アシャンティの首 前編
序 アシャンティの呪い
(中編に続く)
滑稽だった。
それは、とてつもなく悪趣味なブラックユーモアか、異様に間の悪くしかもわかりにくい駄洒落――
その死体を目にした誰もが、きっとそう感じたに違いない。
若く美しい女。
肌の色はぬけるように白く、顔の造作も繊細で整っている。
腰のあたりまである長い黒髪も、つややかでなめらかな光を放っており、妖艶ですらある――いや。
彼女の髪が本当に腰に届く程度の長さなのかどうか、今の彼女のこの状態で確かめる術はないので、この表現には語弊がある。
何故なら、彼女の首は切断され、こともあろうに彼女自身の股の間に置かれていたからだ。
「何だよ、これ…」
僕の右側で立ちすくんでいた妻崎篤郎は、ぶるぶると体を震わせながら、その場にぺたりと尻餅をついた。
「何のためにこんなことすんだよ。一体何の冗談だってんだよ、ええ」
頭を抱えて、絶望に満ちた呟きを洩らし続ける。
「多分、冗談なんかじゃありませんよ」
無惨な死体を目の当たりにしているとは思えぬ涼やかな声で言ったのは、僕を挟んで妻崎の反対側に立っている人物――楠想一郎だ。
「ただ、切り落とされた首がこんなところに据えられている、と考えると、ただの悪趣味に見えるだけかもしれないですけど。ちょっと発想を変えてみて、首ではなく手足と胴体の方こそ上下逆になっているのだと考えてみてください」
そして彼は、暗闇で爛々と輝く猫のそれを連想させる瞳で、僕を見上げる。
「何に見えます?成河さん」
答えはわかっていた。
先日から僕たちが関わっている、一連の奇妙な出来事のキーワードである、あの言葉。 そもそもの発端、後にこれらの事件この物語の全てを象徴することになる、その名前。
「アシャンティ、か――」
僕の答えを聞くと、楠は静かに頷いた。
「そう、アシャンティ。『逆さ男』です」
人によく似た姿をしているが、手と足の位置が逆立ちした人間のように反対になっており、一応首の上に乗っかっている頭も上下が逆であるという、滑稽な姿の魔物。
夕闇で彼に遭遇し、何かを問いかけられたなら、全ての答えを逆さに答えないと体をばらばらに引き裂かれ、魂までも食らわれるか、もしくは――手足と首を逆に付け替えられて、彼らの仲間にされてしまうという。
そのアシャンティの姿に見立てて、この女は殺されたのか。
この殺人がその伝説になぞらえて行われたのだとするならば、彼女は妖怪の問いに逆の答えを返すことができなくて――同じ姿にされたのか。
何にせよ、たった一カ所、人間の体が切断されて別の場所に置かれているだけなのに、それだけでこの死体は最上級の悪意に満ちた邪なオブジェと化していた。
被害者とは知り合って間のない僕には、死体を目の当たりにしたという驚愕を別にすれば、それほどショックを受けたということもない。とりわけ、彼女と旧知の間柄だった妻崎の悲嘆などとは、比べるのさえ失礼だ。
さりとて――やはり僕も、この奇妙な屍を前にして、彼と同じ呟きを洩らさずにはいられなかった。
(何のために、こんなことを)
この冒涜的な死体パフォーマンスの裏には、いかなる邪悪な意志が働いているのか。
子供の頃によく観た、人や動物などのキャラクターの体が、バラバラになったりぺちゃんこになったり伸びたり縮んだりと、まるで粘土細工か組み立てブロック玩具のように出鱈目に扱われていた、とあるアメリカ製のカートゥーン・アニメを連想しながら――
僕は、この事件のそもそもの発端に意識をめぐらしていた。
1 発 端
「うおーい成河先生、こっちだ、こっち」
既に結構な量のアルコールを摂取し、いい具合に顔が紅潮した人々がひしめくビアホール。
素面の人間が、この場では自分こそが異端者であるかのような錯覚を覚えてしまうその空間に僕が足を踏み入れると、懐かしい濁声が僕を呼ぶのが聞こえた。
その表情のたるみ具合のせいでみんな同じ顔に見える客たちをぐるりと見回すと、よりによってこの広いホールの一番奥の席で、大ジョッキ片手に上機嫌な戸浜の姿が見えた。
「早く来いよ、先生」
実に酔っぱらいらしく大声で招く彼のもとへ辿り着くのに、僕は重油の海を泳ぐのと同じくらい(本当に重油の海を泳いだことなんて無論ないが)苦労して、人混みをかきわけていかねばならなかった。
「いやあ、すまんすまん。突然こんなところに呼び出したりしてなあ。元気か、成河先生?」
「お願いですから先生はやめてくださいよ」
僕は面映ゆくなって言う。
「もっと売れて有名にでもなってればともかく、相変わらず地道な仕事でこつこつ稼いでるだけの零細物書きにしか過ぎないんですから、僕は」
「謙遜してるんじゃないよ。本の売れないこのご時世、作家専業で人並みの暮らしして食っていけてるってだけでも、結構な売れっ子の証明なんだぜ。まあまあ、先生も座って呑みなよ、ささ」
僕がいささかおずおずと腰をかけると、戸浜はジョッキを両手にひっかけるだけひっかけて移動中だった従業員に声をかけ、僕の分のビールを注文した。いつも人の都合なんておかまいなしの彼らしく、大ジョッキで。
僕の分のビールがやってくると、彼は某大漫画家の描いたブラックユーモア系シリーズ作品に登場するセールスマンのような笑顔をうかべて、
「さあさあ、乾杯しようじゃないか。再会を祝してほら、かんぱーい、ってな」
「あ、はい。乾杯。お久しぶりです」
