ネロポリスの黙示 3


 2、剣闘士(承前)

「何事だ?」
 ダバの見当は、果たして正しかった。
 薄暗くなりつつある繁華街の真ん中で、長身筋肉質の甲胃姿の正規兵が、二人の華奢な人物を囲んでいる。
 片方は、歳の頃は十四か五ぐらいの、小柄な少女であった。
 大きな青い瞳と、蜂蜜色の豊かな髪、そしてぬけるような自い肌が目立つ、美しい少女である。しかし、大きな目は恐怖で充血し、せっかくの白い肌も殴打の痕らしい青瘡でいっぱいだった。
 もう一方は、これもほっそりしている若い男で、背は高くも低くもないが、ローマの男色家どもの垂漣の的になりそうな美貌であった。
 夜の闇よりも暗く深く、底知れぬ光を放つ黒瞳。
 不思議に金属的な光沢を放つ銀髪、すっと尖った、そして滑らかな線を描く、妖しい白蛇を思わせる顔の輸郭、首筋。
 彼もまた、少女に負けぬくらい白い肌に生傷が痛々しい。
 彼らは二人とも黒い長衣に身を包み、兵士の暴力に怯えて寄り添いあっていた。
 どうやらダバの手助けが要りそうな状況であることは、ほぼ確実であった。
「何事だ」
 ダバは、兵土たちにいま一度尋ねた。
 兵士たちは、鬱陶しそうに彼の方を振り向いたが、そのうちの隊長格らしい一人が、
「おお、あなたは、ポンペイ一の剣闘士ダバ殿」
 嬉しそうに、にっと笑った。
 だがダバは、少しも心を許した様子もなく、
「何事だ、と聞いておるのですが」
 ぶっきらぼうにいった。
 相手は心外そうな顔をしながら、
「なに、ここの二人が……この美しい顔で人を惑わす異教徒どもが、ひっくくろうとすると抵抗するのです。だから、少しぱかり体にローマの法を教えこんでやっていたところで」
「異教徒?」
「キリスト教徒ですよ。先のローマ大火の下手人どもだ」
 ダバは、無言で、二人の弱者を観察した。
 なるほど、金髪の少女の手には、木で作った十字架が、握り締められている。
 だがダバは、そんなことは一向に意に介さぬ様子で、ただ一言、
「この少女を殴ったか」
 抑揚のない声で聞いた。
 男は下卑た笑い声をたてて、
「ああ、小さな体の割に強情でね。少々てこずってしまった。あんた、こいつらと知り合いですか?」
「違う」
「おお、そうであろう」
 男は気やすく、ダバの肩を叩こうと歩み寄ってくる。
「このポンペイの…いや、帝国一の戦士である貴殿が、このような淫祀邪教の徒と知り合いのわけが……」
 彼は、言い終えることは出来なかった。
 ダバの鉄球のような拳がいきなりうなり、彼の浅黒い顔面に叩きつけられたのだ。
 ぷぎい、という屠殺場の豚の最後のうめきのような声をあげ、男は血を噴いてそのまま吹っ飛んだ。
「ダバ殿」
 残った兵土の一人が気色ばんで叫んだ。
「どういうおつもりか!帝国の正規兵を理由もなく殴打するなど……このようなことをすれば、いくらポンペイ一の剣闘士といえど、ただではすみませぬぞ」
「俺は」
 ダバは、魔神のような形相で、ゆっくりと振り返る。
「女子供に手をあげるような下衆は、カエサルでも許すつもりはない」
「こやつらは、異教徒ですぞ!」
「関係ない。異教徒といえど、片方はまだ年端もいかぬ子供だ。それを貴様らは……この恥知らずどもが」
 彼は、拳をぐっと握り締める。
 それに反応して、兵士たちはすらりと剣を抜き放った。
「ではダバ殿――あなたは今何をなさっているか、自覚がおありなのだな」
「何度も言うつもりはない」
「よろしい。剣闘士ダバ、あなたを反逆の罪で逮捕連行します」
「やってみるがいい……ただし、本気でかかれよ」
 言ってからダバは、例の狼のような凄絶な笑みをうかべた。
「先に言っておく。俺は女子供に何人もで寄ってたかって手をあげるような腐った連中に、手加減する術は学んでおらん。命の保証はしかねるぞ」
 その刹那、空気がびりりと震えるかと思われるほどの強烈な殺気が、ダバの全身から噴き出した。
 兵士達も、剣を抜いたまではよかったが、それ以上は一歩たりとも動けず、そのままその場に立ち尽くしている。
「どうした」
 ダバの目が、獲物を狩る鷹のようにぎらりと光る。
「来んのか」
「うう」
