後編



6 嘘とアリバイ

「季影さんは嘘をついていますね」
スタジオ・トリニティから帰る車の中、僕に妻崎と呑んでいる間にどんな話をしたか、と訊ねる一言以外は一度も口を開かなかった楠は(僕が喋っている間も、一切コメントはなしだった)、事務所に戻って自分のデスクに腰を落ち着けるや、何の前触れもなくそう言った。
「なんだ、藪から棒に」
寝不足とアルコールで濁り始めている思考をなんとか揺り起こそうと、僕はぶんぶんと頭を振った。
「たしかに彼女の言うことは、しどろもどろでいまひとつ信用できないけど、『嘘』とはっきり断定できるほど怪しいことを言ってたとも思えないけどな」
「しどろもどろとかそういうレベルじゃなく、はっきり辻褄が合ってない。それに気づかないなんて、成河さんまだ酔ってらっしゃるんじゃないですか」
「そりゃ、きみから電話がかかってくるまでは、ずっと呑んでたんだから」
僕はずきずき痛む眉間を押さえながら、どすんと事務所のソファに腰を下ろした。
「きみが電話してこなけりゃ、今もまだ酔っぱらっていられたんだぞ」
「連絡しない方が良かったんですか?」
楠は酷薄な笑みをうかべる。
「本心からそうおっしゃってるんなら、僕も今後の成河さんに対する態度を改めなければなりませんが?」
「う……」
このあたりで、僕は楠に逆らえない。楠の関係している事件を飯の種にしている身としては、彼がリアルタイムで事件の情報をリークしてくれなくなるのは非常に困る。
楠は僕が困り果てている姿を見て気が済んだのか、その話題にはそれ以上触れず、
「季影さんの言ったこと、よく思い出してみてくださいよ。季影さんに、美影さんが何て言って呼び出しをかけたか」
「えーと、妻崎さんが来て、季影さんと緊急に話したいことがあるって言ってるから、すぐ仕事場に戻って来い、とか」
「そう。でも、妻崎さんは、昨夜ずっと成河さんと一緒だった。それは間違いないですね?」
「ああ、勿論。一度も彼から目を離さなかったかと訊かれれば嘘になるが、少なくともスタジオ・トリニティと飲み屋の間を往復できるような長時間、彼が姿を消したことはなかった。そういう意味じゃ、確かに『妻崎さんが来た』っていうのは嘘に違いないけど、それは多分季影さんに電話を入れた美影さんが偽の口実を使った、ということではあっても、季影さんが嘘をついてる、って話にはならないんじゃないか」
「確かに。でもね、成河さん」
楠は、人差し指をぴんと立てた。
「さっき季影さんと話している時にも言ったことですが、何故季影さんが千影さんにそのことを言わなかったのか。美影さんからの電話の内容を、変にぼかしたままスタジオ・トリニティへ向かったのか?おかしいとは思いませんか」
「それは、季影さんが言っているように、美影さんから電話の内容について口止めされたからじゃ。それも美影さんの電話だと、妻崎さんの頼みでもあるかのような言い方だったみたいだけど」
「誰が美影さんを訪ねてきたのか、あるいは訪ねてこなかったのかは知りませんが」
楠はすっと目を細めた。
「どう考えても、彼女の証言内容の不自然さは、彼女が嘘をついている、という以外の理由で説明し難い。そうですね、一つ一つ可能性を潰していってみましょうか。まず、それが妻崎さんであったかどうかはともかく、何者かが本当に美影さんが一人でいるスタジオ・トリニティを訪ねて、美影さんに季影さんと連絡をつけてもらうよう頼んだという場合。季影さんにしか話せない用事があるんなら、何故その人物は季影さんの携帯電話に連絡せず、わざわざ他の人間に知られる可能性が高い、スタジオ・トリニティに直接おしかけたんでしょう?」
「季影さんの携帯電話番号知らなかったんじゃないのか」
「それはあり得ますね」
楠は意地悪く笑った。
「でも、お互いに緊急の連絡先として携帯電話の番号も教え合えない人間が、どうしてもその人に相談しなくてはならない事態――いや、もっと具体的に言いましょう、その人でなくては相談できない事柄っていうのは、一体何なんでしょうか。成河さん、思いつきます?」
「……いいや」
「そうですよね。つまり、季影さんに緊急の用事がある誰かがスタジオ・トリニティに現れて、美影さんに対して季影さんを呼び出すように求めたというのは、真っ赤な嘘だ。ここまでは、いいですか?」
「ああ、たしかに。それでもやっぱり、嘘をついているのが季影さんだ、と断定するのは強引すぎるんじゃないかな。話が最初に戻るけど、その真っ赤な嘘を捏造したのは、電話をかけた美影さんの方だったのかもしれないんだから」
「そのとおりです。ですから次は、成河さんがおっしゃるとおりだったと仮定して検証してみましょう」
楠は一度だけ深呼吸して、
「そう、実は美影さんが季影さんをスタジオに呼び戻すのに使った口実が、実は全くの虚偽であった場合。スタジオには誰も訪れておらず、ましてや妻崎さんから何か連絡があったなんていうのは全く美影さんの創作だった。そうすると、美影さんが季影さんに電話をかけた理由は、実は他の何者かからもたらされたものではなく、美影さん自身が季影さんにだけ伝えたいことがあった、ということになります」
「そうだな……」
「ところが、これもまた、美影さんが本当に季影さんだけに伝えたいことがある、とした場合おかしな話になってくる。美影さんと季影さんはついさっきまで一緒にスタジオ・トリニティにいたのだから、その気になれば二人っきりで話す機会なんて、いくらでも作れたはずです。わざわざ、千影さんをはじめ他の人間と一緒に外出している時を選んでそんな重要な用件を切り出さなければならない理由なんて、まず考えられませんよね」
「その用件が、四人がファミレスに向かってから生じたものであるとしたら、どうだろう」
「それはあり得ますが、彼女たちの外出は所詮ただの食事です。行き先も、極めて短時間で仕事場と行き来できる程度の場所。彼女たちが食事の所要時間がどれくらいかはわかりませんが、どうせまた戻ってくるのだから、それから用事に取りかかっても不都合があるとは思えません。それに、美影さんはその電話の後、普通に『すたーらーく』に現れている。大芝居を打って季影さんを呼び出した後だとすれば、あんまり変だと思いませんか」
「ふむ」
 僕は腕組みして考えた。
「つまり、これで季影さんの証言にある美影さんからの電話の内容が、『論理的に考えて虚偽である』ことと、そんな話をでっちあげてまで美影さんが季影さんに緊急連絡をしなくてはならない理由がない、ということが証明された訳か。それイコール、季影さんは少なくとも美影さんと電話で交わした会話については、明らかに嘘をついている、と」
「そういうことです」
楠の目が、不意に優しくなった。
「成河さん、酔ってても十分頭脳明晰じゃないですか。尊敬します」
「よせよ、きみが言うと嫌味だ」
僕はなんだか居心地が悪くなり、なんとなくもぞもぞしながら、
「だけどさ、楠くん。季影さんが嘘をついているとして。一体何のために?彼女は一番美影さんを助けたがっていたんじゃないのか?こんなくだらない、見え透いた――といっても僕はすぐに嘘だと気づけなかった訳だから、こんな言い方は反則かもしれないけど――嘘をついたら、尚更事態が混乱するだけじゃないか。彼女が、そのことをわからないような人だとは、僕には思えないんだが」
「その問いに答えを出すには、パズルのピースが不足しすぎています。ですが」 
楠は、髪の毛の先をつまんで指先に持っていく。
