中編

3 スタジオ・トリニティ

「ようこそ、『スタジオ・トリニティ』へ!!」
アニメのきゃぴきゃぴ系少女キャラの声優かと思うような高音が、僕と楠を出迎えた。
「は、はあ……どうも。初めまして」
狼狽えながら挨拶する僕の言葉が終わらないうちから。
「きゃあ。あなたが噂の、若き超絶美形妖艶名探偵さん?!本当だ、本当に真っ白で美しくていらっしゃるわ!信じられない!」
エアーズロックのような堂々たる体躯の、黒縁眼鏡をかけたショートヘアーの娘が楠を見て叫ぶ。
そしてもう一人の、こっちは随分と小柄でほっそりとして童顔の、どうかすると小学生に見えそうなおさげの女性は、
「きゃあ。じゃあこっちのシャープなお兄さんが、ワトソン役作家の成河先生ね?!いやあん、結構いい男じゃないの、浅見光彦ばり。こっちが探偵さんでもあたしは全然オッケーだわっ!」
僕を指差して手足をばたつかせる。
呆気にとられる僕と楠をおいてきぼりにして、二人は手を取り合って嬌声をあげ、そしてくるりと一斉に僕らに振り向いた。
「ねえ。やっぱりこの組み合わせって、二人は恋人同士ですよね?」
「……」
僕らが絶句するのも一向にかまわず、
「私たち、成河先生がやってくるって聞いて、初めて先生のご本、読んでみたんです」
と、エアーズロック。
「最近は、本格系のミステリ小説って、どれを読んでも私たちのやおい心をくすぐるキャラがざくざく発掘されちゃったりするもんだからあ」
と、おさげの子。
そこでやっと、僕らは目の前の二人が一体僕と楠に何を求めているのか思い当たったのだった。
アニメボイスの饒舌は更に続く。
「そしたらそしたら、こんな美味しい設定の探偵さんにワトソンさんが出てきてるじゃないですか!」
「しかもそれが実在の人物で、直接お目にかかれるとあっちゃ、いても立ってもいられなくって」
 そして最後に見事なハーモニーで、
「こうして二人で、お出迎えさせていただくことにしたんですっ!!」
ポーズもぴったり同じ。両手を広げて大歓迎、ということらしい。
シンクロの選手かきみらは。
「あの、お二人は――鳥乃先生のアシスタント?」
やっとの口が開ける隙ができたので、僕は訊ねた。
「はい。あたしは、本丸神奈子、コスプレ大好きです!」と、エアーズロック。
――一体どんなコスプレするのか聞いてみたい気もする。
そしておさげの方が、
「あたしは、山野鈴美といいます。好きなカップリングは火村英生と有栖川有栖です!」
――訊いてないってば。
「改めまして。本日は、ようこそ『スタジオ・トリニティ』へ!」
そしてまたも、声と同じく二人同時に同じポーズ。今度は何故かバンザイをしている。
楠と大喧嘩をした翌日、早速戸浜さんに交渉して、僕たちは鳥乃天羅の仕事場――『スタジオ・トリニティ』にこうしてやってきたのだ。
ところが、ドアを開けた瞬間にこの大歓迎。
(僕たちは、たしか深刻な相談事を聞きにここに来たんじゃなかったか)
そう思いながら楠をちらりと見ると、彼も珍しく困り果てた顔で肩をすくめてみせ、
「自己紹介ありがとうございます。お察しのとおり僕は探偵をしている楠想一郎です。そしてこっちも成河先生で正解」
「やったあ。イエーイ」
凸凹コンビ(敢えてこう言ってしまおう)は、ぱちんとお互いの掌を打ち合わせた。
一瞬、楠は心底憔悴しきった顔になったが、一度咳払いをするとなんとか持ち直して、
「以後よろしくお願いします。それで、鳥乃先生は、おいでになりますか?」
「はい、ここに」
二人の背後から、優雅な動作で現れたのは――すらりと長身で、ほとんどモデルとして通用しそうな理想的なプロポーションを黒いワンピースに包んだ、色白の女性。
凛々しくポニーテールにまとめた長い黒髪と、全体的にシャープでちょっときつめの面差しに銀縁眼鏡の組み合わせが、高貴なまでに知性的な雰囲気を醸し出している。
「あんたたち、はしゃぎすぎよ。お二人は仕事でここに来てくださってるんだからね。下がって仕事に戻りなさい」
「えー、でも、でもー」
手を振り回して抗弁を試みるアシスタントたちだが、
「戻りなさい」
 彼女がモナリザのようなパーフェクトな笑顔を見せた瞬間、
「は……はいっ……!」
真っ青になって廊下の突き当たりにあるドアの向こうに駆け去った。
美女は一度だけ溜息をついた後、僕たちの方に向き直って、
「本当に申し訳ありません。あの娘たち、仕事は真面目で熱心だし素直な子なんですけど、どうも時々エキセントリックで。あの、コミック業界の人間がみんなあんな風だなんて思わないでくださいね」
深々と頭を下げる。
「あ、いえ、とんでもないです。ユニークなアシスタントさんたちですね。な、楠くん」
「そうですね」
楠の表情と声色は妙に固い。
「楽しいですね」
「それに、僕みたいなマイナー作家の作品を読んでくださって、感激です。今度改めて、詳しい感想とか教えていただきたいですね」
「わかりました」
知的美人はくすくす笑いながら、
「あ、自己紹介がまだでしたね。私は、蓮森千影。一応、『スタジオ・トリニティ』では代表ってことになってます。どうぞ中へ。妹たちも待ってます」
そう言うと蓮森千影は、にっこりと微笑む。 先ほどと同じ、一分の隙もない完璧な笑み。
僕にはそれが、あまりにも完全すぎて、むしろ孤独で寂しげに思えた。
彼女について廊下を進みながら、楠は素早く僕に身を寄せ、ぼそりと呟いた。
「僕は、成河さんとのカップリングなんて御免ですからね」
「……僕に言うな」

僕と楠が応接室に入ると、蓮森家――というより漫画家『鳥乃天羅』の、というべきだろうか――のあとの二人、千影の妹たちがソファに腰掛けて待っていた。
なるほど、一卵性の三つ子だけあって。
体型や相貌は全く同じと言っていいほどそっくりだ。しかし――その雰囲気や印象は各々に全く異なっていた。
一人は、髪こそ腰のあたりまで伸ばしているが、化粧もせず、迷彩柄のTシャツと洗い晒しのジーンズという出で立ちで、表情もどちらかといえばいかつく、胸の膨らみがなければ凛々しい美青年という感じである
もう一方は、彼女とは正反対に、下手をすると僕も見下ろされかねない長身なのに――何故かどこまでも小さくはかなげで、か弱く、幼く見えた。出で立ちが特にそうという訳ではない。ハイネックの白いノーズリーブニットとロングスカートは、むしろ上品で大人っぽい。それなのに――彼女がそこにそうして座っている、それだけで、何か男として保護してやらねばならないような(傲慢な言い草なのは認めるが)、守ってやらねばならないような気分になるのである。
「楠さんと成河さんが来てくれたわよ」
千影が言うと、二人は立ち上がって頭を下げたが、無論それぞれやり方が違う。
ボーイッシュな方は軽く会釈をする程度で、
か弱い方はゆっくり、深々とお辞儀する。
 そして自己紹介も、
「……美影です」
「蓮森季影と申します。このたびは、本当にお世話になります」
「先生方、どうぞおかけになってください」
僕らは言われるまま、彼女らと向かい合う形でソファに腰を据えた。
「さて……」
切り出したのは楠だ。
「早速本題に入らせていただきます。脅迫メールを受け取られたのは、美影さん、あなたですね?」
美影は、無言で小さく頷く。
「それは、誰のメールアドレス宛に?美影さん個人のものにですか?」
「いや」
言葉少なに答える。
「仕事場宛です」
「つまり、この『スタジオ・トリニティ』宛ということですか」
また、頷くだけ。本当に無口な人だ。
 楠は、束の間観察するように彼女を見つめていたが、
「それでは、今回あなたが脅迫の標的にされたことについて、何か心当たりはありますか」
さっきまで無表情だった美影の顔に、ほんの微かにだけ笑みがうかんだ。
「特にありません。『鳥乃天羅』の一人であるということ以外には何も」
「では、最後に。メールの文面にある、『三つの問い』について心当たりは?」
「全く」
「わかりました。では、今度は季影さん。よろしいですか」
「はい」
季影はおずおずと楠を見る。
小柄な楠と線は細いが大柄な彼女とでは、かなりの身長差・体格差があるはずなのに、楠の方がずっと大きく見える。
身にまとう雰囲気一つで、人はこんなにも実際の外見と違って見えるものなのか。
「一年前、ストーカーから危害を加えられたそうですが。そのときの状況を詳しく話してもらえませんか?」
季影の顔色から、急激に血の気が失せた。
無理もない、本人にしてみれば二度と思い出したくない恐怖の記憶だ。しかし、本気で今回の脅迫者を何とかしようと思うなら、この事件からどうしても目を逸らすことはできない。
「お願いします」
楠が穏やかだが有無を言わせぬ声音で促すと、季影は目を潤ませながらも話し始めた。
「あれは、去年の冬、私は恋人の家を訪ねた帰りのことでした。夜の一一時頃だったと思いますが、駅から歩いてこのマンションに向かっていたんです」
――恋人がいるのか。こんな話の最中、不謹慎にもがっかりしている自分に僕は気づいていた。
「マンションの姿が見え始めて、もうあと五分も歩けば帰り着く、というところまで来て、後ろの方からもの凄い勢いで走ってくる足音が聞こえたんです。私は怖かったけど、すぐにどうしたらいいか思い浮かばなくて。後ろを振り向こうとしたら、その時にはもう足音はすぐそばまで迫ってて。次の瞬間には、首の後ろにもの凄い痛みが走って。咄嗟に手で押さえたら、手が血まみれになってました。私は何が起こったかわからなくて、ただ叫ぶしかなくて。すると相手は私を突き飛ばして、さっき来たのと逆の方向――つまり、私を追い越すようにして逃げていきました。気が付くと私の周りに人だかりができてて、お巡りさんと美影姉さんが私を助け起こしてくれました。私パニックになってたんで全然憶えていないんですけど、携帯で警察に電話をしたらしくて、姉さんは騒ぎを聞きつけて来てくれたんだって」
「犯人の姿ははっきり見えなかった、ということでしたが、どんな些細なことでもいいですから、憶えていることを教えてください」
「本当に、ほとんど何も見えなかったんです。黒い服を来た、背の高い人だったことしか。逃げていく時も、もの凄い速さで、あっという間に姿が見えなくなっちゃったし」
話し終わると、彼女はなんともいえない不安な顔になって、首の後ろを押さえた。
なるほど、彼女がハイネックの服を着ているのは、そのとき首に受けた傷痕を隠すためか。
彼女は追いつめられた小動物のような目で楠を見た。
「お願いです、楠さん。もし美影姉さんが同じような目に遭ったらと思うと、私、怖くて。ストーカー、早く捕まえてください」
「正確には、捕まえるのは僕の仕事ではないんですが」
楠は薄く笑った。
「嫌なことを思い出させて申し訳ありません。ありがとうございました。ところで、最近この近所で目撃されている不審者の背格好は、その季影さんを襲った犯人と一致しそうですか?」