 兵士たちの一人が、やっと口を開いた。
 しかしその声は、恐怖で嗄れ震えている。
「今日のところは退いておく。ダバ殿に夢中の貴……婦人連中を敵に回したくは……な……ないからな。し……しかし……今度は……」
「今度は、何だ」
 その声の凄みで、別の兵士が、ひっと声をあげて逃げかける。
「これで失礼する」
 彼らは、失神している隊長を抱えて、どたどたと慌てて去っていった。
「はっ。あいつらよりはティゲリヌスの方が一〇倍は根性があるな」
 ダバは悪態をつきながら、二人の犠牲者たちを振り返った。
 埃と血で汚れた少女の顔を、何時の間にか追いついてきたらしいアクテが、優しく布で拭ってやっている。華著な若者のほうは、自分で立ち上がって、衣服にこびりついた泥をはらっていた。
「大丈夫?ひどいことをされたわね」
 アクテが、少女に穏やかに声をかける。
「こんな綺麗な顔を殴るなんて、野蛮な兵隊たちだわ。傷でもついたら大変なのに。でも、たいした怪我もないみたいで、よかったわ」
「ありがとう」
 少女は恥ずかしそうに、
「私は、大丈夫です。それより、連れの方を……」
「ぼくも大丈夫ですよ」
 美形の青年はかすれた声で、
「どうぞ、おかまいなく」
「そう。大したことなければいいのですが」
 アクテはにっこりと笑って、少女の方に向き直った。
「ところで、あなたのお名前はなんていうの?よかったら聞かせて」
「あたしは……シラです」
 男の方は、不快そうに眉をひそめただけで、答えなかった。
 アクテは笑みを絶やさず、
「シラというの。いい名だわ。どうしてあんな兵隊どもに追い回されていたの?」
「キリスト教徒だからか?」
 ダバが、突然会話に割って入った。
 シラという少女は一瞬はっとしたが、手の中の十字架をぎゅっと握り締めると、
「はい。私は主イエスの教えを信ずる者です」
 そして、まん丸い目でダバを見上げた。
 ダバは、彼女の瞳のなかの光に、不思議な心の動揺をおぼえた。
(俺は、こんなに澄んだ瞳の人間を見たことがない。そして、これほど真っすぐに人を見る女にも)
 人を真っすぐに見つめる一一このことは、アクテにもいえることではあったが、彼女の場合は、長いこと奴隷生活を強いられて苦難の人生を送った分、警戒心に満ちあふれている。
 しかし、この少女の眼差しはあまりにも無防備で、純粋であった。世界中の男が、この彼女の瞳をのぞいた瞬間、この娘にはこの世のいかなる汚れも闇も見せまいと願ってしまう――無骨なダバをしてそう思わせる、神秘的な清らかさのようなものが、この少女には、あった。
 だが、そんな胸の動揺をおし隠して、
「ならばこの町を早く出て、ローマ兵のいないどこか遠くの町へ行くことだ。帝国の人間は異教徒を好まぬ――この俺を含めてな」
 冷たい口調でいう。
 だがシラはにっこりと微笑み、
「でも、あなた方はわたしたちを救ってくださいました」
 そして、その白い指で十字を切ると、
「あなた方に、主の祝福がありますように」
「よしなさい、シラ」
 青年が、苛々と口を挟む。
「ここは、きみの故郷とは違うんだ。きみの祝福をありがたがる人たちばかりではない。さあ、先を急ごう」
「だけど、アクリアヌス」
 それが、この青年の名であるらしい。
 シラは心外そうに目をぱちくりさせながら、
「この人たちは私たちの命の恩人なのよ。それに、お名前もまだ聞いてないんだから」
「私は、アクテといいます」
 アクテは、静かに名乗った。
「こちらのたくましい殿方は、ポンペイのダバ。帝国一の剣闘士よ」
 ダバは、居心地悪そうに唸った。
 シラは嬉しそうに、
「じゃあ、アクテに、ダバ。あなた方お二人に、神の祝福のあらんことを」
「ありがとう」
 アクテは笑みを返し、
「あなたにも、ユピテルのご加護がありますように」
「あなたは、私がキリスト教徒であると聞いても、少しも驚かれないのですね」
 少女は、不思議そうに言った。
「ここまで旅してきたけど、どこの町でもわたしたちを、腫物に触るように扱うのに」
「ええ、だって」
 アクテはちょっと考えて、
