ネロポリスの黙示 1
1 殉教者
「異教徒、ペテロよ」
その声は虚ろに、しかし厳然と、まるで死神の呼び声のように、刑場に響きわたった。
「そなたは、このローマに来たりて、邪なイエスなる男の教えを広め、善良なるローマ市民の心を大いに惑わさんとした。この罪、全能の神ユピテルの御名において許しがたく、よっていまここに死を以てその罪を贖うことを要求するものである」
ペテロと呼ばれたその白い髭の老人は、逆さの十字架にくくりつけられたまま、その宣告に静かに耳を傾けていた.。彼の瞳は、今まさに死を迎えようというのに、まるで恐怖という感情がかけらもないかのように、澄みわたっている。
それどころか、まるで胸中が希望に満ちてあふれているかのように生き生きと、輝いてすらいた。
当然である。
彼は今ここで、自ら望んでこの逆十字架にかけられたのだから。
彼の心の中には、かつて共に旅し、自らの信念と神の教えに殉じた最愛の師、イエスの姿がよみがえっていた。
(かつて、私は……)
彼は目蓋を閉じ、ゆっくりと回想した。
イエスとの邂逅、彼に従い旅した日々。
彼の説く教えのすべて、彼の弟子たちへの愛、優しさ――そして彼がゴルゴダの丘で磔になる前夜、最後の晩餐の席で彼が告げた言葉。
「おまえは今夜、鶏が朝を告げるまでに三度わたしを知らぬと言うだろう」
ペテロは即座にそれを否定したが、いざイエスが捕らえられると、果たしてこの予言は現実のものとなった。
町を彷徨う彼は、町の人々から三度イエスの弟子であると指差され、三度ともそれを否定し、逃げ去った。そして丁度、三度目に彼がイエスを拒んだとき、朝日が彼を照らし、鶏の声が夜明けを教えたのである。
その瞬間、彼の脳裏にはイエスの言葉がまざまざと甦り、彼は地に伏しておいおいと泣き叫んだのであった。
あの予言を口にしたときの、イエスの哀しそうな瞳――それでいてなお、慈愛に満ちた瞳は、今も彼の心の奥底にくっきりと焼きついているのだった。
また彼は、ローマで迫害され、一人の少年と共に街道を下り、逃亡をはかった時のことも思い出していた。
夜明け前の葡萄色の空の下、アッピア街道を急ぐ二人の前に、あの人は現れたのだった。
朝靄の中を、光り輝きつつ近付いてくる、イエスの姿。
その神々しい姿に目を細めながら、ペテロは訊ねた。
「主よ、どこへ行かれるのですか?」
イエスはあの時と同じ、哀しく、優しい目で彼を見つめると、
「おまえが私の哀れな民達を見捨ててローマを去るのなら、私はローマへ行きもう一度十字架にかかろう」
その声を聞いた瞬間、ペテロは大きい衝撃に見舞われ、よろめいた。
彼が連れの少年に支えられ、立ち上がったとき――もう、イエスの懐かしく尊い姿はどこにも見えなかった。
ペテロは、師がたった今彼に与えた言葉を反芻しながら、ゆっくりと街道を今来たローマの方向に向き直ったのだった。
少年が、小さく訊ねる。
「あなたは、どこへ行かれるのですか?」
「主よ、どちらへ……」
彼はゆっくりと繰り返し、それから力強く言った。
「決まっている。ローマへだ」
走馬灯のように駆けめぐる数々の試練、数々の奇跡を思い出しながら、彼はゆっくりと目を開いた。
血走った眼で彼を凝視する、ローマの群衆。
彼らの視線は決して温かくはないが、かといってペテロを憎んでいるわけでもなさそうだった。
そこにあるのは、明らかな侮蔑と嘲笑、そして珍しい獣を見るのと同様な、野卑な好奇心。
(馬鹿な奴だ。わざわざローマまで殺されに来なくともよかろうに)
(ネロに歯向かったりしなければ……)
(それほど自分たちの神が大事なら、どこか余所で布教すればよかったのだ)