「現段階でできる推測としては、二つのことが考えられます。一つ目は――さっきの推論と微妙に矛盾はするんですが――やっぱり美影さんの電話は本当に一刻の猶予もないほど緊急でショッキングな内容だった。えーと、この矛盾を解消するには、と」
 彼は束の間天井を見つめて、
「例えばこの話題が他の人間には特にどうということはなくても、季影さん個人にだけは確実に衝撃的なものだったと仮定してみれば、とりあえずの辻褄は合いますよね。美影さんがどういうつもりで、季影さんにそれを急いで伝えたかはともかく、季影さん自身は千影さんたちに言うべきでないと判断した。その具体的内容がさっぱり思い浮かばないんで、ちょっと説得力がないんですが。もう一つの可能性は――」
彼は、不意にきゅうっと眉をしかめて、十秒ほど黙り込んだ。
「おい、楠くん?」
僕の声で何かが吹っ切れたのか、彼は苦笑してかぶりを振る。
「いや、こんな仮定は今のところ、口にすべきじゃないな」
「おい、一人で納得してないで、ちゃんと口に出して言ってくれよ」
「いえ、気にしないでください。とりあえず、今の情報量でこの辺のことを推理するのは、無理があるようです。それにどのみち、季影さんが本当は美影さんから何を言われたのかが明確になれば、自然と彼女が嘘をついた理由も判明します」
「うーん」
僕は唸る。唸ってしまう。
「とはいっても、電話をした相手である美影さんが死んでしまった訳だから、結局季影さんが僕たちを信用して何もかも話してくれる以外に、それを知る方法はないな」
「そうなりますね」
楠は肩をすくめる。
「まあ、僕たちは、かの『九マイルは遠すぎる』のニッキイ・ウェルト教授じゃないんですから、どうしても推論だけで何もかもを割り出す必要はありませんし、手がかりも時間が経てばもう少し出てくるはずです。季影さんの真意についての憶測は後にして、ちょっと関係者のアリバイを整理してみましょうか」
「そうだな」
僕は言いながら、思わず時計を見た。そして諦めの溜息をつく。この調子だと、僕が楠から解放されるのは朝だ。
しかし楠は、一切疲れや寝不足を感じていない様子で、快活に推理を再開した。
「まず、妻崎さんから行きましょう」
「おいちょっと待て」
 僕はソファから立ち上がりかけた。
「それじゃきみは、妻崎さんも怪しいと思ってるのか。しかもそんな、真っ先に」
「そういう訳じゃありません。関係者の中じゃ、一番アリバイがしっかりしてる人だから、最初に済ませておこうと思っただけです。幸か不幸か、成河さんご自身が証人だったりする訳ですしね。でも、全く疑っていないと言うと、嘘になりますね。殺人の動機で統計的に多いのは金銭関係のトラブルか痴情のもつれ、ですから」
「痴情って、妻崎さんが交際してたのは季影さんだろうが。美影さんは関係ない」
「どうだか、美影さんに浮気してて、それが季影さんにばらされそうになった、なんてこともあり得なくはないでしょう。まあ、動機の話は後にして、今は機会の話です。さて、目下のところ、美影さんが殺された時刻は、不確定要素こそ多いものの、最後に『すたーらーく』で目撃された今夜の一〇時三〇分頃から、千影さんたちがスタジオに帰った一一時二二分までの間だと思われます。まあもっとも、あれだけの死体切断作業を一〇分やそこらで行うのは不可能でしょうから、大体一一時少し前くらいというのが妥当な線でしょうが。
ともかく、妻崎さんはその時間帯も、しっかり成河さんと一緒にいたんですよね?間違いありませんね?」
「無論」
「わかりました。ということは、妻崎さんによって自動的に成河さんのアリバイも証明されることになる訳ですね」
「おいおい、僕まで疑ってるのかよ。冗談じゃないぞ」
「とりあえず、登場人物のアリバイは全員確かめておかないと。著述者が犯人、ってケースも思慮に入れておかないと」
「勘弁してくれよ、おい」
と、僕が彼の言葉と残存アルコールに締め上げられているのを見て、楠はくすりと笑う。
「冗談ですよ。当たり前でしょう?それじゃあ次は誰に行きましょうか。次にアリバイがしっかりしているのは、やはりアシスタントの二人ですか。山野鈴美さんと本丸神奈子さん。この二人は当該時間帯には一度も『すたーらーく』から出なかった訳で、店員がそれを証明してくれてます」
「たしかに」
それにアリバイはともかく、少なくとも僕には、彼女らがそんな大それたことをしでかす人間には思えない。もっとも、僕が事件に関係者に抱く印象というのが確かであれば、楠の登場を待つまでもなく僕自身が探偵として活躍できているはずで、そうでない以上僕の感覚をあてにするのはあまり適切でない。
楠は、鉛筆立てからボールペンを抜き取り、それに自分の髪の毛を巻き始めた。
「それじゃ、事件に関わりがあるという点では外せない、千影さんと季影さんに行ってみましょうか」
「なんだかんだ言いつつ、この二人が一番アリバイが怪しいのか……」
「そうなりますね。結局、最後に美影さんが目撃されてから後、二人して『すたーらーく』に戻ってくるまで、姿を消していた訳ですから」
「彼女たちが美影さんを探しているのは、誰か目撃していないのかな」
「さあ、そこまでは僕もまだ調べてないし、江田さんたちも聞き込みの最中――といっても事件そのものが夜中なんだから、明日以降になるんでしょうね。でも、あの付近は夜、それほど人通りは多くない。アリバイを証明するのは難しいでしょう」
「でも、そうは言っても、美影さんの死体をあんな風にするにはかなりの時間が必要だろう。やったことないからわからないが、最低でも一時間はかかるんじゃないのか」
「まあ、そうでしょうね。僕も自分がやったことないからわかりませんが」
楠は微笑する。
「そうすると、美影さんが『すたーらーく』を去ってから千影さんと季影さんが戻ってくるまでの時間じゃ、明らかにこの犯行は不可能ですね」
そこで彼は腕組みして、ぼそりと呟く。
「でも、三人とも感じは違っても、黒くて長くてまっすぐなんだよなあ、基本的に……」
「え?」
「いえ、何でもありません。それより、あとこの事件に関係している人物といえばどなたがいらっしゃいましたっけ」
「えーと、例のストーカーは外せんだろう」
「でも、彼は未だ素性不明ですから」
楠は、何の興味もなさそうに言う。
「今の段階じゃアリバイの確かめようもありません。まずは身柄を確保しないと」
「その言い方だと、楠くんはストーカーが犯人だなんて思ってないね?」
「そんなことはないです。でも、事件全体の模様を俯瞰して見た場合――」
彼はすっと目を細めた。
「どうもストーカーの件だけ、全くちぐはぐな感じがします。明らかに一つだけ浮いている」
「楠くんもそう思うかい」
僕も同じような印象をずっと抱いていたので、思わず相槌も力強くなる。
「そうだよな、きみのいつもの言い方を借りれば、『模様が違う』よな」
「別に僕の言い方を真似しなくても、妙な違和感を感じずにはいられません」
楠はほうっと大きく息をついて、
「これで全員ですか。いや、あと一人だけいましたね、この一連の事件の全貌を知っているはずの人物が」
「え?」
僕は首を傾げる。
「誰だい、それは」
「しっかりしてくださいよ、成河さん」
楠は白くて秀でた額に手を当てる。
「戸浜さんがいるじゃないですか。そもそも僕たちをこの事件に巻き込んだ張本人でしょう」
「ああ、そうだった」
安直に答えながら、僕ははたと考えた。彼は果たして、今夜のこの殺人事件のことを既に知っているのだろうか?