「ローマは自由の民の国ですもの。何を神聖なものとして崇め、心のより所にするかも自由であっていいはずだわ。ネロは……」
 彼女の笑顔に、一瞬陰がさす。
「ネロは問違っているわ。ところで、あなたたちはこれから、どこへ向かうつもりなの?」
 シラは無邪気に答えようとする。
「ネロポリスへ……」
 その言葉に、ダバとアクテはびくりと反応した。
 ネロポリス。
 それは、傲慢の極みに達した現在のネロが、再建後のローマに付けた名前である。
 これまでとこれからの全てのローマの隆盛が全て己の所有するものであると驕り高ぶったネロは、自らが立て直したローマの地を、『ネロの都』すなわちネロポリスと呼称したのだ。
「ネロポリス……ローマか?」
 ダバは思わず聞き返す。
 シラは自らが口にした言葉の重みにも気づかず、
「あ、いけない。正式には、今でもやっぱりローマって名前なんだっけ。カエサルのいる都って」
「シラ!」
 アクリアヌスが鋭く叱責する。
「初対面の人間に、余計なことを言うのではない」
 少女は驚いて目をしばたたかせたが、彼の突き刺すような視線に出会って、すくみあがってしまった。
「ローマヘ何をしにいくのか知らないが」
 ダバは冷淡に、
「死にたくなければやめたがいい。今のように兵士に捕らえられ、拷問された挙句に死体を獅子の餌にされることになる」
 シラは一瞬ぎょっとしたが、すぐにダバの方をきっと見据えて、
「いえ、どんな苦痛もわたしたちは覚悟しています。どんな苛酷な試練が待ち受けようと、それら全てを乗り越えて、私たちはローマヘ行くのです。それに、私たちの後には主イエスがついていらっしゃいます。何者もわたしたちがローマに向かうのを阻むことは出来ません」
「そう信じてローマ入りした信者どもが、どれくらい殺されたか教えてやろうか」
 ダバは口元に微苦笑をうかべて言った。
 アクテは彼を横目ににらんで、
「ダバ、そんな言い方をしなくてもいいでしょう」
 と、たしなめた。そして、
「ごめんなさいね、シラ。この人は不器用だからこんな、言い方しか出来ないけど、あなたたちの事を心配していっているのよ。ローマに行くべきでないという点では、わたしも同意見だわ。あなた方の教えが正しい、正しくないは別の話として、本当にたくさんのキリスト教徒がローマでは惨殺されているわ。どんな目的があるにしろ、ローマに入るのはあきらめたほうが賢明だといえるわね」
「お心遣いは、大変ありがたいと思います」
 シラの反応は、あくまで丁寧だ。
 しかしアクリアヌスの方は皮肉げに唇を歪めて、
「心配は無用ですよ、アクテ妃殿下。我々には我々の考えがあってローマに行くのですよ。ここまできて今更、初対面の人間に行動を左右されるいわれはない。それに、ぼくがいればこの子は安全だ。他のキリスト教徒のような目には、遭わせはしませんよ」
「言うではないか、優男」
 ダバは少し陰険な目つきになって、
「そのわりには、先程は警備兵どもにさんざ痛めつけられていたではないか」
「騒ぎを大きくしたくなかっただけです。余計なお世話ですよ」
 アクリアヌスは冷笑する。
 ダバは、こわい顔をしたきり黙り込んでしまった。
 シラは二人の顔を見比べて、困ったふうだったが、やがてアクテの方に向き直ると、
「アクテ様、忠告は大変嬉しく思います。でも、アクリアヌスのいうとおり、私たちには私たちの事情があるのです。先程も申しましたが、私とアクリアヌスは、どんな苦難をも承知でローマヘ向かっています。勿論、死ぬことも、その、ええと……」
 彼女は少しだけ口ごもった。
「その、ネロ帝の慰み物になるということも、あるかも知れません。しかし私は、そのようなことを恐れる必要のないことを知っています。かつて私の故郷の村に布教者であるペテロ様がやって来られたとき、こうおっしゃいました。『たとえどんな苦しみが自らに課せられたとしても、決して神が自分を見捨てたのではないことを知りなさい。むしろその苦しみこそが神から与えられた試練であることを忘れてはいけない。その試練が大きければ大きいいほど、それを乗り越えたときの神の祝福も大きくなります。たとえそれによって命さえ失われたとしても、それは決して無駄死にではない――肉体は失われようともその魂は主のもとに召され、何ものにも換えがたい喜びが得られるのです』……ですから、これまでにローマで命をおとした多くの同胞たちも、決して後悔はなかったはずです。彼らは最後まで主の言葉を信じ、主のみもとに帰ったのですから。私も彼らに恥じぬよう、主を信じぬきます。そのことが私たちの…もとい、アクリアヌスはキリスト教徒ではありませんが……私の武器なのです」