「それには私が答えましょう」
千影が、眼鏡を指で押し上げながら言う。
「現在このマンションの周辺に出没している怪しい人物の体格は、中肉中背です。窓から遠くにいるのを見たことがあるだけなので、はっきり『このくらいの身長』と説明することはできませんが、感じとして、特に長身であるとか小柄であるとか、あるいは痩せているとか太っているとかいう印象は受けません。服装は、たいてい白や紺のTシャツとジーパン。年齢はおそらく二〇代後半から三〇代前半。髪型はちょっと長めで首のあたりまではあります」
「性別は?」
と、楠。
そう言われてみれば、先日から『不審者』と呼んでいるけれども、僕などは女性を追いかけ回していることから男性だと勝手に思いこんでいたけれども、戸浜からも誰からも、それがはっきり『男』だとは聞いてない。
 千影はくすりと笑って、
「決まっているじゃありませんか。男の人ですよ」
楠は無表情に、
「きょうび、女性を執着の対象にするのは男性だとは限りませんからね。逆もまた真なり。ともかく、どうやら季影さんに怪我を負わせた相手と先の不審者は普通に考えると別の人物だということになりそうですね」
「さあ」
千影は首を傾げて言った。
「それはどうでしょう」
「どういうことです?」
楠も微笑みを返す。
普通に見れば笑顔で談笑している美しい男女なのに――この二人の間の空気は、何か奇妙に捻れていた。
「実は彼、季影の事件の時、一度容疑をかけられて証拠不十分で釈放された男と同一人物なのよ」
楠の眉がぴくりと動いた。
「それで?」
「彼の名前は湯本勲。一年前、この男に心当たりがないか刑事さんから写真を見せられたの。そのときは勿論、見たこともない顔だった訳だけど――間違いないわ、今この界隈で私たちをストーキングしているのは、この男です」
「ですが、そもそもその湯本氏にかけられた容疑が誤りであったとも考えられる訳でしょう。というより、むしろそっちの可能性の方が高いのではないですか。季影さんの目撃証言と違っていて、証拠不十分で釈放されているとなれば」
「その季影の証言ですが、私たちはこの子の勘違いだと思っています。警察の見解も同じだと聞いています」
また、楠の眉が反応する。彼は季影の方を見て、
「そうなんですか?」
「いえ、その……私も、犯人がどんな人だったかには、本当に自信がないから……」
季影がもごもご言うのに覆い被さるように、
「そうよね?季影。この子、日頃からそそっかしいんですよ。生活面でも、仕事面でも。ですから、襲われて気が動転している状態で、倒れ込みながら恐怖の対象である湯本の後ろ姿を見た時、実際より大きく見えたんじゃないかと思うんです」
千影の説明はまるで何度も練習しているかのように、実に滑らかである。
楠はふっと小さく鼻を鳴らすと、
「理解しました」
だけれども納得はしていない、という顔で言う。
「そして、メール脅迫犯も湯本氏だと、あなたは睨んでいらっしゃる?」
「そうですね。二人の全く別々の人間が、全く時期を同じくして悪戯を仕掛けてくるとは思いたくないですね」
「そこまで自信満々でらっしゃるのなら、ご自分で湯本さんを告発なさればよろしいんじゃないですか」
楠は冷たく言い放つ。
「もしくは、警察に通報してちゃんと対処してもらうべきですね。僕も職業として探偵をしている以上、調査料は規定のものをいただきます。お金、勿体ないでしょう」
 千影は、束の間何か考える風だったが、
「それができないから、楠さんにお願いしたいんです。筋道立てて考えると、湯本が犯人に違いないと思いますが、残念ながら決め手や物的証拠はありません。それに、私たちはあまり警察を信用していません。結局一年前も、結果的には私たちに何もしてくれなかった。ですから楠さんには、湯本の尻尾を掴んで、もう二度と私たちに近づけないようにしていただきたいんです。そうでしょう、美影、季影」
美影は、黙って頷くだけだったが、季影は泣きそうな顔で身を乗り出した。
「お願いします!あたし本当に心細くて怖くて。捕まえてください、犯人!」
楠は、冷徹な瞳で三姉妹の顔を順番に見つめ、
「わかりました。僕にどこまでできるかわかりませんが、最善を尽くすとお約束しましょう」
「お願いします。では、調査は明日から早速行っていただけますか?」
「申し訳ありませんが、今丁度抱えている仕事が一つありまして、それがあと二日程度でカタがつく予定です。それが終わり次第、取りかからせていただこうと思いますが、よろしいですか」
「それで結構です。よろしくお願いします」
三人は同時に頭を下げる。
そのとき、唐突にドアが開いて、賑やかなアシスタント二人組がどたどたと姿を現した。
「季影せんせーい。妻崎先生がいらっしゃいましたよー」
聞きおぼえのある名前だった。僕の知っている『妻崎先生』だとしたら、あの人だが――
「よっ、こんちわ」
ダンディでくだけた感じの男の顔が、彼女らに続いて現れる。
「季影、迎えに来たよ――って、あれ、成河くんじゃないか」
果たして、彼は僕の知っている相手だった。
「こんにちわ。ご無沙汰してます――しかし、なんで妻崎さんがこんなとこに」
「そいつはこっちの台詞だよ――お、お隣は例の美少年探偵さんか。聞きしにまさる美形だな。街であったらナンパしちまいそうだ。初めまして」
「初めまして」
楠は営業用スマイルで応える。
「失礼ながら――妻崎篤郎先生でらっしゃいますね?」
「ああ、そうだよ。嬉しいね、俺の名前を知っててくれて。今度事務所に遊びに行っていいかな」
「お断りします」
言葉と正反対に最高の笑顔。
「正式なご依頼の際のみ、お越しください」
「おっ。厳しいね。まあ、成河くん以外の小説家にまでネタに使われたんじゃ、たまんないだろうからな。じゃ、季影が浮気してるかもしれない時とか、調査をお願いすることにするよ」
「もう、篤郎さん何言ってるの」
季影が顔を真っ赤にしている。
ここまでの会話の流れから考えて、季影の恋人というのはこの人か。
妻崎篤郎――
僕の同業者だが、僕なんかよりずっと本も売れていて、マスコミへの露出度も高い。
その作品はいくつか映画化やドラマ化もされており、某大型国民的文学賞にも何度かノミネートされている。
僕は貧乏暇なし作家なので、あまり出版社主催のパーティーなどには出ないが、たまたま余裕のある時期に出席してみた某本格推理小説新人賞のパーティーで、彼と知り合った。
彼は誰とでもすぐ友人になる主義らしく、初対面の僕に実に馴れ馴れしく近寄ってきて、僕の作品の批評なんかをしてくれた。それがなかなかに好意的で少し嬉しかったものの、こういう性格の人なので、誰にでも同じようなことを言っているのだろうと僕は思っていた。どころが案外そうでもなく、その後も何度か電話やメールで作品の感想やアドバイスを送ってきてくれたり、呑みに誘ってくれたりしてくれているので、どうやら僕は彼に気に入られているらしい。
「楠さんと成河さんには、最近うちの近所をうろうろしているストーカーを捕まえていただくことになったんです」
千影が言う。その声色と表情は、僕や楠を相手にしている時より、かなりものやわらかだ。
妻崎は顎の無精髭をさわりながら、
「へえ、美影ちゃんとこに来てた悪戯メールの件か。美影ちゃん、その後、大丈夫か?季影みたいに襲われたり、してないか?」
「ええ」
そう、爽やかな声で答えた美影の顔を見て、僕は思わず驚きの声をあげそうになった。
先ほどからずっとむっつりして、よく見ないとわからないような薄い薄い笑いしかうかべなかった彼女が、今は心底嬉しそうに満面に笑みをたたえている。それは、彼女の格好が格好なので、もの凄く女性らしい、とはお世辞にも言えなかったが――だからこそ逆に素朴で無邪気で、とても生き生きして見えた。
これは――ベタな言い方なのは承知しているが、いわゆる『恋する乙女』の表情というものではないのか。
「おかげさまで。心配してくれてありがとう、篤郎さん」
口数も、多いとは言えなかったが先ほどまでと比べると格段の差がある。
妻崎は照れくさそうに笑い、
「いやあ、心配するのはタダだからな。感謝されるにゃあ及ばんよ。さてと、季影」
彼はその恋人に、愛しさにあふれた優しい眼差しを向けると、
「行こうか。早くしないと、映画に間にあわん」
「ええ、篤郎さん。行きましょ」
季影は立ち上がると妻崎に、彼女らしくたおやかな動作で彼に寄り添った。
「そいじゃ、千影さん美影さん、悪いが季影を借りてくよ」
「借りていくのはいいけど、ちゃんと返してね、篤郎さん。姉としては、結婚前の無断外泊なんて許しません」
と、千影。
妻崎はにやにやしながら肩をすくめ、
「はいはい。ちゃんとお手入れして、綺麗にお返ししますよ、と。厳しいねーちゃん持ったなあ、季影」
季影は、顔を赤らめて目を伏せる。
妻崎はその髪をそっと撫でると、
「それじゃ、行って来ます――と、ああ、成河くん」
「はい?」
「せっかくこうして久々に会ったんだ、これも何かのお告げかもしれん。明日あたり、一緒に呑みに行かんか」
妻崎と酒を呑むのは、僕も嫌いではない。
業界の人間関係に疎い僕には、彼が話してくれる現在の日本ミステリ文壇の内情やマスコミ関係の話題が、実に勉強になるのだ。
「喜んでお供します」
「よし。じゃあ、明日の昼頃にでも電話するから、肝臓の調子を整えといてくれよ」
「了解しました」
「じゃ、成河くん、また明日。みなさん、ごきげんよう」
手を振ってにっと笑うと、妻崎は季影を伴って客間から姿を消した。
その姿を、千影と美影の視線が追う。
熱を帯びた美影の視線は、先ほどから変わりなかったが――千影の方は、明らかな変化があった。
何かにじっと耐えているような、やるせなく、苦しげで切なげな視線。
彼女もまた、妻崎に対して妹の恋人以上の感情を抱いているのは間違いなさそうだ。
楠は二人の姉妹を交互に見比べながら、腕組みして何事か考え込んでいた。

「どうだった?楠くん」
 帰りの車――楠が運転するスバル360の中で、僕は彼に訊ねた。
「昨日、この事件は嫌な感じがするとか言ってたよな。今はどう?」
楠は横目で僕をちらと見て、
「正直に言っちゃっていいんですか」
「当然だろ。というか言ってもらわないと意味がない」
「そうですね」
彼は束の間考えるように黙り込んだ後、
「ますます、嫌な感じが強くなりましたね」
ある程度、予想された答えだ。
僕は思わず溜息をついた。
「だろうな。千影さんも美影さんも、どっちかと言うと人にものを頼むような態度じゃなかったもんなあ。脅迫されてる当事者の美影さん自体、あんなにも不愛想だし」
「そんなことじゃありませんよ、僕が言ってるのは」
楠はハンドルを人差し指で叩きながら、