無論、彼がもし犯人であった場合(僕個人としてはそんなことは絶対にあり得ないと信じたいが)は、一連の事件の裏は勿論、今回蓮森三姉妹の一人が死んだこともとっくに知っていることにはなるが。
「だけど、あの人が犯人である可能性はまずないと思うけどな。彼はきみの評判や探偵としての腕前を知ったうえで、無理矢理きみに脅迫騒ぎの調査をさせようとした。自分がこれから殺人を犯そうとしている人間が、そんなリスキーなことをするかな」
「この殺人が、最初から緻密な計画に基づいて行われたとは限らないんじゃありませんか」
楠は薄く笑う。
「美影さんを死なせてしまったのも、実はほとんど事故に近い、彼にとって不本意なものであったとすれば。たまたま『アシャンティ』からの脅迫事件を知っていた彼は、咄嗟に死体をそれに見立てることを思いついた。これだと、自然と容疑は脅迫メールの差出人に向かいますからね」
「うーん」
 たしかに、あり得ない話ではないが――
「あのぶきっちょそうな人に、短時間であれだけ死体を綺麗に細工するなんてこと、できそうにないけどなあ」
「人を見かけで判断しちゃいけないのは、ミステリの鉄則でしょう。先入観は推理の敵ですよ」
「そりゃそうだけど……」
言いながらぼくが大欠伸をしていると、
「ぶきっちょで悪かったな」
おそろしく不機嫌な声と同時に、突然事務所のドアが開いた。
僕は驚き慌てつつ、反対に楠は素早く静かに――振り向いたその先に、話題の当の本人である戸浜が立っていた。
編集部に泊まり込んででもいたのだろうか、ネクタイもブレザーもカッターシャツもよれよれで、顔も寝不足らしく腫れて脂ぎっている。
彼は血走った目で、僕と楠を交互に見た。
「どういうことなんだ、これは」
がらがらに荒れた声で言う。
「成河先生、俺は、鳥乃先生がこんなことにならないために、あんたに下げたくもない頭を下げて、頼んだんじゃねえか。どうなってんだよ、おい」
「……すみません」
いささか不当な言われようながら、結果としては彼が一番恐れていた事態が起こった訳だ。言い訳のしようもない。
「すみませんじゃねえだろおい」
戸浜は鞠のような体をドリブルされるバスケットボールのように弾ませながら、僕に詰め寄る。
「ふざけんじゃねえよ、おい。どうしてくれるんだよ、売れっ子作家が一人いなくなるってことがなあ、出版社にどれだけの損害を与えるか知ってんのか。何人の社員の給料に影響が出るか知ってんのかおい」
「成河さんを責めるのはお門違いです」
ついっと、こんな場合にも関わらず洗練された身のこなしで、楠が僕と戸浜の間に割って入った。
「成河さんは、あなたからの相談を承けて速やかに僕に調査依頼を行い、僕と一緒にスタジオ・トリニティへ赴いた。あなたの頼みに対して、可能な限り誠実で迅速な対応をしたと僕は解釈しています。それでも成河さんに責任があるとおっしゃるのなら、あなた自身の責任も問われるべきではないでしょうか」
「何だ?あんたが例の名探偵さんか。何が言いたいんだ」
「名探偵かどうかはともかく、あなたが無理矢理成河さんのコネを使って鳥乃天羅に引き合わせた探偵は、僕です」
楠は蔑みきった視線を戸浜に突き刺す。
「婉曲な言い回しで通じにくければ、率直に申し上げましょう。あなたがたがもっと早くに手を打っていれば、こんなことにはならなかったんですよ」
「なん……だと」
戸浜の顔が、完熟トマトを思わせる赤さに染まってゆく。が、彼も海千山千の出版業界を人並み以上の技量で渡ってきた男だ。楠を睨んだまま不敵な笑みをうかべ、
「何を言ってやがる。あんた、鳥乃先生に話を聞いた後、調査の開始を一日遅らせたらしいじゃねえか。話を聞いてすぐ対処してれば、美影先生は死なずに済んだんじゃねえのか?」
「何か勘違いをなさっておられるようですが」
楠はやれやれとでも言いたげな顔をして、人差し指で額を掻いた。
「僕は警察じゃありません。警察なら、通報があったのにすぐ捜査しなかった、ということになると問題なんでしょうけど、僕は飽くまで契約に基づいて仕事を行う、民間業者なんですよね。蓮森さんたちとは、正規の契約書こそ交わした訳ではありませんが、民法上は口頭でも双方の合意の上で依頼と請負がなされれば、契約は成立としたとみなされる。そして、蓮森千影さんとの交渉の際、僕は調査は翌日からだという条件を提示しましたが、彼女はあっさりとそれを承諾した。調査開始が一日遅れても問題ないと判断したのは、他ならぬ千影さんなんですよ。それにあっさり言ってしまえば、僕には僕の都合があるんです。いくら急かされたって、できないものはできない。探偵の仕事っていうのは信用商売ですから、一旦引き受けた他の仕事を蹴ってまで誰かの依頼にかかりきるなんてことは、できません。僕の立場で、これ以上に美影さんを助けるため、何かができたとは思いません」
「何くだらねえ小理屈並べてやがんだ、小僧!」
戸浜の叫びはほとんど獣の方向に近かった。
「人一人死んでんだぞ。そんな言い訳並べる前に何か言うこたあねえのかよ!」
「それは失礼しました」
楠は唇を歪めて笑う。悪意の神に愛されているとしか思えないような、この上なく邪悪で残酷な、アルカイック・スマイル。
「先ほどあなたが、美影さんの死を悼むより先に、彼女の死が生み出す出版者側の損失について言及されたので、てっきりそういう人間的感情を廃した議論をなさりたいのかと思ってしまったので。心からお詫びします」
「成河あ!」
戸浜は楠を突き飛ばし、僕に掴みかかった。
いつものように『先生』なんてつけない。無論僕はそっちの方がいつものように面映ゆくなくて都合がいいはずなのだが――今はそれどころではない。
「てめえ、俺がこんなに虚仮にされてんのに、何黙って見てんだ。こいつぁてめえのダチなんだろうがよ。何とかしやがれ。何とか言ったらどうなんだ、ああ?」
僕は、何も言えなかった。
言える訳がなかった――戸浜がこのように激昂している時は、何を言っても火に油を注ぐ結果になるのが身にしみているし、楠も、一旦自分が不愉快に感じた相手に舌戦を仕掛けたら、相手が動揺のあまり日本語を忘れるほどプライドをズタズタにするまで(もしくは相手が敗北を認めて沈黙するまで。たいていはこうなる)、その言葉を止めないのを知っているからだ。
――かと言ってこのまま黙っていても、戸浜の怒りはますますエスカレートするだけなのだが。かと言って――
僕が態度を決めるより前に、楠が再び僕たちの間に立った。
彼の顔からは、先ほどまでのトリックスター的冷笑は消えて、むしろ哀しく寂しげですらある。
「戸浜さん、成河さんに怒りをぶつけているのは、『俺』のプライドが傷つけられたからなんですか?僕が美影さんの死と一連の事件を軽視したような発言をしたからではなくて?」
 戸浜は無言のまま、もの凄い形相で彼をねめつけた。
楠は続ける。
「一番大事なのは、あなたの体面なんですか。成河さんが、あなたの味方をして僕をなじれば、あなたの面目は保たれるんですか」
「……」
「でも、今成河さんが僕の敵に回っても、それは出版人として、恩人としてのあなたへの義理があるせいと、感情を爆発させて何をしでかすかわからないあなたへの恐怖からです――あなたに心から信頼を寄せているからではない。そんな偽りの言葉であなたの心が埋められるのなら、どうぞ成河さんに僕を罵倒させてみてください」
そして彼は、僕にくるりと向き直ると、
「さ、成河さん。どうぞ」
「馬鹿なこと言うなよ」
僕はそれだけ言うのが精一杯だった。
「そんなことできるはずないだろ」
