ネロポリスの黙示 10(最終回)


 7、天使(承前) 

「ひきいいいいいい」
 ダバは、獣の声を発したあと、しばらく動かなかった。
 ルクレティアでシラの体を刺し貫いたまま何が起こったのかわかりかねる様子で、ただじっと彼女を凝視している。
「ああ……」
 シラは、涙を拭おうともせずに、
「やめて。それ以上、あなたの魂を犠牲にしないで」
 彼女の肩から、鮮血が噴水のように流出しつづける。彼女の顔色は、急速に血色を失ってゆく。
「私は」
 彼女の頬を、最後にもう一粒、大粒の涙が流れた。
「なにもできなかった。ネロも、アクテ様も救えなかった。でも」
  彼女は、力を失った震える手で、そっと ルクレティアを愛撫した。
「主よ。もし私の命にいくらかでも値打ちがあるのなら、今あなたに捧げます。だからこの人……ダバは……ダバだけでも、どうかお救いください」
 そして、さっきまで涙でぐしょぐしょだった顔に、優しい、澄みきった笑みをうかべた。
「お父さん」
 そうして、彼女の体は、人形のように崩れた。
 期せずして――ルクレティアを抱き締める彼女の姿は、世界全ての罪業と共にロンギヌスの槍を迎え入れた、イエスのそれに似ていた。
 ダバは、この大人しい少女には似合わぬ壮絶な最後を、ただ凝視していた。
 ひいいいいいいくううう……
 彼の喉元から、くぐもった唸り声が、わきあがる。

 ひきい……

 それは少しづつ擦れていき、やがて、荒い呼吸音のみとなった。
 今に破裂するのではないかと思うほど充血していた眼球も、次第にもとの翡翠色の瞳を取り戻してゆく。
「シ……」
 彼の唇から、嗄れた声が洩れた。
「シラ……」
 不意に、彼の目の焦点が合った。
「シラ!シラなのか!これは」
 彼はルクレティアを取り落とし、しばしの間その場に立ち尽くしていた。
 そして、
「俺が、殺した」
 愕然と呟いた。
 純粋に神だけを信じ、全てを捧げていた少女。
 この世のいかなる不浄や罪悪も汚すことができぬ、無垢な魂。
 その、彼女を。
(俺が――殺したのだ)
 この手で。
「ああ」
 彼の全身が、びくり大きくと痙攣した。
 そして――
「ああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
 絶叫が、暗闇を引き裂いて響きわたった。
「お、お、お……」
(俺が殺した)
 ルクレティアの囁く殺戮の誘いに呑み込まれて。
「ああああああっ!あああああああああ」
 彼は、叫び続けた。
 絶望。絶望。絶望――もはや、それ以外の何ものをも、彼の胸の内には存在しなかった。
(俺は何故剣をとったのか)
 強くなりたかったからだ。
(何故強くなりたかったのか)
 自らの大事なものを、自らの手で守り通したかった。
(大事なもの。今の俺に大事なもの)
 アクテ。シラ。
(シラ)
 おそらくはこの地上で最も清らかな、あの微笑み。
(あの笑顔が、俺にルクレティアを手に取る勇気を与えてくれたのだった)
(例え自らの身が冥府魔道に堕ち、醜い魔物と化そうとも、この戦いでシラを守りぬくためなら、己の身も心も、どうなってもかまわぬと)
 だから俺は、ルクレティアを手にした。
 その、ルクレティアを手にした自分自身が他ならぬ彼女を屠った。
 殺した。屠った。斬った。殺めた。
(俺は)
「俺を殺せえええええ!」
 再び、絶叫する。
「頼む。俺を殺してくれえ!俺は、こんなことをするために闘っていたのではなかった!生きているのでも……なかった……」
 それに応えるように。
 カダルの触手が、今再び、彼の頭上に襲いかかった。
(すべて、終わる)
 ダバは、うちひしがれた顔に、皮肉な笑みをうかべた。
(所詮、無理だったのだ。人の身で、神に立ち向かうなど――分不相応に力を得ようとすれば、力に振り回されて――このざまだ)
(俺は死ぬ。そして、この地上全ての人間も。この、悪夢のような怪物に食い尽くされて)
(どうして、そうであってならぬ訳がある?我々人の世界でも、力あるものが弱者を食らって生きているのではないか。たまたま、人間より力のある存在が、弱い人間を食らうのだ。自然なことだ、これは)
 奇妙な安心感が、彼をとらえた。
(全て終わる。この世界も、俺も――消えて、無くなる。ただ、それだけのことだ)
(全て――)             
 彼の体を、触手の塊が捕えた。
 ダバは、迫りくる死を感じ、きつく目を閉じる。
 天文学的数量の蚯蚓の群れのごときカダルの手が、彼が取り落としたルクレティアもろとも、彼の全身をぞぶぞぶと包み込む。
 腐臭のする粘液とやわらかいが弾力のない肉の海に口と鼻を覆われ、急速度で呼吸が封じられていく。
 全身から空気が締め出され、同時に意識もどんどん薄れていく。
 だがしかし、不思議と死の恐怖はなかった。
 むしろ、たった今自らが犯したあまりに救いようのない罪に対して、いとも簡単に断罪がなされることへの安心があった。
(シラ。俺は本当に、おまえを守ってやりたかった――)

