ネロポリスの黙示 4


 3、暴帝

 アクリアヌスは、驚嘆していた。
 彼は今まで魔道に手を染め、こうした闇のものどもを相手に渡り合ってきた。
 そのため、この世のものでないものの気配にはきわめて敏感であるはずだったのだ。 その彼でさえ察知できなかった妖魔の存在を、この剣闘士の男はいち早く感じ取り、一瞬で仕留めたのだ。
「あなたは……」
 しかし、アクリアヌスの口から出たのは賞賛の言葉ではなかった。
「ぼくが想像していたよりもさらに大馬鹿者だったようですね」
「それはお互い様だろう」
 ダバは、人面ヒトデから剣を引きぬきながら、こともなげに言った。
「さあ、話せ。おまえがするような心配は無用だということがよくわかったろう」
「そう言うには少々早すぎる感じがしますが」
 魔道師は唇をとんがらせた。
「とりあえず、どこか、二人きりになりましょう。シラはともかく、アクテ様にはこの話は聞かせられません」
「そんな!」
 アクテはアクリアヌスにすがりついた。
「お願い、私にも聞かせて。ネロが、ネロが一体どうなってしまったのか……この怪物と」
 彼女は魔物の屍を一瞥して、嘔吐でも催したのかうっと呻いた。
「一体、どういう関わりがあるのか」
「あなたに話せない理由は、先程も言ったとおりです」
 アクリアヌスは、冷たくはねつけた。
「ダバ殿はともかく、あなたは、奴らに狙われたら絶対助かりませんしね」
「そんなことは、どうだっていいわ」
「いいんですか、そんなことを言って」
「私は、命も魂も惜しくない!」
 アクテは叫んだ。
「私は、ネロが……夫がどうなってしまったのか知りたいの!もし、なにか手立てがあるのなら、あの人を救ってあげたい。そのためなら、どんな犠牲だって払っていいわ」
 魔道師は、嘆息した。
 彼の目には、
(やれやれ、これだから女というのは)
 とでも言いたげな、困りきった表情がうかんでいる。
 彼はダバの方を見ると、
「どうします?剣闘士殿」
 ダバは苦笑して、
「話してやればいいだろう」
 アクリアヌスはぎょっとした。
「本気で言っているのですか」
「無論」
 剣闘士は無表情に答える。
「もし狙われれば、俺たちが守ればすむことだ」
 アクリアヌスは頭を抱え込んでしまった。
「ダバ殿、あなたはぼくの言ったことがまだわかっていない。アクテを狂い死にさせたいのですか」
「させない」
 ダバは断固たる口調でいった。
「アクテは、俺が守る」
 アクリアヌスは大きくかぶりを振って、
「わかりました、話せばいいんでしょう、話せば。後でどうなっても、ぼくのせいにしないでくださいよ。ともかく、腰をおろしましょう。話は長くなるでしょうから」

「シモン・マグスという男を知っていますか?」
 アクリアヌスが発したのは、まずこの問いだった。
「知っている」
 即座にダバが答える。
「いつぞや――そう、たしかペテロがローマを訪れたのと同時期に現れた、魔術使いだな」
「そのとおり」
 魔道師は、静かにうなずいた。
 シモン賢人――その名を知らぬ者は、ローマにはまずおらぬであろう。
 ダバが言ったように、ペテロと時を同じくしてローマに出現、その不可思議な力で人々を惑わせた妖術師だ。彼は皇帝ネロに召し抱えられ、短い期間ではあったがローマの"宮廷魔術師"として権力を握ったのだった。
 だが、彼の栄光は、ペテロのローマ来訪によってあっさり打ち崩される。
 ペテロはローマに着くとまず、布教の許可を得るためにネロのもとに参上した。
 彼をシモンと同じ魔法使いだと思ったネロは、ひとつの条件を提示する。
 シモンと公衆の面前で術くらべをし、勝てば布教を許すというのである。
 いつもは剣闘士たちが強さを競う闘技場で二人の対決は行なわれた。
 最初に自らの魔術を披露したのは、シモン・マグスであった。
