逢瀬神社の殺人

 誰がいつ、そう呼び始めたのかは誰も知らない――ただ、その名の由来だけは、はっきりしている。
 何百年かの昔、町の外れに立っている、この幹周10メートルはあろうかという大イチョウの木の下で、ある一組の男女が共に命を絶った。
 二人は、双方ともに古い歴史を持つ家の跡取りで、互いの家は永きにわたって醜く啀み合っていた。
 二人が、彼岸で結ばれるを望み、見つめ合いながら互いの喉を刃で刺し貫いたのを、その大イチョウはしかと見届けた。
 そして、憎しみと悲しみに彩られた苦い血潮を、優しく受け入れた。
 やがて両家の間には種々の災いが降りかかり、それは双方が二人の怨みの深さを理解して和解し、その大イチョウを祀るまで続いた。
 祀られた後は、その大イチョウは真に愛し合う男女の守り神として崇められ、難しい問題を抱えた恋愛や婚姻について御利益があるといわれるようになる。
 その神社がある土地の名を『大瀬』といったが、周囲に住まう人々から、こう呼ばれて親しまれるようになるまで、時間はかからなかったらしい。
 ――逢瀬神社、と。
 その神社の境内で、一人の男が殺された。
 その男の存在が、ある純粋な想いを秘めて惹かれ合う二人の、恋の成就にとって障害であったことは、いかなる皮肉によるものなのか――

「先日殺人事件が起こった、大瀬神社――通称『逢瀬さま』ですか。弓月さんが神主としてお勤めなのは」
 楠想一郎は、事務所のソファに悠然と腰掛けた、長身でやけに姿勢のいい老紳士の前に、お茶の入った湯呑みを置きながら訊いた。
「お電話では、詳しい依頼内容はお会いしてから直接お話しいただける、ということでしたが。早速、お聞かせ願えますか?」
「いや、驚いた」
 弓月と呼ばれた老人は、魔法使いめいた真っ白く長い髭を落ち着かなげに撫でながら言う。
「数々の難事件を解決した探偵さんが、こんな風に若くて美しいお嬢さんだとは」
 楠は、またか、と言いたそうに小さく溜息をつくと、
「僕は男です」
 その小柄で華奢な体格と、ほとんど少女のような幼く繊細な造作の顔つき、ぬけるような白さの肌などの特徴から、彼はよく女性と間違われるのである。
「それに、難事件を解決した、なんていう言い方は正確ではありません。事件を解決したのは警察の方々で、僕はたまたま行きがかり上、事件に関わることがあったときにちょっと情報提供をしたり、刑事さんの見落としを指摘したりしただけです。そこにいるのが証人です。ねえ、成河さん?」
 困ったように僕を見る。
「謙遜は度が過ぎると嫌味だよ、楠くん」
 僕は、にやにや笑いを抑えきれないまま答えた。
「まあ、たしかに犯人を逮捕したのは警察かも知れないが、きみの助言や指摘なしにそれを警察がなし得たか、という意味では、事件はまさにきみが解決した、という表現の方が適切だ」
 なにせ、僕――成河隆治は、彼の関わった事件に幾度か関わり、その様子を横で見届け、あまつさえそれを元に小説まで書いてきた人間なのだから――彼の仕事の成果については、一番よく知っている。
 彼の本業はあくまで現実的な意味での『探偵』、浮気調査や人捜しが専門なのだが、その能力の傾向ははっきりとミステリ小説的な定義での『名探偵』『素人探偵』のものだ。警察の組織力・捜査力の陥穽を突いた奇妙な犯罪が起こるとき、彼の常識に囚われない自由な視点が、事件の暗部にある真実の姿をずばりと見抜くのだ。
 楠はぷっと桜色の頬を膨らませると、
「過大評価は迷惑だって、いつも言ってるのになあ」
 そうして、弓月老人の方に向き直り、
「あそこにいる無責任な作家先生は、言葉で人を翻弄するのがお仕事ですからあんなことを言っていますが、本当のところ、僕はいろいろな犯罪事件の捜査に偶然関与したことがあるだけの、個人営業の単なるいち探偵です」
「いやいや。本人がどのように申されようと、評判だけはいろいろと耳にしておりますよ。それを聞く限りでは、儂の願いを叶えてくださるのは楠さんしかおらんようだ。ともかく、儂の相談事を聞いていただけるかな」
 楠は再度嘆息するが、諦めたように
「ともかく、お話を先に伺ってから、具体的な相談をしましょう」
「うむ。そうしてもらえると有り難い」
