ネロポリスの黙示 2


 2、剣闘士

 ローマより約一四〇マイルほど南東の地方都市、ポンペイ。
 帝国の版図における交易・交通の要所として、また地中海を見下ろす美しい眺望の別荘地として栄え、「小さなローマ」とさえ呼ばれるほどの賑わいを見せるこの都の円形闘技場。
 そこは、今日も見せ物に飢えた人々の喚声で沸き返っていた。
「剣闘士ダバ!」
「ヘルメスの子ダバ!」
「殺せ!殺せ――ダバ!」
 しかし、闘技場の中央にたったその男は、人々の熱狂など我関せずといった顔で、ひたすら前方を見つめている。
 長身の男である。
 一見ひょろ長く華奢に見える体格だが、堂々とさらした彼の全身の筋肉は、ギリシャの彫刻のように無駄なく磨き上げられている。
 そして、体のあちこちにある古い大きな傷痕を見れば、彼が何度も死地をくぐり抜けた、百戦錬磨の戦士であることは一目瞭然であった。
 それにしても、闘技場に立って、これほど姿が生える男もは、帝国領土をくまなく探してもそれほど多くはあるまい。
 涼やかな光沢をもつ褐色の肌、鋭角的にして繊細で端正な美しい相貌。深い深い湖の底を思わせる、蒼緑色の瞳――そうした一つ一つが、彼が神話の一幕に登場する半神半人の英雄であるかのような荘厳な雰囲気をつくりだしていた。
 不意に、彼の翡翠のような瞳が、ぎらりと輝く。
 ダバが入場してきた入り口の真正面にある入場門に、彼の今試合の相手が現れたのだ。
 ゆっくりと鉄格子が上がり、敵はうなり声をあげながら、のそのそと闘技場にはいってくる。
 胴回りが牛ほどもある、飢えた獅子。
 目を血走らせ、大きな口から漣を垂らしながらがら、ダバと呼ばれる男を睨む。
通常、闘技場に駆りだされる獣は、何日も餌を抜き、試合の本番に最も獰猛性を発揮するように仕向けられているのだが、おそらくこの獅子も例外ではないはずだった。
 さっきまでダバに声援をおくっていた観衆も、いつのまにか静まり返っている。
これから始まる死闘を予感して、息を呑んで両者を注視しているのだ。
 ダバは、素早く腰に吊していた短剣と軍用剣(グラディウス)を抜き、両腕を顔の前で交差させた。
そして、腰をぐっと落とし、上目遣いに敵を睨み付ける。
 その一瞬、両者の間に目に見えるかと思われるほどの殺気が充満し、火花を散らした。
 しばらくの間、剣士と獅子はお互いを見据えたまま微動だにしない。
 そうして対時している姿は、まさに神話の一場面――そう、丁度ヘラクレスとネメアの獅子の対決の光景そのままに美しく、神々しくすらあった。
 その、古代壁画のような沈黙に耐えられなかったのは、ネメアの獅子の方だった。
 猛獣は、その巨躯からは信じられないような俊敏な動作で跳躍し、空中高く舞い上がる。そしてそのまま一直線に、爪と牙を剥き出しにしてダバの頭上めがけて急降下してくる。
 ダバの双眸がかっと見開かれた。
 彼の両腕が稲妻のような速さで疾り、精緻な動きで振るわれた二本の剣が、獅子を迎え撃つ。
 短剣は獅子の腹部に突きささり、軍用剣は首の付根に叩きつけられた。
 鮮血が飛び散り、獅子の頭はすっぱりと体から切り離された。
 それはまさに、神業としか言いようのない、一瞬の出来事である。
 獅子の首は、闘技場の地面の砂場を石ころのように転がってなお、まだ自分が敗れたことを知らぬかのように、牙を剥きだしていた。
 そして、一瞬の静寂のあと――
「ダバ……最強の剣闘士!」
「ダバ!ダバ!」
 わあっと、観客の間から歓声がわき上がる。
「冥府の案内人ダバ!」
「『ポンペイの死神』!ダバ!」
 しかし、彼らの熱狂にも、ダバはさして興味はないらしく、彼は無言で剣を収めると、踵を返して入場門の方へ戻ってゆく。