(だめだよ、ダバ。まだ死んじゃいけない)
 ダバは、その声に聞き覚えがあった。
 幼く、無邪気で、そのくせひとく悲しげでかげりのあるその声は――
「ルキウス……?」
 ローマに向かう旅の途中で見た夢の中に現れた、不思議な少年。
 ふと気付くと、いつの間にか彼は、カダル神の触手から解放され、ぬらぬらと紫色に輝く奇妙な球形の空間に横たわっていた。
(憶えていてくれたんだね。良かった)
 少年ルキウスは、寄り添うようにダバの傍らにしゃがみ込んでいる。
(間に合って本当に良かった。あなたには、絶対にこんなふうに死んで欲しくなかったから)
「ここは?」
 ダバは、体を起こしながら訊ねた。
 足下を見ると、今はすっかり輝きの失せたルクレティアが突き立っている。
 いや、よく見ると輝きがなくなったわけではない。
 ただ、あの毒々しい深紅の輝きは失せ、先ほどまでの魔剣らしい妖気はすっかり消え失せていた。
(ここは、ぼくがカダルの体内にこっそり作った亜空間。ここでは時間の流れが外側より何十倍も遅いから、ゆっくり休んでいても大丈夫だよ)
「助けてくれたのか……余計なことを」
 ダバは、つい先程自らが犯した重すぎる過失を思いだし、嘔吐しそうになった。
「俺はシラを殺した。死んだところでその罪が償えるわけではないが、このまま生き存える価値とてない。死なせてくれるのが慈悲だったものを」
(そんなことを言ってはだめだよ。シラが最期になんと言ったか、聞いていなかったの?)
「生憎、俺が正気に返ったのは、シラが絶命してからだ」
(――それ以上、あなたの魂を犠牲にしないで――)
 ルキウスは、少し寂しそうに笑った。
(あの娘は、そう言ったんだ。そして望んで、邪剣に狂わされたあなたの前に立った)
「望んでだと」
 刹那、ダバの眼は獣のように荒んだ。
「あんな死に方をシラが望んだというのか。信じていた相手に貫かれ、自らの成したいと願ったことを何も果たせず、ただ無力に無駄にぼろ布のように叩き斬られることを、シラが欲していたとでも言うのか」
 少年は、何も言わず、ただじっと彼を見つめている。
 ダバは狂おしく体をはね起こすと、紫色の奇妙な空間の壁面に、幾度も拳を叩きつけた。
「あの娘の信じる神なぞ、俺は信じない。あれほど真摯に祈り続けている娘が、こんな無惨な死に方をするのを黙認するなぞ。天罰とやらがあるというのなら、俺を――暗黒に魂を囚われて狂い果てた俺を、ずたずたに引き裂いて殺せば良かったのだ。そのまま、地獄でもどこへでも引き摺って、幾星霜でも嬲りいたぶれば良かったのだ!」
 彼の真っ赤に血走った目から、涙が滂沱と溢れた。
「シラは――シラは、ただ誰かを救いたい、それだけを――それだけしか欲していなかったというのに」
 あああああ、と喉の奥を捻り捻るかのような嗚咽が漏れる。
(やっぱり、あなたは、わかってるんだ。彼女の望みがなんだったのか)
 ルキウスの小さな手が、ダバの乱れた黒髪の上にそっと置かれた。
(だったら、全部わかってあげなきゃ。彼女は、あの瞬間――目の前で自分の魂を食いつぶされそうになってまで闘おうとするあなたを、何を犠牲にしても救いたかったんだ。だから、彼女はためらわなかった。そして、後悔もしていなかった。ただ、あなたを救いたい、その思いだけ)
「ああ」
 ダバは邪神の粘液にまみれたその両手で顔を覆い、子どものようにおいおいと泣いた。
 わかっていた。
 シラがなぜあのような行動に出たのか。
 正気を失った彼の前に、何故彼女が立ちはだかっていたのか――あんなにも気高く、あんなにも優しく、哀しく。
 だからこそ、だからこそ彼は、自身の魔性を制御できなかった自分を、何よりも誰よりも許すことができない。
「俺なんかのために。俺なんかのために。こんな俺でも、シラは父親のようだと言ってくれたのに」
 ルキウスは、彼の髪をそっと撫でながら、優しく言った。
(まだ、出来ることは、あるよ)