そう僕が言うよりも早く、彼が凄絶な勢いでジョッキをぶつけてきたので、僕のビールからは泡が飛び散り、僕の頬のあたりにぺちょりとくっついた。
「ありゃ、すまんすまん。久々に成河先生に会えたのがあんまりにも嬉しくてさ。勢い余っちまったんだな」
「ああ、気にしないでください」
僕は苦笑いするしかない。
こんながさつな男で、職場の上司になんぞしようものなら確実に胃潰瘍になりそうな相手だが、それでも僕にとっては――今の職業で飯を食いっぱぐれることがないようになるまで育ててくれた、大恩人だ。
僕――一応ミステリ小説家らしき仕事をして細々と生計をたてている、成河隆治が物書きとしてデビューした際、そのデビュー作を出版してくれた物好きな出版社で、最初に僕を担当してくれたのが、スイカかボールに手足が生えたような体型で、やたらにでかい濁声で喋るこの男――戸浜律雄なのである。
一見無神経そうに見え、小説の出版などという文化的な職業は不向きに思えるこの男だが、『売れて』なおかつ『質の良い』本を作ろう、という情熱だけは誰にも負けていない。
運良くデビューできたはいいが、次になにを書けばいいのかわからずおろおろしている僕に、ときに酷評や罵倒を交えながらも猛烈に激励を続け、なんとか商売として成り立つレベルの作品を書き上げられるまで見守ってくれたのは、他ならぬ彼だった。
下品で押しが強く、良きにつけ悪しきにつけ感情を露骨に表に出すタイプなので、どちらかといえば社内でも作家たちの間でもあまり好かれてはいないらしいが、少なくとも優柔不断でいまひとつ自律心に欠けていた当時の僕(今でもそう大した違いはないが)にとっては、あれくらい強力に尻をひっぱたかれた方が、仕事がはかどったのもまた事実なのである。
そんな彼だが、今は小説の出版から離れ、全く畑違いの別の部署にいる。たしか噂では、とある大物作家の機嫌を損ねたばっかりに、報復人事を食らったのだとかどうとか――
「全くよ、この俺が少女漫画の編集なんてよ、世も末っちゅうかこの、社の人事部も適材適所ってもんがわかってないね、うん」
そうだった。
たしか十代の女の子対象の少女コミック雑誌の編集部に異動させられたのだ。
戸浜は鹿威しを思わせるリズムでジョッキを口に運びながら、愚痴を続ける。
「まあ、せめてもの救いは、その雑誌がミステリやホラーの専門誌だってことくらいかな。今や少女の間でも新本格系・メフィスト賞系を中心に本格ミステリが大ブーム!そこで俺みたいなミステリに通暁した経験ある人材がどうしても必要になった、ってことらしいから、まあ仕方ないってとこかな、うん」
ちなみに、彼がミステリに通暁しているというのは大嘘である。
一応、現在売れている作家の名前はそのパーソナル・データとセットでひととおり記憶しているが、彼はノックスの十戒もカーの密室講義も、『Yの悲劇』と『アクロイド殺し』の犯人も知らない。いや、彼の名誉のために言っておくと、固有名詞としてはそれらを聞いたことがあっても、自分の目で確認したことがない、というだけの話なのだが――少なくとも、『ミステリ通』を名乗るには役不足だろう。
「大変そうですね。でも、相変わらずお元気そうで良かったです」
僕が聞いていようと聞いていまいと関係なさそうなペースで繰り出される彼の近況報告に、当たり障りのないお愛想的反応を何度か返した後、僕は今日ここに呼びつけられた理由をそろそろ聞いてみることにした。
「それで、戸浜さん。今日お電話でおっしゃってた『相談』って何ですか?ひょっとして、僕にミステリ少女コミックの原作を書け、とか?」
戸浜のジョッキを持つ手が、ぴたりと止まった。そのまま、さっきまでの饒舌が嘘のように、沈黙する。
僕は何かまずいことでも言ってしまったのかと訝しくなり、
「戸浜さん?」
「あ、いや。すまん。そいつはいい考えだと思ってな。そうか、他にも顔の利く推理作家連中がいるんだ、やってみない手はないな、うん。いやあ、いいアイデアをくれて有り難う、うん」
ということは、彼の用件はそれとは違うということか。
「いいえ、お礼なんてそんな。それより、本題をお願いします」
「本題?」
「僕に相談、あるって言ったのは戸浜さんでしょう」
温厚な僕も、ここまでとぼけられると少々むかむかしてきた。
「僕。締め切りがおしてる原稿あるんですよね。戸浜さんと呑めるのは嬉しいですけど、用事がないのなら、そろそろおいとまさせていただきますが」
と、立ち上がりかける僕の手を取って戸浜は、
「あいや、わかった。わかったから待ってくれ、成河先生」
彼の脂ぎった手は汗ばんでいた。彼が汗かきなのは昔からだが、今日は特に発汗量が多いらしく、びしょびしょで――そして、冷たかった。
「すまん。俺自身、こんなトラブルに巻き込まれたのは初めてなんで、どうしたらいいのかわかんなくてな。できれば、表沙汰にせずに解決しちまいたいんだが、何も妙案がうかばん。そこで、成河先生のことを思い出したって訳なんだよ」
「そこでって……僕に何かできそうなことなんですか」
少なくとも、僕個人には、対人間のトラブルを円滑に収めるような能力などないし、そういう場面で頼られたことなど、これまで一度もなかった。
戸浜は地味な柄のハンカチで額の汗を拭いながら、
「まあ、な。ともかく、最初から順を追って話してみてもいいか。先生の忙しい時間を犠牲にしちまうのは申し訳ないが、どこから話を切り出したらいいか、わからねえんだ」