 弓月老人は、白い髭をつるりと撫でると、彼の住まいであり仕事場でもある、『逢瀬神社』で起こった殺人事件について話し始めた――。

「あなたご自身も言っておられたが、もううちの神社で起こった殺人事件のことはご存じですな?」
「職業柄、そういう物騒な事件については情報を切らさないようにしていますので」
「なら、話は早い。一週間前の早朝、うちの神社の境内で、一人の男が頭を殴られて殺されました。どうやら凶器は、金属製の棒か何かのようだったという話だが、それはともかく。男の名は、島年光政という」
「55歳、無職ですね」
 楠は、無感動に言う。
 弓月はほう、と、これも真っ白い眉をひょいと上げると、
「流石だ。もうそんなことまでご存じか」
「僕は職業柄ですが、弓月さんはそうではありませんね」
 楠はすっと目を細める。
「自分の庭で起きた事件とはいえ、死人のフルネームに素行に殺人に使われた凶器までご存じというのは、通りすがりに犯罪に出会っただけの人にしては慇懃すぎます」
 弓月は人懐こい笑みをうかべる。
「流石、やはり先程の弁は謙遜ですな。なかなかに鋭い、鋭い。そう、儂はその男を以前から知っておった。その男には一人、嫁入り前の娘さんがおってな。真理恵という名の、とても心の優しい娘だ」
 彼の目が、懐かしむように細められる。
「そして、あの娘には是が非でも一生を共にしたい、愛する男がおる。これまた、今時珍しい真面目で不器用な若者だ。自分が大事に思うものためには、全てを賭ける真っ直ぐさを持っておる」
「『逢瀬神社』に、若い恋人同士ですか」
 楠は腕組みして唸る。
「出来すぎ――なんて言っては怒られそうですが、この話の流れですと、その二人が結ばれるには並々ならぬ困難が待ちかまえてたりしますね?」
「いや、出来すぎだと思うのも無理はないが、うちの神社には、そういう参拝者がもともと多いからの。その中には、姿も見えぬ神仏に形にならぬ祈りを捧げるよりも、目に見える相手に悩み苦しみを言葉にして訴える方が救いになる、と感じる者もおる、ということだ」
「なるほど。弓月さんは、その二人の恋愛相談にのってあげてたわけですね。しかし、それは神主さんというより神父さんや牧師さんの仕事のようなイメージですが」
「仕事かどうかと言われたら、違うのだろうな。単に、儂が若い者と話をするのが好きで、おまけに困ってそうな人の顔を見ると、つい役に立たなくても話を聞きたくなる癖があるもんでな」
 たしかに、いかにも好々爺といった弓月の姿は、人の警戒心を解いて、心の中までをさらけ出してしまいそうなオーラを持っている。
「真理恵の恋人の名前は、日向誠助という。自動車修理工をしておるが、腕も確かで人当たりもいいので、職場での評判も上々だ。真理恵も、以前そこで経理の仕事をしていたので、その際に二人の間に恋が芽生えたらしい」
「今は、真理恵さんはそこで働いていないんですか?」
 老人は重々しく頷く。
「島年が、辞めさせた」
「もしかして、日向さんとの恋愛が原因ですか」
「そうだ」
 大きくあたたかみのあった弓月の周囲の空気が、ぎゅっと冷たく凝固した感じがした。
「島年と真理恵は、実の親子ではない。5年前に自殺した島年の奥さんの、前の夫との間に出来た連れ子が彼女だった」
「……」
「奥さんが自殺したのも、島年がろくでなしだったからだ。結婚当時は真面目だったが、部下の不始末の責任を取らされ永年勤めた会社を解雇されて以来、奴は人間が変わってしまった。酒を飲んで、奥さんと真理恵に暴力をふるった。真理恵さんに至っては、性的虐待も受けていたらしい。このころのことについては、詳しいことは知らんが、少なくとも真理恵さん本人からはそのように聞いておる」
「その島年が、自分の養い手である真理恵さんがいなくなるのを恐れて、結婚に反対していた、ということですか」
「そのとおりだ。まあ、その島年が一人や五人や死んだところで、世間にはなんの影響もない。日向くんと真理恵にとっては、邪魔者がいなくなったくらいのもんだ。だがしかし、島年が事故死でも自殺でもなく誰かに殺されたのである以上、話はそう簡単ではない」
 楠の口元に、ついっと癖のある笑みがうかぶ。