「あの三姉妹を見てると、ますます模様がちぐはぐになってくるのを感じるんです」
「模様が?」
つまり、あの三人の態度に何か不審な点があるいうことか。
楠は続ける。
「考えてみてください。あの三姉妹、季影さんを除けば、件のストーカーもメール脅迫犯も、全く恐れていない。孫悟空を掌で弄んでいる釈尊のように、いつでもどうとでもできる、という感覚でしかとらえていない」
「ん……千影さんの物言いは、たしかにそんな感じだったな」
「美影さんも、ほとんど喋らないからわかりにくいだけで、同じだと思います。少なくとも、何かに怯えているような人間の表情じゃありません、あれは」
たしかに、自分の身の安全が脅かされているというのに、あそこまで泰然自若としていられるというのは不自然だ。単に肝が据わっている、ということなのかもしれないが、それならわざわざ探偵を雇ってまでストーカー撃退など考えずとも良いだろう。
「いや、楠くん、こういうことじゃないのかな」
とりあえず自分の推測を言ってみる。
「今回、一番ストーカーの影に怯えているのは、以前実際に被害に遭ったことのある季影さんだけなのかもしれない。今回標的になっているのはたしかに美影さんだけれど、姿がそっくりな三つ子のこと、犯人が誤って季影さんを襲う可能性も大きい訳だ。それが不安でならない季影さんは、別にストーカーごとき何とも思っていない千影さんと美影さんを説得し、なんとかさせようとする。二人の姉は、彼女があまりにも怯えるので、このままでは不憫だと思い、ストーカー退治に乗り出した、と」
「そう考えると、理屈はたしかに通りますけど」
楠はかぶりを振った。
「僕は、季影さんも信用していないんです」
「どうして。一番ストレートに感情を表に出してたのは彼女じゃないか」
「たしかに。でも、本当に彼女の恐怖の対象はストーカーなんでしょうか」
「何だって?」
シートに体重を任せきっていた僕は、思わず身を起こした。
「馬鹿な。ストーカーでなけりゃ、一体何を怖がってるっていうんだ、彼女は」
「それはわかりませんよ。でも」
「でも?」
「少なくとも、彼女が一年前自分を襲った犯人が誰か、という点に関して、千影さんと違う見解を持っているのは確かですね」
「どうしてそう思う」
「よく思い出してみてください」
楠は、自分の眉間を人差し指で押さえた。
「千影さんは、何故かはわからないが湯本勲を一年前から続くストーカー騒ぎの全ての元凶だと決めつけて話していました。湯本の名前が話題に上ってからは、『犯人=湯本』という文法に則って喋っていた観があります。しかし、季影さんは」
聞きながら僕も、なんとかそのときの情景を思い出そうと、楠と同じように眉間を押してみる。
「湯本の名前が出てきてからも、自分を襲った相手やストーカーのことを『犯人』と言っていた。些細なことですけど、あれだけ『犯人』を恐れる季影さんが、その正体を知っていてなおかつ名前で呼ばないというのは、少し不自然です」
なるほど。言われてみればたしかにそうだ。
恐怖というのは、その対象が自分の理解を超えていたり、それについての情報が不足していればいるほど増すものだ。季影があそこまでびくびくしているのも、暴行犯並びに脅迫犯を相変わらず『正体不明のもの』として自分の中で位置づけているからだと考えれば、納得がいく。そしてまた、あの三姉妹の中で季影と二人の姉の間にあれほどの態度の違いがあるのも、犯人の存在をどうとらえているか、という点が大きいのかもしれない。
「僕もさすがに、彼女たち全員が嘘をついているとは思いません」
楠は言う。
「だけど、彼女たちが本当のことを言っていない、というのもまた事実だと思うんです。依頼人が信用できないというのは、こういう調査の場合結構しんどいですね」
そして、大きく溜息をつく。
僕は、無理矢理彼にこの事件の調査を引き受けさせたことに罪悪感を感じ始めていた。
「すまないな、楠くん。もし、本気で楠くんが嫌だと思うんなら、この仕事断ってもいいんだよ」
ちゃんと、楠と『鳥乃天羅』との橋渡しは行った。 
僕としては、これだけでも十分戸浜との義理は果たしたと言えなくもない。それに、肝心の三姉妹が、こっちを信用してちゃんと情報を与えてくれない、こんなことではちゃんと仕事はできない、とことを分けて話せば、戸浜もそれ以上無理強いするようなことはないだろう。
だが、楠は横目で僕をぎらりと睨んで、
「馬鹿な。探偵が一度引き受けた仕事をそんな理由で断るなんて、事務所の信頼に関わります。それに、ああいう風に意固地になられると、僕もむきになる方ですからね。どんな手段でも使って本当のことを洗いざらい喋らせるか、少ない情報でも見事に結果を出して、目にもの見せてやりたくなりますから。やりますよ、絶対。本物のストーカーもしくはメール脅迫犯が誰か、必ずつきとめてやる」
僕は、少し安心して、窓の外に目を移した。
楠がやる気になってくれるのなら、僕は『協定違反』を犯した後ろめたさを感じないですむ。
闇を流れる、見慣れたネオンや街灯の光――いつもと変わらぬ夜の風景が、僕を落ち着かせた。
「ああ、でも、一つだけ言っておきますけど、成河さん」
 不意に楠が言った。
「何?」
「あれからよく考えてみたんですが、やっぱり僕は成河さんとのカップリングなんて冗談じゃないですからね」
「……何度も言わなくていい」


4 バー『ヘルシング』にて
 
「いやあ、正直、きみが羨ましいよ、成河くん」
少しアルコールがまわって、いつもより更に饒舌になった妻崎が言った。
僕は、ブラッディ・マリーを舌先でちびちび味わいながら、訊いてみる。
「どうしてですか?」
「そりゃ無論、楠くんのことに決まってるだろう。本物の名探偵が友人だなんて。しかも、彼が手がけた事件を小説にすることも許してもらってるんだろう?掛け値なしに本物の『ワトソン役』になれるんだ。ミステリ作家冥利につきるというもんじゃ、ないのかい」
『スタジオ・トリニティ』に蓮森三姉妹を訪ねた翌日の夜。
僕は約束通り、業界の先輩にして蓮森季影の恋人、妻崎篤郎と酒を酌み交わしていた。
彼の行きつけの鳥料理が美味い居酒屋でビールを浴びるほど呑んだ後、何度か編集者に連れてきてもらったことのある『ヘルシング』という妙な名前のカクテル・バーに腰を落ち着けた。
この店の名前の由来は、古き良き時代のホラー映画や小説をかじった人間になら、誰にでも分かるだろうが、そうでない者も一旦店内に足を踏み入れれば、店長がどういうコンセプトでこの店を作ったかは一目瞭然だ。
店のインテリアは黒と赤の二色に統一されて、ソフトドリンクで一番充実しているのはトマトジュース(トマトジュースだけで一〇種類以上もあるような店を僕は他に知らない)。カクテルメニューの一番先頭に怪しい大きなフォントで印字されているのは、ブラッディ・マリー。
その他、あちこちにベラ・ルゴシやクリストファー・リー演じるドラキュラに、極めつけは史上最古の吸血鬼映画『ノスフェラトゥ』はマックス・シュレックのポスターが貼ってあるなど、実に徹底したヴァンパイア・フリークぶりなのである。
閑話休題。
「別に、そうしたくてそうなった訳じゃないですからね。実感ないですね」
僕は苦笑する。それに、楠にとっての僕の存在は、ホームズにおけるワトソン、ポアロにおけるヘイスティングス、あるいは金田一耕助における等々力警部よりもはるかに地位が低い。彼らは時に誤った推理を捜査を繰り広げたりするが、それによって逆に探偵は重要な啓示を得たりする。が、僕はといえば単に楠に遊ばれているか、自分の推理の正しさを補強するための当て馬に使われているだけだ。
「そう、か。でもまあ、毎度小説のネタに苦しんでいる俺からすれば、目の前に生きたネタが立っているだけでも、相当羨ましいが」
「苦しんでいる?妻崎さんがですか」
意外だった。本格からサスペンス、ハードボイルドから社会派まで、あらゆるジャンルの作品を矢継ぎ早に執筆している彼の言葉とは思えない。あるいは、不器用な謙遜か皮肉か。
「当たり前だろう。作家たるもの、題材は常に探索のアンテナを立てて探してなけりゃならん。だが、そのアンテナにひっかかった素材も、必ずしも自分に合っているとは限らない。自分の好みの味付けで、苦心して料理できればいいが、どうかすると素材そのものを駄目にしてしまったり、最初から使えなかったりする。ところが、きみの場合は――最初から出来上がった料理として、物語がそこにある。主人公も、事件も、プロットもトリックも。そしてきみが直接その事件に関わっている場合、きみは自分が体験したこと、感じたことをそのまま書けばいい。きみの中にあるものを、そのままダウンロードすればいい訳だ」
そう言われると――まあ、そうかもしれない。だが、別に僕は楠の話だけで飯を食っている訳じゃない(というより、僕の小説自体がそれほど売れないので、多産しないと生活が成り立っていかない。その中でいうと、楠と遭遇した事件を扱っている作品は本当にごくわずかだ。それでも、楠が出てくる話が、僕の書いている小説の中では一番マシな売れ行きなのだが)。小説家として楽をしているかのように解釈されると、ちょっと不愉快だ。
そういう心境がどうも顔に出ていたらしく、妻崎は苦笑いをうかべる。
「いや、皮肉に聞こえたかな。無論、きみが小説家らしい仕事をしていない、なんて言いたい訳じゃない。だが、楠くんなんていういいネタの元があるのが、単純に羨ましいだけなのさ。そういう意味では、きみはもっと彼の存在を活用すべきだとすら思うね」
「……はあ」
「あんな格好のモデルがいるんだ、使わない手はないだろう。彼のキャラクターだけを拝借して、もっとどんどん作品を書いてみたらどうだ?さっきはあんな言い方をしたが、僕は楠くんの伝記作家としてのきみ以上に、本格ミステリ作家としてのきみを評価しているんだ。そのきみの力量に、楠くんの存在というスパイスを加えたら、かなりいいものができるんじゃないかと僕は思うんだが」
「それは、無理ですね」
評価されていることにはまんざらでもない気分を覚えつつ、僕はあっさりと言った。
「ただでさえ、彼は小説に使われることを嫌がっているんです。そんな、モデルに濫用するような真似をしたら、本気で絶交されかねません」
「そうなのか。ふうん、探偵業のいい宣伝にもなって、一石二鳥だと思うんだがなあ」
僕は彼が不思議そうに言うのを聞いて、楠がスタジオ・トリニティで彼に会った時、彼の軽口を即座に切って捨てた理由が、わかるような気がした。
そう、彼にとっては、自分の周囲に在るものはすべからく『素材』に過ぎないのだ。そういえば以前、彼は僕に『自分の親が死んだらそれで小説を書くのが小説家だ』と言ったことがある。つまり作家たる者、特別なテーマを探したり取材なんかにこだわる前に、日頃から自分の周辺にある全て、それらを自分の中に取り入れて作品の肥やしにしていけ、ということで、自分としてもそのとおりだと思う。 