 そう言って真っすぐに、見つめてくる少女の視線に、アクテは微笑みで応えた。
「それほどに信じられるものがあるということは、きっと幸せなことなのでしょうね」
 だがダバは少しもその雰囲気にのまれた様子もなく、
「それより」
 有無を言わせぬ調子で、
「そろそろ本当の事を話してみるがいい。おまえらの本当の目的は何だ」
 シラは黙ってうつむき、アクリアヌスは挑戦的に眉をつりあげる。
「そのようなことをあなたに話す義務も必要も、ぼくは認めませんよ」
 美青年は突如シラの腕を強引につかみ、
「助けられたことには感謝しますが、それとこれとはまた別問題だ。行くよ、シラ」
 だが、シラは動かなかった。
「シラ?どうしたというの。ぼくらは急がなければならないのだよ。ほら、行くよ、シラ」
 少女はうつむいたまま、
「私たちは、ローマに……」
 か細い声で、言おうとしている。
「シラ!」
 アクリアヌスが鋭く叱責する。
「それ以上言うな」
 だがシラは、
「私たちはローマヘ、皇帝ネロを……」
「やめないかシラ!」
 アクリアヌスは絶叫したが、もう遅い。
 少女の言葉を聞いて、アクテの顔色は一瞬にして変わった。
「ネロがどうしたというの!」
 彼女はものすごい勢いでシラにとびつき、その細い肩をつかんで激しく揺さぶった。
「続きを言って。お願いだから!あなたがたは、ネロをどうするつもりなの?」
「わ……私は」
 少女は目に涙をため、半狂乱のアクテを、そして、冷静になりゆきを見守っているダバを見つめた。
「私に力を貸してください」
「やめないか、シラ」
 アクリアヌスは語気荒くいったが、少女の耳にはまるで入っていないようだった。
「あなた方は、私を助けてくれました。これは決して偶然ではないような気がするのです。私は、あなた方を信じます。全てお話します。ですから……」
「いい加減にしないか」
 アクリアヌスは彼女をアクテのからもぎはなすと、彼女を引きずって無理矢理に立ち去ろうとした。
「待つんだ」
 ダバは咄嵯に彼の行く手を遮ろうとしたが、アクリアヌスの動きは意外と敏捷で、彼の脇を上手にすり抜けて走りはじめた。
「待てと言うのに!」
「お願い、止まって」
 ダバとアクテは、二人のあとを追う。
 しかし、あの痩せた体のどこにそんな体力があるのか、アクリアヌスは少女をほとんど抱えるのに近い状態で、ダバたちをどんどん引き離してゆく。
 ダバは歯噛みして一瞬諦めかけたが、二人の逃げ込んだ小路を見て、思わずほくそ笑んだ。その小路はわずか数パッスス先で行き止まりになっていることを知っていたからだ。
 こうなればもう袋の鼠、ゆっくりと彼らの目的を問いただしてやれる。
 彼は足下が覚束なくなっているアクテの手を取ると、
「あの先は袋小路だ――もう逃げられない。あなたは通りで待っていてくれ。彼らを連れてきます」
 アクテは疲れた笑みを浮かべると、そのまましゃがみこんだ。もともとそう体力があるわけでもない彼女のこと、無理もない。
 ダバはさらに足の回転を速め、暗い路地の中に飛び込んだ。
 その瞬間、
「む」
 彼は咄嵯に、剣に手をかけた。
金属が腐ったような異様な匂いと、ただならぬ強力な殺気。
(何かがいる)
 戦士としての勘が、彼にそう告げていた。
 そしてその何かは、たしかに彼の敵であることも。
 しかし、肝腎のアクリアヌスの気配は、この暗闇の中でまるで感じられなかった。
「おい、アクリアヌスとやら。いるのか」
 返事はない。だが、さっきからいる殺気の主が、のそりと動いたのは感じられた。
(何だ?ここにいるのは一体何なんだ?)