「島年さんを殺す動機が一番あるのは、真理恵さんと日向さんですものね」
「そのとおり。実際、二人ともしつこい刑事どもにいじめられて困っておるのだ」
 弓月は身を乗り出す。
「楠さん、儂のあんたへの依頼はな、二人にかけられた疑いを晴らして欲しいのだ。これまでの辛い過去を忘れて幸せな結婚ができるように、手伝って欲しいのだよ」
 楠は、静かに頷くと、
「分かりました。ご依頼、お受けします。お二人の疑いがきれいに無くなるように、事件の真犯人を見つけて差し上げれば、いいんですよね?」
「ああ、いやいや」
 老人はからからと笑って、
「真犯人を見つけるなんて、そこまでは考えておらんですよ。儂はとにかく、二人の疑いが晴れれば、それでいいんです」
 楠は小首を傾げる。
「でも、完璧に疑いを晴らすには、真犯人を見つけるのが一番手堅い方法だと思うんですが」
 弓月は、なんだかひどく優しい目で彼をじっと見つめた後、
「あんたがそう思うなら、そうしてくれれば良いとも。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げた。

「日向誠助と島年真理恵への嫌疑なら、ほぼ晴れてるよ」
 江田刑事は、楠と僕の顔を見て、何をなんでもないことにムキになっているんだ、とでも言いたげな様子で言った。
 江田は、何度か楠の関わっていた事件の担当だった刑事で、おそらくは彼の推理の恩恵を最も受けている人間である。彼自身、今では何か困った事件に行き当たる度に楠に相談を持ちかけるようになっており、そのため警察関係・捜査関係の情報が欲しいときには、彼に頼めばあっさり提供してくれる。本当なら警察官が民間人に捜査情報を漏らすなど言語道断であろうと思われるが、逆に言えばそれほど楠は江田とその近い周囲の同僚や上役から厚い信頼を受けているのである。
 詳しい調査をするにしても、まずは事前の情報収集から、というわけで弓月老人からの依頼を承けた翌日、楠と僕は江田と馴染みの喫茶店で昼食の約束をし、その場で早速、事件に関する直接的な質問をぶつけてみたのだが――
「そうなんですか?」
 当然ながら怪訝そうな顔をする楠である。
「弓月さんの話では、随分しつこく調べられているということでしたが」
「まあ、ほんのこの間までは、そうだったね、たしかに」
 江田は食後のコーヒーを啜りながら、
「だけどまあ、真理恵さんはアリバイ鉄壁だし、日向はアリバイは不確かだけど物証が全く見つからないし、周囲の評判も『何があったって絶対に人殺しをするような人間じゃない』って言い切る人しかいないし、こりゃあ、別の線をあたってみた方が利口かもなあ、って話になったところだ」
「物証がないって、どこまで捜索したんですか」
「職場も自宅も、無論犯行現場付近も」
 江田は少しばつが悪そうだ。そこまでするからには、捜査令状も取って警察にも相当の自信と確信があったはずだが、にも関わらず何も出てこなかったというのは、はっきり言って失態でしかない。
「仕事が仕事だからな、男一人撲殺できそうな凶器になるものには事欠かないと思ったんだが、鉄の棒は山ほどあっても殴打の痕跡と完全に一致するものは発見できず。駄目もとで近い形のものを押収してみたが、血痕はおろかルミノール反応もなし。お手上げさ」
「そうですか…」
 弓月老人の依頼内容は、『日向と真理恵の疑いを晴らすこと』だ。この意味においては、もう楠の出る幕はなくなっており、そもそもこの依頼自体無効、ということになる。が、真犯人が見つかっているわけではなくて、凶器も未だ発見できず、となるとこの事件にまつわる謎はまだいろいろあるわけで――
「江田さん、せっかくですから、事件についての詳しいことを教えていただけませんか」
「いいとも。実際、今回ももう少し手こずるようなら、きみに相談してみようかと思ってたからな」
 江田は煙草に火を付けながら、
「事件が起こったのは、8日前の深夜12時30分頃。神社の境内で悲鳴が聞こえたので、神主の弓月葉十郎さんが外に出てみたところ、島年光政が倒れていたので、揺すってみると既に死んでいた。後頭部を殴られているのに気づいたので、事件だと思いすぐに110番通報したそうだ」