 ダバは震えながら、涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を上げた。
「何が出来るというのだ。こんな俺のような無力な人間に」
 ルキウスは、二人の傍らに突き立ったままのルクレティアをゆっくりと指さした。
 魔剣はダバの殺気が消滅するのに合わせ、すっかり妖気を失い、ただのなまくらな金属の塊にしか過ぎなくなった――はずだった。
「これは……」
 ダバはまばゆさのあまり目を細めた。
 ルクレティアの刀身は、毒々しい深紅の鋼から、青白い不可思議な光を放つ結晶に変質していた。
「何が起こった?あんなにも邪悪で禍々しかったルクレティアが――今は神々しく聖なるもののような感じすらする」
(この剣の中には、シラの体内に蓄えられていたヴォルヴァドス神の霊力が全て注ぎ込まれているんだ)
「何?」
 ダバは眉間にしわを寄せながら、ルクレティアに手を伸ばした。これほどに白く明るく輝いているのに――剣そのものは、氷のように冷たい。
 彼は、アクリアヌスの話を思い出していた。
 シラの体には神を滅ぼせるほどの力が眠っているが、それをどのように取り出せば良いのかは、アクリアヌスにもわからない――
「なるほど、そういうことか」
 ダバは、肩を震わせて力なく笑った。
「他愛もない――あまりにも単純すぎて、誰にもわからなかったというわけか」
 つまり、シラの内部に眠るヴォルヴァドス神の力を解き放つには――難しいことなど何もない、容れ物であるシラの肉体を物理的に破壊すれば良かったのだ。
 ルキウスは、静かに頷いた。
(そう。あなたがシラの体を貫いた瞬間、そこから噴き出した霊力の奔流が、同じく霊的な力の容れ物であるルクレティアの中に流れ込んだ。その清浄な力が剣の中の妖気と魔性を一気に押し流し――今やこの剣は、世界でたった一ふりの神を殺せる剣として生まれ変わったんだ。もっとも――カダル神ほどの相手を斃すとなると、相手が巨大すぎて一度きりしか使えないけど)
「こんなものが。こんなもののために、シラは」
 ダバは、光の剣を引き抜いて虚ろに眺め回すと、乱暴に投げ捨てた。
 ルキウスはきょとんとして、
(何するの、ダバ?)
 ダバはゆっくりとかぶりを振り、
「やはり俺は、闘えぬ。シラを殺して得た力でなぞ、闘えるものか。ペテロとやらは、シラが大きな使命を持っていると予言したという。こんなものが――ただ殺されて、中にある力だけ取り出されて、うち捨てられる――そんなものが、神の定めたもうた運命だというのか。ふざけるな」
(あなたの言うことは、わかるよ。でも)
 ルキウスは、ダバの目を真正面からのぞき込みながら言った。
(ここであなたがこの剣を取って、カダルを斃さなければ、本当にシラの死は無駄死になってしまうんだ)
 ダバの頬が、ぴくりと痙攣した。
 ルキウスは続ける。
(シラは、愛していたよ。この世界の全てを。あなたのことも、アクリアヌスのことも、世界中の全ての人々を――敵であるはずのネロのことすらも)
 ダバは、のろのろと首をめぐらし、転がった神剣を見つめた。
(あなたがここで闘わなかったら、シラの愛した全てがカダルに食われ、無に帰してしまう。そうなれば――あの娘の生きた証も、彼女が救いたいと願った人々も)
 ダバはよろよろと立ち上がり、神剣を手に取り頭上にかざした。
「今、俺に出来ることは」
 嗄れた声で、呟く。
「結局、これしかないのか」
 ルキウスはにっこりと笑った。
(救ってあげてよ。シラが守りたいと願った全てを、シラが命をかけて救った、あなたが。あなたには、その義務がある)
 ダバが剣を構えると、腕の筋肉がみしっと音を立てた。
 ぶん、と一振りすると、稲妻のごとく閃光が舞い、ばちばちと空間そのものが爆ぜた。
「俺の罪は贖えぬ。だが、わずかでもそれを雪ぐことができるのなら――ゆこう」
 ルキウスは背伸びして、この上なく優しく、やわらかい動作でダバの頬をなぜ、微笑んで――
(ありがとう、ダバ)
 ひとことだけ、言った。