この自分勝手な男が、僕ごときにこれほど謙譲した話し方をするとは、それだけで彼が抱えている問題の厄介さがわかる気がした。
無論、原稿の締め切りが近いからといって、大恩ある彼の頼み事を無下にはできようはずもない。
僕は、こっちも覚悟を決める意味で大ジョッキのビールを半分(全部は無理だ)ほどを一気に飲み干すと、
「どうぞ。原稿の方はまだギリギリなんとでもなる段階ですから、お気遣いなく」
「わかった。ありがとう」
戸浜は重々しく頷くと、
「成河先生は、鳥乃天羅、って少女漫画家を知ってるか」
「とりのてら?」
正直言って、僕は普段あまり少女漫画など読まない。それでも、萩尾望都や竹宮恵子なんかは、友人に勧められていくつか読んだし、職業柄情報収集の意味で、ミステリや・SF・ホラー系の作品はチェックしているが、それなりに面白いとは思っても熱心に追いかけるほど気に入ることは滅多にないので、あまり記憶には残っていない。
したがって、その『鳥乃天羅』という名前も、どこかで聞いたことがあるような気がする程度である。
「いえ。多分作品を読んだことはないと思いますけど」
「おいおい、そんなことじゃあ困るぜ」。
急に彼は、プロの編集者の顔になって目を輝かせた。
「今、ミステリ系コミックの世界じゃ、一番注目されている作家の一人だ。いや、『一人』というと語弊があるんだが、それはともかく、緻密で繊細な絵柄と、本業のミステリ作家のみなさんをさえ唸らせる見事なプロットやロジックやトリック。先生、ミステリ作家としてもっと大成したいんなら、そんな視野の狭いことじゃ困るぜえ、おい」
そこまでまくしたてて、彼は自分の立場を思い出したらしく一回咳払いして、
「いや、すまん、ついその。で、実はだな。今俺は、その鳥乃先生の担当をしている訳なんだが、その鳥乃先生のところに、最近薄気味悪い内容の電子メールが度々届いているらしいんだ」
「悪戯メールですか。実害がない分には、ほっといた方が無難なんじゃないですか」
実を言うと僕のもとにも、ミステリ作家であるところの僕を標的とした嫌がらせメールが、結構来る。僕もパソコンは持っていてインターネットもできる環境にあるが、必要な時に必要なサイトを見る以外には、あまり積極的にネット活動を行っているとは言い難い。 だから、僕のメールアドレスを知っている人間なんて仕事でやりとりすることのある出版社関係のスタッフか昔からの知人しかなく、それ以外に教えた相手はいない。
だから普通のルートからは漏出のしようがないはずなのだが、どこでどう調べたのか、その悪戯の相手は僕のメールアドレスを知っていて、作品の出来に関する辛辣な批判や罵詈雑言を書き散らして送りつけてくるのだ。
まあ、形としては歪だなあとは思うものの、そういうのも作家としての僕、そして僕の書く小説への関心度の現れだと僕はとらえているので、とりあえず参考程度に受け止めておいて、あとは無視することにしている。
昔知り合いに、ある掲示板でそこの管理者の誹謗中傷を行った相手(僕はネットに疎いのでよく知らないが、そういうのを『荒らし』というらしい)に注意をしたら、逆に噛みつかれてそのまま泥沼状態になった話を聞かされて、そういう手合いはまともに相手にするだけ時間の無駄だと学んだのだ。
反対に、相手の攻撃に対して、いちいち矛盾点をついて反撃し、相手が反論できなくなるレベルまでやりこめる、という撃退方法をとる人もいるようだが、少なくとも僕は、そんな疲れることは御免だ。現実世界ですら疲れることが多いのに、そんな不毛な相手とのやりとりに使う体力と時間はない。
「ただの悪戯ならな、俺もそうするのが得策だと思うんだが」
戸浜は溜息をついた。
「これは秘密でもなんでもないんだがな、鳥乃天羅ってのは、共同で作品を描いてる三人組のペンネームなんだ」
「三人組?そんなのありなんですか」
ピンときていない僕の反応に、彼の表情は、またも編集者の説教モードに切り替わる。
「しっかりしてくれよ、先生。古くは藤子不二雄、比較的新しくはCLAMPと、複数の人間で作業を分担したりアイデアを闘わせたりしながら一つの作品を作っている漫画家さんは、結構多いよ。それにそもそも、漫画家という職業自体が、売れれば売れるほどアシスタントを必要とする性質のものだし、実際、晩年の石ノ森章太郎先生なんて、実際にペンを持つことはほとんどなく、ネームだけ描いて後は全部アシスタントが仕上げていたらしい、という話も聞くしな。そうするとあれだな、小説家という職業がどこまでも孤独なのに対して、漫画家は個人として名が売れるほど一個の企業のようになっていくという……」
彼の話がどこまで本当なのか、無知な僕には判断できないが。少なくとも――
「あの、戸浜さん。本当に、少女漫画の部署にまわされたの不満なんですか。なんか、推理小説の担当してた頃より、生き生きしてません?」
戸浜は、そこでまた我に返ったらしい。
数秒、ぽかんと口を開けて黙り込んだ後、
「あ、いやいや、やはり一社員として、与えられた仕事にはベストを尽くさねばならんからな。いや、これでも異動になった後、いろいろ勉強したんだよ、うん。さて、話をもとに戻すとして。鳥乃先生が三人組のグループだってのは言ったんだっけ。でな、三人組は三人組でも、鳥乃先生んちはひと味違ってな。正真正銘の、一卵性の三つ子なんだよ」