 彼が呪文を唱えると、彼の体は空中高く舞い上がった。
 度胆をぬかれた観客たちを前に大手を広げ、彼は自らが世界で最も偉大な魔法使いであることを宣言した。
 次はペテロの番だったが、彼の勝ち目はきわめて薄いと思われた。
 しかし、ペテロは、奇跡をみせつけるような真似はせず――ただシモンに狙いを定め、渾身の祈りをこめて十字をきった。
 彼の祈りによってうみだされた見えない聖なる矢は、空中で自らを神と自惚れる浅はかな魔術師の体を撃ちぬいた。
 文字通り天罰を受けたシモン・マグスは、地上に落下し、その屍を公衆の面前にさらすこととなったのであった。
「シモンがどのような最期をとげたかは、あなた方もご存じでしょうね。しかし、何故彼がネロに取り入ろうとしたのか、その真の目的は何だったのかは、ご存じないはずです」
 ダバとアクテは顔を見合わせ、ゆっくりと頷く。
 アクリアヌスは一回深呼吸をしてから、
「シモン・マグスは、その強大な力を、我々のこの世界とは異なる別の世界に棲む、邪悪な存在たちから得ていました。異世界・異次元に君臨する、恐るべき神々からね。神々といっても我々のいうその言葉の意味からはまったく異なる、おぞましい、暗黒の底に巣喰う妖物どもと接触し、契約することによって、彼は世界で最も力を持つ妖術師のひとりになったのです」  
「そのこととネロと、さっきの魔物どもと、どういう関係があるのだ。第一、シモン・マグスがどれほどの恐ろしい魔術つかいであったところで、結局はペテロに倒されてしまったのではないか」
「その通りですよ。しかし、実際のところ、ペテロが彼を殺してしまったのは、大きな過ちだったのです」
「どういう意味だ」
「ペテロがシモンを倒したのは、彼がシモンの背後にある邪なるものどもの存在に感づいていたからでした。しかしペテロは、敵の力を甘く見すぎていた」
「……」
「シモンは"やつら"と契約することによって、人間ならざる力を得た。しかし彼は決して、多くの魔術師たちがそうなったように力に溺れて、逆に力に支配されることはありませんでした。彼は闇のものどもを完全に己れの支配下におき、彼らを思いのままに使役していた。逆にいえば……」
「彼が生きているかぎり、その怪物どもが勝手にこの世に現れて暴れだすようなことはなかった、というわけね」
 アクテが、ぼそりと呟く。
 アクリアヌスは唇を歪めて、
「ご明察です、アクテ様。あなたもまた、ネロやダバ殿やぼくと同じく、世の人々にはない感覚をお持ちの人のようだ」
 褒められても、アクテは少しも嬉しそうではない。
「いいから続けて」
「いいでしょう。とにかく、シモンは自分の魔力によって、異世界の邪悪な力がこの世界に流れこんでくるのを防いでいました。彼はこの世を支配することを望んではいましたが、この世が滅びてしまっては元も子もないですからね。それに勿論、闇のものどもが襲来した暁には、シモン本人も無事じゃいられません。しかし、ペテロはそんなことはわからない。彼がシモンを討ち滅ぼしたのは、神に仕えるものとして本能的に危険を感じたためでした。だが、そのことによってこの世界と妖魔どもの世界をつなぐ扉は開かれた。通路自体は通じているままで、シモンという歯止めのみがなくなったのですからね。ところで彼は、強大な魔力と権力を欲していましたが、彼の最終的な野望は、異界におもむいて神々の一員に加わることでした。それには、己れの魔術を究めるための長い長い時間と、莫大な資金が要る。彼がネロに近づいたのは、明らかにそれを手にするためです。だが彼は、野望を果せず死んだ。扉が開き、彼が飼いならしていた、邪悪のものたちは一体どこへ行ってしまったのでしょう?」
「わからんな」
 ダバは眉間に皺を寄せてかぶりをふった。
「おぬしがそれほどに恐れる魔物どもが解放されたのなら、何故世界はこうして平穏無事に存在しているのだ?」