 ぎょおおおおおおおおおおおおおおおがお
がおおおおおおおおおおおがががががあああああああああああああああ

 脳髄を揺さぶるほどの絶叫がほとばしり、ダバの意識を戦闘に引き摺り戻した。
 気が付くとダバは、ルクレティアが変化した神剣を手に、再びカダルと対峙していたのだった。
 彼が手にした剣から発する光の洪水――それだけでも、邪神は不愉快な疼痛のようなものに苛まれるのだろうか。  
 奇声をあげ、身をよじり、触手をうねらせた。
「シラ――俺は俺に出来ることをやる」
 ダバは剣を思い切り振り上げると、渾身の力を込めてカダルのぶよついた巨体に叩きつけた。

 一瞬に、空間の全てが、白光で塗りつぶされた。

 激しい光の明滅と共に、カダルの全身が振動をはじめる。
 
 ぎょうがががごおおぐぎゅいいううおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

 おぞましい絶叫が、次元宇宙を揺さ振る。
 白く焼けついた空間で、カダルの体が、宙に浮かび上がった。
 そして、その魁偉な姿は、巻き起こる光の渦の中に徐々に溶け落ちてゆく!
(斃した、のか……)
 ダバは、とめどなく溢れ続ける閃光の中で、ぼんやりと考えた。
 神と名の付くほどの存在を殺した、その大それた行為の割には、あまりに呆気ない幕切れ。
 体の芯が痺れたかのような感覚にわずかな戸惑いを覚えながら、ふと頭上を見上げる。
(あれは)
 途方も無く巨大な、宇宙規模の大渦の中に、ちっぽけな人影が一つ、浮かび上がった。それは――
(ルキウスか?)
 先ほど、絶望しカダルに食われかけた彼を救ってくれた少年。
 シラの心を、そして己の成すべき事を、思い出させてくれた少年。