ぴくりと、僕の胸のレーダーが反応した。
今僕の心臓の状態を心電図にしたなら、大きく線が波打ったに違いない。我ながら嫌だなあとは思うが、現実世界にあってミステリ小説でよく使われる言葉やシチュエイション――密室とか、バラバラ事件とか、アリバイ、とか――に出会うと、僕の胸の鼓動は美しい女性を前にした時よりも早くなる。
これを職業柄、と解釈するか、不謹慎ととらえるかは、個々人によって違うのだろうが――とりあえず真剣に悩んでいるらしい戸浜さんの前で、嬉々としてみせる訳にもいかない。
僕は極力表情を押し殺して、極力素っ気なく言う。
「珍しいですね。それで?」
「おや、成河先生、三つ子と聞いて喜ぶかと思ったのに」
戸浜は、人の気も知らないでしゃあしゃあと言った。
「まあいいや。ともかく、成河先生は口が堅いと信じて全部言っちまうが、彼女らの本名は、名字は蓮森、下の名前は姉妹の順番で言うと千影、美影、季影さんというんだ。これがまた、揃いも揃って超美人でなあ。才色兼備って訳だ。で、三つ子の美人三姉妹漫画家、てんで結構話題になったりもしてな。成河先生、本当に全然知らなかったのか?」
「知りませんよ」
かなりいいところで脱線されたので、僕は苛々してしまい、
「続きお願いします。できれば余分な装飾は省いてストレートに」
「あうう、すまん。実はこの悪戯メールってのは、漫画家・鳥乃天羅に対して送られてきたものではなく、次女の蓮森美影さん宛に届いたんだな」
「本名で?」
「そう、宛名も本名で。それがまあ、本名で送られてきたからって、どうという内容のものでもない――はっきり言って意味不明だし。額面通りに受け取れば、脅迫状ってことになるんだろうが、何をどう脅迫したいのかさっぱりわからん。ただ、怯えさせて楽しみたい、とかそういう線が一番濃厚だな」
「だったら尚更、ほっといた方がいいと思いますけど……」
「それが、そうもいかん事情があってな」
戸浜は急に声のトーンを落とした。
「実は最近、三人が同居してなおかつ仕事場としても使ってるマンションの周囲で、不審な人物が度々目撃されてるんだ」
「ははあ」
僕にもそろそろ、話の全貌が見えてきた。
「ストーカーですか」
戸浜は頷く。
「おそらく、そうだろう。そのメールが届き始めた時期やなんやかやの前後から考えると、俺たちはその人物とメールの差出人が同一人物だと睨んでる」
「それなら、さっさと警察に言って、しょっぴいてもらった方が早いと思いますが?」
そろそろ、雲行きが怪しくなってきた。この話の流れでいくと、戸浜が僕に頼みたいこと、というのは多分――
「まあ、まあ、話を最後まで聞いてくれよ先生」
戸浜は汗を拭き拭き、
「実は、今回脅迫状を受け取ったのは美影さんなんだが、以前、季影さんもストーカーに暴行を受けたことがあるんだ」
「え?」
何という酷い三姉妹。三つ子だからといって、何も順番にストーカー被害に遭わなくてもよかろうに。
戸浜は更に沈痛な面もちで、
「しかも、相手は刃物を持っていて、結構大怪我をさせられたらしい。もう、一年くらい前のことだ。ところが、その犯人ってのが、まだ捕まっていないんだと」
「なんでまた。ストーキングだけならともかく、斬りつけられたんなら立派な傷害事件じゃないですか。警察も捜査してくれてるんでしょう?」
「それが、季影さんは後ろから不意に襲いかかられたらしくて、相手の人相を見ていなかったらしいんだ。逃げ去る後ろ姿は見たが、薄暗い夜道だったんで服の色くらいしか見分けられなかった。彼女は携帯電話を使ってすぐに一一〇番通報したので、警察の捜索はかなり迅速に行われたと言っていい。しかし、近辺をうろうろしていた不審者が一応捕まったらしいが、証拠不十分ですぐ釈放された。そんなこともあって、今回の事件で怯えているのは、脅迫されている美影さんよりも、むしろ季影さんだ。姉が自分と同じような目に遭うんじゃないかと思うと、気が気じゃないらしいな」
「なるほど。そういう過去の経験から、警察はあてにならない、と思ってらっしゃるんですね」
「そういうことだ」
力強く頷く戸浜。
さあ、来るぞ、と僕は身構えた。ここまで話が進んだら、後は何を言われるかすっかりわかっている。
僕がごくりと喉を鳴らすのと、戸浜がそれを口にするのは、ほぼ同時だった。
「成河先生、友達に私立探偵がいるってのは本当か」
ビンゴ。
「あー、えーと」
正直に言うべきか否か、束の間迷う。しかし、嘘をついたところで隠しおおせるものでもないのは明らかだ。
「います、一応。いますけど」
「勿体ぶるなよ。成河先生の最近の作品によく出てくる、あの名探偵。実在の人物だって目下の評判だぜ」
「あー。実はそうなんですけど」
そのことはまぎれもない事実なのだが。
僕が『彼』のことを小説に書かせてもらうにあたっての条件は、不必要に彼の存在を世間に吹聴したりしないことの他、僕自身がこういうことの窓口になったりしない、ということもあるのだが――
「頼む。頼みます、成河先生。その探偵先生にお願いして、件のストーカーをふん捕まえてくれよ」
戸浜はテーブルに額を擦りつけんばかりに頭を下げる。
「いやあ、それがその」
多分聞き入れてはもらえないだろうとは思いつつ、一応言ってみる。
「ちょっと事情というか約束事がありまして。そういう相談は、受付できないことに……」
「俺の頼みでもか」