ペテロには、そういう彼を笑い憐れむ、市民たちの呟きが聞こえていた。
(哀れなのは、あなたたちの方なのだ――爛熟せし都の民人よ)
ペテロは、再び目を閉じた。
(神を見失い、目の前の享楽にすべてを委ねる人々)
(主よ――願わくば、彼らに正しき道を指し示し、その哀しい魂たちをお救い下さるよう――)
「邪教徒、ペテロよ!」
刑吏の声が、彼の祈りをさえぎる。
「汝に、いま一度問う。汝は、このローマにおいて邪なる異国の神の教えを広めようとしたばかりか、信者を扇動し、先のローマ大火をひきおこした。本来ならその罪、むごたらしき死に値する。しかしながら、神々の王ユピテルの御前にて悔い改め、邪悪な教えを捨ててローマの神々に忠誠を誓うならば、命だけは助けてつかわす。どうか?」
ペテロは、刑吏の顔をきっと見据えた。
「私は、自らの神を邪悪であるなどとは思わぬ。もしあなた方が私の正義を悪として裁こうとするならば、私はそれを試練として受けとめよう。しかしあなた方がどれほどの仕打ちを私に与えようとも、一瞬として私の神に対する忠誠を曲げることは出来ない」
一瞬、刑場は水を打ったように静まりかえった。
ペテロは続ける。
「そしてまた、このローマを襲った不幸な大火に関しても、我ら主を信じる者は神に誓って潔白であることを断言する。人に幸福を与え、喜びと真心と真実を伝えることを信義とする我らが、なにゆえにローマの人々を災厄の淵に落とすような所業を行なわねばならぬのか。われわれ人間は、一人一人が例外なく罪深きもの――しかしあなた方がいま私に告げる罪に対しては、我らは赤子よりも無垢である」
「では」
刑吏は、唇をひきつらせながらいった。
「汝は、全能なるユピテルの前でさえ、己が罪を認めぬというのだな」
「認めぬ」
ペテロははっきりと言い切った。
「我らは、主の御心のまま、己れの使命を遂行したのみ。それを罪と呼ぶなら、この世のどこに罪でないことがあるというのか」
その断固たる態度に圧倒されたか、刑吏は
戸惑った様子で、おろおろとはるか上方の玉座でなりゆきを見守る自分の主を見上げた。
――それに応えて。
「では、死ぬがよい」
玉座の上に横柄に腰掛けたその男――この処刑を決定した最高責任者が、冷たく言い放った。
美しい、といっていい容貌の男である。
長方形の顔はほど良い皺や陰影が刻みこまれて知性的で端正な構造美を造り出し、肉体も鍛えられて岩のように盛り上がった筋肉で包まれている。
だが、肌が異様に青白く、顔の表情がおそろしく硬質なため、まるで大理石の彫像が腰掛けているようであった。
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・ドルスス・ゲルマニクス。
後の世に、暴虐と淫乱の限りを尽くした「暴帝」として、彼の伯父カリギュラと共に語り伝えられることとなる、ローマの最高軍司令官、国家元首、皇帝。
それが、彼であった。
彼は、蒼白な顔にまがまがしい愉悦の色を浮かべ、ペテロを狩りで生け捕った獲物のように見下ろした。
「貴様らが崇めるイエスとやらは、十字架に架けられて死んだ。そのためそなたらは、十字架を神聖視しておるというではないか。光栄であろう、たとえ逆さまでも十字架は十字架だ」
そういってにやりと歪めた唇の表情もどこか非人間的で、見るものに本能的な恐怖を感じさせた。
おもむろに彼は、刑吏のほうにむかって、
「やれ」
と、冷酷な一瞥を投げた。
刑吏は重々しく頷くと、槍の切っ先をペテロの喉元につき付ける。
ペテロは再び目を閉じ、イエスに最期の祈りを捧げた。
(主よ、私は後悔しません――)