「なんだ、弓月さんが第一発見者だったんですか。弓月さんは疑われなかったんですか?」
「おいおい、あの爺さんは依頼人なんだろう?そんなこと言っていいのかい」
「依頼人が犯人だった、っていうケースもミステリではよくありますから」
 楠はさらりと言ってのけると、
「で、どうなんですか」
「結論から言うと、疑いようがなかったな。無論、第一発見者を疑え、って鉄則に則って、一度は調べてみたがね。死体を最初に見つけたのは弓月さんだが、その直後には大声で、住み込みで働いているお手伝いさんと事務員を呼んで、警察に通報するよう指示している。弓月さんが犯人だとしたら、凶器を隠している時間はない。少なくとも、これほど捜索に手間取るほど巧妙で丁寧な隠し方は無理だ」
「その、住み込みの方たちは島年の悲鳴を聞いてはいないんですか」
「双方とも、ぐっすり眠っていて気づかなかったそうだ」
「だとすると」
 楠は形のいい眉をきゅっとしかめる。
「弓月さんが、島年を殺害して凶器を始末してから、時間差を設けてから住み込みの方を呼んだ、という可能性もあるのでは」
「多分、それもない」
 江田は苦笑してかぶりを振る。
「島年の死亡時刻は、弓月さんが死体を発見し、他の人間を呼んだ時刻とほぼ同じだ。つまり、弓月さんが犯人だったとして、他の人間に見られずに凶器を隠したりの工作を行う時間はない。もっとも、事務員とお手伝いも共犯で口裏を合わせているんなら別だが、それにしては証言がしっかりしてるから、捜査本部としては可能性からは除外してある」
「なるほど…ところで、凶器の形状は、何か金属製の棒、ということでしたが」
「そう。直径2センチくらいの、丸い棒。詳細はわからない」
「2センチ…ですか」
 楠は腕組みして、考え込む風で黙り込んだ。

「まあ、ともかく、弓月さんにはいい報告ができそうだな」
 江田との昼食後に事務所に帰ると、僕は思わず安堵の溜息をもらした。なんだか釈然とはしない点は残るものの、とりあえず不遇な目に遭ってきた恋人達への疑惑は晴れ、二人を阻む者は誰もいなくなったことに安心はできる。
「仕事らしい仕事はしてないから、依頼料を貰うわけにはいかないだろうが、まあ、優しいお年寄りの心労を一つ取り払ってやったと思えば、気分はいいね」
「そうでしょうか」
 楠は、まだ考え込んでいる。
「これでは、まだ僕は弓月さんの心の重荷を取り除けてない気がしてならないんですが」
「考えすぎじゃないか?」
「そう判断する前に、確かめておきたい事があります」
 彼はおもむろにノートパソコンを開くと、インターネットの検索サイトに接続して、なにやら調べ始めた。
「おい、確かめるって、一体何を」
 楠は答えない。彼の指と眼球は、ほとんど痙攣しているかと思うほどの速さで、キーボードを叩き画面の文字列をなぞっている。
 不意に、彼の目に焦点が戻った。
「あった」
 息を呑む彼につられて、僕も脇から画面を覗き込む。
 某大手新聞社のニュースサイトに掲載されている、小さな記事だ。日付は、島年が殺害された日の3日後。見出しには、

○N町界隈を席巻した賽銭泥棒、逮捕される――総被害金額100万円を超す――   

 とある。
 N町といえば、大瀬神社のある地区ではないか。
「賽銭泥棒か。罰当たりな。弓月さんところも被害にあったのかな?――でも、これがどうしたんだい、楠くん」
 楠は、何も言わずに携帯電話を取り出す。そして、
「江田さん?先程は有り難うございました。度々申し訳ないんですが、調べていただきたいことがあるんです。あの、先日N町で逮捕された賽銭泥棒なんですが。きっと、大瀬神社はその被害にあってないだろうと思うんですが……どうですか」
 突然の話に、電話の向こうで江田も驚いたのであろう。楠の言葉に若干の間ができた。その後、
「やっぱりそうですか。じゃあ、その容疑者に、大瀬神社の賽銭を盗まなかった理由を訊ねてみていただけますか。お願いします」
 一気に言うと、ゆっくり電話を切る。
 その手はほんの少しだけ、震えているように見えた。
 いつも冷静沈着な彼には珍しいことだ。
 それはともかく、賽銭泥棒などという、正直に言ってケチくさい犯罪が、一体この殺人にどんな関係があるというのだろう……?