「まさか」
 アクテの顔色が変わった。
「そんな……もしかして……」
「どうやら」
 アクリアヌスは、気の毒そうに呟いた。
「勘のいいアクテ様は、もうお気付きになられてしまったようです。ダバ殿より優秀ですね。人より多くの事を知ることができる、というのは苦痛であるというのに。あなたが思っているとおりです、アクテ。シモンの崇めた神はこの世に現れるとき、まず安息所を求めます。彼らほどの存在でも、自分たちの世界と全く異なる物理法則で成り立っている世界で本来の力を取り戻すには、仮の宿で休養することが必要なのです。そして、大抵の神と呼ばれる存在がそうであるように、人間の肉体が安息所として選ばれます。シモンの呪法から解かれたその神が安息所に定めたのは……」
 彼は、アクテとダバの顔を代わるがわる見据えた。
「もう、ダバ殿もおわかりですね。その神に選ばれた安息所なる肉体こそ、ネロです」
「じゃあ、ネロが変わってしまったのは」
「明らかに、その異界の神の影響です。その神の名前は」
 彼はそこで、周りをはばかるように声を低くした。
「カダル・バエロディウス・エグン・ヨガイル」
「カダル……」
 ダバは、言いにくそうに、
「それが、俺たちの敵か」
「またの名を、ヨグ・ソトホートともいいます」
 アクリアヌスは、指で宙に魔よけの印を描いた。
「地の精の王、超次元世界の主、時空の門の守護者。彼は、様々な世界で様々な名前を持っています。彼は我々と違う多くの世界の間を、行き来することができるのです。しかし、この星には来られないはずだった。この星を作り給うた、大いなる存在たちの力によって。だが、シモンはそれを破ってしまった……カダル神はネロの体を安息所にして、徐々に力を取り戻しつつある。やがて彼が本来の力を取り戻したとき、この世界もその支配下におこうとするでしょう」
「もし、支配されたら……どうなる?」
「簡単です。この星のすべての生き物が、彼の生贄になります。最後にはこの星そのものも。彼は、とても食欲旺盛ですからね」
「なるほど」
 ダバはしばらく考え込んでいたが、やがてアクリアヌスを怪訝そうに見て、
「だが、おぬし、どうやってそのカダルとかいう神の存在をかぎつけた?」
「ぼくは魔法使いですから」
 アクリアヌスは肩をすくめた。
「人が見えぬ事を見、知らぬ事を知るのが生業」
 ダバは、彼が何かを隠しているのを肌で感じたが、あえて何も言わなかった。
「それで」
 アクテが重々しく口を開いた。
「あなたとシラは、その悪い神様を退治しに向かおうとしているのね」
「そうですね……単純に『退治』など出来る相手ではないのですが、わかりやすく言えば」
 アクリアヌスは、幾分ためらいがちにシラを見た。
 少女は明るく笑うと、
「そう。そして、その悪魔を追い払って、カエサルであるネロを救ってあげるんです」
「じゃあ、ネロは助かるのね?」
 アクテはシラにすがりついた。
「その魔物がいなくなれば、ネロは、あの人は、優しい、もとのネロに戻るの?」
「ええ……きっと」
 シラは微笑んで十字をきった。
「それが神の御心なら」
「協力するわ」
 アクテは彼女の手を握りしめ、熱病にうかされたように宣言した。
「私にできることがあるのなら、何でもするわ。それで、ネロが本当のネロに戻るのなら」
「しかし」
 ダバは、アクテに複雑な視線を向けつつ、
「相手は仮にも、神なのだろう?本当に、戦って勝ち目があるのか。所詮ただの人間である、我々に」
「策はあります。しかし、それはまだここでは明かすわけにはいきません」
「承知した。だがしかし、我々がそいつらに敗れた場合、どうなる?」
「我々は神に歯向かうのですよ」
 アクリアヌスは、冷淡に、
「最初に申し上げたとおり、肉体はもちろん精神まで、奴らに食い尽くされることになるでしょう」
「地獄だな」