さっきまで脂ぎったしつこい中年親父にしか過ぎなかった戸浜の目が、ぎらりと輝いた。
「この俺の頼みなのに、駄目なのか」
「いやっ、そのっ。あのですね」
僕の全身から、冷や汗がナイアガラの滝レベルで噴き出す。そう、僕はこの人の、この眼光には絶対に勝てない。というか――戸浜のこのオーラこそ、彼を今の会社で『編集の鬼』と言われるまでに押し上げた原動力と言っていい。そりゃあ、個性も自我も強い大作家でさえ、彼のこの目で睨まれると逆らえないことがあるというのだから――意志薄弱な僕なんかが抵抗できないのは当たり前だ。
「わかりました……相談してみます」
僕は、宿題を忘れてこっぴどく怒られた小学生のように、悄然として言った。
2 登 板
「で……その押しに負けて、二つ返事でオーケーしてきちゃった、って訳ですか」
楠想一郎は、つくづく情けなさそうな顔で僕を見て、大きく嘆息した。
「二つ返事なんてしてないぞ」
僕は苦しく抗弁する。
「戸浜さんがどうしてもって言うから、仕方なくにだな――」
「承諾したんなら同じですよ」
彼の猫のような目が、ぎゅっと細められる。
「成河さんの『協定違反』だって事実には、少しも変わりないですからね」
「悪いと思ってるよ。もう、その点はいくらでも何度でも謝るって。だから、今度だけは僕を助けると思って力を貸してくれよ。頼む」
「全く……」
楠は、彼には珍しく乱暴な動作で、飲みかけのスポーツドリンクが入ったペットボトルを机に置いた。
この小柄で華奢な体格の青年こそ、僕が戸浜から仲介を頼まれた『名探偵』なのである。
彼はこの「滝村総司探偵事務所」を二十四歳という若さにも拘わらず、たった一人で切り盛りしている優秀な人材で、本来の主が何年も不在である(所長である滝村総司は、数年前謎の失踪を遂げたきり、姿を現さない)この小さな事務所を、潰すことなく収支とんとんでなんとか維持していっている。
だが、彼の外見から、その秘められた能力を見抜ける人間は、果たして世間にどれだけいるだろうか。
彼の見かけは、まず非常に若く見える。下手をすると、今現在の彼の実年齢よりも、十歳ほども若く見られることもある。それだけでも十分特異な外見なのだが、彼の場合はそこに、男性らしからぬ非常に華奢な体格と、何よりもおそろしく白いアルビノのような肌、大変美しく整った細面の輪郭に乗ったくどくない程度にくっきりした優雅な目鼻だちが手伝って、余程注意して見ない限り、一目で男性とは判別できない――もっとぶっちゃけて言ってしまえば、どう見ても十代後半から二十歳くらいの女の子にしか見えない、非常に特徴ある容姿をしているのだ。そこへきておまけに、本人も敢て男っぽさを強調することもなく、黒ぐろした髪を長く伸ばしてポニーテールにまとめたり、男装の麗人然とした黒いスーツに身を包んだりしているものだから、ますます傍目には浮世離れして見えて、一つ間違うと宝塚系の若手役者か何かに思えてしまうのだった。
だが、彼は彼でこの姿態を自分の仕事にフルに活用していて、浮気調査などを依頼された時には、相手を尾行するのに女装していったりして、かなり上手に立ち回っている。
彼と僕が知り合ったのはほんの偶然、ミステリ作家と探偵という非常に定番な組み合わせのつきあいをするようになったのは、全く互いに意図してのことではないが、やはり彼の存在が作家としての好奇心をくすぐるものであるのは間違いないのだった。
そして、彼の人となりを説明する上で、どうしても欠かしてはいけない項目がもう一つある。彼は先ほど述べたように、一般の興信所が行うような浮気調査・素行調査、人捜しの類でもいっぱしの探偵として立派な仕事をしているが、それは彼の本領とはいえない。
彼の最大の武器は、常識に囚われない大胆かつ奔放、それでいて極めて論理的なその推理能力にあるのだった。であるから、時折彼のもとには、一見常軌を逸した、怪奇不可解な事件の相談がもたらされることがあり、その度に彼は自らがいわゆるホームズやポアロ、金田一耕助や御手洗潔のような「名探偵」でもあることを関係者に示してきたのだった――が。
彼はあまり、自分の名声が広まることを好んでいないらしい。
僕が彼を小説に登場させるのも、『エラリー・クイーン以来、推理小説の中で作者の名前と登場人物の名前が同じというケースは掃いて捨てるほどある。だから、僕が現実にきみが手がけた事件を小説にしたからと言って、それできみの存在を本気で探そう、などという酔狂な人間はいない』――などと言葉を尽くして説得し、やっと先に述べたような条件付きで了承してくれたことなのだ。
それでも、本人としてはやはり不本意であることに変わりないらしく、親しい一部の友人や事件の当事者以外から、彼の探偵活動のことを口にされると、あからさまに不愉快そうな顔をする。
彼がどうして、そこまで自分の名前が知れ渡ることを嫌っているのか、その理由は僕も知らない。が、少なくとも今この時点で、僕は彼から絶交を言い渡されても仕方のない立場に立たされているのは確かだった。
こうなると、もう――
「申し訳ない!本当に申し訳ない!もう、二度とこんなことはしないと誓う。だから、今回だけは、僕の大恩人の頼みなんだ。僕を男にしてくれ、頼むよ!」
ただひたすらに頭を下げるしか、僕になす術はない。
「男にする?成河さんが女性だとは、今日まで全然知りませんでした」
楠の声は飽くまで冷ややかだ。