 たった今、別れたときの笑顔とは正反対に――ルキウスは、泣いていた。
(誰か、ぼくを助けてよ)
 光の海の中で、ぽつんとしゃがみこんで、膝を抱えて嗚咽を漏らしている。
「そういえば、ルキウスは……」
 誰かに、似ている。
 一体、誰だったか。それほど、遠くない過去に、会った人物のようなのだが。
「まさか」
 はっと気付き、ダバは、自分の視覚と記憶を疑った。
「ネロ?」
 間違いない――たしかに、ネロそのものだった。
 髪や目の色、白い肌、目鼻立ち、どれをとっても、ネロの面影がある。
(そういえば……ルキウス)
 かすかに、聞き覚えのある名だとは思っていたが。
(ネロの幼名は、たしか)
(ルキウス・ドミティウス・アエノバルブス)
(そういうことだったのか)
 ダバの夢に現れ、彼を哀しげに見つめたあの少年。
(おじさんは、ネロを殺しにゆくの?)
(ネロもきっと、強くなりたかったんだろうね)
「そういうことだったのか」
 ダバは、我知らず呟いていた。
(強く、なりたかった)
 哀しい瞳で、たったひとり膝を抱えて、蹲る少年。それはそのまま、心の奥底に懊悩を抱えつつも罪にまみれつづける、ネロの魂の姿そのものだったのだ。
 ネロの内奥に押しこめられていた様々な感情――悲嘆、罪悪感、悔恨、そして愛されたいと願う飢え――そういったものが具現化し、邪神の憑かれ自身を見失った彼の中から分離したのであろうか。
 ダバは、ルキウス――ネロにゆっくりと歩み寄っていった。
 一歩歩みだす毎に、ルキウスの心が、ネロの孤独が、彼の胸の中に流れこんでくる。
(お母さま。お母さまのために、僕はカエサルになるんだ)
 絶対的に彼を愛し、抱き続けてくれると信じていた、母の胸。それが、憎悪と欲望の渦巻く深淵と化したのは、いつの頃だったか。
(ルキウスや。ルキウス――私の可愛いルキウスや)
(坊やは大きくなったら、必ずローマの支配者になるのよ)
(私が、そうしてみせるから)
 そうしてアグリッピナは、自らの夫クラウディウスを、手にかけ、ネロはインペラトルの位についた。
(僕は、このローマ全ての人を幸福にする義務がある。それがカエサルの責務なのだから)
 ネロは、その義務を果たすべく、働いた。
 昼も、夜も。それがおのれの安らぎを見いだすための早道だと信じて。
(ネロは、随分と良い政治家を気取っているが)
(本性は、どんなもんか知れたものじゃない。今に、化けの皮が剥がれるさ)
(何せ彼奴は)
(あの女の息子なのだから)
(血塗れの手で帝位に飾られた、汚らわしい人形なのだから)
(人殺しの息子なのだから)
 ネロは、癒されなかった。
(力が、欲しい)
 彼は願った。
(もっと、強い力が。何者にも負けぬ、我を傷つけるもの全てを打ち負かせる力が)
 彼は、走り続けた。数少ない、彼を理解してくれる者たちと共に。
 彼はたしかに、力を得た。
 だが。
 彼の得た力は、彼の望みとはまるで反対の方向に彼を運んでゆく。
 陰謀と欲望、憎悪と打算。ありとあらゆる悪徳の渦が、彼を巻き込んでいった。
 彼に取り入ろうとする奸臣どもの、暗い光を放つ眼、眼、眼。
 そして――
(ネロや)
 あの夜、眠る彼の耳に囁きかけた、あの声。
(おお、私の可愛いネロや。逞しく育った私の赤ちゃん)
(母は、そなたが大好きじゃ。母とて女じゃ。この母を――この母を、抱いておくれ)
 血のように赤い、アグリッピナの唇。なりふり構わず権力に欲情する、彼の実の母の――爛れた眼差し。
(ソレホドマデニシテ、生キタイカ)
(オノレノ息子ニ体ヲ売ッテマデ、オノレノ身ガ可愛イカ)
 彼は、地獄に堕ちた。
(力ヲクレ)
 この地獄からはい上がるために。
(モット、力ヲ)
 そして――ネロは、彼と出会ったのだった。
(ネロさま。私の力をご覧あれ)
(宇宙の外より来たりし神々の、絶大なる力を。いかがです?この力が、欲しくはありませんか?)
 シモン・マグス――混沌と契約せし男。
 彼の見せる妖しい未知の世界に、ネロは、魅せられた。
 そして――