が、それも極端なレベルにまで行き着けば、自分自身あるいは自分の周囲の人間に何が起ころうと観察しているだけ、自分自身は何も行わず何も積極的な感情を持たない、ただ『小説のネタになるか否か』だけが問題になる、そういうことになりかねない。無論、そこまで常軌を逸している人間は僕の身近の同業者には一人もいないし、妻崎自身もここまで冷酷な小説マシーンにはなっていないとは思う。
が、それでも楠の鋭敏な感受性は、彼の奥底に横たわるそうした傍若無人さ、傲慢と非情さを嗅ぎ取っていたのではないだろうか。
「僕には、楠くんをそんな風に扱うなんてできない」
我知らず呟く。
妻崎は耳に手を当てて、
「え?何だって?」
「いえ、すみません、独り言です。気にしないでください」
「ああっ。きみの作家活動の今後の指針について熱弁をふるう俺をほっといて、一人で考え事か?ちょっと嫌な感じだな」
妻崎はおどけて言うとウインクして、
「ま、たしかに俺も酔って説教じみてきたし、退屈させちまったのなら、謝るよ。じゃあ、きみにそっぽを向かれないように、ちょいとゲームでもやってみるか」
「ゲーム?」
古今東西とか、王様ゲームとかだろうか。 自分はこの手の宴会遊戯が苦手なので、正直に言うと遠慮したいところだ。それに王様ゲームだと、二人では実質的に不可能である。
妻崎は笑顔で続ける。
「なあ、きみも本格ミステリ作家なら、『九マイルは遠すぎる』は知ってるよな?」
「勿論です」
『九マイルは遠すぎる』――アメリカのユダヤ教社会で起こる犯罪を、ユダヤ教の律法学者デヴィッド・スモールが解決する『ラビ・シリーズ』で知られる作家、ハリイ・ケメルマンの代表作の一つだ。
『歩くには、九マイルは遠すぎる』――すれ違いざま偶然耳にしたこの言葉のみを手がかりに次々推論を重ね、遂に隠された犯罪の真相にまで辿り着くという、ロジックで攻める本格推理の最高峰とでもいうべき短篇である。僕自身、ケメルマンの作品は大好きなので、あんな純粋論理の美酒に酔いしれることのできる作品をいつか書いてみたいと憧れるのだが――如何せん自身の思考回路が論理的ではないので、夢のまた夢である。
「それが、何か」
「最近、仲間内で『九マイルごっこ』ってのが流行っててな。こうやって飲み屋で座ってて、同じ店内にいる面白そうな集団やカップルをダシにして、その集まりがどういう趣旨のものかとか、カップルの関係なんかを、その集団の雰囲気や年格好を手がかりに、推測に推測を重ねて遊ぶんだ」
あんまり趣味のいい遊びとは言えないかもしれないが――
「面白そうですね」
これでもミステリ作家の端くれ、謎と推理を愛する者としては、実にそそられるものがある。
「だろ?」
妻崎はまたウインクして、
「じゃ、早速やってみるか。俺たちの後ろに座ってる、やけに静かに呑んでる女性四人組グループだ」
僕は、ちらりと背後に視線を投げた。
たしかに、異様に静かな集団である。
年の頃は二〇代後半から三〇代前半、それなりにお洒落な身なりをしているが、派手ではない。ルックスとしては、失礼な言い方ながら可もなく不可もなくというところか。
みな表情がなんとなく暗く、時々誰かがぽつり、ぽつりと口を開くと、他の三人が機械的に相槌を打っている。
「友達同士で楽しくやってる、って割には妙にしめやかだろ。だったら、一体彼女たちはどういう動機や立場で集まったのか。推理してみようじゃないか。さ、先攻は成河くんだ。何でもいいから、彼女たちを観察してわかったことを言ってみてくれよ」
こんなゲームに先攻も後攻も関係ないんじゃないかと思ったが、
「そうですね。とりあえず――やけに静かで盛り上がりに欠けるという点から、二つの可能性が考えられると思います。一つ目は、そもそも彼女たちは普段から友達でもなんでもなく、同じ仕事場とか、親戚同士とか、とりあえずお義理で同席している間柄である。だから、各々ここにこうしていること自体を楽しいとは思っていない。二つ目は、実は彼女たちは日頃、実に仲のいい友人なり仲間なのだけれど、今日ここに腰を据えるまでに、何か全員が気まずくなるような出来事があった。なので、先ほどからずっとその雰囲気を払拭できないままひたすら、ちびりちびりと呑み続けている」
「ほう。妥当な線だね。だがしかし、前者の方は、若干推理に瑕疵があるな」
妻崎はグラスを持ち上げてカラリと鳴らした。
「そんな風にお義理で宴会につきあうような間柄の人間は、こんなところに呑みには来ない。きみや俺が今こうしてるように、一回どこか居酒屋やレストランのようなところで腹ごしらえがてらの一次会をやった後、二次会三次会コースとして立ち寄るのが普通だろう。本当に義理やおつきあいだけで集まっているのなら、一次会でさっさと帰るはずだ。まあ、各々に別のところにいて、ここで合流することになったとか、一次会からこういうところで呑みたがる人間もいないことはないだろうが、それほど多数派じゃない。多分そういう人は毎日の日課のようにこういうところで一杯引っかけている部類だ。彼女たちがそういう酒の呑み方をするとは、少なくとも見た感じ思えないな」
なるほど、たしかに。
「じゃあ、後者の方には賛成なんですか」
「そうだな。一番自然だ。じゃあ、後攻の俺が、どこでどういう種類のトラブルが起こったか、ここに来るまでの足取りを推測してみる」
さっぱり、先攻後攻とか攻守がどう分かれているのかわからないが、
「どうぞ。そもそも、彼女たちはどういう集団なんですか?」
「いやあ、それは友人関係か仲の良い仕事仲間、ってことでいいんじゃないかな」
妻崎の舌は実になめらかである。どうやらこのゲームが本当に好きであるらしい。
「そうでないと、あそこまで全員がしんみりなるほど深刻なトラブルを共有することはできないだろう」
「全員が共有できるトラブル……」
僕は一つ思いついた。
「気まずくなる出来事、というのとは違うかも知れませんが、彼女たちの親しい共通の知人が、事故か病気で亡くなった、なんてのはどうでしょう」
我ながら縁起でもない想像であるが、
「実は今日がその友人の一周忌か何かで、彼女たちはそもそもその人物を偲ぶ集まりとして今夜の会合をもった。一次会でその相手との楽しかった想い出で盛り上がり、アルコールがまわっていささか感情の起伏が激しくなってきた二次会、みんなその想い出が輝かしければ輝かしいほど、自分たちの失ったものがいかに大きいかを実感し、こうしてしんみりしてしまった」
「おお。ナイスな論理展開。いいぞ成河くん、のってきたな」
妻崎は実に嬉しそうに、
「んー、残念ながら、その推理に反証できるだけの材料は俺にはないな。でもこんなに早く結論が出ちゃうと、ちょっとつまらない気がするしな。うーん」
そして、背後を振り返り、まじまじと彼女たちの様子を眺める。
「妻崎さん、そんなにじろじろ見ちゃ、気づかれますよ」
「いやあ、そうは言ってもなあ。もうちょっと手がかりがないと」
「手がかりって……」
僕は、ふと気づく。
「妻崎さん、よく考えたらこのゲームって、別に『九マイルは遠すぎる』みたいに、安楽椅子探偵じゃない訳ですよね。目の前に手がかりが生でいる訳だし。そうすると、『九マイルごっこ』っていうネーミングはおかしいんじゃ……」
「うるさいなあ。いいんだよ語呂が良いから。うむ、なんとか見つけたぞ新しい推理のとっかかり」
 僕は、半ば呆れながら促した。
「どうぞ」
「ああ。彼女たちの雰囲気は確かに重々しいが、ただ想い出にひたって過去に魂を遊ばせているというには、目つきが妙にポジティヴだ」
「目つき……ですか」
何じゃそりゃ、とは思ったが、一応一瞥して確認してみる。たしかにみんな、異様に自分の目の前の空間をまっすぐ見つめているが、
「妻崎さん、あれは単に酔って目が座ってるだけなんじゃないでしょうか」
「いやいや、よく観察してみたまえワトソン、酔っぱらって正体を失ってる人間が、あんな真剣な面もちで話なんてできるもんか。あれは全員で、何か差し迫った問題を協議している表情だよ」
「……細かい表情ですね」
言われてみるとまあ、そういう風に見えなくもない。
「じゃあ、とりあえずそういう前提にするとして。新しい推理、お願いします」
「了解した。ううむ、何かを真剣な顔つきで話し込む四人の暗い女、ううむ」
酒の強い彼も、さすがに酔いがまわってきたのだろうか。その顔からはいつものクールさダンディさはすっかり影を潜め、ただの緩んだ陽気なオヤジになっている。
彼とはそこそこにつきあいが長いが、こんな姿を見るのは珍しい。
「よし、わかったぞ!複数の女が刺すような目で集まって話し合うことといえば一つしかない。彼女らを弄んだ一人の男の殺害計画を練っているんだ!」
僕がぽかんとしたのは言うまでもない。
「えーと。『十人の黒い女』ですか」
テレビドラマでリメイクもされた、市川崑監督の傑作サスペンスだ。
それを聞くと妻崎は心底嬉しそうに、
「そう、そうだよ。成河くん、若いのに変なもの知ってるな」
「有名ですから。それはともかく、ちょっとそれはリアリティなさすぎませんか」
「いいや、これで決まりだ。ほら、きみにも見えるだろう、彼女らの後ろで微笑む犯罪者の守護女神ヘカテの姿が」
いかん、論理破綻をきたしている。アルコールの精に脳を乗っ取られた時点で、このゲームはご破算にすべきだ。
「わかりました、妻崎さん。妻崎さんの正解ってことで、この遊びはお開きにしましょう」
「なんか不満そうだな、成河くん。推理は、いろんな固定観念に縛られることなく自由に、あらゆる可能性を考慮に入れてなされるべきだ。事実は小説より奇なり、ということもあるし、顎が外れるほど荒唐無稽な推理が、真実だったということもあるんじゃないかな」
「いや、そのとおりです。ですから、今日は妻崎さんの勝ち、ということでいいじゃないですか」
「いや、勝敗はまだ決したとはいえん」
唐突に彼は立ち上がり、背後に向き直った。
僕は狼狽して、
「な、どうするんですか妻崎さん」
「正解を確かめるに決まっている」
妻崎は急にびっと襟元をただし、先ほどまでのダンディでニヒルな顔立ちに戻る。なんて器用な人だ。そしてつかつかと、相変わらず重い空気に包まれた女四人に歩み寄り、中の一人にごにょごにょと耳打ちした。一体どんな訊ね方をしているのか――普通、本気で殺人を犯そうとしている人間は、見知らぬ人間にそのことを言ったりしないと思うが。
だがしかし、そんな僕の極めて常識的かつ現実的な予想は、見事に覆された。
声をかけられた女は、妻崎の顔を凝視しつつ何度も頷いた。そして彼は、してやったりという表情をうかべて、意気揚々とこちらに戻ってくる。
「俺の勝ちだ、成河くん」