「ともかく、成河さんが過去の恩人のトラブルに際して、その性的アイデンティティに値する貢献ができるかどうかは、僕の関知するところではありません。どうかお引き取りを。お帰りは、あちらになります」
蝋燭並に白い指で、僕の背後のドアを指差す。
そこまで言われると、僕も何も言い返せない。瞼を閉じると、地獄の炎よりも恐ろしい戸浜の怒りの形相がうかんでくる。
あちらを立てればこちらが立たず――と達観するにはあまりに無惨な交渉結果に、僕はがっくりと肩を落として、その場から立ち去ろうとした。
その僕の背後で、また楠が大きく溜息をつくのが聞こえた。
「全く、どうしてあなたはそんなに主体性がないんでしょうね、成河さん」
背中に投げつけられるその言葉を、僕は唇と噛みしめながら受け止める。
「ねえ、その戸浜さんっていう人は、成河さんが今の作家的地位を手に入れるにあたって一番恩義を受けた、かけがえのない人なんでしょう?どうして、『彼の助けがなければ、作家・成河隆治はこの世に存在しなかった。僕の作家生命をかけて、この依頼はどうしてもきみに引き受けてもらう』くらいのことが言えないんですか」
「はあ?」
僕は彼の真意をはかりかねて、怪訝な顔をして振り向いた。
「そういう意味のことはさんざん言ったつもりだったんだけどな。聞いてなかったのか?」
「トータルして意味が同じでも、気迫が全然感じられないんですよ、成河さんの言葉には。あなたの弱気で心のこもってない台詞じゃあ、僕との協定違反を正当化するほどのエネルギーは生み出し得ないんです。もっとも」
彼は口元に意地の悪い笑みをうかべて、肩をすくめる。
「今ここで僕がこんなこと言ったくらいで、成河さんの弱腰体質が急に改善されるとも思いませんけど」
「おい、ちょっと言い過ぎじゃないのか」
温厚な僕も、ここまで言われて黙っている訳にはいかない。
「きみとの約束を破ったことは僕が悪いし、言い訳のしようもないけど、僕は僕なりに必死できみに事情を説明し、許しを求め、懇願したつもりだ。言葉の選び方が悪かったのか何なのか知らないが、そこまで虚仮にされる謂われもない」
「一生懸命やったから許してくれ、なんてのは戦後の歪な平等主義に裏打ちされた、子供の理屈ですね」
楠の舌はますます辛辣さを増してゆく。
「敗北は敗北、失敗は失敗。あらゆる能力には個人差があり、優劣が存在する。それを客観的事実としてとらえられない人間の、おのれの存在の卑小さから目を逸らすための、苦しい言い訳です」
「やかましい!」
僕は彼につかつかと歩み寄り、スチールの事務机に思い切り拳を叩きつけた。
「言い訳でもなんでもいいんだよ。僕は、昔の恩人から頭下げられたら、駄目だなんて言えないんだよ。どんなくだらないことでも、なんとかしてやりたくなるんだよ。それが悪いってのか、人間として卑しいってのか!」
大声で怒鳴ると、一気に頭が冷えた。
楠に対して、こんな風に怒りを爆発させたのは――思えば、初めてだ。
多分血の気がひいているであろう僕の顔を、相変わらず氷のような表情で、楠は見つめていたが、
「そのくらい熱意があるんなら、もっと堂々としていればいいのに」
その桜色の唇が、ふっとほころぶ。
「成河さんの気持ち、今ので十分伝わりました。今回に限って、『協定違反』には目をつむりましょう」
「え。それじゃあ」
僕は、喜びのあまり飛び上がりそうになる。
楠は小さく頷いて、
「協力しますよ、ストーカー退治。成河隆治先生の作家生命がかかっているんですからね、無下には断れないです」
本当にそう思うんなら、あんなに人が激昂するまで罵らなくても――とは思わないこともなかったが。ともかく、これでなんとか戸浜氏に対する僕の体面も保たれる。正直、ほっと胸を撫で下ろした感じだ。が――
「ただし」
楠が、ぴんと右人差し指を立てて言った。
「もう一つだけ、条件がありますよ、成河さん」
「何だい」
彼との言い合いで疲れ果てた身には、もう勘弁してくれと言いたいところだったが、立場上そうもいかない。無理矢理笑顔を作って聞いてみる。
「何でも言ってくれ」
「鳥乃天羅の作品、僕全部持ってるんですね、実は」
「なに」
彼にそんな趣味があったとは、初耳である。
日頃の会話から伺える知識の豊富さや多趣味さから考えると、それほど不自然ではないけれど。
「事件解決の暁に、でもいいですから、その単行本全てに、天羅さんのサインを貰ってきてください。」
「全部だ――?一体何冊あるんだそれ」
「長期連載してる二シリーズと短篇集合わせて、計三七冊」
おそらく僕あたりなんかとは比べものにならないであろう多忙さの、売れっ子少女漫画家に、そんなことを頼める訳が――
「お願いしますよ、成河さん」
楠は虫も殺せないような笑顔で言った。
「成河さんの名誉のために、自分の主張を曲げてまで仕事を引き受けた大恩ある僕のためだもの。多少無理だったり傍若無人で嫌な顔をされそうなお願いでも、さっきみたいな真剣さで、作家生命をかけて頼んでくれますよね?ねえ、成河さん」
僕は、最初に厄介ごとを持ち込んできた戸浜を、心の中で罵らずにはいられなかった。
「それにしても」
戸浜から聞いた話を、改めて順を追って説明し終えた後。
楠は、空になったペットボトルを指先に乗せ、回したり宙に躍らせたりアクロバティックな運動をさせながら、