 幾多の強敵――人である、なしに関わらず――を相手に剣をふるい、常に勝利してきたダバだったが、今彼が感じている殺気は、彼が対峙してきたいかなる敵とも違っていた。
(信じられぬほど、冷たい。まるで生気というものがない一一もし自分で勝手に動いて人を殺してまわる剣とか斧があったなら、そいつのもつ気配はこんな感じかもしれん)
 彼は、剣をゆっくりと抜き放ちながら、耳を澄ませた。
 しゅ、しゅ、しゅ……
 刃物と刃物が擦れ合うような、不快な音。
 これがどうやら、それの鳴声のようなものであるらしかった。
 だが、ダバにこいつの正体を考える暇は与えられなかった。
 突如、殺気が爆発的にふくれあがり、そいつは彼の頭上にいきなり降るように襲いかかってきたのだ。
「ぬん!」
 彼はとびかかってくる影に向かって、手加減なしに斬りつけた。
 鉄屑の塊を叩き潰したような手応えがし、生温かい液体が彼の顔を濡らした、
 しゃあああ……
 それは、悲鳴とも威嚇ともとれる奇怪な声をあげて、後退した。
 ダバは剣を握り直して、再度敵の姿を確認しようとした。暗闇にも眼が慣れ始めているので、相手のの姿形もおぼろげながらわかりはじめた。
 巨大な、蟻。
 最初、ダバにはそう見えた。
 だがすぐに、それがこの世界に住むいかなる種類の生物とも違った存在であることを悟った。蟻を連想したのは、それがこの世の生物で、とりあえずは一番近い形をしているからにすぎない。
 不規則にねじれた八本の節足が、楕円形の球体が三つ連なった形の胴体から生えている。
 そして、どうやら頭部とおぼしき部分の球には、蟹のはさみに似た鋏のようなものがついていた。眼らしきものは見当らない。体表は粘液のようなもので覆われているのか、てらてらした不愉快な光を放っている。
 怪物は、長い脚を小刻みに震わせながら、しゃ、しゃああ、と鳴いた。
「化物め」
 ダバは、怪物に剣を叩きつける。
 それと同時に、ダバの目を狙って怪物の口から奇妙な液体が噴出され、視界を完全にふさいだ。
「くっ」
 目が見えぬからといって戦えなくなるダバではないが、不意をつかれるとやはり部が悪い。ほんの一瞬うろたえたところを、怪物の節足に腹部を蹴りつけられた。
「なめるなよ」
 ダバはよろめきながらも素速く目の液体を拭い、剣を振り上げて敵の頭部へ斬りおろした。
 怪物は金属の摩擦音めいた悲鳴をあげると、その場でのたうちまわる。
 この機を逃すダバではない。
 彼は止めを刺すべく、再び剣をかかげる。
 しかし――彼の予想もしないことが、彼の背後で起こった。
 さっきまで何もいなかったはずのその空間に、いきなりもう一体同じ怪物が出現したのである。
「な……」
 驚く暇はなかった。
 新たな怪物の触腕が、ダバの背中をざっくりと切り裂く。
(馬鹿な)
 激痛を堪えながら、ダバは毒ついた。
(この路地に、気配は確かに一つだった。いくら物陰に隠れようと、仮にも剣闘士の俺が見逃すはずはない。一体どこから現れたのか)
 援軍の出現に力づけられたのか、ダバが一撃を加えた方の妖怪も、のそりと体を起こす。
 いまやダバは、深手を負わされた状態で二体の魔物に挟撃されつつあった。
 二つの得体のしれぬ生物は、彼を餌食にせんと、ゆっくりと相互の距離を縮めはじめる。
(俺は、こんなところで死ぬのか?わけのわからない怪物に、わけのわからんままに殺される……)
(ポンペイ一の剣闘士が、このざまか)
 ダバが死を覚悟したその時。
「ダバ殿。伏せなさい!」
 その声は、何故か彼のはるか頭上から降ってきた。