(それほどまでに、力が欲しかったのか)
 ダバは、痛々しく呟いた。
(それほどまでに――)
 オノレノ孤独カラ逃レルタメニ。
 タッタヒトリノ自分ヲ守ルタメニ。
 自分ノ大切ナモノヲ守ルタメニ。
(力を求めずには、いられなかった)
 同情では、なかった。ましてや、憐憫などでは――ありえない。
 ネロと、自分。
 一体、どこが違うというのか。
 力を求め、力に呑まれ、大切なものさえ傷つけずにはおれぬ――
(同じ、だったのだ)
 だから、ネロはダバにこだわり続けた。
 ダバもまた、彼と闘わずにはいられなかった。
(同じだから、だったのだ)
 ダバは、ルキウスの前に立った。
 共感、というのとは多分違っている。
 悲しみでも、無論喜びでもない。なんとも表現しがたい、奇妙な感慨が、彼の胸を満たしていた。
 ルキウスは、ダバを見上げ、少しだけ微笑んだ。
(ありがとう、ダバ)
 彼の体は、ゆっくりと宙に浮かび、上昇していく。
 それを視線で追い掛け、見上げて、ダバは――
「ああ」
 息を呑んだ。
 彼らの遥か頭上に、光り輝く影が浮かんでいた。懐かしく愛しい、その姿は――
「シラ」
 自らの命を以てダバを救い、カダルを封じた、その少女。ものやわらかな笑みをうかべ彼らを見下ろしている。
 優しく、手を差し伸べる、その胸のなかへ――ルキウスはとけこんでいった。
 シラは、ルキウスを抱き締めるように両腕を組むと、優しく微笑む。
 そして束の間、ダバを見つめ――この上なく幸せそうな笑みをうかべ、光の渦のなかに消えていった。
「畜生」
 ダバは、力なく笑い、その場に片膝をついた。
「俺は、神なぞ信じぬ。信じたいと思ったこともない。そいつらがシラにした仕打ちが正しいとも思わん。が――」
 そういって、もう一度天を仰ぐ。
「今だけは、信じてやっても良さそうだ」
 やがて、白い光の渦は、ゆっくりと収縮していった。何度か明滅を繰り返し、少しだけ膨張しては、また縮んでゆく。そして、遥か天の高みの一点に向かって、くるくる回りながら消えていった。
 そして――暗闇が戻る。

