四枚のタロット(1)
その部屋に、笠井求月はいなかった。
彼が長期滞在するシティライト・ホテル705号室はもぬけの殻で、果たして人が寝泊まりしていたのかどうか訝しくなるほど、きれいに片づいている。
皺一つない、交換したてのシーツの白さがやけに眩しく、僕は思わず眼を細めた。
「まだ、帰ってないのかあ」
二宮誠は、首を傾げて呟く。
「おかしいなあ……」
僕は欠伸を噛み殺しつつ、
「まあ、人間なんだから、たまには約束を忘れることくらいあるさ」
「いや、求月先生は、時間や約束にはかなりシビアな人なんです。予定に1分遅刻しただけで取材をキャンセルされた、って人もいるらしいですからね。あり得ませんよ」
笠井求月は、最近よくテレビにも出演し、密かに有名人の相談にのったりしているらしい、結構有名な占い師だ。いつも、アレイスター・クロウリー顔負けの怪しげなコスチュームで、ブラウン管に姿を現し、タレントの将来を厳かに予言する。尤も、占いの信憑性については、当たる、と主張する者もいるし、出鱈目だった、と文句をつける者もいる。ようするに占いなんていうものは、見方によってどうとでも取れる事を無難に、しかし大胆に脚色して言っているだけなのだから、本人の受け止め方の問題だと思うのだが。
物書きの端くれである僕――成河隆司と、担当編集者の二宮は、オカルトとタロットカードについてのご高説を賜るため、このやや古びて没個性なつくりのビジネスホテルにやって来た。僕の次回作はタロットカードにまつわるオカルト・ミステリになる予定で、そのための取材である。
――だが。
約束の時間にこの部屋を訪れてみると、いくらノックしても返事がない。
試しにノブを回してみると、鍵は開いていて――このホテルの客室のドアは、未だにオートロックではない――おそるおそる中を覗けば、誰もいないのだ。
フロントに行って問い合わせたが、
「いえ、外出はなさっていないはずですが、絶対に」
佐護という変わった苗字のひょろ長い体格のフロント係が、やけに力強く答えた。
「絶対、私はお見かけしておりません、絶対。おそらくホテル内を散策してらっしゃるのではないでしょうか。そうですよ、絶対」
絶対という言葉を妙に連発する男だった。それはともかく、彼が嘘をついているとも思えないので、とりあえず僕らは、彼が帰るのを待つことにし、近くの喫茶店で一時間ほど暇をつぶした。
そして――再び来てみると、やはり部屋には人っ子一人いなかったのである。
「何か急用が出来たんだよ、きっと」
「それなら、こっちに何か連絡がありそうなもんでしょう」
「連絡入れる間もないほど突発的な事態だったのかもしれない」
「それはそうですが……」
二宮は、心底困惑した顔で僕を見つめた。
「どうしましょう」
求月のスケジュールは、売れっ子だけになかなか押さえられない。このチャンスを逃せば、今度会えるのは一ヶ月以上先になる。イコール、僕に原稿が遅れる口実を与えてしまう――編集者として、それだけは回避したい事態であろう。
「そんなこと言ったって、いないものは仕方ないだろ」
僕がにべもなく言うと、彼はがっくりと両肩を落として、溜息をついた。
「そうですよね、仕方ないですよね。成河先生の予定もあることだし、帰りますか」
僕は、現在、もう一つ書き下ろしを抱えている。万年初版作家である僕は、とにかく書き続けないと普通に生活できるだけの収入を得られない。一つの書き下ろしが完成しないうちから、次作の構想を練っていたりするのは、ザラである。そっちの締め切りも、そろそろ際どい段階に入ってきているので、ここで下手に食い下がって時間を無駄にしては、二宮自身が苦しい立場に追
いやられる。
とりあえず、僕と二宮は705号室を出た。
この廊下の北側の壁には、701号室から711号室までの11ものドアが(数えたのは後になっての事だが)、クローンのように同じ顔で並んでいる。白い、色気のないドアで、室番を刻印した金メッキのブレ―ト以外には、装飾らしい装飾もない。そのため、なんだか廊下自体がのっぺりとして見え、長時間見ていると距離感がおかしくなりそうな感覚でさえある。