 それにもかかわらず、観衆は不愛想な彼の背中に声援をあびせ続けた。彼が門の内に姿を消してからも、しばらくの間、その喚声が消えることはなかった。

 ダバは、やわらかい白布で体の汗を拭いながら、回廊を自分の控え室へと歩いていた。
「お疲れ様でした、ダバ様」
 彼の付き人をしている少年奴隷のリウスが、浮き浮きした声で話し掛ける。
「今日もお見事でしたね――ぼく、もう夢中になっちゃいましたよ。ダバ様の剣はまるでユピテルの雷撃のように……」
「もう下がれ、リウス」
 ダバは変わらず無表惰で、
「俺には付き人などいらん。自分の面倒ぐらい自分で見られると言ってあるだろう」
「い、いえ、それはわかっていますが、ぼくの仕事ですので、あの、そのう……」
 気の毒なリウス少年はおろおろしながら、
「あ、そういえば、ダバ様に、そのう…だから、どうしてもダバさまにお伝えしないと……」
「何だ、はっきり言わないか」
「ダバ様に面会したいとおっしゃる方が」
「いらん」
 ダバはうるさそうに顔をしかめた。
「また、どこかの閑な貴婦人が色目を使いに来ているのだろう。追い払っておけ」
「それが、そういう訳にはいかないのです。いらっしゃっているのは、ティゲリヌス様ですので」
「ティゲリヌス?」
 ダバは一瞬足を止め、少年を見下ろした。
「誰だ、それは」
「咋日いらしてたじゃあありませんか」
 リウスは少し呆れた様子で、
「皇帝の近衛隊の隊長様ですよ、ダバ様」
「ああ、ネロの腰巾着か」
「何だ、憶えてらっしゃるじゃありませんか」
「くだらない事を思い出してしまったものだ」
 ダバは苦虫を噛み潰したような顔をした。
 丁度その時、
「誰が腰巾着だと?」
 彼らの背後で、棘棘しい声がした。
 二人が振り返ると、ぴかぴかの甲冑に身を包んだ、髭面のずんぐりした体格の男が壁に寄り掛かって立っていある。彼の全身からは、帝国貴族特有の退廃的な雰囲気がぷんぷん漂っており、せっかくの高貴な身繕いも、むしろ下品にしか見えない。
 彼は口元に歪んだ笑みを浮かべながら、
「まあ、的は外れてはおらんな。わたしはたしかにネロ陛下の最愛の側近、すなわち腰巾着だ。少しばかり給料のいい小間使いみたいなものだがな」
「何の用かな、ティゲリヌス卿」
 ダバは、にこりともせずに言った。
「昨日に続き、わざわざこのような下賎の者(剣闘士は、原則として奴隷の身分である)のところまで」
「おお、つれないね、わが恋人よ」
 ティゲリヌスは肩をすくめた。
「昨日も言ったように、わたしはおぬしを近衛隊の勇士の一人に加えんことには、あの皇帝陛下のもとには帰れんのだ。マルスの申し子、帝国の誇りである、おぬしをな。さあ、今日こそは色よい返事を聞かせてもらうぞ」
「俺のような者には過ぎた光栄かと」
 ダバの態度は表面上は穏やかであったが、その声色には、ティゲリヌスの申し出を心底嫌悪している様子がにじみ出ている。
 ティゲリヌスは黒く太い眉をつりあげて、おぬし、何が不服だ?剣奴の身分の者が無条件で近衛隊士に迎えられることなど、奇跡に近いことなのだぞ。それだけではない、ネロはおぬしに年間二万アウレリウスの報酬を約束すると仰せだ。また、黄金宮殿の一角に、おぬしのための邸宅を構えてもよい、ともな。わかるか剣奴?おぬし、まさか金貨の数え方を知らぬのではあるまいな」
「用件はそれだけか、ティゲリヌス卿」
 ダバは淡々と言う。
「それで気がお済みになったのならば、これにて失礼させていただく」
「待たんか、おい」
 近衛隊長は、しつこく食い下がった。
「どうなのだ。これほどの栄誉を目の前に積み上げられても、おぬしの心は動かぬというのか?それほど剣闘試合とやらが面白いというのか、ええ?」
「返事は、先ほどお聞かせしたとおりだ。何度同じことを問われようと変わりませぬ」
