四枚のタロット(2)


 「……こういう訳なんだ」
 僕が説明を終えると、江田刑事と楠想一郎は、奇妙な表情をうかべ、顔を見合わせた。
 楠想一郎は、24歳という若さにして、この「滝村総司探偵事務所」の主であり、たった一人で事務所を切り盛りしている。彼の本業は他の探偵事務所と同じく、信用調査が主なのだが、その卓越した推理力を頼って、不可解な事件や厄介なもめ事を抱えてやってくる客も多い。ここに同席している江田刑事もそうだし、他ならぬ僕自身もその一人である。僕なんぞはおまけに、自分の小説のネタに彼の取り扱った事件を使わせてもらっているから、二重も三重も彼に恩がある。
 が、こうしてスチール机に頬杖をついて、好奇心いっぱいの目でこちらを見ている姿からは、彼がそんな風に凄腕の人物だとは想像できない。彼の外見は、ホルモンの異常か、他の何か超自然的な力の成せる技か、どう見ても十代後半の女性の姿にしか見えないのである。
「えーと、江田さん、死亡推定時刻は何時でしたっけ?」
 彼は、アーモンド型の目をくるくるさせながら訊ねた。
 江田は指先でほっぺたを掻きながら、
「午後2時くらいかな。といっても、司法解剖が終わらないと正確な時間は分からないが、現場に付着していた血の乾き具合なんかから見て、大体それくらいだと思うね」
「成河さんが死体を発見したのが?」
「午後4時過ぎ。時計とにらめっこしてたわけじゃないから、正確じゃないぜ」
 僕は答えた。
「その1時間前に一度、笠井求月氏の部屋に行ったんでしたね?」
「ああ」
「なるほどね……」 
 楠はつやのいい黒髪を指先に巻きつけながら、
「成河さんが見つけた死体は、死後二時間は経過していた。なのに、一時間前には影も形もなかった……つまり、705号室に、その死体が忽然と出現した、ということになるわけですね」
「死体消失ならぬ、死体出現、ってわけか」
 僕は溜め息をついた。
「だけどもさ、別に僕らは廊下を1時間ずっと見張ってたわけじゃないんだぜ。僕らが下に降りて、前の喫茶店でだべってる間に、犯人が死体をあの部屋に運びこんだ、って可能性もあるんじゃないのか」
「ないとはいえない、ですけど……」
 楠は、ふふんと人を食ったような笑みをうかべて、
「あんまり賢いやり方じゃないですね。血まみれの死体を担いでホテル内をうろうろする、なんていうのは」
「犯罪者が全部頭がいいとは限らないだろ」
「それなんだが」
 江田が、咳払いした。
「どうやら、死体を持ち運んだ、という説は捨てた方がよさそうだ。死体を発見したとき、ベッドやバスローブが血でどべどべになってたろう?この部屋に横たわってる間に、相当の血が流れた証拠だ。だが、廊下には一滴とて血の滴った跡は残っていなかった。どくどくと流血してる死体を、何の痕跡も遺さず移動させるのは不可能だ」
「……」
「更につけ加えるなら、あの流れた血液の量から考えて、笠井はあの部屋で刺殺されたとしか思えないんだよ」
「えーと、待ってください」
 僕は、こんがらがる頭をすっきりさせようと、右手の人さし指を額に当てながら、
「ってことは……なんですか?僕らが最初に七〇五号室を訪ねたとき見た、何の変哲もない客室の光景は、幻だったとでも言うんですか?」
「めくらましの魔法にでもかかってた、とかね」
 楠が、にっと悪戯っぽく笑う。
「これは死体出現どころか、部屋の中身がまるごと交換された、とか言うお話にもなりかねないですね」
「ああ畜生――ディクスン・カーを呼んでこい」
 江田は眉間を押さえて、辛そうに首を振る。
「あいつの好きそうなネタだ。H・M卿に謎解きさせろ」
「H・M卿はカーター・ディクスン名義ですよ。カー名義ならフェル博士かマーチ大佐ですね」