 嘘だろおい。
僕は、四人の黒い女(実際の服装は別に黒くない)をまじまじと見つめた。単にからかわれているだけなのではないかとも思ったが、やはり彼女らから立ち上るオーラは木星の重力並に重い。見知らぬ男と軽いブラックジョークの応酬をする雰囲気ではなさそうだ。
いや、彼女と妻崎がどういう会話を交わしたか、実際に耳で確かめた訳ではないのだから、『正解』というのも全くの出鱈目という可能性も大きいのだが――それを件の女性に確認する度胸は僕にはなかった。
僕は仕方なく、神妙な顔をして頭を垂れた。
「……参りました」
「いやいや、きみの推理もなかなかいい線いってたじゃないか。いっそどうだい?自分が探偵役を務める作品を書いてみちゃ」
「馬鹿言わないでください」
そう言って苦笑する僕を、妻崎はにこにこして見ていたが、不意に過去を懐かしむような目になって、
「実はな。季影と出逢ったのは、この『九マイルごっこ』がきっかけなんだ」
「そうなんですか」
意外な話の展開に、僕は思わず背筋を伸ばした。
「ああ。もう、二年くらい前になるかな。ある翻訳家氏の出版記念パーティーの後、仲のいい編集者と、丁度こんな風に二人で飲み歩いていたのさ。そいつも結構ロジックを弄ぶ類のミステリが好きで、ケメルマンは勿論コリン・デクスターや西澤保彦、氷川透なんかを偏愛してるんだ。それで、何軒目かに寄った店で、やはりこのゲームをやってみようってことになった。その時推理の標的にしたのが、あの蓮森三姉妹だったのさ」
「それはまた――難問だったでしょう」
「まあなあ」
妻崎は煙草に火を点けながら顔をしかめる。
「モデルばりのスタイルの美女が三人。身長と体形がやけに似通っていて、顔つきもにているが雰囲気やファッションセンスは全くバラバラ、喋り方も違う。いやあ、二人で怪論奇論を闘わせたさ」
紫煙を吐く彼の頬が微妙に赤くなっているのに気づいて、僕は思わずにやにやした。
「それで?見事正解して、その知的論理的頭脳を誇示することで、季影さんを惚れさせたって訳ですか」
「とんでもない」
妻崎は肩をすくめる。
「小一時間以上の激論にも関わらず、俺たちは結局お互いが納得できる解答を見つけられなかった。かと言って、正解を確かめずにそのまま目を逸らすには、あの娘らはあまりにも魅力的だったからな。やっぱり、声をかけてみたんだ。そしたら、千影ちゃんが俺の顔と名前を知ってて。そのまま意気投合して五人で呑んだ。それが、あの三姉妹と知り合った最初のきっかけだよ」
「でも、その中でも妻崎さんは、季影さんを特に自分の恋人に選んだ訳ですよね」
僕は、自分が芸能レポーターか何かになったみたいだと思いながら、更に訊いた。
「やっぱり、ああいう大人しそうではかなげな大和撫子タイプが好みなんですか?」
「大人しい?季影がか?」
妻崎は声をあげて笑った。
「そう見えるとしたら、きみの人間観察の能力はまだまだだ。名探偵までの道のりは、いささか遠いと言わざるを得んな」
「そうですか?」
僕は少しむっとして、
「あの三姉妹の中では、季影さんはちょっと雰囲気が違うように思うんですが。千影さんは常に自信に満ちあふれているように見えるし、美影さんは無口ですが、それは他人には自己の領域に踏み込んで欲しくない、という絶対的な拒絶の表現に思えます。でも、季影さんは……とにかく、二人の間に挟まれて、ひっそりと小さくうずくまっている感じがします」
「彼女たちの態度言動の形容としては、かなり的確だな、そいつは」
妻崎は煙草の火を灰皿に押しつける。
「だが、本質じゃない。あの三人がそれぞれ全く異なる立ち居振る舞いや服装をしているのは、自分にそっくりな他の二人と一括りの存在として見られたくないからだ」
「……」
つまり、あの三姉妹の各々の個性は、実は全くの演技に過ぎない、ということか。
「じゃあ、本物の彼女たちは、一体どんな人間だって言うんです」
「さあ。そこまでには俺もわからんさ。だが、別に彼女たちも、自分の中にない全く偽りのパーソナリティを演じている訳じゃあない。自分の中のある側面を取り出して、それを本当の自分ということにして看板立ててるだけだ。ま、そんなことを言うと、人間誰しも同じようなものかもしれんがね。多分、我々が普段見てる、三人それぞれの一言で表せる部分を束ねて一本にしたら、意外と一番本質に近いかもしれん」
「……」
「そんな風にちょっと見方を変えてみると、彼女らは根っこの部分では全く一緒だよ。自信家で見栄っ張りで、だけど臆病で人見知りが激しくて。滅多なことじゃ本当に誰かに心を許したりしない。だけど少なくとも、人を愛することにかけては、実に一途で正直だ」
それほど三人が似ているのなら、尚更――
「そのよく似た三人の中で、どうして妻崎さんは季影さんに惹かれたんですか」
「さあ、なんでかな」
妻崎は苦笑すると、新しい煙草を取り出して火をつけた。
「一番、彼女がナチュラルでたくましく見えたからかな」
「たくましい?彼女がですか」
 あのはかなげで弱々しい姿から、どうしてそんなイメージがわくのか、僕には全く理解できない。が、これも彼に言わせると人間観察の不足ということになるのだろうか。
「そうだ。よく考えてみろ、自分の弱い姿、臆病な部分を人の前に堂々とさらけ出せるっていうのは、ある意味勇気があるってことだ。世間の大半の人々は、それをしたくないがために物や金や権力や地位で、ごてごてと自分を飾り立てる。だが彼女は、そんなものに頼って嘘の自分を構築するより、弱いままの自分で世界に投げ出されることを選んだんだ。こいつは、そうそう誰にでもできることじゃない。小心者の俺なんか特に、死ぬまでかかっても絶対できない芸当だ」
「……そういうものですか」
わかるような、わからないような話だった。
本当の自分をさらけ出して生きるというのが、勇気の要ることであるのはわかる。しかし、自分の弱さを克服するため、違う自分になろうと努力するのも、また強くなければできないことなのではないだろうか。
僕はふと、楠はどっちなのだろうと考えた。
彼はいつも、自分の感情を特別の目的がある時以外(仕事の最中、どうしても一芝居を打たなければならない時とか)、全く隠そうとしない。正義感も、怒りも、悲しみも、そして悪意をも。だがその一方、彼は少なくとも僕が知る限り、誰にも弱みを見せたことがない。感情を爆発させている時ですら、どこかに理性を最後の砦のごとく残していて、自己を見失うということがないように思える。
だがそれは、彼が心に隙のない完璧な防壁を築き上げているからなのか、それとも本当の意味で何ものにも屈しない強靱な精神を持っているからなのか――
「その証拠にな、成河くん」
 妻崎は、つまみのピスタチオを指先で転がしながら、
「俺は随分、遠回しにだが他の二人にもモーションかけたんだぜ?だけど、気のあるような表情はさんざ見せるくせに、いざこっちが踏み込もうとすると、貝みたいに殻に閉じこもっちまう。無論、自分からの意思表示なんて絶対にしない――プライドが高すぎて、自分の気持ちを相手に伝える、ってことが極端に下手くそなんだな。季影がナチュラルでたくましい、って言ったのは、そのあたりのこともあるんだよ。俺に対して、直接的に想いを伝えてきたのは彼女だけだったからな」
「なるほど……」
 たしかに、スタジオ・トリニティでの妻崎に対する三人の態度は、まさにそれだったような気がする。
 ごく自然に妻崎との時間を楽しもうとしている季影、嬉しそうに普段と違う顔を見せるか、それ以上は近づこうとしない美影――そして、彼の視界にいる間はしっかり者の姉をきっちり演じているくせに、その背中にはずっと、やるせない視線を注ぎ続けていた、千影。
 三人三様ではあるが、季影と他の二人の間には、越えられない壁がはっきり存在している。
 だけど、あれほど恋い焦がれているのに、季影に対して嫉妬を感じたり、それで姉妹の関係がこじれたりすることはないのだろうか?これが昼のメロドラマなら、何でもありの泥沼展開に発展しそうな雰囲気に満ち満ちているのだが――
僕のそんな黙考は、妻崎の声に遮られた。
「携帯、鳴ってるぞ」
言われるまで、全く気づかなかった。
ポケットに入れた携帯電話が、着信メロディである某英国ミステリドラマのテーマソングを奏でている。
僕は慌てて電話に出た。
「もしもし」
「成河さん、何してます?今」
突っ慳貪に言ったのは、楠の声だった。
「たしか、妻崎先生と呑みに行くとか昨日言ってましたよね。今、先生も隣にいらっしゃいます?」
「ああ、いるよ。代わろうか?」
「必要ありません。今すぐ一緒に、スタジオ・トリニティに来てください」
彼の真剣さが、嫌な予感を煽る。
「どうした。何かあったのか」
「詳しいことはこっちで説明しますが――美影さんが亡くなりました」
「なんだって」
僕の頭の中で、何かが鳴動した。
「殺されたのか……?」
 訊ねながら、思わずよろよろと立ち上がる。
「他殺であることだけは、この上なくはっきりしてますね」
楠の声は、飽くまで冷徹である。
「とにかく、早く。こっちには、もう警察も来てます」
 いきなり電話は切られた。
「おい、成河くん」
妻崎が僕の肩を揺する。
「何があったんだ。殺されたって、誰がだよ。おい、答えろよ」
僕は、彼にこのことをどんな言葉で伝えるべきか思いつかず、しばらく立ちすくんだ。


5 切 断

そうして――
僕と妻崎は、蓮森三姉妹の一人の、変わり果てた姿と対面することになったのだった。
現場は、先日僕と楠が彼女らからストーカーについての相談を受けた、応接室。
向かい合わせた大きなソファに挟まれるように置いてある低いガラステーブルの上に、仰向けに死体は横たえられていた。
首を切断されているのに流血した様子がなく、ぽつぽつと小さな血痕があるくらいなので、どうやら首切りのおぞましい作業は別の場所で行われたらしい。
服装は、昨日美影に会った時と、色合いこそ違うが同じような迷彩柄のTシャツとジーンズなのだが、それらにもほとんど血液が付着している様子はない。
それにしても――
『アシャンティ』と名乗る相手に脅迫されていた彼女が、妖怪アシャンティに見立てて殺される――それはひょっとして、あのメールにあったとおり、『忌まわしき我が眷属の一員となす』ということの具現化なのか。 
「季影は?なあ、楠くん、季影はどこにいるんだよ、おい」
妻崎は僕を押しのけ、楠に詰め寄った。
「季影、本当に本当に美影ちゃんのこと心配してたんだぞ。あいつ、どんなにショック受けてるか……俺がいてやらなくちゃ、俺はあの子の傍にいなくちゃいけないんだよ」
「千影さんと季影さんは、別の部屋で警察から事情を訊かれています」
楠は無表情に、