 ダバは蔑みきった眼で、冷たく彼を見下ろす。
 ティゲリヌスは、目を血走らせて彼の腕をひっつかんだ。
「ならば今日あたり、違うことを言ってやろう。ネロ帝は、こうも言ったぞ。もしどうしてもおぬしが首を縦に振らぬなら、二度と剣を持てぬ体にして、アボンダンザ通りで晒し者にしてやれ、とな」
 ダバは狼のような凄惨な笑みを浮かべ、彼を睨み付けた。
「やってみろ」
 そう一度だけ言うと、その場にへたりこんだティゲリヌスを置いて、その場をつかつか立ち去ってゆく。
「知らんぞ、あとのことは。わたしは、出来るだけのことをしたからな」
 近衛隊長はよろよろと立ち上がると、ダバと反対の方向に、かぶりを振りながら歩いていった。
 彼を一顧だにせずどんどん歩いてゆくダバに、リウスがおずおずと声をかける。
「あ……あのう、ダバ様」
「どうした。下がっていいと言ったろう」
「いえ、もう一つお伝えすることが」
「何だ」
「ダバ様に、ご婦人の方からお手紙を言付かっているのですが」
「いらんと言ったらいらん。色に狂った貴婦人の妄言になど、かまっている時間はない」
「それが、恋文ではないようなのです」
 リウスは、懐からその手紙らしき羊皮紙を取り出した。
「これです。なんでもその方がおっしゃるには、ローマの存亡がかかっている。とか……その方ご本人は、ダバ様とギリシャにいた頃からの知り合いだとおっしゃられておりました。お名前は訳あって明かせないとのことでしたが」
「ギリシャだと?」
 ダバは、なにかを思い出したようにふっと遠い目になった。そして、リウスから手紙を受け取って少しだけ開いてみて、一人で頷いた。
「ありがとう、リウス。これは大事な手紙だったようだ」
 そしてまた、悠然と歩き始める。
 リウスは慌ててそれを追いながら、
「待ってください。その女性は、とてもお緒麗な方でしたが、もしかして……そのう、ダバ様の恋人ですか?」
 ダバは不意に立ち止まると、少しだけで少年の方を振り向き、
「俺には、あの方を愛する資格などない」
 先ほどまでと打って変わった、悲しげな声で呟く。
 リウスは、何かを言いたげにしながらも、彼の背中を黙って見送っていた。

 それから二刻ほどのあと――
 浴場帰りの市民で賑わう、ポンペイ最大の繁華街・アボンダンザ通りの一角にある、小さな居酒屋。
 羊肉の煮物などの料理が入った巨大なかめが埋め込まれたカウンターの前で、盛大に葡萄酒をあおって騒いでいる客たちのなかに、ダバの姿はあった。 もっとも、彼は顔に黒い布をぐるぐる巻きにして目と口のところしか見えないようにしていたので、彼があの『ポンペイの死神』だと分かる者は、まずいないだろう。
 そうでもしなければ、まず彼はその崇拝者たちにもみくちゃにされ、微動だにできないほど囲まれてしまう。
 彼は、無言で強い火酒をぐいぐいと呑んでいた。「ダバ?ダバ、あなたですか?」
 背後から話しかける声にダバが振り向くと、そこには、彼と同じように布で顔を隠した、ほっそりした女性が立っていた。
 彼は口元に懐かしそうな笑みを浮かべ、
「アクテ。久しぶりです」
「わたしもだわ」
 女の目も、やさしく微笑んでいた。
「でも、ここではお互いの再会を喜びあうことも出来ないわね。この近くの宿屋に、部屋を取ってあります。詳しい話はそちらで」
「わかった」
 ダバは頷いて立ち上がる。
 そして二人はいそいそとポピナを出て、ここからほんの二、三軒東にある小さな宿屋に入った。
 静かに部屋に上がり二人きりになると、まずダバの方が顔の布をほどき、女もそれにならって素顔を晒した。
 ダバは彼女の顔の布が取れたのを見ると、そのいかつい口元をほころばせた。