「そのとおり。知れば死神と契約したのと同じ……と、これもはじめに申し上げたはずです」
「承知した」
 ダバは剣の柄を叩くと、獰猛な狼の笑みをまた浮かべた。
「俺はたった今、タナトスと契約した。闘おう。魂をかけて、ローマと世界をおびやかす邪神と」
 魔道師は暗い瞳でちらとダバを見上げて、
「アクテ様の魂も担保にしたのですよ、あなたは」
 剣闘士は苦々しく笑うと、
「正直にいえば、少し後悔していないこともない。しかし、俺が守れば済むことだからな。守るしかない」
「よろしいでしょう」
 アクリアヌスは、さも情けなさそうに何度も頷き、
「この秘密を知ってしまったからには、あなたがたと我々は運命共同体です。私とシラは、あなた方を心強い同盟者として歓迎します。同盟者というからには、もしもの時には私も守って差し上げますが、守りきれる、という保証はありませんからね。助けそこねても、化けて出ないでくださいね」
「魂まで食われるのだろう」
 ダバは肩をすくめた。
「ならば化けても出られまい」

 ネロポリスことローマの都、その中枢『黄金宮殿(ドムス・アウレア)』。
 血と性の欲望に彩られた、皇帝ネロの館。
 帝国版図から吸い上げた富を湯水のごとくつぎ込んで作られた、人造の湖や森、そしてネロ自身の巨大な像に囲まれて、オピウスの丘に横たわるその巨大な姿は、さながらローマを食い荒らす魁偉な黄金色の悪魔のようであった。
 夜更け、このひとつの町ほどもある宮殿の暗い回廊で、柱の陰に隠れて、一人の奴隷の少女が座り込んでいた。
 浅黒い肌の、さして美しいとはいない少女だったが、肌の光沢だけは生命力にあふれている。
 彼女は恋人でも待っているのか、落ち着かなげに指で床を引っ掻いたり撫ぜたりしていた。
 彼女はもうずいぶん長いことそこに座っていたが、待人は一向に現れない。
 それでも待ち続けているのが健気で、哀れだった。
 その彼女の瞳が、突然ぱっと輝く。
 闇の中を、彼女が待っていた人物とおぼしき人影が、ゆっくりと歩んでくる。
「待たせたな」
 その人物は、抑揚のない声でいった。
 それでも少女は嬉しかったらしく、嬉々とした表情で立ち上がり、人影のほうへ走りよっていった。
「ああ、カエサル様」
 彼女の唇から、うっとりとした呟きが漏れる。
「あなた様でございますか」
「昼間はすまなかった」
 皇帝は淡々と言う。
「突然声をかけたから、驚いたろう」
「いいえ、いいのでございます、カエサル様。あなた様にお声をかけていただいて、あたしはどんなに嬉しかったことか……」
 窓から差し込む薄い月明かりが、ネロの端正な顔を照らしだした。ただでさえ青白い彼の顔はますます白く、深夜に宮殿にさまよいでた亡霊のようであった。
「そうか、嬉しかったか」
 彼の口元に、薄い笑みがうかんだ。
 少女は夢中で頷き、
「はい、まるで夢のようでございました」
「それほど余に抱かれたかったか」
「はい」
 少女はネロの体にしなだれかかった。
「そのとおり……そのとおりでございます」
 ネロは彼女の耳元をなめるようにして、囁いた。
「余の飢えを満たしてくれるか?」
「存分に満たしてくださいまし」
 娘は、ほとんどうわごとのように言う。
「カエサル様の、お好きになさってくださいまし」
 その言葉に反応したのか。
 ネロの口が、にやあり、と何とも非人間的な笑いに歪んだ。そして、
「その言葉、忘れるのではないぞ」
 そして次の瞬間、ネロは人の姿をかなぐり捨てた。
 口がばりばりと音をたてて喉のあたりまで裂けていった。
 その鰐ほどの大きさに広がった顎で、少女の頭を瞬時に噛みちぎる。
 甘い抱擁を求めて悶えていた娘の体は、力を失いただの肉人形となった。
 噴出す血の雨に濡れながら、異形の獣と化したネロはばりばり、べちゃべちゃと音を立てて少女の体をむさぼった。