「そう、僕も馬鹿なことを言っていると思うんです――自分でもね」
楠は再び戸浜を見た。
「お互いにやめましょう、戸浜さん。後に遺された人間がどんなに心を乱したって、死んだ人間は生き返りません。どんなに深い思慕も激しい求愛も、冥土に旅立つ者の足を止めることはできない――そう、およそ死者こそ、数多の世界で一番つれない、絶対に振り向かせられぬ片想いの相手」
戸浜は、ゆっくりと僕の体から手を離した。
その目から怒りの炎は徐々に薄れていったが、後に残ったのは果てしなく疲れきった灰色だった。
彼は、絶望したように頭を振りながら、のそのそと事務所をドアに向かう。
「僕は、犯人を見つけますよ、戸浜さん」
その背中に、楠はきっぱりとした声で呼びかける。
戸浜は一瞬だけ足を止め、ごくごく小さく頷くと、そのまま事務所を出て後ろ手にドアを閉めた。
「……やっぱり、あの人は犯人じゃないんじゃないかな」
僕が楠に言うと、
「たしかに、あの人の性格は緻密な計画殺人には向いてなさそうですが、それだけで断定はできませんからね。それより」
彼は肩をすくめながら、ソファにどすんと腰を下ろし、
「僕もさすがに眠くなってきました。今夜はもう、ここまでにしましょう」
 僕も同感だった。
「今夜というより、もう『今朝』と言った方がよさそうだけどね。なんか、微妙に空が白んできてるし……」
楠と戸浜の対峙ですっかり残されたエネルギーを奪われたらしく、完全に思考能力が死んでいる。
今ここで寝ていいと言われたら、一瞬で崩れ落ちてしまいそうだった。
そんな僕の様子に少しは哀れを催したのか、
「泊まっていきます?寝るとこなんて、そこのソファくらいしかないですけど」
楠は欠伸しながら言う。
僕は脳味噌がどろどろに溶けそうな感覚を味わいながら、
「ああ……ありがとう。おやすみ」
とだけ答え、楠の向かい側のソファに倒れ込んだ。
もはや絶対に抵抗を許さない、強靱な眠りの手が、あっという間に僕の意識をひっ掴んで闇の底につれてゆく。
その意識と無意識の境界ぎりぎりのところで、
「深い眠りは、脳にとって絶対に必要なものです……明日に備えて、寝ましょう、たっぷり……僕、どこでも寝られるのが、特技なんです……」
 楠が、気怠そうに呟くのが聞こえた。

そのまま、なんと約一五時間ほども、僕は熟睡していたらしい。
楠の方は、途中で一度目を覚まして、ちょこちょこと細かい事務雑務を処理したりしていたらしいが、彼もまた疲れていたのだろう、それらに一応の目処がつくとまた眠ったと後で聞いた。
僕の方は、このところ寝不足が続いていた上、なんだかんだ言いつつ結構酔いがまわっていたので、全く目を醒まさなかったし、放っておけばもっと寝入りこけていたかもしれない。
そう――
江田警部からの、蓮森千影が殺されたと知らせる電話に、叩き起こされるまでは。


7 二つ目の死体

「おう、早いな二人とも」
 現場に重い足を踏み入れた僕と楠を見て、江田警部が手を挙げた。
蓮森千影――と思われる死体が発見されたのは、スタジオ・トリニティがあるマンションの最寄りの駅、その近くにある小さな廃ビルの一室である。
生活感や躍動感、人間の息吹、生命の鼓動、存在感――そういうものが脱色でもされたかのように真っ白に晒されて皆無な、そのワンフロアのど真ん中に、その屍は静かに横たわっていた。
僕たちが戸浜と一悶着起こしたのは朝の三時くらいだったが、もう今は夕方だ。窓からは夕日が燃えるようで、まるで火葬にでもされているようだと、火葬にされたこともない僕は(当たり前だ)ぼんやり考えた。
「死亡推定時刻は、まあ、死斑と死後硬直の具合から考えて、今日の朝十時から正午くらいの間ってとこかな」
 江田が淡々と説明する。
 楠は小首を傾げて、
「こんな変なところに死体、一体誰が発見したんですか。よくまあ、こんな事件発生後すぐにわかったもんですね」
「スタジオ・トリニティに、午後の三時頃に直接電話がかかってきたんだそうだ。ここのビルに、蓮森千影の死体があるから取りに来い、ってな」
「その電話は――『アシャンティ』からですか」
 楠がにやりと笑う。
 江田はとても嫌そうに頷き、
「相手はそう名乗ったそうだ。声は、ボイスチェンジャーか何かで変えていたらしくて、年の頃も性別も判別つかなかったそうだが」
「やれやれ、言わないこっちゃない」
 楠は、嘆息しつつ死体の横にかがみ込む。
「だから僕は言ったんだ。こんな歯車の狂った事件は、一人死んだくらいで収まる訳がないんだから」
「何を物騒なことを言ってる」
 江田は煙草を掌でもみ消しながら、
「まあ、今回の事件にゃあんまりにも何もかにもが狂いまくってるのは確かだがな」
 この二人の反応から容易に想像されるとおりに――彼女もまた、スタジオ・トリニティでの殺人と同じく、『アシャンティ』に見立てて殺されていた。
白いブラウスに黒のストレッチパンツを身につけたスリムな肢体、その股の間に、眼鏡とポニーテールの首が乗っている。その死に顔は、こんな無惨な姿の殺され方に似合わず、眠るように穏やかだった。
「直接の死因は絞殺ですか」
 楠は、珍しい玩具を眺める子供のように、死体をいろんな角度から見ていたが、突然無造作に女の首を手に取った。
「お、おい楠くん」
 その神をも恐れぬ所行に、僕と江田は一瞬凍りつく。
「何そんな禍々しいことしてんだ」
「あ、すみません、江田さん」
 楠は、ボールか何かのようにお手軽にそれを持ち上げたり傾けたりしている。
「こんなことしちゃ、鑑識の人に怒られちゃいますね」
「いや、それはそうだけど、そういう問題でもなくてだな」
 江田の顔は、頬の肉を釣り糸で引っ張っているのかと思うほど引きつっている。
「花瓶や薬缶じゃないんだから、そんな風に粗雑に扱わないで――」
「大丈夫、落としませんよ」
 まるで、本当にそれがちょっと高価な花瓶か何かであるくらいの感覚で言う。そして、自分の頭上に持ち上げ、まだ血の滴りそうに赤い首の切断面を下から覗き込んだ。
 その有様を、硬直しつつも嘔吐も何も催さずに見ていられる自分も、やはり何かに毒されているなとは思うが。
「――なるほど」
 楠はすうっと目を細めた。
「やっぱり、そうか」
「どうした?何か気が付いたことがあるか、楠くん」
 江田の声はやっぱり相当に固い。
 が、楠はそんなことはまるで気にとめる風もなく、
「首の切断面ですよ」
 いきなり女の首を僕らの方に向けた。
 江田の喉元から、う、と重く低い呻きが洩ら、僕もさすがに顔を背けた。
「今度は、前回の死体と違って、美しく合理的に切断されています。ちゃんと、骨と骨との間に刃物を入れる形で切られている。無駄な手間暇は一切かけていません」
 そういえば。
 スタジオ・トリニティの現場を見た時も、楠は首の切断面について何か言っていた。
 そう、たしか、死体の首はわざわざ時間のかかる方法――首の骨の関節に対して斜めの角度、骨自体を両断する形で切断されていたのだ。
「何で、今回は方法が違うんだろう」
 江田は腕組みをしながら、
「それよりほら、楠くん。お願いだからそれを元の位置に戻してくれ」
 楠は、少しつまらなそうに唇を尖らせると、江田の指示通り丁寧に首を床に置いた。
 江田は、安堵の溜息を洩らすと、
「もしかして、違う犯人の仕業、ということなんだろうか」
「その可能性も否定はできないですが」
 楠は手をぱんぱんと打ち合わせて埃を払いながら、
「最初の切断方法にやはり何か特別な理由があった、と考える方が合理的でしょうね」