 もし、この場にリウスやティゲリヌスがいたなら、この男にこんな人なつこい笑顔が出来るのかと驚き、そしてなにゆえ彼は普段はあれほど仏頂面をしているのかと訝しんだろう。
 だが、彼の笑みはすぐにきゅっと厳しく引き締められ、彼は女の足元にうやうやしく跪いた。
「本当に、お久しぶりでございます。アクテ妃殿下」
「よしてください、ダバ。私とあなたの間柄ではありませんか」
 かすかな灯りに照し出されたその顔を見れば、彼女が顔を隠さねばならない理由は、明らかであった。 ダバと同じく彼女も、こうした市井の中を行動するには、あまりに顔を知られすぎている存在だったからだ。
 流れるような黒髪、ほっそりした面立ちのはかなげな美貌、すらりとした肢体。そして、優しさと強さを秘めて静かに輝く、青い瞳。
 彼女こそ、栄光のローマ帝国の統治者、暴君ネロの愛妾――解放奴隷でありながら若き日のネロの心を動かし、愛され、正妻にこそ迎えられなかったものの彼の最初の妻となった女、アクテであった。
「驚きました」
 ゆっくり顔をあげながら、ダバはいった。
「あなたが、突然あのような手紙をくださるとは。あの手紙によると、あなたはどうしても俺の力を借りたいという。どうなさったというのです?ローマの支配者の妻であるあなたが俺のような剣奴の力を必要とするとは。一体、いかようなことが起こったというのですか?」
「そんな言い方をしないで、ダバ」
 アクテは、彼の顔を真正面から見つめた。
「あなたにはわかっているはずだわ。私が、いまやあなたしか頼れる人間などいないということを」
 ダバはそれには答えず、椅子に腰掛けると静かに目を閉じた。
「それで」
 彼は抑揚のない声で、言った。
「俺に何をせよとおっしゃるのか」
「そんなふうに何故、あなたは……昔のあなたはそんなふうでは……」
 アクテは口走りかけたが、思い止まった様子で首を振った。
「ごめんなさい。お互い、ギリシャにいた頃とは立場も境遇も違うのですものね。あの頃からはもう、ずいぶん時問が経ってしまったもの。こんなことをあなたにお願いするのは、筋違いなのはわかっています。しかし、さっきも言ったように、私が頼れるのは……」
 彼女の真白な相貌が、哀しげに曇った。
「わかっています」
 ダバは苛々と言った。
「続きを」
「ええ」
 アクテはためらいがちに、
「あなたにお願いをしたいのは、他でもありません……あなたに、私の夫ネロを、助けてほしいのです」
「ネロを?」
 ダバの顔が、みるみる険しくなっていく。
「あなたは、自分の言っていることの意味がわかっているのか?あなたの夫の名前がどういう意味をもって俺の心に刻み込まれているか、わかっているのか?」
「承知のうえです」
アクテは、幾分蒼ざめてうつむいたが、それでも毅然とした声で続けた。
「彼はたしかに、あなたのご両親をキリスト教徒として殺したわ。しかも、むごたらしい拷問にかけた後に」
「俺の両親は異教徒などではなかった!」
 ダバは叫ぶと、思いきり壁に拳を叩きつけた。
 鈍い音とともに、石の壁に亀裂が入る。
 アクテをねめつけるその目は、いまにも血が噴き出しそうなほど真っ赤に燃え立ち、見開かれていた。
「それもわかっています」
 アクテは顔をあげて、再び彼を真正面から見つめた。
「ネロのしたことは間違っています。たとえ相手が異教徒であろうと、あのようなひどい仕打ちをする理由にはなりません。あの人は罪人です。ユピテルの聖なる雷に千度撃たれても許されぬほどの。それでも」
 彼女は、束の間に言葉に詰まった様子で喘いだ。
「……それでも、彼は私の夫なのです」
 そういった彼女の声はすでに、涙があふれそうになっていた。
 ダバは、彼女からゆっくりと視線を外し、かぶりを振る。そしてやりきれなそうに眉間を押さえながら、