「その賽銭泥棒が、弓月さんのところから何故賽銭を盗まなかったのか?逮捕された男は、理由をこう言ったそうです」
 更に翌日、『調査結果が出た』として呼び出された弓月老に、楠はいきなり賽銭泥棒事件についての説明を始めた。
 弓月は、一見自分の依頼と全く関係がないと思われる話に、先日と同じようにとても和やかな笑みをたたえて耳を傾けている。
「彼はN町内の参拝者が多そうな神社をぐるっと下調べした。勿論、その際には大瀬神社の賽銭箱も覗いた。しかし、賽銭箱の中は何故か五円玉ばかり山のようにあって、盗み出すのが困難そうだし、苦労の割に金額が少なそうなので、さっさとターゲットから外したそうです。この泥棒、数ヶ月前にもこの地域で賽銭泥棒をして回り、その際には上手に逃げおおせていました。ところが、そのときには大瀬神社も被害にあっている。ご記憶ありますね?弓月さん」
「ああ、無論だ」
 老人はゆっくり頷く。
「大切な大切な、参拝者の思いがこもったお金だ。被害に気が付いたときは、本当に情けなくて涙が出たわい」
「そうですか」
 楠は、無感動に話の続きに戻る。 
「ところがそのときには、今回のように五円玉が山のようにあったわけじゃないらしい。お札から100円硬貨から何故か寛永通宝まで、まあそこそこ盗み甲斐がある程度の金額が入っていたようです。僕も昨日の夜、賽銭箱の中を覗き込んでみましたが、真新しい上の方は五円玉で覆い尽くされていました」
「ふむ。それが日向くんと真理恵さんの疑いを晴らすことに、どう関係があるのかな」
 弓月は笑みを絶やさない。
 楠は、少しだけ悲しそうに目を伏せると、
「直接には関係ありませんよ。それに、二人の疑いなら、完全に晴れていると言っていい。もともと警察の方でも、捜査対象から外れつつあったようですが、昨晩のうちに真犯人も凶器の隠し場所も判明しましたから」
「ほう。それはよかった」
 と、弓月は嬉しそうに何度も頷く。
「で、真犯人は誰なんだね」
 楠は、一瞬だけ俯いて、心を決めるように短く深呼吸すると、
「あなたです。弓月さん」
 老人は、少しだけ首を傾げ、
「何故、儂がそんなことをしなければならんのかな」
「真理恵さんと日向さんを守るためです」
「どうやって?」
「あなたは、あの夜、どういう理由を付けたかはわかりませんが、神社の境内に島年を呼び出した。おそらくは、真理恵さんと日向さんの関係のことについて、何かをほのめかしたんでしょうね。二人が別れるように説得してやるから一度相談に来いとか、自分が間に立ってやるからちゃんと話し合いをしてみてはどうか、とか。ともかく、島年はのこのこやってきた。あなたは隙を見て、特殊な凶器で殴り殺す」
「特殊な凶器とは、これまた面白い言い回しを。金属製の棒が、そんなに珍しい凶器だとは思えないが――鉄パイプならその辺の工事現場に転がっておるだろうし」
「特殊だと僕が言ったのは、その凶器が未だに発見されていない理由が、その特徴故だと思うからです。そのことが、あなたを容疑から遠ざけ、事件の解決を遅らせることになった。ですが、あなたが使った凶器は、ずっと犯行現場に堂々と転がっていた――いや、散らばっていた」
 その言葉を聞いたとき、弓月の顔から一瞬だけではあるが笑みが消えた。
 楠は続ける。
「あなたは、どこからか仕入れてきた大量の五円玉の真ん中に紐を通し、ぐっとそれを引っ張って、隙間無く重ね合わせることによって一本の棒にした。それで島年を襲って殺害した。違いますか」