「一体、何だ?それは」
 江田が苛々と言う。
「首を切断するなんざ、ただでさえ性根を据えてかからんと困難な仕事だ。それをわざわざ、時間もかかり精神的な負担も大きい方法を取って、犯行自体のリスクも増大する。どんなに考えても、訳がわからん」
「まあ、一言で片づける方法はないことはないんですけどね」
 と、楠は肩をすくめる。
「何だ?それは」
「『犯人は異常者だ。だから常識で考えられないことをする』――そう決めつけてしまえば、一応は何でも説明できた気分になれますよ」
「気分にだけなったってなあ…」
 嘆息する江田。
 楠は涼しい顔で、
「ま、全ての事柄に対して、『それは神様がなさったこと』だと言ってしまえば、一見何でも説明できたように見えるけど実は何も説明できていないのと同じですね」
「人を煙に巻こうとするんじゃないよ、楠くん」
 江田はばりばりと頭を掻きむしって、
「何か思い当たることはないか?その『特別な理由』について」
「今のところは、なんとも。ところで、スタジオ・トリニティ関係者のアリバイなんかは、もう調べてます?」
「一応、な」
 江田はジャケットの懐から、もそもそと警察手帳を取り出す。
「あーと、どこらへんの関係者まで聞きたい?」
「いや、今のところは最低限でいいです。季影さんと妻崎さん、アシスタント二人くらいで」
「そいつはきみが、犯人がそのあたりの人物の中にいると睨んでる、って解釈でいいのかな?」
 江田はにやりと笑う。
 楠はやや不満そうにかぶりを振り、
「そんな横着な目星の付け方はしませんよ。手近なところからチェックしておきたいだけです」
「なるほど。まず、季影だが、朝の九時頃から隣町にある専門店へ画材を買いに出かけ、その後は資料漁りに本屋を何軒か回っていたそうだ。帰宅は三時頃」
「一人で?」
「一人でだ」
「アリバイを証明する人は?」
「一応、その店の店員とか周辺の通行人が彼女を見たとは言っているが、犯行が不可能だと言えるほどにはしっかりした裏付けはないな」
「なるほど」
 楠は腕組みする。
「じゃ、次は妻崎さん」
「ああ、こっちはかなりしっかりしたアリバイがあるな。午前中は、中川宮書房という出版社のビル内にある喫茶店で、編集担当者立ち会いのもと雑誌の企画でとあるタレントと対談だ。午後は、その流れで同じビルの上の階にある編集部のオフィスで新作の打ち合わせ」
「中川宮書房か……いいなあ」
 僕は我知らず呟く。この出版社はメディアミックスに熱心で、ここから売れる作品が出るとかなりの確率でテレビドラマ化や映画化がなされることがあるのだ。
 閑話休題。
 楠は、僕の独り言などまるで耳にも入らなかったかのように、
「なるほど、いずれも証明する人間が複数いる訳ですね。じゃあ、スタジオ・トリニティのアシスタント二人――本丸神奈子と山野鈴美は?」
「スタジオで黙々と仕事してたらしい。二人一緒にな。まあ、お互いが証人って訳だが、その他には誰とも顔を合わせたり話をしたりは皆無なので、こいつらが共犯だったり口裏合わせてたりする場合は信用できないな。ちなみに、死体の在処を教える不審な電話を取ったのは、本丸神奈子だ」
 江田は、手帳を一旦閉じて、
「その他には?」
 楠は少し考えて、
「そうですね……あとは、戸浜さん」
「戸浜?ああ、きみらにストーカー退治を依頼した人物か。すまん、そこまではまだ調べがついてないな」
「そうですか……」
 そうして楠はしばらくの間、髪の毛を指に巻き付けたり解いたりしながら無言で考え込んでいたが、部屋の入り口で江田の部下と思しき人物がちらちらと何か言いたげに顔を覗かせているのに気づいたらしく、
「どうやら、僕たちはお邪魔らしいですね。現場はひととおり見せていただいたので、失礼します」
 江田は入り口と楠を代わりばんこに見つめて、
「あ、ああ。じゃあまた、何か思いついたら、どんな些細なことでもいいんで電話をくれよ。こっちも、何か新しい展開があったら耳に入れるようにするから」
「ありがとうございます。じゃ、行きましょうか、成河さん」
 楠は、そっと僕のブルゾンの袖口を引っ張って促す。
 僕は、風通しの悪い部屋のカビ臭さと死体の血の臭いが入り交じったなんとも言えない空気から逃れられることに少し安心しつつ、楠と並んで部屋を出た。
 廃ビルの妙に湿気った階段を下りながら、
「楠くん、この後はどうするんだ」
「そうですね。時間で言えば夕食時ですが、動物性タンパク質は口にしたくない感じですね」
「いや、そんなことじゃなくて」
 慌てて言う僕を制して、楠はくすりと笑った。
「わかってますよ。次は、とりあえずスタジオ・トリニティに行ってみましょうか」

 案の定、というべきか当然の成り行き、というべきか――
 スタジオ・トリニティにはこの世の不幸が凝固してわだかまっているような、重苦しい空気に覆われていた。
 インターホンを鳴らして玄関に足を踏み入れても、出迎えてくれた本丸神奈子と山野鈴美には(それでも、やっぱり二人セットで出てくるのは変わらないのだが)、少しも明るいところがない。
 うっそりと儀礼的に挨拶し、僕らを居間に案内するだけだ。
 無理もない――彼女たちにとっては、尊敬する師が突然二人も無惨な殺人事件の犠牲となり、同時に彼女たちが愛して止まなかったであろう職場、『スタジオ・トリニティ』は今や存亡の危機なのである。
 二重の意味で、蓮森家や妻崎と違った形で、彼女たちは追いつめられているのであった。
 どでかいシャンデリアが節操なく明るい光を放つ居間が、それでも何故か薄暗く感じられるのは、ソファに力なく体を預けている蓮森三姉妹最後の生き残りと、妻崎の全身を包む暗鬱なオーラのせいであろう。
「きみたちか。何しに来た?」
 妻崎は、僕らの方に顔を向けないまま、嗄れ声で言う。
 着ている服は昨夜と同じで、無精髭も薄くはびこり、目の下は彫刻刀で刻んだがごとく落ち窪んでいる。
 矢継ぎ早に起きた二つの殺人事件が、彼の心身にどれほどのダメージを与えているかが如実に現れていた。
「まだ何か、言うことがあるのか、きみらは。ストーカー退治に失敗した挙げ句、二人目の死人まで出して、よくものこのこ来られたな」
 戸浜と同じようなことを言う。もっとも、警察や探偵に対する事件の当事者の感情など、時と場合と個人の性格を問わず、たいていこんなものなのだろう。
「千影さんの死に関しては、責められても文句は言えませんね。いくら寝不足続きの徹夜明けはいえ、ぐっすり眠り込んでいる間にこんな事件が起きてしまったんですから」
 楠は悪びれずに言う。
 妻崎はゆらりと立ち上がって、
「寝てた、だと?こんな大事件が起こった翌日に……こんな悲惨な事件が起こってるってのに、のうのうと」
 楠の腕を掴もうとする。
 楠は、器用に体をひねって彼の手をかわすと、
「最近の研究では、記憶は眠っている整理分類され、より効率的に取り出せるようになるらしいですよ。人間の脳にとって、睡眠は紛れもなく必要な行為です。それに」
 彼はバランスを失った妻崎の体を軽く小突き、再びソファに腰掛けさせた。
 そして、嘲笑うような口調で、
「妻崎さんの作品だと、こういう展開はよくあるでしょう。驚くにはあたりませんよ」
「小説と現実とは違うだろうが」
 妻崎は苛々と頭を掻きむしる。
「季影の姉が二人も、なんでこんな漫画みたいな死に方しなけりゃあいけないんだ」
「それこそ、愚問ですね」
 楠の冷たい視線が、うなだれた妻崎を刺すように見下ろす。