 彼の目はどろりと濁り、人間としての理性はかけらも残っていない。
「へ……陛下」
 背後から震えながら呼ぶ声に、ネロはゆっくりと振り向いた。
 そこに立っていたのは、恐怖で今にも気絶しそうなティゲリヌスともう一人、黒い布で顔も体もすっぽり覆った奇妙な人物だった。
「何だ、ティゲリヌス」
 ネロは血塗れの口をばくばくと動かしていった。
「余は食事中だ。邪魔するのでない」
「へ……陛下、恐れながら」
 ティゲリヌスは、今にもへたりこみそうになる足を必死でささえながら、
「いくら下賤な奴隷娘とはいえ、このように、あまりに度々殺してしまうのは……き、危険であると、自分は思います。こ……ここ最近、行方不明になる奴隷が多いと、噂にもなっておりますれば……」
「よいではないか、少しぐらい」
 ネロの目が、いびつな欲望に満ちた、おぞましい輝きを放つ。
「これでも、しばらく我慢しておったのだぞ。」
「は……は……」
 それ以上抗弁する気力もなく、ティゲリヌスは顔を引きつらせていた。
 ネロは硬直している彼をぎろりと睨んで、
「そなた、そんな下らぬ事を言うために余の食事を邪魔したのか」
「は……いいえ」
「用件を早く申せ。それとも、そなたも余に食らわれたいか」
「ひ……ご勘弁を」
 ネロの腰巾着は、必死で言葉を発した。
「陛下がかねてより警戒されておった、ユダヤ人の娘と、セラエノなる地の魔法使いの二人組が、ポンペイで発見されたようにございます」
「そうか」
 ネロは、両手についた鮮血を旨そうになめ回しながら、
「捕らえたのであろうな、無論」
「そ……それが……」
 近衛隊長は、水をかぶったがごとく全身を冷や汗で濡らしている。
「逃したというか」
「ひいい……お許しを」
 ティゲリヌスは、頭を抱えてその場に突っ伏し、哀れに泣き叫んだ。
「よい、ティゲリヌス。そなた自身が失敗したわけではないゆえ、責任を問うたりはせぬ。ポンペイの我が兵どもが無能であっただけのことよ。報告を続けよ」
「は……ははっ」
 彼はなんとか立ち上がり、口を開いた。
「相変わらず、きゃつらはこのローマへ向かい旅を続けている模様です」
 ネロの喉元から低い唸り声が漏れる。
「この地は『ローマ』などという使い古された陳腐な名ではない。我が永遠の都、『ネロポリス』だ」
「あうう……」
「まあよい。それで?」
「それが、実は……」
 ティゲリヌスの顔が、また恐怖でひき歪んだ。
「何だ。早く申せと言うに。このうつけが」
「実は、ポンペイの剣闘士、ダバがきゃつらの逃走を助けたという報告が入っておりまする」
「ダバ……だと?」
 ネロの眉がぴくりと動いた。
「"ポンペイの死神"か」
「左様で」
 ティゲリヌスの全身は、小刻みに震え続けている。
「あの者は、ネロ様の近衛隊への誘いを断った挙句、このような恐れを知らぬ行動に」 
「あの男が……わが敵に与したと申すのか」
「おそれながら……左様で」
「おまえは、左様で、しか言えぬのか」
 ネロは彼を睨んで、
「それだけの能力しか持たぬ脳味噌なら、食っても困らんだろう、ん?」
「ひ……お許しを……」
(食われる)
 皇帝の目に宿る妖気がふくれあがるのを見て、ティゲリヌスは咄嗟にそう思った。
 しかし、ネロの方はもう、彼の存在そのものから関心がなくなった様子で、
「面白うなってきた……余は一度、あのように強い男を食らってみたかったのだ」
「陛下」
 黒衣の男が、はじめて口を開いた。
「わたくしめに、お任せいただきとうございます。陛下に仇なす謀反人のうち一人は、私とも浅からぬ因縁あるもの。わが手で彼奴らを葬ることこそ、理にかのうておりますかと」
「因縁、か」
 ネロの顔は、徐々に元の形を取り戻しつつあった。
「そなたの口から、そのような言葉を聞くと、妙な感じがするな」
「……それは、わたくしめが一度死んだ身であるゆえ、そう申されるのでありましょうか」