「ただ盲目的に嫌がらせを繰り返すストーカーと違って、意外と厄介かもしれませんね、今度の犯人。って、無論これは一年前に季影さんを襲った人物と、現在出没しているストーカー、そして脅迫メールの相手が全部同一犯だと仮定した場合の話ですけど」
「そうかな。僕は、ただ今まで運が良くて捕まっていないだけだと思うんだが」
「運、も無論あるんでしょうけど、それはどんな犯罪でも同じですから」
彼の指先で、ペットボトルがぴたりと静止した。
「だけれども、運だけじゃ、優秀な日本の警察から、ここまで尻尾を掴ませずに逃げ切ることは不可能だと思いますね。これまでの話で判断する限り、やってることは短絡的でシンプルな嫌がらせのくせに、とても用意周到な印象を受けます」
「ひょっとしてきみは、季影さんの事件の後、証拠不十分で捕まった例の不審者が犯人だと睨んでるのか」
「まさか。今のこの段階でそんな危険な断定はできませんよ。しかし、そいつが当の犯人であってもそうでなくても、やはり犯人は実に慎重に行動するタイプだという推測は成り立ちますね、当然」
「どうして」
「もしその不審者が犯人だった場合、警察が証拠不十分で釈放せざるを得なくなるくらい、見事に犯行の痕跡を隠しおおせている、と言えますし。もし他の人間が犯人だった場合も、その逃走の素早さから考えると、あらかじめ計画を練ってあった可能性が高い」
「たしかに……そうだな」
「まあ、まだ情報が少なすぎるので、いくら理屈をこね回してみたところで、机上の空論に過ぎません。ともかく、調べてみないとね。ところで成河さん、美影さん宛に届いたっていう、脅迫メールの内容については、何も聞いてないんですか?」
「あ」
すっかり忘れていた。楠に話を持ちかけてみる約束をした後、戸浜から件のメールをプリントアウトしたものを貰っていたのだ。
ポロシャツのポケットから取り出し、畳んでいたのを広げて楠に渡す。
彼は弄んでいたペットボトルを静かにゴミ箱に投げ入れると、早速文面を読みはじめた。
そこに書かれていたのは――
『我が投げかけし三つの問いに、
我が望まざる三つの答えを吐き捨てし汝、
蓮森美影なる名の女よ。
我が眷属の呪いが汝の体を引き裂かん。
汝の五体をばらばらに解体せし後に、
並び替え忌まわしき我が眷属の一員となす。
死して後も呪われ続けよ。』
そしてその末尾に、署名のつもりででもあるのか、『アシャンティ』と記されていた。
ちなみに、メールの差出人名も『アシャンティ』となっていて、メールアドレスは誰でも無料で使うことができて、申込の際にも自分の個人情報を入力する必要のない、フリーメールサービスのものになっていた。
「大仰な脅迫状ですね。たしかに、これでは相手が自分に何をどうして欲しいのか、全くわからないですね」
楠は指先に長い髪を巻き付けながら、
「それにしても――『三つの問い』に『アシャンティ?』」
呟いて、形のいい眉をぎゅっとしかめる。
「心当たりがあるのか?楠くん」
「心当たりってほどのものではないですが」
彼はメールから目を上げると、
「一応『アシャンティ』という固有名詞は知ってます」
「へえ。一体何だ?人名かい?」
「妖怪の名前ですよ。あんまりメジャーではありませんが」
彼の目が、一瞬嬉しそうに輝いた。
「中央アフリカに住んでいる、ウバンギ族という部族の間で信じられています。その姿形から、『逆さ男』と呼ばれることもある」
「『逆さ男』?いつも逆立ちして歩いているのか」
「当たらずとも遠からず、ですね」
楠は指に巻いた髪を今度はゆっくりとほどき始める。
「アシャンティの姿は、ほとんど普通の人間と同じです。ただ違うのは、胴体にくっついている手足の位置と、頭の方向。両手があるべき場所に両足が生え、下半身から伸びる両手で地面に立っている。頭は一応首の上に乗っかってはいるけれども、上下が逆になっている。頭の位置だけ別にすれば、逆立ちしている人間と見分けがつかない」
「ユニークな妖怪だな。そんな面白い格好をしているのに、あまり有名じゃないのか」
「日本では、ほとんど無名ですね。この魔物のことが記載されている出版物も、僕が知る限りでは片手の指に満たないくらいしかないし、各々そんなに詳しく取り上げてもいない。かく言う僕も、子供の頃読んだ水木しげるの妖怪図鑑か何かでしか見たことないんですが」
「ふむ」
僕は腕組みして、
「このメールの差出人の名前は、その妖怪『アシャンティ』を意味していると思っていいのかな」
「『アシャンティ』という固有名詞自体は、世間に結構あふれています」
楠は、ほどいた髪をまた指に巻き付ける。彼は、考え事をしながら喋っている時、絶えずこのように指先で何かを弄ぶ癖がある。
「ネットの検索エンジンで調べてみても、洋楽ヒットチャートにランキングされたゴスペルの歌手から、レストランの店名、昔の映画のタイトルまで、いろいろ出てきます。そういえば、ガーナにはアシャンティ族なんて部族もいますしね。でも、このメール脅迫犯に限っては、怪物の方の『アシャンティ』で間違いないでしょうね」
「どうしてそう言い切れる?」
「『三つの問い』ですよ」
楠はうっすらと妖しい笑みをうかべる。