「『事実は小説より奇なり』――こんなありふれた警句を使わなければいけないほど、あなたが混乱しているのもわかりますが。荒れたり周囲に当たり散らしたりしても、何の解決にならないのもまた、これが現実だからです」
 妻崎は、へ、へへへ、と彼らしからぬ卑屈な笑いを洩らすと、
「なら、どうしろって言うんだよ。俺は探偵作家ではあっても、現実世界では刑事でも素人探偵でも、ましてやスーパーヒーローでもない――惚れた女の一大事に、何もできやあしないんだよ」
「できることをやるしかないんじゃないですか」
 楠の表情がふっとやわらいだ。
「季影さんの恋人であるあなたにできることは、季影さんのそ……」
 彼は言いかけて、ちらりと彼女を見た。そして、眉をひそめて咳払いすると、
「いえ、捜査は江田刑事や僕にお任せください。何か手がかりになりそうなことがあったら、率直におっしゃっていただければ」
 そこで、急に彼女がすっくと立ち上がった。
 顔は伏せたままで、陰影が彼女の周囲のみ濃く深くこびりついているかのように見えた。
「私……」
 たどたどしく、口を開く。
「気分が悪いです。少し休んで、いいですか……?」
「いいですよ。というか、別に僕たちにことわる必要はないと思いますが。ここはあなたのご自宅ではないですか」
 楠の眼差しは、言葉の優しさと裏腹に冷たく無表情である。
 僕は、何故彼が彼女にそのような態度を向けるのか、不思議に思った。一卵性の三姉妹でありながら、そのうちの二人までをこのような悲惨な形で失った彼女の胸中がわからぬ楠ではないはずだ。
だが、そんな僕の疑問とは関係なく、彼女は緩慢で固い動作で居間を出ていってしまった。
 楠はアシスタント二人に向き直ると、
「すみません、二三お訊きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」
 本丸神奈子と山野鈴美は、少し戸惑い気味に顔を見合わせる。そして、蚊の鳴くような声で、
「私たちでよければ…」
 こんな時でも、一応台詞がユニゾンしている。彼女たちはやはり、同僚である以上に同好の士であり、同じ夢を追う仲間であり、一心同体であるのだろう。
 蓮森三姉妹のように一卵性の姉妹でなくとも、彼女たちの魂の形はきっとよく似ているに違いない――そんな気がした。
 楠は、先ほどとは打って変わって、ものやわらかな微笑をうかべている。
「いきなり生々しい話で申し訳ないんですが、今後のスタジオ・トリニティはどうなるんでしょう?」
「そ、そんなこと私たちにわかるわけないじゃないですか」
 本丸神奈子が、その巨体に似つかわしくない勢いで立ち上がる。
「私たちはアシスタントとして先生たちに雇われてるだけです。季影先生は、今後のことなんて――それどころじゃないし。千影美影先生のお葬式だってやんなきゃいけないし――」
 楠は丁寧に頭を下げた。
「僕の言い方が悪かったみたいです。申し訳ありません。職場としてのスタジオ・トリニティではなくて、漫画家鳥乃天羅さんがどうなるのか、と言うべきでしょうか。三人は長い間、共同で漫画家として仕事を続けてこられた訳ですが、三人で作業分担とかはされていなかったのかな、と思いまして」
「してました」
 山野鈴美がおずおずと言う。
「一応、季影先生がネームや原作を書いて、作画は美影先生って感じです」
「千影先生は?」
「千影先生は、作業全般っていうか……スケジュール管理や出版社との交渉ごとや、季影先生や美影先生にそれぞれ細かい部分の指示出したりとか。あ、それから作品自体のアイデアは、基本的に千影先生が考えてました」「なるほど」
 それから数秒、楠は腕組みして何か考えてこんでいたが、
「じゃあ、漫画家『鳥乃天羅』の総合プロデューサーは千影先生だった、って認識でいいのかな」
「そういうことだと思います」
 鈴美はこくりと頷いた。妙に小動物めいた、愛嬌のある動作である。
「でも、千影先生って基本的に何でもできる人で、美影先生や季影先生が体調崩した時は仕事を代わってあげたりしてたし、それぞれの作業にその都度ヘルプに入ったりもしてたし。あたしたち、あの人見てたら、ああ、天才っていうのはああいう人のことを言うんだなあ、って」
 彼女の瞳に、わずかながら見とれるようなうっとりした光がさした。
 楠はそれを見て、少し悪戯っぽい笑みをうかべる。
「山野さん、本当に千影先生のことを慕っていたんですね」
 鈴美は顔を少し赤くして、
「千影先生だけじゃなくて……美影先生も、季影先生も、私、尊敬してます。私もいつかプロになったら、あんな風にかっこよく、仕事ができたらいいな、って……私なんて足下にも及ばないかもしれないけど」
「美影ちゃんも季影も、どっちも話が作れるし絵が描けるよ。まあ、どれをとっても完璧、っていうのは千影ちゃんだけだけどな」
 妻崎が、投げやりな調子で割って入る。
「あの三人はさ、結局のところ三人力を合わせて『鳥乃天羅』なんじゃなくって、『鳥乃天羅』が三人いるのが蓮森三姉妹なんだよ。誰が欠けても、誰と誰が代わっても、三人のうちの誰かが残っていれば『鳥乃天羅』はいなくならないんだよ。はは、なんか綾波レイみたいだな。『私が死んでも代わりはいるもの』って?」
 そうして、いきなり壊れたスピーカーがハウリングを起こしたかのような甲高く調子の外れた笑い声をあげた。
 後で考えると、妻崎がエヴァンゲリオンのキャラクター名とか台詞とかを知っていたことは相当意外なことなのだが、無論このときの僕にはそんなことまで頭は回っていない。
「やめてください、妻崎さん」 
完全に自分を見失っている彼の姿を見るに耐えず、止めようと前に出ようとした――その時。
「やめてよ、馬鹿!」
 坂道を転がる岩石のような勢いで、本丸神奈子が妻崎に飛びついた。そして、まるまるとした大きな平手で、思い切り彼の横っ面を張り飛ばしたのである。
 故障してノイズを垂れ流すテレビやラジオが、叩いて直った時のごとく、妻崎はぴたりと笑うのをやめ、そのまま硬直した。
「同じだろうが違っていようが、先生は先生に違いないのよ。生きてたって死んじゃったって、先生は先生なんだから。そんな風に言うのは、妻崎先生でも許さないんだから。それに、季影先生だけじゃなくって、千影先生も美影先生も、妻崎先生のこと大好きだって言ってたんだから。その先生にそんな風に言われたら、もの凄く悲しむから……」
 神奈子の頬を、滝のように涙が流れた。
 妻崎は叩かれた頬をさすりながら、よろよろと立ち上がる。
 そして、のろのろと僕たち全員の顔を見回して、
「すまなかった」
 一言だけ言い、部屋を出ていった。
 楠はその背中を見送りながら、
「あの人、きっと季影さんだけを愛している訳じゃなかったんですね」
 哀れむように言う。
「あの人は、三人で一つの巨大な才能だった彼女たちを、まるごと全て愛していたんだ」
 僕は、妻崎の姿を見た時の美影の表情の変化を思い出した。あの、とりつく島のない険しい態度の女性が、急にしおらしく『可愛い女』に豹変した瞬間を。
 妻崎が、彼女たちを三人でひっくるめて愛していたのなら。
 また、彼女たちは三人まとめて妻崎の恋人だったといえるのかもしれない。
 だとしたら、季影は両者の間で、その愛情を確認し合うための単なる接点、窓口にしか過ぎなかったのであろうか。
 だとしたら、これから先、季影と妻崎の関係が続くとして、どんな形で愛し合うことになるのだろうか――いや、そもそも、これまでどおり愛し合うことなどできるのだろうか?