「今でも、あの男を愛しているのですね」
「愛しているわ」
 アクテは、少しも躊躇わずに答えた。
「彼がこの天地の全ての神、暗闇を支配する冥府の神プルートにすら忌み嫌われるほどの男だったとしても?」
「もちろんです。もしあの人が神々に裁かれて地の底へ追いやられるというなら、私は共にそこへ行くでしょう」
 ダバは大きく溜息をつくと、立ちあがり窓際の壁にもたれた。そして、そろそろ薄暗くなり始めたアボンダンザ通りの光景を見下ろしながら、
「先を続けて、アクテ」
「ありがとう、ダバ」
 アクテは涙を拭いながら、
「今現在、ローマでネロがどのような立場に立たされているかは、このポンペイまでも噂は及んでいることでしょうね」
「ああ」
 ダバは重々しくうなずいた。
 たしかに、現在のネロをめぐる帝国寮内の情勢は、多分にきな臭い。
 ローマではネロの石像や街路の真ん中に彼を罵倒する言葉が数限りなく落書されているし、人々の会話もネロの私生活や政治をあからさまに非難している。そうした民衆の不満に応えるように、三月にはガリア・ナルボネンシスの知事ユリウス・ヴィンデクスが反旗をひるがえし、ローマに向けて進撃を開始した。彼白身はネロの命を受けた高地ゲルマニア総督ウェルギニウス.ルフスによって撃退されたが、彼が檄をとばした何人かの地方貴族たちが次々とネロを公敵と宣言し、挙兵の準備をはじめていた。その一人であるヒスパニア・タラコネンシス総督セルウィウス・ガルバは、ネロのローマでの信頼が失墜したとみるやたちまち勢いづき、元老院やその他の有力者たちに密使を送るなど陰謀を縦横にはりめぐらし、白ら最高司令官(インペラトル)と名乗った。
 そうした状況にもかかわらずネロは、帝国の領内を悠々と旅行し、随分市民をほったらかしにした後やっとローマに戻ったかと思えば、相変わらず毎日淫らな享楽に耽っているらしい。
 その余裕が自身の力に対するに自信の現れなのか、何もかも諦めきって開き直っているのかは判然としないが、どちらにしろ彼に対するローマ市民の怒りはとっくに頂点に達していた。
 もしガルバが今すぐローマを包囲し、ネロの玉座めざして突撃してきたとしても、市民は喜んで彼らのために道を開けるだろう。
「ガルバなり、オトーなりマケルなり――今ネロに反旗をひるがえしている誰が阜帝になったところで、ローマが急に変わるとも思えんが、少なくとも市民は、ネロよりはましだと思っているでしょうな」
「たしかに」
 アクテは、形のきれいな眉を哀しげにしかめた。
「あなたのいうとおりです、ダバ。もはやネロが、ローマの民人の信頼と忠誠を取り戻すのは不可能でしょう。しかし、私がネロを助けてほしい、というのは、別に彼を失脚から救ってほしいとか、命を助けてやってほしい、などという意味ではありません」
「どういうことです」
ダバの鷹のような瞳が、鋭く光を放った。
「あの人が私を――正妻としてではありませんが――娶ったとき、あの人はまだ十八でした。あの頃のネロは、優しかったわ。わたしを心の底から愛してくれていた。わたしのためなら、皇帝の地位を捨てることも惜しくないと言ってくれた。あの頃のネロは、本当に真摯で温かい人だった……人々のことを思い、よき元首であろうとし、自らの愛するものを必死で守ろうとしていた」
「義弟や母親を殺し、もとの妻を殺して別の女と一緒になる男を、『優しい男』というのですか」
 ダバは冷淡に言う。
 彼のいったことは全て事実であった。
ネロは義弟ブリタニクスを毒殺したし、ネロの背後でローマの全てを手にしようと画策していた実母アグリッピナを暗殺した。そして、友人オトーの妻であったポッパイアと恋に堕ちると、オトーをルシタニア総督に昇進させる名目でローマから追い払い、自分の正妻であるオクタヴィアに不義の罪をきせて離婚し、ポッパイアと結婚した。
