彼を束縛していた触手は、爆ぜて分解して消えた。
「さらばだ、魔道師よ。次あうときは容赦せぬ。覚悟しておけ」
 そして彼の姿は、黒い霧となって四散し、消え失せたのだった。
「逃げるな、裏切り者!」
 アクリアヌスは、叫んだ。
「ぼくは貴様を、絶対に許さない……」

「アクリアヌスは、まだ目覚めないのか」
 ダバは、朝の澱みない空気のなかで、剣の素振りをしていた。
彼が一振りするたび、彼のたくましい筋肉から汗が飛び散り、朝靄のなかにとけこんでいく。
「ええ、まだ眠っています」
 シラが、当惑げに答える。
「もう、これで二日間も、眠りっぱなしです。一体、何があったのでしょう」
「疲れているのだろう」
 ダバは、こともなげにいうと、剣を下ろした。
(余程激しく、敵とやり合ったのだな)
 ダバとバランは、おぞましい生ける屍との戦いの中、空中で不思議な光の帯がうねるのを見た。その直後、斬っても斬っても死なない敵は突然力を失い、地面に崩れ落ちて動かなくなった。
 その後、彼らが周囲を探したところ、力尽きて地面に横たわっているアクリアヌスを発見したのだった。
 ダバもバランも、アクリアヌスがどんな相手と戦ったのかは知らない。
しかし、衰弱してげっそりとしたアクリアヌスの相貌から、すさまじい人知を超えた戦いが展開されたであろうことは、容易に想像できた。
(またひとつ、借りができたか)
 ダバは、汗を布で拭いながら、苦笑した。
「シラ、何か食べるものはあるか?腹がすいた」
「バランさんのくれたパンがあります」
 シラは健気に、
「持ってきましょうか」
「いや、いい。俺がバランたちのところに戻る。行くぞ、シラ」
「……」
 シラは何もいわずに、じっと上目遣いにダバを見た。
「どうした、シラ」
 ダバは優しい目で少女を見下ろして、
「もどらんのか」
「ダバ、あなたの体って」
 シラは、ぼんやりといった。
「とても逞しいんですね」
「ああ、そうか?」
 ダバは首を傾げて、
「それがどうした」
「腕に、触ってもいいですか」
 シラの目はなぜか潤んでいる。
 ダバはまだ釈然としない様子で、
「ああ、いいが」
 と、曖昧に頷く。
 少女は、おずおずと彼に歩み寄り、彼の丸太のような腕をゆっくりと撫でた。そして、「お父さん」
 小さく呟いた。
 ダバは少し驚いて、
「どうした。おまえの父がどうかしたか」
「ああ、ごめんなさい」
 シラは慌てて、
「何でもないんです」
 そして急に赤くなると、
「ただ、わたしのお父さんも、とても太い腕をしていたんです。だからその」
「なるほど、思い出したか」
 ダバは、かすかに笑みをうかべて、
「おまえのお父さんは、どうしている。おまえの帰りを、故郷で待っているのか」
「いえ」
 シラはうつむいた。
「私がほんの小さいときに、死んでしまいました。だけど、憶えてるんです」
 そして、再び顔をあげて真摯な瞳でダバを見つめる。
「とても、大きな腕。あなたのように、逞しくてよく日焼けした、温かいい腕に抱かれ、揺られていたのを。私の父の記憶は、それだけ。だけど、それだけでも、暖かいの。辛くて泣きそうなときや、寒くて凍えそうな夜には」
「俺では、父親の代わりにはなれんだろうな。おまえが生まれるぐらいの歳には、俺はまだ子供だった」
 ダバはにっこりと満面の笑みをうかべた。
 めったに見せることのない、人なつこい、優しい笑顔。彼のこんな表情が見られるのはごく限られた人間のみである。
 シラはいきなり顔を真っ赤にして、
「私、そんなつもりで言ったんじゃ」
「わかっている、冗談だ。さあ、アクリアヌスのところへゆくぞ」
「その必要はありませんよ」
 皮肉な響きの、その声。
 ダバとシラが振り向くと、アクリアヌスがバランに支えられて、茂みのなかから現れるところだった。
「どうやら、ぼくのせいで旅の日程が大幅に変わってしまったようですね」
「かまわん。ネロを殺すのに、日限があるわけではないからな。かなり強い敵だったようだな、この間の相手は」
「少々、予定外でした」
 アクリアヌスは苦々しく、
「おかげで、仕留め損ねました。笑っていいですよ、ダバ。ぼくの無能を」
「気にするな。俺とバランがおぬしのおかげで命拾いしたのは確かなのだからな。そろそろ、出発できるな?」
 アクリアヌスは、黙って頷く。
 ダバも静かに頷くと、
「では、出発の前に、少し、これからの作戦を考えておこうか」
「勿論、あたしも連れてってくれるんでしょうね」
 バランが、陽気な声でいった。
「あたしの仲間は、みな例の死人に殺されちまった。こうなりゃ、ガルバの命令を遂行するどころじゃあねえが、それでもおめおめあの爺いのところへ帰るのも癪だ。目下のところ、あたしとあんたがたの損得勘定は同じだ。協力しあわねえ手はないと思いませんかい」
「たしかに利害は一致しているようだが」
 ダバは、ちらりとアクリアヌスを見た。
 アクリアヌスは引きつった笑いを浮かべ、
「いつぞやもいったとおり、共通の目的を持っている間は、お互いに力を合わせましょう」
「ネロの正体のことは?」
「もう、話しましたよ。バラン殿の提示した援助が、あまりに魅力的だったのでね。取引は、成立した。いいですね、ダバ?」
「おぬしに不服がなければ俺はかまわん」
 ダバは素っ気なく、
「そういうわけだ。よろしくな、バラン」
「こっちこそ。いい仕事するぜあたしは」
バランは、にっと歯をむきだして笑った。
「それじゃあ、さっそくローマに向けて出発しようぜ。化物皇帝があたしらを待ってるからな」