 複雑な思いに囚われながら楠を見ると、腕組みしたまま、彼もじっと何かを考えている様子だ。
「そういえば」
 楠がおもむろに口を開く。
「そういえば、『スタジオ・トリニティ』って、蓮森さんのご自宅も兼ねているんですよね。先生方のお部屋って、山野さんや本丸さんは出入りできるんですか?」
「そんなの、絶対にできません!」
 またも完璧なシンクロで、鈴美と神奈子は断言する。
「そ、そんなの恐れ多くてとてもできないし」と、神奈子。
「それに、そういう私的な領域では、先生方の間でもはっきり境界線設けてるみたいで、お互いの部屋には絶対に勝手に入らないことにしているみたいですし」と、鈴美。
 楠は、微かに舌打ちした。
「でも、妻崎さんくらいは、季影さんの部屋なら入れてもらえたはずですよね?」
「いや、それもないです」
 神奈子は突っぱねるように言う、
 鈴美もこくこくと大袈裟に頷いて、
「ええ。妻崎さんの部屋に季影先生が泊まりに行くことはあっても」
 ここで微かに顔を赤らめて、
「逆はありませんでしたし。妻崎先生ですら、先生方の私室に入ることは許されていませんでした」
「許されていなかった……って、大袈裟ですね。何かそのことで具体的にトラブルでもあったんですか」
「一度、パーティーの帰りに酔っぱらった妻崎先生がここに季影先生を訪ねて立ち寄った時があったんですけど、季影先生の部屋に妻崎先生が入りたがるのを、季影先生は絶対に駄目って、無理矢理そこのソファに落ち着かせて寝かしつけてました」
「なるほど……」
 そのまま、楠はまた黙考を始め、気まずい静寂が居間の中を覆い尽くす。
「あ」
 沈黙は、たまたまカーテンの隙間から外を覗いた山野鈴美の声に破られた。
「あの男……」
「どうしました?」
 楠は、彼女の脇にすっと移動し、彼女の視線の先を追った。
 そして、すっと目を細め、
「もしかして、あの男が――」
「はい」
 鈴美はこくりと頷く。
「例のストーカーさん、です」
 僕は、二人の後ろから背伸びして、なんとか外を見ることができた。
 いる。
 道を挟んで向かいのマンションの駐車場に一人、黒いダウンジャケットを羽織った痩せ型の男が、街灯の明かりに照らされて立っている。
 暗いのと距離があるので細かい人相や表情は判然としないが、間違いなくこの部屋を見上げていた。
「湯本勲、ですか」
 楠が確認すると、鈴美はまた頷く。
 ――湯本勲。
 一年前、季影に暴行を働いた容疑で逮捕され、証拠不十分で釈放された男。
「そういえば、彼がどういう人間なのか、まだちゃんと調べてなかったですね」
 楠は呟く。
「どうやら、状況を整理するためには、彼の正体をはっきりさせる必要がありそうです」
「えーと、楠くん。それはつまり――」
 訊ねる僕を見て、楠は言った。
「彼に直接話を聞きましょう。江田さんに電話を」 


8 ストーカーの正体

 楠の判断を承けて、僕は慌てて江田に電話を入れた。
 さすがに、すぐこちらに急行することは無理なようだったが、代わりにたまたまこの近くにいるはずの彼の部下――塚本がやってくることになった。
 だが、事件の背後関係を洗っているはずの江田が、何故か湯本の名前を聞いても反応が鈍いのが少し気になる。
 捜査線上で、彼の名前はそれほど重要視されていない、ということなのか――?
 楠にそのことを伝えたが、彼もまたそのことに関してそれほど意外そうでもない。
「そういうことなら、多分湯本さんとは捕り物を演じることもなさそうですね。簡単に話を聞かせてもらえそうだ」
「どういうことだよ」
 僕は状況について行けてない自分を歯がゆく思いながら訊ねる。
「あの男はストーカーじゃないのかよ。季影さんを襲ったのはあの男じゃなかったのか」
「僕は最初から、そんなことは思っていませんでしたよ」
 楠はしれっとして言う。
 そういえば彼は、最初に季影の傷害事件についての話を聞いた時も、湯本の他に犯人がいた可能性について指摘していた。
 だがそれなら、何故湯本はこんな風にスタジオ・トリニティの周囲に出没するのだ?
 こんな事件の前後に過去の事件の関係者がうろうろしていれば、一度は嫌疑が晴れたと身とはいえ怪しまれることは免れない。
 楠はそんな僕の疑問を察したらしく、
「ともかく、本人から話を聞けば済むことですよ。ほら、塚本さんが来たみたいですよ」
 窓の外を指差す。
 見ると、紺のスーツを着た短髪の若い男が、湯本に警察手帳と思しき物を見せながら近づいていくところだった。僕は会ったことがないが、あの男が塚本という江田の部下であるらしい。
湯本は、一瞬狼狽した様子で周囲を見回したが、逃げ出すこともなく塚本に何事か話している。
 楠は、静かにそれを見つめていたが、
「僕らも行きましょうか、成河さん」
 うっすらと笑って、窓に背を向けた。
 
「ああ、楠くん、久しぶり」
 程よく日焼けした健康的な若い刑事は、楠を見ると嬉しそうに手を挙げた。
「元気だった?合コンに来てくれる件、考えてくれたかなあ?」
「その件はお断りしたはずですが」
 楠は素っ気なく言う。
 塚本は不服そうに、
「そう言うなよ。きみ、そんな風な面白くて綺麗なビジュアルだから、結構女の子たち喜ぶと思うんだよね」
「仕事中に何を言ってますか。そんなことより、湯本さんから話は聞いたんですか」
「あんたか、戸浜さんが雇った探偵ってのは」
 黒いダウンジャケットの男――湯本が、おろおろと口を開いた。
 近くで見ると、ますます病的に痩せている男で、どうかするとカマキリのような面相をしている。
「なあ、俺は何も怪しいもんじゃないんだよ。わかってくれよ」
「わかるも何も、僕はあなたのことをまだ何も知りませんから」
 楠は、湯本につかつかと歩み寄ると、目の奥を覗き込むかのような鋭い視線で見上げた。
「話してもらえますね?何故スタジオ・トリニティの周囲に出没していたのか」
「その前に、今の状況を教えてくれないか」
 湯本は困惑気味に言う。
「何があったんだ、ここで?なんか、警察とか出入りしてるし。季影さんは、大丈夫なのか?」
「あなた、ニュースとか新聞見てないんですか」
 塚本が呆れ顔で言う。
「ここで、殺人があったんだよ。蓮森美影さんと千影さんが、犠牲になったんだ」
「え……」
 どうやら、演技でなく本当に驚いた様子で、湯本はあんぐりと口を開けた。
「な、一体なんだってそんな。犯人は捕まったのか」
「捕まってれば、私がこんな風にあなたに職務質問することもないと思うんですが」
「そ、それもそうだな」
 湯本は額の脂汗をぎこちない動作で拭う。「いや、そんなことより。季影さんは、無事なんだな?間違いないな?」
「どうしてそんなに、季影さんにこだわるんですか?」
 楠が鋭く訊ねる。
「一年前の事件も、季影さんが犠牲者でしたが――何か関係があるんですか」
「ああ、千影さんも美影さんもいないんなら、もうばらしちゃっても大丈夫か」
 湯本は不謹慎なことを言いつつ、
「俺、実はこういう者なんです」  
 名刺を取り出して、楠に渡す。
  
 才点堂出版 才点ノベルズ編集部

 主任  湯本 勲

「才点堂……」
 僕は仕事をしたことがないけれど、最近中高生をターゲットに人気を伸ばしている、ライトノベル系の新興小説レーベルである。特に、ミステリやホラー系の作品出版に力を入れており、知り合いの作家でも何人か書いている。
 ここで、一つのつながりが浮かび上がる。 スタジオ・トリニティで、原作・脚本を担当していたのは季影。
 その彼女に、小説レーベルの編集者が接点を持つということは……
 ふと楠を見ると、彼も僕の方を見ていた。
 僕と同じことに思い至ったらしい。
「もしかして、季影さんに小説の執筆を?」
「そういうこと」