 崩壊した黄金宮殿の中心でただ一人、ダバは立ち尽くしていた。
「全て、終わった」
 ダバは、呟く。
「全て、終わったのか」
 このおぞましい戦いも、ネロの支配も。
 そして、シラの命も。なにもかもが、全て。
「ダバ?」
 彼の背後で、弱り切った声が呼んだ。
 アクリアヌスだった。
「生きていたか」
 ダバは、無感動に呟いただけである。
 魔道師は周囲を見回しながら、彼に歩み寄っていった。
「どうやら、決着がついたようですね」
「ああ」
 ダバは頷く。
「邪神は、どうやら傷つき、元の世界に追放されたようだ」
「シラは?」
 ダバは、答えなかった。
 アクリアヌスはかぶりを振り、
「そうですか」
 とだけいった。
 ダバは、顔の汚れを手の甲で拭いながら、
「シラが、カダルを倒した。そして」
 大きく深呼吸し、
「ネロを救った」
「彼女は自分の使命を果たしたのですね」
 アクリアヌスは、口元に小さく笑みを浮かべた。
 ダバは天を見上げ、
「そうだ。そうして、彼女が信じた神の住む場所に、旅立っていった」
「終わったのですね」
 魔道師が、ぽつんと呟く。
「全て。この、おぞましい戦いは」
「ああ、終わった。そして、勝利したのは俺達だ」
 そういってダバは、再び深呼吸をした――
 しかし。
「終わっただと」
 彼の足元で、何かが蠢いた。
「まだだ――まだ終わってなどいるものか――まだ余は、負けてなどおらぬ」
 血と邪神の体液にまみれた、ぼろぼろの人影――ネロだった。
 彼は、悲愴な表情でよろよろと立ち上がると、
「余は、まだ戦える。あのような神の力なぞ借りずとも、余一人の力でも、そなたなどには負けぬ」
 そして、折れた剣を振り上げ、再び身構える。
「どうした、ダバ。剣を取れ」
 そして、ぎりぎりと歯を噛み締めると、
「剣を取らぬかっ!さもなくば、斬るぞ」
 ダバに、ふらふらと飛び掛かろうとする。 が、それはほとんど、倒れかかっていくようにしか見えなかった。
 その彼を。
 抱き留めた者がいた。
「もう、やめて」
 黒い髪の、すらりとした女。
「あなたは、もう、十分戦ったわ」
 アクテだった。
 ネロの最初の妻。全てを擲ち彼を全身で愛しつづけた女。
 彼女は、今にも崩れおちそうなネロの体を思い切り抱き締めた。
「もう、終わったの。あなたは、もう、勝たなくていいの。いままでみたいに、自分の傷を隠して、傷ついてないふりなんかしなくていいのよ」
 ネロは、しばらくダバと彼女を眼球が飛び出しそうなほど睨みつけていたが、不意に脱力し、
「そうか。余は、もう戦わなくて、いいのか」
 そのまま、アクテの体にぐったりともたれかかった。
「余は、解放されたのだな」
「そうよ」
 アクテは、泣きながら、彼のどろどろに汚れた髪の毛を撫でた。
「あなたは、やっと自由になったの。全てから」
「全て、か」
 ネロの眼が、ふっと遠くなった。そして、
「解放してくれたのは、そなたらか」
 ダバとアクリアヌスを見る。
「いや」
 ダバは、苦笑を浮かべてかぶりを振った。
「あなたを救ったのは、シラという娘だ」
「シラ――」
 ネロの口元に、満足気な笑みが浮かんだ。
「何故だろうな、何か、とても懐かしい感じがする名前だ。それに、温かい」
「ああ」
 ダバは、頷く。彼の胸には、ネロの魂――ルキウスを抱いて微笑んでいた、光り輝くシラの姿が、甦っていた。
「どうか、忘れないでやってくれ。その名前を」
「ああ」
 ネロは、ゆっくりと頷いた。
「余は、その名を生涯記憶に止めるであろう」
「あの娘は、約束を守ってくれたのね」
 アクテが、嬉しげな、それでいて哀しげな笑みでダバに振り向いた。
「ありがとう。ダバ、アクリアヌス、シラ」
 そして、ネロを立ち上がらせると、
「さあ、行きましょう。ネロ」
 ネロは、またゆっくりと頷く。
「さらばだ、剣闘士ダバ。余は、そなたの名前も、生涯――いや、命果てたその後も、忘れはせぬ。さらばだ」
 アクテとネロは、ダバたちに背をむけ、歩き始めた。
 ダバとアクリアヌスは、その後ろ姿が崩れた宮殿の瓦礫の隙間に消えるまで、ただ穏やかに見つめていた。