哀れな幼な妻オクダウィアは、やがて妖女ポッパイアの策略によって亡きものとなる。ネロが仁政をしいている間は、これらの血生臭い所業は、全て公然の秘密としてローマ市民も目をつむっていた。しかし、彼が今やローマにとってただの暴君でしかなくなると、あからさまに彼を非難する材料として用いている。
 アクテは哀しげにかぶりを振った。
「あなたにはわからないわ。あの人があんな境遇に生まれたばかりに、どれだけ苦しみぬいたか」
 そう言って、再びダバの目を覗き込む。
 ダバは黙って、ただ彼女の訴えるような視線を無表情に受けとめた。
 アクテは嘆息し、
「たしかにあの人は、何人もの人間、しかも自分の家族にあたる人たちを殺した、人殺しよ。でも、昔は、人の心を持っていた。でも……変わってしまった。あの人は変わってしまったのよ……あの時から」
「あのとき?」
 ダバは窓際を離れ、再び椅子に腰掛けた。
「どういうことだ」
「あなたのご両親が殺された、あの忌まわしい大虐殺のときからよ」
 ネロの、キリスト教徒大虐殺。
 それは、狂皇帝ネロの数多い非道な行為のうち、最も凶悪なものとしてローマ市民の記憶に刻みこまれている事件だ。
 四年前――ローマは、原因不明の大火に見舞われた。市街地の何割かが焼け野原と化すほどの大惨事であったが、ネロはすみやかに被災地域の復興に着手した。
完成した地域は以前より美しくなり、市民のネロに対する賛辞も、ただ事ではなかったのである。
だが、一部ではこんな噂も囁かれていたのだ――ローマに放火した犯人は実はネロ本人で、彼はローマの再建によって自らの名声を高めようと画策したのだ、と。
 その噂を消滅させるためにネロが実行したのは――到底は人のわざとは思われぬ、呪われた所行だった。
 放火の罪を当時ローマにいたキリスト教徒たちにかぶせ、その処刑を身の毛もよだつような残虐な方法で執り行ったのである。
 ある者は、闘技場で生きながら猛獣の餌食にされ、ある者は、宮殿の庭で体に火を点けられて夜間照明の代わりにされた。当時ローマに訪れていたキリスト教の布教者、ペテロとパウロも、この時処刑されたと伝えられる。日頃から流血を好み、剣闘試合や模擬海戦を見物して楽しむローマの人々も、これには顔色を失った。
 そして多くの者が、ネロの叔父にあたるこれまた暴君であったカリギュラ皇帝を想起し――彼もまた、キリスト教徒の大虐殺を実行した――やはり血は争えぬと噂しあったのであった。
 そしてダバの両親もこのとき、彼らを些細なことから逆恨みした隣人の嘘の密告によって捕らえられ、ネロの黄金宮殿の篝火にされたのであった。
 アクテは続ける。
「あの頃からあの人は、人の心を失ってしまった。人の命を玩具のように弄んで、人々の苦しむ姿をみて芝居のように楽しむようになったわ」
「それなら、ローマ人はみな同じではありませんか」
 ダバは冷笑した。
「みな、他人の血を見るのが大好きではないですか。そのおかげで俺は、こうして剣闘で食いつないでいる」
「そんなものじゃないのよ!」
 アクテは狂おしく吠えるように叫んだ。
「そんなものじゃない一一あの人の今の残酷さは、ローマ市民が剣闘士たちの切り合いに一喜一憂しているぐらいのものじゃあないのよ。あの人は、人間の体を土の塊ぐらいにしか考えていない一一たたいて、潰して、壊して、燃やして……何をしようと、罪になるとは思っていないのよ。あの人にとって
人間の命なんて、虫以下なの」
「アクテ」
 ダバは彼女の痛々しい懐悩を目のあたりにして、はじめて優しさを取り戻したらしかった。彼は彼女の手をやわらかい動作でぐっと握ると、