「パトリック・ロシターとかバンコランなんてのもいるぜ」
 僕が茶々を入れると、楠はふうっと大きな息を吐いて、
「成河さん、コアな突っ込み入れないで下さいよ――さて、本当に冗談じゃなく、不可能犯罪めいたお話になってきましたね」
「何とかしてくれよ、楠くん」 
 江田は、懇願した。
「成河くんに呼び出されて、事件に最初から関わっちまったせいで、地元の署員には妙な目で見られるし、責任をおっかぶせられるし、大変なんだ。いつものように頓智を働かせて、解いてみてくれよ」
「出来れば、『頓智』より『灰色の脳細胞』って言って欲しかったですが……」
 楠は苦笑した。
「まあ、何とかなると思います。さて、たしか謎はこれだけじゃなかったんでしたね?成河さん」
「ああ」
 僕はいやいやながら答えた。いきなり殺人事件に遭遇して、ただでさえ気が動転しているというのに、死体はまだ謎を握りしめている。僕などには絶対に解けそうのない、不可解な問題を。
「笠井求月は、四枚のタロットカードを握りしめて、死んでいたんだ」
 それを承けて、江田が説明する。
「これは、犯人を指し示すダイイング・メッセージじゃないかと思う。これを解けば、犯人逮捕にぐんと近づくんだろうが、タロットカードなんぞ触ったこともない私には、どういう意味なのかさっぱりだ。楠くん、きみにはわかるか?」
「それはなんとも」
 楠は細い肩をひょいとすくめる。
「タロットカードって言っても、大アルカナ、小アルカナの2種類あって、合計で78枚のカードがあります。その握りしめていた4枚がどんなカードだったのか、というのが謎なのかもしれないし、単に『タロットカード』という事物が何かを指し示しているのかもしれない」
 そう言うと彼は、机の抽斗から、黒くて四角いプラスチックの小函を取り出した。それを開けると、中世風の神秘的なイラストが描かれた、タロットカードが入っている。
「まずは、その4枚のカードが、何と何だったのか、お聞きしたいですね」
「悪いが、僕はそれらしき物を死体が握りしめているのを確認しただけで、模様なんか観察してないぜ」
 僕が言い訳すると、江田さんは苦笑して、
「大丈夫だ、鑑識から聞き出してある」
手帳をブレザーの懐から取り出した。
「ええとな、笠井求月が握りしめて死んでいたタロットカード4枚は、『節制』『愚者』『女教皇』『悪魔』――だそうだ」
「順番は?」
「え?」
「どんな順番で重ねてあったんですか?その4枚のカードは」
「ああ、多分さっき言った順番でいいんじゃないかな。一番上が『節制』だ」
「ふむ……」
 楠は、片眉を釣り上げながら、順番にカードを並べていった。
『節制』 
『愚者』
『女教皇』
『悪魔』
 模様はそれぞれ――
 下半身を水の中に沈めた、二つの壺を支え持つ美女。
 道化師。
 光り輝く盛装に身を包んだ、錫杖を掲げる女。
 山羊の頭と黒革の翼持つ、悪魔。
「さあて……」
 楠はぺろりと桜色の唇を湿して、 
「果たして、この4枚にどんな意味があるのか?それとも、そもそも意味なんてないのかも知れません。たまたま近くにあったカードを、苦しまぎれに握りしめただけで。それを知るのは結局、皮肉にもこの4枚のカードのみ――というわけですね」
「仰せの通りだ」
 江田は唇を噛んで、頷いた。
「だが、とりあえず、果たしてダイイング。メッセージであるのかないのか、そこら辺の判断だけでもつかないかな」
「焦らないで、江田さん」
 楠はやわらかい微笑をうかべる。
「それぞれのカードに秘められた占いの意味は、ご存じですか?」
「知るわけないだろ」
「成河さんは?」
「ああ、僕は……残念ながら知ってる」