「……」
「島年を殺した後は、賽銭箱の上で紐を抜いて、元通りバラバラの五円玉にしてやるだけでいい。これだと、殺害してから凶器を隠すのにものの数秒です。賽銭泥棒が賽銭箱を覗いたとき、不自然に五円玉が大量にあったのは、このせいだ」
 弓月は肩をすくめて、
「そこまで見てきたようにおっしゃるからには、証拠もあがっているんでしょうな」
「――残念ながら」
 楠は目を伏せる。
「罰が当たりそうですが、賽銭箱から数枚五円玉を失敬しました。本当に残念なことに――ルミノール反応が出ました。そして、そこに微量ながら付着していた血液は、島年のものと一致しています」
 それまで背筋をしゃんと伸ばしていた弓月は、空気が抜けて萎んでゆく風船のように、へなへなとソファにもたれこんだ。
 だが、その表情に追いつめられた犯罪者のような怯えた様子はない。むしろ、一つの大きな仕事を終え、全身を弛緩させくつろいでいるかのような風情である。
「決めていました。あなたに事件の調査を依頼して、もし儂が下手人だということが見破られたら、素直に罪を認めようと。よくやって下さいましたな」
「でも、何故自分の神社なんかで殺したんですか?――神主であるあなたが。しかも、凶器を賽銭箱の中に隠すなんて」
「うちの神社は『逢瀬神社』ですからな」
 弓月はからからと笑う。
「くだらぬ周りの人間に愛を引き裂かれ、その怨みの強さ故に神となった男女と、それを見届けた御神木が祀られているのですぞ。その懐で、最も彼らが憎む類の人間を殺すのに、ためらいなぞない。むしろ、御神木があの愚か者の血を欲している気すらした。あの二人が幸福になるために、この男はここで殺されねばならぬと」
「生け贄、というわけですか」
 楠は寂しそうに微笑んだ。
「でも、あなたと島年、生け贄になったのはどっちでしょう。殺すほどの価値もないような男を殺して手を汚し、老後を罪の償いに費やすなんて、あなたは馬鹿です」
「殺すほどの価値もないから、ですよ。そんな人間に、心から愛し合う男女の邪魔をさせるわけにはいかない。このまま二人が追いつめられ、犯罪に手を染めて未来を台無しにすることになったら――儂はこの先、死んでも死にきれん。実は、儂はもう永くない体なのです。危険すぎて手術できない場所に、悪性の腫瘍が出来ているらしくての。死にぞこないの始末は、死にゆく者がするのが相応しいとは思わんかね」
 僕は、老人の後悔のかけらもない瞳を見ながら、この人は、古に結ばれなかったあの男女の最期を看取った、御神木の化身なのではないか、と思った。
 だとしたら――かつて、恋人達の死にゆくさまをただ見届けるしか出来ず、その怨念を振りまく手伝いしかできなかった彼は、今度こそ、同じ境遇にある二人を生かし、救ったのだ。
「それでも、僕はあなたが島年を殺すべきではなかったと思います」
 楠は悲しげにかぶりを振った。
「そんなあなたにこそ、日向さんと真理恵さんの未来を見守る責任があったはずです」
「儂は、自分に出来ることをしただけだ。探せば他に出来ることがあったかもしれんが、儂にはそんな時間はなかった。二人の結婚祝いに儂は出られないと思うが、代わりにあんたが出てやってくれんかね」
 楠は立ち上がり、老人に無言で背を向けた。そして、見つめていなければ見逃しそうな、とても小さい動作で――頷いた。

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