 が、彼の戦士としての本能は、不思議に思うより咄嵯に体を丸める方を選ぶ。
「ヘバイストスの息子らよ、この地に来たりて焼き尽くせ!」
 その言葉が託宣のごとく響いた次の刹那、いきなり妖魔どものからだは何の前触れもなく燃上した。
 ダバは何が起こったのか理解できず、ただ紅蓮の炎に焼かれ悶える妖怪たちを見つめていた。
「ほら、ぼやぼやしてないで」
 件の声がいい、冷たい手が彼の手首を掴んだ。すると、彼の体はふわりと、重力を忘れて宙にうかび上がったのである。
「何が…一体何が起こったんだ?」
 混乱しながら見上げる。
 そこにあったのは、気怠げに彼を見下ろしている、闇のごとき黒瞳と輝ける銀髪の、美しい青年アクリアヌスの顔だった。
「おぬし……」
 背中の痛みに顔をしかめながら、ダバは呟いた。
「アクリアヌス……といったか?」
 アクリアヌスは答えず、予想外に揺るぎない腕力でダバの体重を支えている。ボンペイの夕暮れ時の薄闇を、二人は水平に飛行しているのだった。
 炎上する怪物どもの姿が次第に小さくなり、やがてアボンダンザ通りに点々と灯る篝火と区別がつかなくなる。
「おい、アクリアヌス。違う名前だったか?アクラニス……だったか?アクロノス?」
「アクリアヌスで合ってます。ダバ殿」
 青年は、そっけなく訂正する。
「これで、さっきあなたに助けられた借りは返せたはずですね」
「そ……」
 ダバは、自分のおかれている状況も忘れて、気色ばんだ。
「そんなことはどうでもいいから説明しろ……あの化物はいったいなんなんだ?俺はおぬしを追って、あの路地に入ったのだぞ。何故あんな怪物が、このポンペイにいるのだ?それに……なんだ、これは。空を飛んでいるのか俺は。いやその前にあの怪物は、どうして燃え上がった?それよりも……おまえは一体何者だ?」
「そんなに一度に質問されても、答えられませんよ。とにかく、地面に着いたらゆっくり話しましょう。もうしばらく、ポンペイの夜景をお楽しみください」
 やがて彼らは、灯が夜の帳と拮抗する市街地から離れ、郊外の空き地に着地した。
 そこには、シラとアクテが二人して、心配そうな面持ちでダバたちを待ち受けていた。
「ダバ、その傷は」
 アクテが、慌てて走り寄る。
「ひどい。早く医者に診せないと」
「大丈夫だ」
 ダバは、彼女を邪険におしのけ、アクリアヌスににじり寄った。
「それより、話してもらうぞ。おぬしが何者なのか、さっきの妖怪どもは何なのか、おぬしたちの目的は何なのか。あの、いきなり妖怪どもが燃え上がったり、空を飛んだりしたのは、一体」
「おわかりでしょう?魔術ですよ」
 アクリアヌスは、肩をすくめて答える。
「そしてぼくは、それを生業とする者。まあ世間で魔法使いとか魔道師とか呼ばれる者とお考えいただきたい。これが、私が何者かという問いの答えになるでしょう」
「では、あの怪物は」
「あれが、我々の敵です」
 彼は、相変わらず無表情のまま、ダバを見上げた。
「『虚空を這う蟻』ワズルカ。奴らは、我々を追いかけてこのポンペイにやってきた。こことは違う世界から、時空の壁を食い破って。奴らには、時間も距離も関係ない。いつどこに現れても、不思議じゃない。この世界の物理法則とは別の力によって動いている。そのことは、ダバ殿も戦ってみて実感なされたでしょう?これが答えの二つ目。最後の、我々の目的については、事情があり、お話できません。悪しからず」
「ふざけるなよ」
 ダバは、アクリアヌスの襟首を掴んで、じりじりと持ち上げた。
「事情があって、だと?その事情とやらのとばっちりで、俺は死にかけたんだぞ」
「失礼」