 男はかすかに体を震わせた。
「たしかに屍と同様のこの身なれど……命ありし頃の記憶は、鮮明にこの脳髄に刻みこまれておりますれば、陛下の申されようはいささか不当のように思われまする」
「ふむ……もっともな言い分ではあるな。では、ユダヤの娘シラと、セラエノの魔道師アクリアヌス、そして剣闘士ポンペイのダバの始末は、そなたに一任する」
「ありがたきしあわせ」
 黒衣の男は、深々と頭を垂れた。
「必ずや、謀反人どもの首級をあげてまいりまする」
「そのことだが」
 ネロはもうすっかり元どおり人の形を取り戻していたが、その口元を中心に全身に少女の鮮血がこびりついている。
「余の頼みをきいてくれぬか」
「どのようなことでございましょう」
「先程もいったが、余は、ダバの肉を食らいたいのだ」
 彼の唇が、再び異形に変わりかける。
「生死は問わぬが、彼奴の肉体を必ず余のもとまで持ちかえれ。できるだけ新鮮なうちに」
「承知いたしました。さすれば、これにて失礼つかまつります。彼奴らを仕留めるにあたっては、色々と準備もございますれば」
 ネロは、すっと目を細めて、
「憎いか、彼奴らが」
 黒い男は頭を垂れたまま、何も言わぬ。
「おぬしを殺し、地獄に追いやったエホバの神と、それに仕える者どもが」
「……」
「そなたの味わった苦痛を、一万倍にもして彼奴らに返してやるがいい。ダバの体さえ持ち帰るなら、あとの二人はどのように料理してもかまわぬぞ。存分にやるがよい」
「御意」
 男はうっそり言うと、不意に地面にうずくまった。すると、彼の体はまるで黒い霧のように分解し、そのまま闇のなかに消えた。
 ネロは、自らの刺客が消えるのを見届けると、食べかけの娘の体を持ち上げ、食事を再開しようとした。
「ネ……ネロ様」
 ティゲリヌスは、すでに歯の根が合わなくなっている。
「あの男は、一体何者なのです?あのような怪しげな術を」
「おう、まだいたのか、ティゲリヌス」
 ネロは、まるで彼の方を見ずに、
「あれは、余の忠実な下僕だ。そなたと同じ、な」
「しかしあの男、私には顔すら見せようとしないのですよ。一体……」
「ティゲリヌス」
 ネロはにたりと笑った。
「余に、食事の続きをさせてはくれぬのか?」
「うはっ……し、失礼いたしましたっ」
 ティゲリヌスはなんとかそれだけ言うと、足をもつらせながらそこから走り去った。
 彼の背後を、びちゃびちゃ、ばりばりという気の遠くなりそうな音が追いかけてくる。
(なんてこった。こんなはずじゃあなかった……こんなはずじゃ)
 彼は、額をだらだらと流れる汗を拭いながら、一人ごちた。
 彼がネロに取り入ってから、もう何年にもなるが、その頃のネロは、決してあんな怪物ではなかった。母や妻の支配に怯え、芸術と享楽に現実逃避する、意志薄弱な皇帝。
 彼を体よく利用し、甘い汁を吸うのがティゲリヌスの当初の予定だった。
 それが今では、恐怖によって一挙手一投足まで、完全にネロに支配されている。
(このままじゃあ、ローマはあの妖怪に食い尽くされちまう)
 彼は戦慄した。
(別に何処の誰が食われようと知ったことじゃあないが……下手をすると俺も、気がつけば奴の食卓に並ぶエサ肉の一つになってた、なんて事にもなりかねん)
(畜生、なんてこった)
 彼は絶望に満ちた表情で、月を仰いだ。
(こいつはどうしても、ガルバの爺いに勝ってもらわにゃあならんな)
 そして彼は、いつかネロにそうしたように、ガルバに取り入る方法を必死で考えはじめたのだった。

 黒衣の男とティゲリヌスが姿を消したあと、ネロはまた邪神の本性を現して娘の肉体をむしゃぶりはじめた。そして生肉どころか骨までかじって食い尽くしてしまうと、うっとりとした表情で、朱に染まった両手をなめ回していた。
(まだ、足りぬ)
 彼の内奥で、囁きかける声がある。