「あなたの言いたいことはわかった。だが、私はあなたのために、一体何をすればいい?言ってくれ」
「あの人を救って」
 アクテは、彼にものすごい勢いでしがみつくと、声をあげて泣きはじめた。
「あの人をもとの優しいネロに戻して」
「そんなことは」
 ダバは当惑した様子で彼女の肩を叩いて、
「俺に、そんなことは出来ない。魔法使いでもなければ、そんなことは」
「それができないのなら」
 彼女の腕に、一層力がこもった。
「あの人がもし、二度と人の心を取り戻せないのなら、もとのネロに戻れないのなら、あなたの手で殺してあげて!ネロが本当に人でなくなってしまう前に……これ以上罪を重ねないために!」
「……アクテ」
 ダバは彼女の腕をゆっくりとほどき、その肩を強く掴んだ。
「あなたは本気で言っているのか?自分が何を言っているか、わかってるのか」
 アクテは、無言で彼の目を見返した。彼女の目は真剣そのものだった。
 ダバは、そのあまりに強い視線に戸惑い、
「あなたはネロを愛しているのだろう」
「愛しているわ……あなたにはわからないかもしれないけれど、愛しているからこそ耐えられないのよ。あんなふうになってしまったネロが……今のネロはネロじゃない……なにか別のものが、彼の体を乗っ取ってしまったとしか思えない。今のネロは、本物のネロじゃない。あたしのネロを返して……」
 自分の胸の内を全て吐きだして力尽きたのか、彼女はそのままその場にくずおれ、肩を震わせて啜り泣いた。
 ダバは彼女を優しく抱き締め、
「すまなかった、アクテ。あなたは、俺が思っていた以上に多くの苦難にあっていたのだな。さっきは、つらくあたって悪かったと思う」
「いいのよ……ダバ」
 アクテは、少しは落ち着きを取り戻したらしく、涙を拭いながら、
「私のお願い、聞き入れてもらえるのでしょうか……?」
「それは」
 ダバは困惑しきった顔で、
「すまないが、どうやら俺はあなたの役には立てぬようだ」
「そう……」
 傍目にわかるほどに、みるみるアクテの表情は萎れていった。
 ダバはますます弱り果てながら、
「さっき、あなたは、ネロが何かに乗っ取られていると言った。それがもし事実で、彼がなにかの悪しき呪いか、魔法に操られていたとしても――俺は神官でも魔術師でもない。ただ、剣をふるうしか能のない木偶の坊だ。ネロに憑いている何かを追い払うことなど、出来ようはずもない……あなたは、それがかなわぬなら彼を殺せと言うが、一介の剣闘士にすぎない俺に、どうしてそんな大事が可能だろう。たしかに俺は、長年人殺しの技を磨いてきたが、それはあくまで一対一での正々堂々とした対決のことだけだ。物陰に潜んで目指す相手を刺す術や、多くの連中がするように、酒に毒を入れたりする技は学んでいない。俺には無理だ、アクテ――情けない男と笑うかもしれないが。しかし、もしどうしてもネロを殺したいなら、俺などに声をかけずとも、彼と戦う力を持った者たちが、立ち上がろうとしているではないか。ガルバはどうやら、ローマにやってきてネロから帝位を奪い取る算段をしているようだし、ネロを憎むオトーや、アフリカ知事のマケルも、ガルバにあわせ挙兵の準備を進めているという。彼らは……」
「あの人たちに、ネロは殺せないわ」
 アクテは、ダバの言葉を断ち切るように言った。