 アクリアヌスは、蔑みきった目で剣闘士を見つめ、
「命の奪い合いは、あなたなら闘技場で慣れっこでしょうに。『ポンペイの死神』にとっては、そのようなことは些細なことだと解釈していました」
「違いないさ」
 ダバは腕の力を強め、
「だが俺は、闘技場で死んでも文句は言わない。自分で選んだ道だからな。だが、何故死ぬのかもわからんまま、得体の知れない妖怪に食われてお終いなんぞというのは、俺の性には合わないのでな」
「誰の性にも合いませんよ、そんなもの」
 魔術師は冷笑する。
「わかりました、話しますから、ぼくを降ろしてくださいませんか」
「よかろう」
 ダバはすぐに彼を解放すると、
「さあ、話せ」
「せっかちですね、あなたは」
 アクリアヌスは嘆息する。
「しかし、お話をする前に、二つほど申し上げておきます。今、あなた方が足を踏み入れようとしている世界は、あなたが今までに接したいかなる世界――いかにあなたが幾百もの修羅場をくぐり抜けてこられていたとしても――そのどの状況とも異なっています。今あなたが相手にしたあの怪物たち――その正体を知るということは、人が触れてはならぬ、禁忌の領域に触れることなのですよ。あなたが、超人的な剣技の持ち主だということは理解していますが、彼らはあなたが今まで相手にしてきた猛獣や剣闘士どもとは、存在の根本から違う。もし彼らとの闘争を選択したなら、その争いは人の身には到底堪え難い、おぞましい悪夢のようなものとなるでしょう。そして、彼らに敗れるということは、ただ命を失うだけではすまない――その魂までもが永遠に彼らの邪悪な手が招く異界に呪縛されるということなのです。わかりますか?ぼくの話に耳を傾けるということは、死神との契約に血判を押したのと同じ事なのですよ。それでも、ぼくの話を聞きたいと思いますか」
 ダバは黙ったまま、アクリアヌスを睨んだままだ。 魔道師はまた肩をすくめて、
「やれやれ、あなたは、世の人が言うように剣を振り回すだけしか能のない人では決してない、と信じていたのですが。ぼくの言うことがわかっているくせに、それでも首を突っ込みたがるなんて……あなたはどうやら、剣の腕だけでなく、愚かさの度合いまで常人の域を超えているようだ」
「俺を買い被ることはない。話を続けろ」
「よろしいでしょう。では確認します。あなたには覚悟がおありなのですね?生身の人間では二度と生きて戻れぬ、狂気の世界に……絶え問なく悪夢が襲いくる、恐怖の世界に投げ込まれるという」
 そういってアクリアヌスは、試すような一瞥をダバに投げる。
 ポンペイ最強の男の顔には、例の狼のような、好戦的な笑みがうかんでいた。
「よかろう」
 ダバは力強くいった。
「ローマは、そして俺は、ネロが狂いはじめてからずっと、長い悪夢にうなされているようなものだ。それが少しばかりひどくなったとて、俺はいっこうにかまわん」
 そしていきなり、神速で剣を引きぬくと、自分の足元に突き立てた。
 げあ、と奇怪な声がして、おぞましい生きものがそこで貫かれていた。
 からだの大きさが七べース程もある、海星のような形状の生物――そのからだの中心には、恐怖にひき歪んだ人間の顔がくっついている。
 それは、びくん、びくんと二、三度痙撃したあと、そのまま動かなくなった。
「ようするに、こういう連中と四六時中殺し合いをすることになる――そう言いたいのだろう、アクリアヌスとやら?」
 ダバは、にいっと歯を剥き出して笑った。

(続く)

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