エピローグ

「来たか、アクリアヌス」
 ダバは背後の人影に、静かに呼び掛けた。
 魔道師は何もいわず、頷いて彼の傍らにしゃがみこんだ。
 彼らは今、ローマを見下ろす丘の一つ、ヤニクルムの丘のふもとに作った、シラの墓の前にいた。
 彼女の信じたものに準じて、ちゃんと木の十字架をこしらえてある。
 そして、ここで再会することを約して、ダバとアクリアヌスはそれぞれの旅路についたのだった。
「ネロが死んで、もう一年か」
 ダバは、呟いた。
 ネロは、アクテと共にローマを去り、その翌日に自決したという。
 ローマ中の風説では最期まで命乞いをして、惨めに死んだ、と口汚く噂する者もある。
 最期は潔く、武人らしく散ったと伝える者もある。
 彼の生前の評判から考えて、前者の方が圧倒的に多数をしめているようだったが、ダバたちは、当然後者を信じていた。
 どちらにしろ、彼の最期を看取り、ささやかながら弔ったのは、アクテであるということだけは、不動の事実であるようだ。
「一年か」
 アクリアヌスも、呟く。
 この間に、ローマにはガルバが凱旋したが、帝位についてすぐに暗殺され、ネロによって追いやられていたオトーが皇帝となるなど、相変わらず焦臭い状況のままである。
 そしてまた、ネロが行なった以上の善政を行なおうという輩も、今のローマにはいない。 そうなると民衆は勝手なもので、生前あれだけ罵倒しておきながら、やはりネロの時代を懐かしんで嘆くのであった。
「俺はシラの父親に似ていたのだそうだ」
 ダバが、唐突にいった。
 アクリアヌスは笑い、
「そうですね。あの娘はずっと父親を恋しがっていましたから。頼もしくて優しいあなたのような男性は、父親の代役にぴったりだったのかもしれません」
「俺はそんな歳ではないのだがな」
 ダバは肩をすくめる。
 再び、静けさが訪れた。
「僕の父親も、死んでしまいました」
 アクリアヌスは呟いた。
 ダバは、ただ黙って頷く。アクリアヌスの父親がシモン・マグスであり、あのカダル神をこの世に呼び込んだ張本人であるということは、彼も聞かされていた。
 カダルが元の次元に追放され、操るものがいなくなった瞬間、シモンは消滅した。
 そのおかげで、アクリアヌスはかろうじて生き残ったのである。
「死んで当然のことをした父でしたが――一つだけ、今でも気になることが」
「何だ?」
「父は、何故、それほどまでにして、力を欲しがったのか――と」
 たしかに、ネロがカダル神の力に依存したのにも、理由があった。おのれ自身を、おのれを虐げるあらゆるものに負かさぬため――彼は、怪物となった。
 人が力を欲するのになにか理由があるものならば、シモンの場合もまた然りであろう。
「父もまた、ネロと同じように何かを信じて裏切られ、それ故に同族を滅ぼしたのでしょうか?父が信じたものとは、裏切ったものとは、何だったのでしょう?」
「知りたいのか?」
 ダバが、アクリアヌスを見つめる。
 魔道師は小さく笑い、
「いいえ。今更ですから。それに、全てを知ることが幸福ではないと、父が教えてくれましたから」
「なるほどな」
 ダバは、シラの墓の上にかかっていた蜘蛛の巣をはらった。
「それにしても、随分とおしゃべりになったな、アクリアヌス」
「そ、そうですか?」
 アクリアヌスは、少し照れた様子で、
「自分では、そんなつもりでは」
「あの戦いのせいか」
 ダバは微笑した。
 あの、この世のものならぬ魔物たちとの絶望的な戦い。
 仲間を失い、魂さえ失いかけた悪夢のような闘争。
 あの戦いに勝利し、しかも、こうして笑っていられるのは――
「シラだ」
 ダバは、眼を細め、空を見上げた。
「あの誰もが不幸になるしかなかった戦いで、全てがあるべき姿に戻ってあるのは、シラの――シラがいたからだ」
 自らの命と引き替えに、彼女はそれをやってのけたのだった。
 それが現実かダバの見た幻だったのかどうか、判別はつくものではないが――彼女は天に昇っていった。
『天国』というものが仮に本当に存在しているものなら、彼女はまさに神に召され、そこに安住の地を見いだしたのだろうか。 
「俺達は死んだらどこへゆくのだろうな」
「どうしたのです、ダバ」
 アクリアヌスは、少し面食らった様子で、
「あなたらしくもない」
「少なくとも俺は、シラのいるところには行けぬだろうが」
 彼は、力強く立ち上がった。
「せめて、もう一度会って礼を言いたいものだな」
「同感ですね」
 アクリアヌスも、腰を上げる。
 人は、生まれ、生き、死んでいく。
 罪あるものも、清らかなるものも、美しいものも、醜いものも。
 だが、それら全てが、この世界そのものなのだ。
 混沌の中であがき続け、苦しみながらも生き続けるもの――それが、人間というものであるのだろう。
 全てを愛し、受け入れたシラ。
 彼女にとっては、世界はあるがままの姿で美しく、救い、慈しむ価値のあるものであった――たとえそれが、彼女にとってどんなに酷い仕打ちを加えるものであったとしても。
 ダバは、思った。
 自分も、シラのよう全てを抱きしめて生きることはできるのだろうか。
 そうすれば、死して後、シラのいるであろう場所にゆけるのだろうか。
(そんなことを望むには、俺は汚れすぎている気がするが)
 ダバは、苦笑した。
(少なくとも、シラに与えられた今のこの生を、愛することはできるだろう)
「行こうか、アクリアヌス」
 ダバは、静かに言った。
 アクリアヌスも、頷く。
 二人は、歩き始めた。
 再び始まる、おのれ自身の長い長い魂の旅路に向かって。

(了)

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