「落ち着いてください、妻崎さん。あなたがそんなに騒いでも、何にもなりません。それに、季影さんもショックを受けているのに、あなたがそんなに狼狽えるのを見たら余計に立ち直れなくなりますよ」
「そのとおり」
僕らの背後から力強い声が聞こえ、中肉中背の人の良さそうな男が現れた。
「あ、江田さん」
僕が思わず声をあげると、男はにっと笑って、
「よう、成河くん。久しぶり」
彼こそ、僕たちにとって唯一にしてすこぶる重宝な警察関係のコネクションである、警視庁捜査一課の江田和意警部だ。
彼と楠と僕は、彼が頭を抱えていたある事件で、楠が見事に真相を看破して以来のつきあいである。彼らの関係は、金田一耕助と等々力警部以上で、難事件に遭遇するとは江田は必ず彼のもとにやってくるし、楠が何か捜査上の情報を欲している時は、こっそり江田が提供する。古来、探偵と警官は敵同士か、持ちつ持たれつ共生していくかのどちらかだが、彼らは明らかに後者であった。
「千影さんと季影さんとは後で、ちゃんとお引き合わせしますから。今はちょっと、私に詳しい話を聞かせてくれませんか。どうしてこんな奇妙な死に方を彼女がしなければならなかったのか。どうやら、楠くんや成河くんがここにいる理由と関係あるようだ。最初から、話してくれますか」
どんな凶悪犯も安心して罪を自供してしまいそうな、温かくて人懐こい笑みをうかべて江田は言う。
「そんなもん、千影ちゃんや季影から聞けば十分でしょうに。それに最初ってのは、どこからを指しておっしゃってるんです?」
妻崎は苛々と訊き返す。
江田は笑顔を絶やさず、
「お二人には、別の者が既に話を聞いておりますから。それに、美影さんは、怪しい電子メールを受け取っておられたり、不審な人物にもつけ回されたりしていたそうではないですか。季影さんの恋人として、あなたもある程度相談を受けたり、手助けをされたりしておられたはずだ。そのあたりのことを、是非順序立ててお聞かせ願いたいですし、その他あなたが今回の殺人と関わりがありそうだ、と思うような事柄があれば、どんなことでも教えていただきたいんですよ」
 妻崎は額を人差し指で掻きながら、
「ああ、そういうことね。それなら、そっちの楠探偵と成河先生に聞いた方がいいんじゃないかなあ」
 そう言って、僕たちの方を顎をしゃくって指し示した。
「俺は、例のメール騒ぎのことは季影から断片的に聞かされてるだけで、全体的にどういう経緯を辿ってるのかまでは知らないし、何も手助けなんてしてない。無責任なストーカー対策のアドバイスくらいはしたかもしれないが、そんな細かいことはもう忘れてしまいましたよ」
――無責任な、アドバイス。
僕は、先ほどの『ヘルシング』での会話を思い出し、人を物語のソースとしか考えていない彼らしい態度だと冷ややかに考えた。
やはり、彼のことは先輩作家としては尊敬できても、人間同士としては解り合えそうにない。
「そうですか。ですが、他にもいろいろお訊ねしたいことがあるので、できればしばらくこちらに留まっていただきたいんですがね」
江田が、拝むような仕草で頭を下げると、妻崎は鼻で笑う。
「アリバイなら、先に申告しときますよ。俺はそこにいる成河くんと、夕方七時頃からずっと酒を呑んでいました。その前は、出版社で打ち合わせだ。美影ちゃんの死亡推定時刻が何時かは知らないが、俺は彼女を殺せない。ちなみに動機もありません。恋人の姉を殺しても、僕にメリットはないですからね」
 こういう火急の際でも、こんな台詞だけはすらすらと出てくるあたり、ミステリ作家の業の深さを感じさせる。
「ともかく、これ以上季影とそっくりな顔の死体を眺めてるのは御免だ。キッチンにいるから、見張りでも何でも付けててくださいよ」
 そう言って、彼はのそのそと応接間を出ていった。
「やれやれ、ご機嫌損ねちまったか」
江田は苦笑いをうかべて、
「じゃあ、楠くん、成河くん、悪いが、話を聞かせてくれるかな」
 楠は流し目で僕を見ながら、
「成河さん、お願いします」
「なんで僕が。大体、この件について依頼を受けたのはきみだろ」
「自分のポリシーを曲げてその依頼を請けたのは、誰のためでしたっけ」
楠は、僕と江田さんにくるりと背を向け、白い薄手の手袋をはめて死体に近寄っていった。
「ちょっと、美影さんの死体を調べさせていただきたいんですよ。江田さん、いいですよね?」
「ああ、さっき上には許可貰ってきたから、存分にやってくれ。そのかわり、また捜査を手伝ってくれるんだろう?」
江田は妙に嬉しそうである。
楠は頷いて、
「無論です。依頼人を殺されて、探偵としては黙ってる訳にはいかないですからね。感謝します、江田さん」
そうして、静かにして俊敏な動きで、死体の周辺をあれこれと観察し始めた。
江田は笑顔で僕に向き直り、
「と、いう訳だ。楠くんのご指名だし、話してくれよ、詳しい経緯を」
「はあ……僕でよければ」
 そして僕は、戸浜から相談を受けたことから始まる、一連の出来事を説明した。 
「なあるほどなあ」
江田は手帳にいろいろとメモしながら、僕の話を真剣に聞いていた。
「じゃあ、何か。楠くんときみは、今回のこの変な殺しと件のストーキングは同一犯によるものだと考えているのかい」
「それは……どうでしょう」
僕は、先ほど『ヘルシング』で妻崎から聞いた蓮森三姉妹の実像や、昨夜の別れ際に楠が口にした、この事件の全体に横たわるちぐはぐさ、不自然な感じのことを思い出していた。
アシャンティ、ストーカー、鳥乃天羅、妻崎、スタジオ・トリニティ。
この死体と同様、おそろしく滑稽で歪な構図。
「少なくとも、無関係ではないと思いますが……」
季影さんを斬りつけた人物、最近跋扈している不審人物、メール脅迫犯、そしてこの殺人の犯人。
全てが同じ人間の仕業だと考えるには、あまりに各々の行為の性格が違いすぎるように思うのは――僕の気のせいだろうか?
かと言って無論、それぞれに異なる人間が下手人である、と考えるのも不自然極まるとは思うのだが。
江田さんは僕が考え込んでいるのを見て、
「ああ、いやいや、いいんだよ。別にそこまで話さなくても。楠くんにしろきみにしろ、まだ決定的な証拠が何もない以上、はっきりしたことは言いたくないんだろう。その辺はいつものことだから、こっちもわかってるつもりだしな」
楠はともかく僕の方は、特別に勿体ぶっている訳ではないし、それどころか漠然とした疑問の山が頭の中を駆けめぐっているだけで、推理らしい推理すらできていないのだが。
「いや、まあ、そう言っていただけると助かります」
少なくとも、何も言うことができない段階であるのはたしかなので、曖昧に笑って誤魔化してみる。
「しかしあれだなあ、楠くんといいきみといい、すっかり死体慣れしちゃってるよなあ」
江田は、どうかするとコロンボや金田一耕助に似ていなくもないぼさぼさの頭を、ばりばり掻いた。
「変に動転したり狼狽えたりされない分、こっちは助かるが」
「別に慣れたくて慣れた訳じゃないんですけど」
僕は相変わらず中途半端な笑みで応えるしかない。
「なんか、犯罪に僕らが呼ばれてるのか、僕らが犯罪を呼んでいるのかわかんないですけど、事件には遭遇しちゃいますね」
「誰が呼んでるか呼ばれてるか呼ばれてないかはともかくとして、健全な状態じゃないのはたしかだな」
江田は顔をしかめる。
「こんな殺した殺されたの世界に、素人さんがごく当たり前のように紛れてる環境を作っちゃ、いけないんだがなあ、俺たち警察官は」
日頃犯罪の捜査や情報収集に楠の存在をフルに活用している彼だが、どうやらその行為が警官という職業の存在意義を揺るがしていることに、彼は急に思い至ったらしい。
遠い目をして天井をじっと見つめている。
「警察に協力するのは、市民の義務ですよ」
どうやらひととおり現場を観察し終えたらしい楠が、手袋を外しながら戻ってきた。
「それに、犯罪者を野放しにしておくよりは何倍もいいんじゃないですか、どんな手段を使っても一刻も早く事件を解決した方が」
 江田は大きく溜息をついて、
「そりゃあそうなんだがなあ。市民の安全を死守すべき立場の警官が、市民を前線に送り込んでいるってのは、やっぱりあんまりにも頼りない話だと思うんだよなあ。それはともかく、なんかわかったか、楠くん」
 楠は額にうっすらとかいた汗を手の甲で拭いながら、
「ええ。とても奇妙な点を見つけました。その前に確認ですけど、切断された美影さんの首の後頭部には、鈍器で殴られたような傷がありました。この殴打が死因だと思っていいんでしょうか?鑑識さんの見解は?」
「きみと全く同じだが」
 江田はとても嫌そうに、
「後頭部を見た、ってことは切られた生首を手に持って、ひっくり返したのか」
 楠は目をぱちくりさせる。
「ええ、勿論。他にやり方あります?」
「いや、いい。それより、さっきの奇妙な点というのを言ってくれ」
「はい。司法解剖が行われれば、きっと指摘されることだろうとは思うんですが……この犯人、首を切断するのに、かなり無駄な手間暇をかけてます」
「無駄な手間暇?」
僕と江田さんは顔を見合わせた。
「そりゃまたどういうことだ」
「言うまでもなく、人間の死体を損壊するには、結構な精神力と体力を必要とします。人間を切り刻むのが好きで仕方ない、その行為自体を出来る限りゆっくり楽しみたい、というようなサイコな殺人者の場合は別にして。だから、切断にどんな道具と手段を用いるにしろ、一番時間と労力を消費しない方法を選ぶのが普通だと思うんですよね。ところが今回の犯人、おそらく鋸か何かを使って美影さんの首を切り落としたと思うんですが、頸骨の関節部分から切り離せばいいのに、わざわざ骨ごと斜めに鋸を入れているんです」
「斜め?」
「ええ、多分死体は俯せにされて、上から鋸で切り下ろすような感じで切断されたと思うんですが、関節の繋ぎ目の線を基準にして、右側を下に四〇度くらいの角度で。なんでわざわざそんなことを……」
そう言って楠は、髪の毛に指を絡ませた。
「単に人間の体に対する知識が乏しくて、切る作業が下手くそだっただけじゃないのか?」
僕が言うと、今度は江田さんが、
「それはあんまり考えられないな。確かに、解剖学の知識がある人間なら、剃刀一枚で関節ごとに人体を切り分けて、バラバラにできるという話は聞いたことがあるし、そういう事件も実際にあった。だが、そんな専門知識がなくても、実際作業にあたってみて、どのあたりが切りやすそうか、どっちの方向になら鋸がよく進むか、くらいは感覚としてわかるだろう。意地でも斜めに骨と最後まで格闘しなくちゃならない理由はないよ」
「でも、こんな異常な行為に手を染めてる最中なんですよ。そういう正常な判断が働かなくなっていたとしても、不思議はないでしょう」
この反論も、あっさり楠に覆された。
「成河さんがおっしゃるほどパニックに陥っている人間が、こんな風に死体を何かに見立てて綺麗に並べるなんて真似は、できないと思いますが」