そして、二度と見ることのないであろう地上の光景を目に焼き付けるため、もう一度だけ目蓋を開いた。
次の刹那――
彼は、目を開けたことを痛烈に後悔した。
彼がいまわの際に目にしてしまったものは彼が今まで目にしたことのない、信じがたいものだった。
いや、「目にした」という表現は適切ではない。
彼が見たものは、通常の人間の肉眼では到底見ることの出来ない、超自然的な、不可視のものであったから。
彼の、全てを悟り余分な感覚や雑念から解放された、澄みきった魂でもってはじめて、それは知覚し得るものであった。
彼の真正面の上方に鎮座せし皇帝ネロ、その背後に、それはいた。
それは――恐怖と、絶望と、狂気そのものの具現だった。死と、破壊と、苦痛だった。
人間の恐れ忌み嫌うもの全ての果てしなく醜悪な集積体。
それはネロの肩の上でさも心地よげに、ぶよついたおそろしく巨大な体を、蠢動させているのだった。
今まで一生をかけて戦い続けてきた、欲望や恐怖――それを死の間際に完全に断ち切ったその刹那に、このような途方も無い、これまでに出遭ったことのない恐怖にいきなり出食わすとは、あまりな皮肉であった。
それも、人の身では到底知ることの許されぬ、知っていたとしても到底耐えきれぬであろう恐怖に。
それは途方もなく醜く、しかも美しかった。
巨大で、絶対的であった。この世の全てに対して冒涜的でありながら、なお神聖ですらあった――このことが、もっともペテロを恐れ戦かせた――今まで、彼が触れることはおろか、話にすら聞いたことのない、得体の知れない邪悪の存在。
彼の師イエスを苦しめた、悪魔の王サタンでさえ、このものの前ではなんと人間的で、卑小な悪であることか!
それほどの壮絶な邪悪のオーラを、この存在は持っていた。
このものの前では、彼の信仰も、人間の尊厳も、あまりにも無力なものでしかない。
驚愕し、目を見開いて硬直している彼の喉にいま、ぴたりと槍の刃が触れた。
彼は死を、少しも恐れてはいない。
死など、今かれが目前にしているものの恐怖に比べれば、なんと些細なことであろう。 彼の喉元に突き付けられた槍のひんやりした感触も、彼の目をその存在から引きはがすことは出来なかった。
その、自分の背後にあるものに釘づけになったペテロを、ネロは気怠げに見ている。
生気のない、よどみ、腐りきった目で。
がたがたと全身を震わせる憐れなペテロの姿に、彼は何の感動をおぼえた様子もなく、 「やれ――はやく」
無感動に促した。
それに反応して刑吏の腕が機械的に槍を突き降ろす。
ペテロの喉元に鋭い痛みがはしり、朱い彼の生命が、勢いよく噴出した。
だがその苦痛さえ、彼を未曾有の存在にであった絶望から引き剥がすことが出来ない。
(しゅ――主よ――)
あふれる己れの血潮にまみれながら、薄れる意識のなかで彼は、最期の力を振り絞って絶叫した。
叫ばずには、いられなかった。この凄絶な恐怖を胸のうちに抱えたまま逝くことなど、彼には耐えられることではなかった。
「主よ――何故あなたはあれがこの世に来るのを許されたのか!」
全てが暗転した。
生命の最後のひとかけらが砕け散り、彼の体は魂なきただの骸と化した。
ここに、イエス十二使徒の一人ペテロことカペナウムのパルヨナ・シモンは殉教する。
しかし、彼が死の間際に見た、あの魁偉な蠢くものの存在をを知る者は、誰一人としていない。
のちに不可解な運命の糸によってたぐり寄せられる、不運きわまりない宿命を背負う者たちと、全知全能なる神以外に――
(続く)
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