(この程度では足りぬ。もっと、贄を)
(早く、我に力を――)
 体の底からわきあがってくる、この世のすべてを破壊し、食い尽くしたいという欲望。
(だが、まだこらえねばならぬ)
 ネロは、ようやくその衝動を抑えた。
(もう少し、時間が要る。もう少し時間が経てば、我は完全な力を取り戻せる)
(力を取り戻した暁には)
 びくん、と彼の体は痙攣した。不浄きわまりない、おぞましい快感が体中をかけめぐってゆく。
(全てを啖らい尽くしてやる。この星を、銀河を、宇宙を――)
(我は多次元宇宙の王、地の精の長、魔王の中の魔王――)
 人の身では味わうことを許されぬ、邪悪の悦楽。そのあまりの高揚感に、ネロは奇声をあげつつ石畳の上をのたうちまわった。
 しかし――
 彼は不意に、闇の中から見つめる、一対の目に気づいた。
「誰だ」
 もはや人の声ではない、重いしゃがれ声で誰何する。
「出てこい。余に啖らわれたいか」
(ネロ……)
(ネロ……私の可愛いネロや……)
 声ならぬ声が、ネロの脳裏に語りかけた。
(母の私をあんなふうに殺してしまうなんて、そなたはなんて悪い子なのでしょう)
(そなたを皇帝にしてあげたのは、この母だというのに)
 そして、ネロの眼前に、青白い、ふっくらした女の姿が浮かび上がった。
「アグリッピナか」
 ネロは面白くもなさそうに、
「また恨み辛みをいいにきたか。消えろ、糞ばばあ」
 亡霊は消えた。だがすぐに、別の声が彼の名を呼ぶのだった。
(ネロ……)
(この無能、あたしがいないと何もできぬくせに、よくも蹴り殺してくれたね)
(私は不義など犯していません。なのに、何故、そんなに私を嫌うのですか?)
(やあ、アエノバルブス。相変わらず、人殺しばかりしているのだね、弟のぼくを殺しただけじゃあ飽きたらず――)
 ポッパイアに、オクタヴィア、ブリタニクス。彼が手にかけてきた者たちが、彼を取り囲み、怨念に満ちた目で見つめている。
 だが、ネロは微塵も動じることはなかった。
「亡者どもめ、今日はやけにからむな。だが、余は貴様らの姿を見ても何の痛痒も感じぬぞ。消えよ――さもなくば、化けてもでられぬよう、霊体ごと食らうぞ」
 幽霊の群は、彼に恨みの目を向けたまま、すうっと消え失せた。
「ふん、興醒めがしたわ。気分直しに、もう一人奴隷でも食らうか」
 彼がそこから立ち去りかけたとき、また別の声が呼びかけた。
(ネロ、あなたはそんなことをして、悲しくないの?)
 ネロは、ゆっくりと振り向いた。
 十歳にも満たぬ幼い少年が、そこに立っていた。
 まだきめ細かい白い肌と、ほっそりとした体格から、いかにもか弱げに見える。
 ふくよかな頬っぺたにうっすらとさした赤が、かろうじて健康を物語っている。
 それにしても、亡霊にしてはやけに生命力にあふれ、存在感があった。
「余は、そなたを知らぬ」
 ネロは、眉をひそめた。
「余が殺した人間どものなかに、そなたは入っておらぬ。しかし、何故だ?余はそなたとどこかであったような気がする……どこでかは思い出せぬが」
 少年は青い瞳を哀しげに曇らせて、ネロを見つめた。
「どうして、そんなことをするの?そんなひどいことばかりしても、可哀相な人たちを殺しても、あなたの心は満たされはしないのに」
「黙れ」
 ネロの瞳が、深紅に輝いた。
「貴様に、何がわかる。下らぬ事を言うと食らうぞ、餓鬼めが」
「そうして、全てを食らってしまったあと、あなたはどこへゆくつもりなの?」
「黙らぬか!」
 彼は異形の牙を剥きだし、少年に襲いかかろうとする。
 だが、その刹那に少年の姿は、他の亡霊たちと同じように、一瞬で霧散してしまった。
「あの餓鬼め、一体……何者だ」
 ネロは、荒々しく呟いた。

(続く)

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