彼は綺麗なスパイラル状に指に巻き付いた髪をこれまた優雅に解きながら、
「それに、骨や関節の問題はともかくとして、切断面自体はとても綺麗です。狂気に駆られた人間が混乱の中で行った仕事にしては、あまりにも器用で冷静すぎますね」
「なら、どうして……」
口ごもる僕を見て、楠は肩をすくめる。
「成河さん、事件はまだ始まったばかりですよ。そんな何もかも一気にわかるわけないじゃありませんか。ただ言えることは、こういう不合理に見える行為にも、犯人にしてみれば冷徹な判断のもと導き出された、ちゃんとした理由があるということです」
そして、闇夜の猫のような大きく黒々とした瞳を輝かせて、
「面白いと思いませんか?」
僕を見上げた。
彼のそんな様子を見て、江田さんもまた嘆息する。
「おいおい、楠くん。あんまり楽しそうな顔せんでくれよ。こんな死体やそれを作った人間と長らくつきあわなきゃならん、こっちの身にもなってくれ」
「失礼しました」
楠はぺこりと頭を下げるが、全く反省しているという顔ではない。
「ところで、死体の切断作業はどこで行われたのか、判明してますか?」
「ああ、風呂場だよ。こっちの現場は綺麗だが、そっちはまさに血の池地獄だ。凶行の後で大量の水が流された痕跡があるんで、おそらく犯人が殺しで血まみれになった体を洗い流したんだろうが、どうせなら風呂掃除もしていってくれりゃよかったんだ」
「そんなことされたら手がかりが減っちゃうじゃないですか。切断に用いた道具は?」
「そいつもバスタブの中に放置されてたよ。至って普通の、ホームセンターなんかで売ってる木工用の鋸だ。指紋はついてないか、なんて訊くなよ」
「無論です」
楠は頷いた。
「そっちも見てきていいですか?」
江田警部はげんなりした顔で、
「いくらでも。でも、足を踏み入れるのは遠慮してもらった方がよさそうだな。血溜まりに余計なもんが混じると困る」
「了解しました。それが終わったら、蓮森さんやアシスタントさんたちに面会させてもらいたいんですが」
「仰せのままに」
 江田は苦笑した。

その後すぐ、楠はバスルームの方に飛んでいった(僕はついていかなかった)。その場所で彼が、何かめぼしいものを見つけたのかどうかは、彼が何も言わないのでわからなかったが、僕と江田のところに戻ってきた時、先ほど美影らしき死体を観察した時のように首を傾げたり何か考え込んでいる様子はなかったので、特に彼の好奇心をそそるようなものはなかったのであろう。
江田の描写からして、酸鼻のきわみであったことは疑いない現場を見てきたにも関わらず、楠の表情は至っていつもと変わらない。
そして僕と彼と江田の三人は、蓮森三姉妹の他の二人がいる、キッチンへと足を踏み入れた。
やわらかい暖色系のランプの光の下で、彼女たちはがっくりとうなだれて椅子に体を預けている。
その傍らで彼女たちのアシスタント、本丸神奈子と山野鈴美が居心地が悪そうに立っていて、刑事と思しき若い男と何事か話している。
「あ、楠さんと成河さんだあ」
神奈子と鈴美は、僕たちの姿を見ると、今にもぼろぼろ大粒の涙をこぼしそうに目を潤ませた。
その様子を見て、若い刑事が訝しげに僕と楠を見やり、そして江田を見てはっと目を瞠り、最後に双方を見比べて、実に不可解そうな表情になった。
「ああ、この二人なら関係者だ。詳しいことは後で説明する。俺も蓮森さんたちに話を聞きたいから、外してくれないか」
刑事は敬礼して、足早にキッチンから立ち去った。
江田が、促すように楠を見やる。
楠は静かに頷いて、
「千影さん、美影さん。最初にお詫びします。僕が自分の事情で調査の開始を一日延ばしたばっかりに、取り返しのつかないことになってしまいました。本当に申し訳ありません」
さっきの楽しげな様子などおくびにも出さず、神妙な顔で頭を下げる。
「ああ、あなたたちか」
千影は、心ここにあらずといった様子で言った。
「いいわよ、気にしないで。私たちが手を打つのが遅かったってことでもあるんでしょうから。それに、謝ってもらってどうなるもんでもないし。もう帰っていいわよ。さよなら。二度とここに来ないで」
「そういう訳にはいきません」
楠は断固とした動作でかぶりを振った。
「こうなったのも僕の責任です。美影さんを殺害した犯人は、僕が探し出して警察に引き渡します」
「やめてよ、もう。鬱陶しいのよ、何もかも」
千影が顔を上げると、その顔は応接室の死体の生首と同じくらい、血の気をなくして無表情だった。
「私たちは、そんなこと望んでないわよ。もう、犯人もここまでやったからには、満足してどっか行ったはずよ。あなたにこれ以上何かしてもらうことなんてない」
「そうでしょうか」
楠は、彼女を鋭く見据えながら、
「犯人の動機も何も全くわかっていない今の状況では、その見通しは甘すぎます。今回の脅迫メールの宛名はたしかに美影さんでしたが、次に同じ内容のメールがあなたに届かないとどうして言えますか。それに」
彼は、おもむろに質問相手を変えた。
「季影さん、あなたは本当に美影さんの身を案じておられましたよね。千影さんはともかく、あなたはこのままで良いとは思ってませんよね?」
彼女は、頭を垂れたまま、弱々しく首を振った。
楠は大きく溜息をつく。
「あなたがたの考えはわかりました。が、僕は僕で探偵としての意地がありますから。失敗のけじめをつける意味で、犯人を告発させていただきます」
千影は長い髪を苛々とかき混ぜて、
「そこまで言うんなら勝手にして頂戴。でも、私たちが依頼した訳じゃないんだから、調査料は払わないし、協力する謂われもないわよ」
 そう言ってそっぽを向いてしまった。
楠は肩をすくめると、
「美影さんの死体の第一発見者はどちら様でしたっけ」
「あたし……です」
妹が消え入りそうな声で言うのを、千影は椅子から跳ね上がるようにして立ち上がって遮ろうとする。
「み……!」
叫びそうになって、急に我に返り、
「見かけによらず、この探偵、性格悪いわよ。信用しちゃ駄目よ季影!」
静かだが鋭い口調で言うと、そのまま出ていく。
楠はその後ろ姿を、眉をひそめつつ見送ると、残された妹に向かい合う。
「千影さんのお気持ちもわかります。でも、このままにしておいたら、あなたがたにまで危険が及びます。理解してもらえますね?」
彼女はいやいやをするように首を振った。
「もう、あとは警察にお任せした方が……」
楠は口元に妖しい笑みをうかべる。
「あなたがたは、警察が信用できないと言って僕を呼んだ」
ここで江田が苦笑いしたのは言うまでもないが、彼はそんなことはおかまいなしに、
「それで、自分たちの恐れていた事態が起こると、怯えて現実から目を逸らすんですか。あんまりにも勝手じゃありませんか」
「あの、楠さん、お願いですからやめてください。千影先生も季影先生も、警察の人にいろいろ問いつめられて、疲れてるんです」
二人の間に割って入ったのは、山野鈴美だった。
「千影先生と季影先生とあたしたち二人、事件の前からずっと一緒にいたんです。お二人のアリバイとか、今夜の行動とかなら、あたしたちが話しますから」
楠は両者を交互に見比べて、
「わかりました。よろしくお願いします」
「今夜九時頃まで、あたしたちと先生方はずっと仕事をしていたんです。ね、神奈子」
それに反応してエアーズロックの全身が激しく波打ったのは、どうやら必死で同意しているということらしい。
山野鈴美は続ける。
「昼過ぎから締め切り前の原稿にずっとかかりきってたんですけど、その頃になってやっと目処がついて。なんだかお腹も空いたねって千影先生が言って、みんなでファミレスにご飯食べに行こうってことになったんです。だけど、美影先生は体調が悪いからってここに残って。四人で、近所のファミレス『すたーらーく』まで行きました」
楠は、氷のように冷たく揺るぎない視線を、彼女の上に注いでいる。
鈴美はそれに気づいたのか、少し顔を赤らめながら、
「でも、店に着いて席に座るか座らないかって時、季影先生の携帯に電話が入ったんです。どうやらそれ、美影先生からだったみたいで、季影先生、『ごめん、美影姉さんから緊急コールよ。ちょっとスタジオに戻るわ。すぐ帰ってくるから、先に食べてて』って言って、店を出たんです。そうでしたよね、季影先生?」
 鈴美が不安げに同意を求めると、当の彼女は小さく頷いた。が、相変わらず顔を伏せたまんまなので、どんな表情で話を聞いているのかはわからない。
「それで、三〇分くらい待ったんですけど、季影先生があまりにも遅いんで、千影先生がしびれきらしちゃって。様子見てくるから、あんたたち先に何か注文して食べててって。店員さんの視線がさっきから痛いからって。で、あたしたち二人取り残されちゃったんですけど、いくらなんでも先生方より先に注文するなんて度胸なくって。そのまま、待ってたんです。そしたら……」
彼女は、突然ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「美影先生が、お店にやってきたんです」
楠の眉がぴくりと動いた。
そして、微妙な驚きの表情を見せている江田と、顔を見合わせる。
「で、遅くなってごめん、っていつもの調子で言葉少なに。でも、千影季影先生がいないから、二人は?って。あたしたちが美影先生の様子を見に帰りました、って言ったら、困った顔をして、行き違いだね、しょうがないな、って言ってまた店を出ようとしたんです。あたしたち慌てて、美影先生、お二人ならあたしたちがお迎えにいくから、先生はここで待っててくださいって言ったんですけど、先生は相手にしてくれなくって。いいよ、あんたらこそ待ってな、って言ってさっさと行っちゃったんです。あたしたちがこの時、必死で止めたら、無理矢理にでもお店にいてもらってたら、先生は、先生は……」
話が進むにつれ、鈴美はやや情緒不安定気味になってきたので、お世辞にも無駄のないすっきりした説明とは言えないが、それでも彼女らの周辺でどういう出来事が起こったのかは理解できた。
楠はまた指先に髪を巻き付けると、
「美影先生が姿を消したのは、何時頃?」
「えっと、九時三〇分には千影季影先生とお店に座ってて、それから三〇分とかたって季影先生が行っちゃって、それから更に三〇分とかだから、一〇時三〇分くらいです」
「その頃にはまだ、美影さんは生きていた、ってことになる訳ですね」
楠は江田に、意味ありげな一瞥を投げた。
江田は万事わかっている、という顔で大きく頷いて、
「『すたーらーく』の店員に確認はとった。時計と睨めっこしてた訳じゃないから正確なところはわからないということだが、たしかにそのあたりの時間に、美影さんが店に来て、すぐ出ていったのを見たそうだ。彼女らが、あまりにも長時間注文なしで粘ってたんで、よく憶えているらしい」