 そうして何日かの間、彼らは街道に沿って旅を続けた。
 幸いなことに、あのシモン・マグス率いる死霊兵士の襲撃からあとは、これといった障害もなくローマへと確実に近づいている。
 この穏やかな数日間は、ダバやバランの英気を養うのに十分だったし、彼ら四人が互いに打ち解けるのにも役に立った。ただしアクリアヌスは、あまりにも敵が大人しいので、何か裏があるのではないかと気になって仕方がないらしく、いつも青ざめた表情をしていたが。
 そんな旅の途中のある夜、ダバはまた不思議な夢を見た。
 そこは、いつか彼が悪夢に見た、紫色の空におおわれた果てしない荒野だった。
 その荒野の真ん中で、一人の少年が泣いているのである。
 一〇才になるかならないぐらいの、小さなこどもだった。
 ダバが思わず歩み寄っていくと、彼は顔をあげて、じっとダバのほうを見つめた。
「おじさん」
 少年は言った。
「おじさんは、ローマにいくの?」
「ああ」
 ダバは、ごつい顔に満面の笑みをうかべ、
「おまえは何故それを知っているんだ?」
 少年はそれには答えず、
「ネロを殺しにいくんだね」
「多分、そうなるだろうな」
 言いながらダバは、少年の瞳が哀しげに曇るのを見た。
「ぼくは、死にたくないよ」
 少年は、ぽつりと呟いた。
 ダバは少年の肩に優しく手を置いて、
「死にたくて死ぬ奴など誰もいないさ」
「おじさんも?」
「勿論だ」
「でも、ネロはおじさんを殺そうとしているよ。ネロは、とても強いよ。この世のものじゃない生き物をいっぱい引き連れてるからね。おじさん、食い殺されちゃうよ」
「……」
「食い殺されるのは、恐くないの?」
「なあ、坊や」
 ダバは少年の髪の毛を撫でて、
「名前は、何という?」
「ルキウス」
「では、ルキウス、話すぞ。人間という生き物は、いろんなものを恐がる。夜の闇、死、狂暴な獣、自然、神、悪霊……時には、同じ人間さえ恐くなるときがある。わかるか?」
「……」
「しかし、そういう恐いもの全てから逃げていては、人間は住む場所を失ってしまう。だから時には、自分のなかの恐いと思う心を全力で封じ込めて、立ち向かってゆくんだ」
「それは、そうするのは、どんなとき?」
 少年は目をくるくると輝かせる。
 ダバは、自分の口元がほころぶのを感じつつ、
「自分の生きる場所を見つけるときだろうな。あと、自分の大切なもの、信じるものを守り通さなければならぬ時、だろうな」
「おじさんの大切なものって、アクテのこと?」
「そうだな」
「おじさんは強いから、そうやって戦えるかもしれないけど」
 少年は少しおどおどしながらいった。
「おじさんほど強くない人はどうするの」
「俺だって強くなどないさ」
 ダバは苦笑した。
「はじめっから強い人間なんて、この世にいやしない。ヘラクレスみたいに、神の血でも引いていればともかく。俺だって、強くなどない、ただ、強くなりたかった。大切なものを守れる力がほしかったから、戦い続けてきたんだ」
「ふうん」
 泣き濡れて険しかった少年の表情が、ほんの少しやわらいだ。
 彼は淋しげな微笑みをダバに向けると、
「ネロもきっと、強くなりたかったんだろうね……」
 そのまま、少年の姿は霧のように薄れていき、夢はそこで途切れた。
 ダバは、清々しい朝日を浴びながら、いま見た夢の意味について思いをめぐらした。
 あのルキウスという少年は何者か、何故、あんなことを言ったのか。
(とても、哀しげな目をした子供だった)
(あんなにも、鮮明な夢も珍しいが)
(何故、あんな夢を)
 疑問はつのるばかりだった。
 彼は体を起こして、ローマへと真っすぐにのびるアッピア街道を眺めた。
(ローマ)
 彼は呟いた。
(俺の父と母が死に、俺の戦う相手が巣食う都)
(これから、本当の戦いが始まる)
 彼は、拳をぎゅっと握り締めた。
 ローマ。
 今はネロポリスと名を無理矢理変えられている、邪神が支配する背徳の都。
 彼らの目の前に、確実に迫りつつあった。      

(続く)

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