 湯本は、どうやら自分の立場が理解されたので安心したらしく、少しだけ表情がやわらいだ。
「実は、一年前も、同じ理由で季影さんと何度か打ち合わせをしていたんだが。その最中にあんな事件が起こったんで、そのごたごたに紛れて、ご破算になっちまったんだよ」
 楠は、上目遣いに湯本を見据えながら、
「じゃあ、一年前に季影さんを襲ったのは、あなたじゃないんですね?」
「おいおい、よしてくれよ」
 湯本は、両手を上げて苦笑いした。
「その疑いは、一応もう晴れたはずだぜ?」
「なら、どうしてスタジオ・トリニティの周囲をこそこそ徘徊していたんですか。そういう正当な理由があるのなら、堂々と訪問すればいいじゃないですか」
「徘徊って……人聞きが悪いな」
 湯本は憮然とする。
「ただ単に、うちの会社とコンタクトを取っていることを季影さんが姉さん方に知られたくないそうだから、バレないようにいろいろ工夫をして会ってただけだよ」
「今日もですか?」
「今日っていうかここ最近、何度か。だが最近、全然連絡が取れなくなったんで、気になって見に来てみただけなんだがな」
「なるほど」
 楠がにやりと笑う。
「千影さんや美影さんに知られて困るということは――もしかして、あなたはヘッドハンティングを企てていたんですか?」
「そんなところだけど、微妙に違うかな」
 湯本は無精髭をさすりながら、
「だって、俺に声をかけてきたのは季影さんの方だもん」
「季影さんが?」
 僕と楠は顔を見合わせた。
 塚本は、なんだか話について行けないらしく、所在なげに肩を揺すっている。
「そう。あの三人の中で何があったかは知らないんだが、季影さんはスタジオ・トリニティから独立したいらしい。それで、本業の合間に書いたらしい短篇の原稿を、うちの編集部に送ってきたんだ。これがまた、なかなかに本格テイストが利いてて面白くてね。編集長と相談して、是非もう何本か書いてもらって、一冊短篇集を出そうって話になった。彼女は、小説家・蓮森季影として、一人で仕事をしたいらしいんだよ」
「どうしてそういう発想になったのか、聞いてますか?」
「いや。さっきも言ったように、三人の間で何が起こったのか、俺も知らないんだよ。訊いても教えてくれないしな。まあ、俺たちにとっては、いい作家さんが仲間入りしてくれるってだけで十分だからな。そんなことを詮索する必要は、どこにもない。まあ、小遣い稼ぎでもしたくなったんじゃないのかね――三人でやった仕事は、事務所の収入扱いになるんだろうから、いくら頑張っても取り分は等分なんだろうし」
 いや――多分それは違う。
 少なくとも僕は、そう思った。
 妻崎が『ヘルシング』で言ったあの言葉。
(あの三人がそれぞれ全く異なる立ち居振る舞いや服装をしているのは、自分にそっくりな他の二人と一括りの存在として見られたくないからだ)
 最も強くそう思っていたのが、おそらく季影だったのだ。妻崎という恋人を手に入れて、自分と同等以上の魅力と能力を持つ姉に挟まれて。
 自分はより高く、強い存在に昇華しなければ、恋人を自分のもとに繋ぎ止めておくことはできない――そう思ったのだろう。
(そう考えると、千影さんと美影さんを殺す動機を最も強く持っているのは、季影さんなのか?)
 僕は呟く。
 ほんの微かな、声になるかならないかに過ぎない言葉だったのに、楠の地獄耳はそれを聞き漏らさなかった。
「いや、そう考えるのは早計ですよ」
 楠は僕に耳打ちする。
「少なくとも――あのアシャンティに見立てた理由の謎が解けるまでは。あの死体から立ち上る悪意の本質は、犯行の動機と決して分離しては考えられないと思いますから」
 たしかに。
 楠の指摘した、首の切断方法の謎など、あの死体に隠された不可解な数々の疑問点。
 それらの真実が明かされない限り、犯人の内奥に潜む魔の正体に迫ることは、おそらく無理であろう。
「なあ、もういいかな」
 湯本は、気怠げに体を揺らしながら言う。
「とりあえず、季影さんが仕事の話どころじゃないのはわかったからさ。あんたらも、とりあえず俺が怪しいもんじゃないってのは理解できたろ?帰らせてくれよ」
 僕と塚本は、ほぼ同時に楠を見た。
 楠は肩をすくめて、
「わかりましたよ、湯本さん。いろいろお聞かせいただいて、ありがとうございました」「いやいや、俺の方こそ、あらぬ疑いが晴れて嬉しいよ。またどっかでお会いしたいね、女探偵さん」
 女探偵、というのは無論、楠のことだろう。 楠の性別を判別できない人間がここにも。 だが、楠は曖昧に笑うだけで訂正しなかった。
「お気を付けてお帰りください。お疲れ様でした」
 湯本はにやにや笑いをうかべて立ち去りかけたが、不意に何かに思い至ったらしく、真顔に戻って振り向いた。
「季影さん……首の傷、大丈夫かな」
「傷?一年前の事件の時の傷ですか」
 楠は小首を傾げる。
 湯本は頷いて、
「この間会った時、彼女はやたらと首の後ろ――一年前に斬りつけられた傷口を気にして、しきりに手をやってた。痛むのか、と訊いたら、俺の顔を見ると一年前の恐怖をどうしても思い出して傷が疼く、って言ってた」
「そうですか」
 楠はそれだけ言うと、ふっと遠い目になり、そのまま何か考え込んでしまった。
 湯本は、手を振りながら、くるりと僕らに背を向けて、あまり颯爽としない足取りで去っていった。
「結局、ストーカー騒動なんてものは存在しなかった、ってことになるのか……」
 僕は、軽い虚脱感に襲われながら呟いた。
「じゃあ、あの脅迫メールや一年前の事件を、一体どうとらえればいいんだろうな。可能性が一つ潰せた、ってことでは喜ぶべきなんだろうけど――」
 楠の耳には、もう僕の言葉など爪の先ほども入っていなかった。
 彼の視線は夜空のその先の果てを見極めようとするかのように遠く高く、何かに強く引きつけられて宙を見据えている。
「傷――そうか。全てが、傷から始まった」
 ――そう。
 遂に彼の直観が、事件の全ての真相に泳ぎ着いたのだ。
「同じ姿と同じ魂、たった一つの異なるしるし、突きつけられし三つの問い――『私が死んでも代わりはいるもの』。アシャンティの首、切断、ささやかなる傷は大いなる傷に食らわれ――かくして、絶対なる孤独。妻崎、美影、季影、千影、鳥乃天羅――」
 彼は、トランス状態に入った巫女がお筆先をふるうがごとく、意味不明の言葉を吐き出し続けた。
 だが、この一見無秩序な単語の羅列は、楠の感覚が拾い出した事件をひもとくキーワードであり――それらが今、もの凄い勢いで組み合わされ、解析され――事件の全貌として彼の中で再構成されているのだ。
 それから数瞬の後、ようやく楠の目に、理性の光が戻る。
「なるほど――そういうことか」
「楠くん、もしかして――」
 僕が訊ねるより先に、
「成河さん、どうやら我々は、罠を張る必要がありそうです」
 楠は穏やかだが決意に満ちた、断定的な口調で言う。
「罠?犯人に――か?」
「ええ」
 楠は力強く頷く。
「この事件――全ての模様はつながりました。ですけど、犯人を追いつめるには、物的証拠がなさ過ぎます。ここは一つ、自分から正体を現さざるを得ないように――自らが魂の底からおのれの罪を認めたくなるように、水を向けてあげましょう」
 そう言う口元に、ふっと少しだけ哀しげな笑みがよぎる。
「こんなやり方は本意ではないけれど――自分自身が招いたことだ。自分で晒した傷口を、抉らないでくれとは言わせない」
 思えばこのとき、楠はこの事件の真相を暴くため、犯人の全存在を破壊する覚悟を決めていたのだった――この事件には、そうでもしなければ解けない、入り組み絡み合った動機が隠されていたことを、僕は程なく見せつけられることになるのである。

(解決編に続く)


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