「死亡推定時刻も、そのあたりですか?」
「そうだな。死斑や死後硬直の具合から考えると、そんなとこだ」
「このマンションと『すたーらーく』の間の移動時間は、徒歩でどのくらいかかるんでしょうね」
「さあ……時計で計った訳じゃないからな。一〇分弱ってとこじゃないか」
「そんなにかかりません。五、六分くらいだと思います」
山野鈴美が言う。
「ありがとうございます、山野さん」
楠は、山野鈴美に向かってにっこり微笑み、
「どうか、続きをお願いします」
鈴美は小動物めいた仕草で、何度も頷きながら、
「それで、あたしたち、おろおろしちゃって。追いかけて先生つかまえた方がいいかなって思ったんですけど、なんか店員さんの視線が本気で痛くて。いたたまれない気分でもじもじしてたら、千影先生と季影先生が戻ってきたんです。お二人とも、顔が真っ青で。美影が、スタジオにいない、周りを捜したけど見つからない、って。だからあたしたち、美影先生なら、さっきここ来てて、またお二人を捜しに行くって出ていきました、って説明したんです。そしたら、『もう、仕方ないなあ。これ以上動き回るとまたややこしくなるから、ご飯食べちゃいましょ』って千影先生が言って、ご機嫌ななめっぽい店員さんを呼んで、注文取ったんです。お店混んでなかったんで、料理はすぐに来て、四人ともお腹空いてたからもりもり食べてたんですけど」
「食べ終わる頃になっても、美影さんは戻ってこなかったんですね?」
楠が、静かだが鋭い口調で訊く。
気の毒な山野鈴美はびくびくしながら、何度も頷いた。
「そうなんです。それでまた千影季影先生、また心配そうになって。食べ終わるとすぐにお店出て、急いでスタジオに戻ったんです。そしたら、そしたら……」
一番思い出したくない箇所に記憶が到達したことで、彼女の神経は限界を迎えたらしい。
滝のように涙と鼻水と冷や汗を流しながら、その場にへたりこんでおいおいと泣き始めた。
さっきまで剃刀のように鋭かった楠の表情が、ふっと緩んだ。彼は激しく震える彼女の肩を優しくぽんと叩くと、
「お疲れ様でした、山野さん。おかげで、みなさんの行動の流れがよくわかったよ。後は本丸さんに聞くから、どこかで休んでください」
鈴美は両手で顔を覆ったまま立ち上がり、よろよろと出ていく。
楠は、再び表情を引き締めると、今度はエアーズロック本丸神奈子と対峙した。
「さて、本丸さん。先ほど山野さんがお話しされた内容に、間違いや補足すべき点はありませんか」
「ぜ、全然、全然ありません」
彼女は激しく首を振る。
「そ、それにあたし、話下手なんで、あんな風に話せって言われても、できません。無理です」
「いえ、山野さんの話に落ち度がないのなら、あなたから聞きたいことはそう多くないですよ。安心してください」
 楠は微笑んだが、そこには全く感情らしきものが窺えない。蝋人形の笑みを見ているような感じだ。 
「スタジオ・トリニティに帰着した時刻を記憶なさっておいでですか?」
「……一一時二二分……です」
「細かく憶えてらっしゃるんですね。時計をご覧になったんですか?」
「はい、たまたま。毎週録画してる深夜アニメの時間が気になって」
「なるほど。じゃあ、その後のみなさんの動きを教えてください。最初に玄関に足を踏み入れたのは、誰ですか?」
「千影さんです」
本丸はうっそりと答える。
「その後に千影さん、鈴美、あたし、という順番だったと思います」
「どんな風に?慌ててバタバタ駆け込んだのか、落ち着いてそろそろ入ったのか」
「どっちでも、ないです。いつもと同じように、普通に。ただ、二人先生はとても気がかりそうな顔をしてました。美影先生の名前を呼びながら、入っていきました」
「それで、死体を見つけたのは、誰が、どんな風に?」
「季影さん……でした」
彼女もまた死体発見時の恐怖を思い出したのか、全身を激しく波打たせて震えた。
「最初に玄関に足を踏み入れた時、最初に大声で美影先生を呼んだのは季影先生でした。それで返事がないんで、みんな顔を見合わせて、それぞれ思い思いに、名前を呼びながらいろんな部屋を覗いて回ったんです。それで、応接室を覗いたのが、季影先生でした。先生が凄みい悲鳴をあげたので、全員彼女のところへ走っていって、座り込んでしまった季影先生の指差す方向を見たら、美影先生が、あんな姿で……うおう」
 彼女は、見かけに相応しく落ち着いた様子で話していたが、それはどうやら彼女の胃袋に多大な負担をかけていたらしい。いきなり嘔吐しそうになったらしく、彼女は呻き声をあげつつ口を押さえ、どたどたと走って姿を消した。
「ミステリ好きで、活字や絵では殺人事件に慣れっこでも、本物の死体とは初対面か。無理ないな」
楠は肩をすくめると、部屋に残った最後の一人に歩み寄った。
「季影さん。事件の流れまでは大体わかりました。山野さんと本丸さんの話に、間違いはありませんか?」
彼女は、相変わらず全く顔を上げぬまま、こくりと頷く。
楠は眉間を指で押さえながら、
「わかりました。じゃあ、今日のところは僕があなたにお訊ねしたいことは一つだけです。美影さんからあなたにかかってきた緊急コールというのは、一体どんな内容だったんですか?」
彼女は、何も言わない。うなだれて、糸の切れた操り人形のように椅子に身を預けたままだ。
楠は溜息をつくと、
「美影さんの仇、討ちたくないんですか?」
彼女の肩を激しく揺する。
「ねえ、このまんまずっと黙っているつもりですか?今この瞬間にも、美影さんを殺した相手はこのマンションの近所を何食わぬ顔で歩いているかもしれないんですよ。そんなことが許されて、いいと思っているんですか?」
「おい、やめないか楠くん」
江田がたまりかねた様子で、彼と彼女の間に割って入る。
「今日のところはここまでにしておけ。それに、彼女も季影さんも、さっきのアシスタントたちも、一度我々の事情聴取に答えてくれてるんだ。ただでさえ思い出すのがつらい記憶を、もう何度もほじくり出されるのがどんなに痛いことか、きみに解らない訳がないだろう」
「理解はできますが同意はしません」
楠はやめない。彼女の顔を覗き込むようにして迫りながら、
「死んだ美影さんはもっと痛かったんですよ。彼女をそういう目に遭わせないために、あなたがたは僕を雇ったんじゃないんですか。ねえ、季影さん」
その言葉が、彼女の固く閉ざされた心にひびを入れたのか――彼女の体が、不意にびくりと痙攣した。そして、ゆっくりと顔を上げ、探偵の冷たくも美しい双眸を見上げる。
楠は言葉を止め、はっとしたかのように彼女から離れた。
彼女の顔は、疲れと恐怖と衝撃で憔悴しきっており、すっかり別人のように老け込んで見える。
彼女は嗄れた声で、唇を震わせながら言った。
「篤郎さんが……大変だ、って」
「妻崎さんが?」
 楠は僕に問いかけるような一瞥を投げた。
その視線の意味は、はっきりしている。
今夜、僕と妻崎は一緒にいた――彼が美影かスタジオ・トリニティに電話をかけたかどうか、怪しい素振りがなかったかどうか、聞きたいのだ。
だは、僕の記憶の範囲では、一緒に酒を呑んでいる間、彼が誰かも電話しなかったし、挙動不審だった様子もない。もっとも、僕も彼も数時間呑んでいる間には何度かトイレに行ったりもして、お互いに一人だけになる時間帯はあったので、そのときに僕の目を盗んで電話していた可能性はある。
僕が黙ってかぶりを振ると、勘のいい楠は全てを察したらしい。
一度だけ頷くと、また彼女に向かって、
「何がどう大変だったんです?内容は、お聞きにならなかったんですか?」
「ただ、妻崎さんがここに来てて……すぐに私に会いたいと行ってるから……すぐ戻ってきてくれ……って。それだけ」
「何故そのことを、千影さんやアシスタントさんたちに言わなかったんですか。隠すことでもないでしょうし、美影さんは何者かに狙われている。彼女からの電話の内容が何か、はっきり言ってあげた方が余計な心配かけないですむとは思わなかったんですか」
「私……あの……美影姉さんは……千影姉さんには言うなって。妻崎さんも、そう言ってるからって」
楠の鋭い視線に耐えられなくなったのか、彼女はまた面を伏せ、そのまま黙り込む。
楠はしばらく、彼女をじっと無表情に見下ろしていたが、彼女からこれ以上の情報は引き出せないと踏んだらしく、
「わかりました。どうも有り難うございました」
あまりありがたくもなさそうに言うと、つい、と彼女に背を向けた。
「江田さん、僕と成河さんは事務所に戻りますが、かまいませんか」
僕に一言も相談していないくせに、既に僕が彼と行動を共にすることにされている。無論、僕自身は誰に頼まれも命令もされずとも、そのつもりではあったのだが。既に朝方に近い真夜中であるのにも関わらず、僕の都合や体調など全く考えていないのが、いかにも楠らしい。
江田さんは鷹揚に手を振ると、
「ああ、聞きたいことは十分聞かせてもらったし、こっちの用事はもう済んでるからな。きみの方の仕事が終わったんなら、帰ってもらって結構だ。何か思いついたことがあったら、すぐ連絡くれよ」
「わかりました。それでは、これで失礼します――成河さん、行きましょう」
江田さんたち(彼女の方は全くこちらを見ていないが)頭を下げて、僕たちはその場を辞去しようとした。
そして、楠がドアノブに手をかけようとした時、
「季影を、随分と虐めてくれたみたいだな、探偵くん」
 ドアが開いて、そこに立っていたのは妻崎だった。酔いもさめ、動揺も収まったらしく、いつものクールでダンディな表情に戻っている。ただ、シニカルに細められた目の奥には、くっきりと怒りの炎が燃えていた。
「ここまでやって、犯人見つけられなかったらただじゃおかないぜ。覚悟しとけよ」
「覚悟なら、いつでもできてます。いろんな意味でね」
楠は涼しい顔で答えた。
「妻崎さんこそ――肚を括っておいた方がよろしいんじゃないですか」
「どういう意味かな?」
妻崎の口元が醜く歪む。
楠は肩をすくめて、
「照れくさいからといって、大事なものを直視するのを避けていると、知らない間に無くなっているかも知れませんよ」 
妻崎の顔色が、さっと変わった。彼はのろのろと口を開いて何か言いかけたが、楠は影のように彼の傍らをすり抜け、さっさと部屋を出ていった。
「何してるんです。行きますよ成河さん」
楠の呼ぶ声に応えていいものかどうか、僕は束の間迷った。が、このまま青ざめた妻崎の目の前に突っ立っていても仕方ないので、一礼して彼の横を通り過ぎた。
玄関口で、もう一度振り返ってみると、彼はまだその場に凍りついたままだった――太陽の光を浴びて石になった、洞穴の巨人トロルのように。

(後編に続く)


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