 僕が書こうとしていたのは、タロットカードにまつわるミステリである。
 そのため、タロットカードの種類とその啓示についても、いささか勉強していた。
「説明お願いします、成河さん」
「ああ、わかった」
 僕は、貧弱な記憶力をふり絞りながら、解説を始めた。
「まず、『節制』――その名のとおり、物事の調和を示す。全く相反する二つの事物を、きれいに一つにまとめる、そういう意味が、女が捧げ持つ二つの壺に込められてる。受容性、中庸、安定感、自制心、忍耐――これらの言葉を、このカードが象徴している」
 楠は僕の説明を、澄んだ目で真剣に聞いていた。江田の方は、ますます困惑の表情をうかべ、頭を抱えている。
「次に――」
 僕が説明を続けようとすると、
「ちょっと待ってください」
 楠が、人差し指を立てて制した。
「逆位置の説明も忘れないで」
「ああ、そうだったな」 
 タロットカードの啓示は、その占いの際にどちらを上にして配置されるかによって、全く意味が違ってくるのだ。
「『節制』の逆位置は、利害の衝突、愛情の不和、日常のやり繰りでの失敗。ようするにこれも、二つの力のバランスが崩れた状態を示しているんだな」
 ここまで言って、僕は楠の顔をちらりと窺った。
 楠は、にこりと笑い、目で続きを促した。
「じゃあ、次行こう。『愚者』――絶対的な真理は全て無につながるという、皮肉な摂理に殉ずる道化師。発展を目指しての前進、新しい冒険への出発、夢想家、家出や駆け落ちに関する悩みなどを意味します。逆位置になると、愚行、誤った方角、自信なき旅立ち、学究の挫折。真理を追い求めることは、気高くこそあれ、同時に愚かな人間の思い上がりでもある――その二面性を示しているんですね。『女教皇』は、沈着冷静さ、聡明さ、生命力と創造力の具現です。女性が持つプラス方向のエネルギーを凝縮した存在なんですね。正位置の意味は、良識、賢さ、穏やかな決着。学問・研究、理解力。純愛に、隠れた才能、天の声。逆はですね、ええと……無理解、我が儘、非情、裏切り、不公平。ヒステリーに不妊症。良くも悪くも、女性に深く関わるカードなんですね。えーと、楠くん、少し休憩していいかな?」
 一気に喋ったために、僕は喉がカラカラになっていた。楠は何も言わずに頷くと、冷蔵庫からペットボトルに入ったミネラルウォーターを持ってきてくれた。
 僕はボトルの半分ほどごくごくと一気に呑むと、再び説明に戻る。
「失礼しました。最後に、『悪魔』。そのまま堕落や誘惑、破壊と呪詛など、一般に我々が悪魔という言葉から連想するイメージと一致した啓示のカードです。が、案外占いの意味としては、必ずしも禍々しいものではありません。この世のものとは思われない不思議な体験、屈服するか弱き精神、没落、悪しき誘い、病魔、浮気心。逆位置だと、呪縛からの解放、奔放な性格、性生活の荒廃。まあ、やはり基本的にマイナスイメージのカードではありますね――大雑把ではありますが、以上です」
 僕は、肩で息をしながら、話を締めくくった。もともと記憶力が弱い上、物事を説明するのが不得手だと言うのに、こんな蘊蓄を披露させられとても疲れた。
「お疲れさまです」
 楠は、口元をほころばせた。
「一応、カードの意味は理解できましたね、江田さん?」
 江田は虚ろな目で楠をみると、水浴びした犬のようにぶるぶると体を震わせた。
「ああ、まあ、カードの意味はね……わかったけれどもね……まだ頭の中でぐるぐる回ってるんだ。硬い私の頭じゃどうやら何も出てきそうにないよ」

(続く)

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