「アシャンティというのは、その滑稽な外見に似ず、結構恐ろしい妖怪なんです。ジャングルでこいつに出会って話しかけられたら、全て反対のことを答えないと、体をバラバラに引き裂かれて魂まで食らわれるそうです。が、伝説にはもう一つパターンがあって、逆さまの答えを返さなくてはならないところは同じなんですが、そちらではアシャンティが投げかけてくる質問がはっきり三つだ、としているのです。そしてその場合、逆の返事をし損ねた人間は、手足を逆さまに付け替えられ、彼らの仲間にされてしまう」
「なあるほど。『三つの問い』に『望まざる三つの答え』、それに『忌まわしき我が眷属の一員となす』って訳か。まさに、そのまんまだな。だけどそうすると、この文面はそのマイナーな妖怪氏を知っていないと、やっぱり全く意味不明だよな。犯人は何のためにそんなことを」
「それは、鳥乃さんの経歴と関係があると思われます」
楠は、何かを思い出そうとするように眉間にしわを寄せる。
「たしか、あの方々の初期の読み切り作品で、『リバース・リバース』っていうホラー短篇があるんです。単行本にも未収録だったはずなんですが。その話にはそのまんま、アシャンティが出てきます。舞台こそ現代日本ですが」
何でそんなマニアックなことまで知ってるんだ、と思いつつ僕は訊いてみる。
「どんなストーリーなんだ」
「いやあ、まだ作風が安定してらっしゃらない頃の作品なんで、お世辞にもそれほど面白いとはいえません。アフリカから持ち込まれたアシャンティの木像に封じられていた魔物が、人を引き裂いたり人の手足をロープか何かみたいに絡み合わせて、骨をぐちゃぐちゃにしたりする残酷スプラッターです。今の上品な本格ミステリテイストからは想像もできないような酸鼻を極める内容ですね。伊藤潤二の『富江』シリーズとちょっと似てるかな」
「『富江』?菅野美穂が出てた映画か」
「そっちのレクチャーは今度にしときましょう。胃にもたれそうだ」
楠は苦笑する。
「ともかく、こんな短いメールですけど、多少はここから犯人像らしきものが見えてきますね。少なくとも、このメールを書いた人間は、漫画家としての鳥乃天羅をかなり昔から知っている人間、もしくは、彼女については水も漏らさぬ完璧な知識を有する熱狂的マニア。あと、宛名が美影さんであることから考えると、個人としての鳥乃天羅を知っている人間、というのも付け加えたいところですけど、これは相手がストーカーだとあまり意味のない前提になってしまいますね」
「彼女たちの本名は、一般には公表されていないんだろう?」
「無論。でも、『美人の三つ子』っていうシチュエイションにはかなり話題性があるので、顔写真なんかはよく雑誌に載っています。テレビにも出たことあるんじゃないかな」
「なるほど。それじゃ、本名も住所素性も本気で調べようとすれば、そう難しくもないか。三つ子なんて世間にそんなにごろごろいる訳じゃないからな」
「そうですね」
楠は静かに頷く。
「まあ、とにもかくにも。お三方に会って直接話を聞いてみないと、これ以上のことはわかりそうにありませんね。僕としては特に、『三つの問い』と『答え』というのに、美影さんが心当たりがあるのかどうか、とても気になります――実際に犯人とそういうやりとりがあったのか、単なる犯人のブラックジョークなのか。もっとも、相手がストーカーだった場合、美影さん本人は心当たりがなくても相手が『そういう話をした』と勝手に思いこんでいる可能性もありますが」
「ま、とにかく戸浜さんに連絡とって、明日にでも鳥乃さんちにお邪魔できるよう、話をつけとく。ところで楠くん、ファンとしては嬉しいかい?仕事とはいえ、憧れの鳥乃先生に逢えるのは」
僕は茶化したが、楠はにこりともしなかった。
「僕は別に鳥乃さんのファンじゃありませんよ」
だったらなんでそんなに詳しいんだ。
「それに、成河さんは『仕事とはいえ』とおっしゃいましたけど、はっきり言って僕の『仕事』は、堅気の商売とは言い難いですからね。関わり持った時点で獣道に迷い込んだようなもんですから。それに」
彼は急に苦渋に満ちた顔になって、
「この事件なんだか、嫌な感じがします。そうですね――模様が、歪すぎる」
「模様が……歪?」
楠はよく、事件の推理や調査を行う時、こういう言い回しを使う。彼にとって謎や犯罪というのは一幅の絵画のようなものとしてとらえられるらしく、推理が間違った方向に行こうとしていたり、犯人の邪悪な意図によって事実が歪められようとしている時、彼はこう言うのだ――『模様が違う』と。
もっとも、僕もその『模様』について、何がどう違うのか、そもそも正しい模様というものがどういうものを指すのかというようなことは訊ねたことはないし、本人もはっきり言葉にできるほど明確に何もかもがわかって言っている訳ではないらしい(はっきり言ってしまえば、ようするにただの『カン』なのだろう)。
ただ――彼の『カン』はよく当たる。
物事が悪い方向に動こうとしている時には、特に。
そのまましばらく、僕らの上を沈黙が覆った。
それは空気そのものの比重が増して、僕らの舌や音そのものを押さえ込んでいるかのような、不快感を伴う澱んだ静けさだった。
楠は渋面を作ったまま微動だにしないし、僕も言語中枢が麻痺したかのように何も口にすべきことを思いつけない。
思えばこの時、楠だけではなく僕もまた、この先の事件の酷薄で陰惨な展開を、かなりおぼろげながら予感していたのかもしれない。
あたかも、荒野で嵐のにおいを感じて怯える、無力な小動物のように。
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