二宮は、部屋の中をもう一度恨めしげに振り返った後、沈痛な面持ちでそっとドアを閉めた。
僕はぶつぶつと、今書いている原稿のことを考えながら、何げなくその光景を見ていたが、不意にあることに気がつき、思わずぷっと吹き出した。
「何か可笑しいことでも?」
二宮が、頬の筋肉を引き攣らせながら、僕を睨む。
僕は必死で笑いを堪えながら、
「いやさ、この室番を見てみろよ、二宮くん」
「何だってんです、一体?」
彼は胡乱げな一瞥を僕に投げると、ドアに向き直って、室番の刻まれたプレートを見た。
刻印された数字は、「707」。
笠井求月の部屋は705号室だったはずである。
「あれっ……」
二宮は間抜けな声をあげ、目をこすってもう一度、番号を注視した。
「なんだよう……部屋間違いだったのかあ」
「求月先生に文句言っちゃいけないよ。こっちが勝手に別の部屋に行ってたんだから」
「そうかあ……でも、おかしいなあ……確かに、この部屋だと思ったのに……」
室番が明らかに違うというのに、彼はまだ納得がいかないらしい。
「まあ、幾つも似たドアが並んでるんだ、間違えても不思議はないさ」
僕がそう言っても、
「でも、最初……705号室は確かにここ……」
まだぶつぶつ言っている。
「先生がいないんで苛々して、注意力が鈍ったんだよ、きみは。別にそんなおかしいミスじゃないさ」
部屋違いにまるで気づかなかった僕も間抜けなのだが、それには敢えて触れない。
「そうかなあ……」
二宮はまだ、しきりに首を傾げている。
とりあえず僕たちは、本来の笠井求月の部屋――今度はたしかに「705」と書かれたドアの前に、立った。
二宮は深呼吸すると、
「求月先生。輝陽社の二宮です。いらっしゃいますか?」
大声で呼びかけながら、ノックする。
二人耳を澄まして、応答を待った。
だが、部屋からは何の物音も聞こえず、求月は現れない。
「なんだよなんだよ、やっぱりいないのかよう」
二宮は眉根に皺をよせて、がちゃがちゃとドアのノブを回した。
開いた。
先程の707号室と同じく、施錠はされていなかったのだ。
僕と二宮は、複雑な心境で顔を見合わせた。
「求月先生!いないんですか……」
遠慮がちに言いながら、そろりとドアを開けて、部屋に入る。
ゆっくりと、一人で寝泊まりするには広すぎる空間を見回して――
「あっ……!」
二宮が、眼を皿のようにして声をあげた。
「き……求月先生!」
僕らの眼前に、彼は予測もつかない姿を晒していた。
客室の奥に据えられた、大きなベッドの真ん中に、糸の切れたマリオネットのように転がる、無残な男の死体。苦悶の表情をうかべたその顔は――間違いなく、笠井求月だった。
薄いピンクのバスローブと純白のシーツが、どす黒い血にまみれ奇妙な迷彩模様を形づくる。俯せに倒れた彼の背中からは、ジャックナイフが凶悪な輝きを帯びて、生え出ていた。
「フロント……と警察だ」
僕は、かすれた声で呟いた。
「急いで……知らせなきゃ……」
「110番ですね!」
「そうだ。いや……それより」
捜査には、第一発見者を疑え、という原則がある。別にやましいことがなくとも、僕たち二人が、色々と余計な詮索をされるのは間違いないだろう。
そういう事態を回避するためには――
混乱する思考をなんとかまとめ、こういう時に自分が頼るべき人物の名前を、脳裏の奥から引っ張り出す。
「二宮くん……警視庁捜査一課の、江田刑事という人に、連絡するんだ……」
「……」
「僕の名前を言えば、わかると思う。フロントに言ってさ……急いで」
「はいいぃっ!」
二宮は、五臓六腑から絞り出すような声で答えると、転がるように部屋を飛び出して行った。
僕は、心臓が裏返しになりそうなほど波打つのを堪えて、死体に一歩あゆみ寄った。
何か、握っている。
求月は、空中に殴りかかるかのように突き上げられた右手に、何か四角く薄っぺらい物体を、握りしめているのだ。
「タロット……」
血塗れの指が大事そうに掴んでいたのは、四枚のタロット・カードだった。
(続く)