「ガルバ卿は、今はたしかに力を得ています。しかし、あの人はただのお人好しのお爺さんだわ。とてもローマの元首につく器じゃない――女の私にだってわかるわ。別にネロをひいき目に見ているわけではないけれど。オトーも、マケルもゲルマニアのカピトも、今ネロを弾劾している誰もが、ガルバと同じだわ。外から糾弾するだけなら、誰にだって出来るものね。それにね、ダバ……今ネロは、途方も無く強いのよ。何と言ったらいいのかわからないけれど、とてつもない巨大な見えない力が、今のあの人には宿っている。ただ見ているだけで、それがひしひしと感じられるの。まるでネロの周りだけ、空気の色が違って見えるような気がするほどに……たとえローマの神々の全てが彼を見捨て、世界中の軍勢が彼をめがけて押し寄せたとしても、彼は負けはしないでしょう。ましてやガルバになど、彼を殺せるわけがないわ。ただの解放奴隷に過ぎない私が言うのも、随分僭越だけれど彼はガルバに勝つでしょう。自信が身にまとっている、邪悪な力だけで」
「ならば尚更」
 ダバは、絶望的にかぶりを振った。
「俺には無理だ」
 アクテはうなだれて、ゆっくりと彼から体を離すと、
「そうね……私が問違っていたわ。わたしに、そんな危険をあなたに冒させる権利など少しもなかったのに。こんな下らない我が侭にあなたをつきあわせようとするなんて、馬鹿だわ、わたしは。許して、ダバ……わかっていた、わかっているけれど、それでもわたしにはどうしても……」
「謝るのは俺のほうだ」
 ダバはきつく目を閉じ、ぎゅっと拳を握り締めた。
「すまない、アクテ....本当に。俺にはどうすることもできん」
 二人の間は、沈黙で覆われた。
 その重みに耐えきれなくなりながら、ダバは考えた。
(俺は一体、何を恐れているというのだろう)
 今更、自分に無くすものなど何もない。
 数少ない肉親である父母も、四年前に殺された。 彼には妻も子供もなく、自慢できる財産があるわけでもない。今の彼に、守るものなどなかった――少なくとも、彼自身が守るべき価値を見いだせるものなど。また、自分の身がそれほど可愛いわけでは無論ない。自らの命など、剣闘士をはじめたときから捨てたも同じだった。それなのに何故、自分の力を唯一の頼みとするこの女を助けてやれぬのか。
(俺は……)
 しかしその理由は、己れ自身で半ば分かっていた。
(俺はきっと、嫉妬しているのだ)
 彼の両親と無垢のキリスト教徒らを焼き殺した稀代の暴君。妖婦ポッパイアと共にオクダウィアやアグリッピナを殺した、尊属殺の大罪人。そして、美女美少年を犯し、実の母親とも契ったと噂される、淫蕩の代名詞のような男。それでもアクテは、彼を愛しているという。
(俺は、嫉妬している。あれほど悪徳を重ね、ローマに混乱の種を撒き散らしながら、それでもこれほどに愛されている、ネロに。たとえ世界中が敵に回ったとしても、最後まで彼に付き添うであろう女をもつ、ネロに)
 ダバの胸に、かすかな痛みが走った。
「ごめんなさい、ダバ」
 ダバの沈黙を怒りと取ったのか、アクテは更に詫びた。
 しかしダバはそれには答えず、ただ無表情を保ったまま、
「出ましょう、アクテ」
 と、立ち上がろうとした。
 ――その時。
 アボンダンザ通りに、甲高い悲鳴が突如響きわたったのである。
 若い、女性の声。
 ダバとアクテは、思わず窓から体を乗り出して、声の方向を探した。
 二〇パッスス程離れた通りの真中で、いくつかの人影がもみあっているのが見えた。
 日のとっぷりくれた時刻のことでもあるので、彼らが一体何者であるのか、人相風体を見て取ることは出来なかったが、どうやら屈強な男たちがか弱い女性を取り囲んでいる、ということだけは一目で見て取れる。
 ダバは翡翠色の瞳をぎらりと輝かせると、アクテをふりかえって、
「少し待っていてくれ」
 この部屋が二階であるにも関わらず、いきなり飛び降りて、騒動の元に向かって疾走していった。
 アクテは、その後ろ姿を見送りつつ、
「ダバ……あなたはやっぱり、昔と変わってない」
 誇らしげに、微笑んだ。

(続く)

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