泣けないバンシー


 激しく降りしきる雨で、全ての物から色素という色素が洗い流されてしまったかのように、街は重苦しい灰色に覆われている。
 だから余計に――
 その男の死体の腹部から流れ出す鮮血は、より紅くより深く、アスファルトの路面を彩って見えた。
「『天国と地獄』じゃあるまいし」
 江田警部は、微妙にサイズが大きい雨合羽の袖を、ずり上げながら呟いた。
「江田さん、何か言いました?」
 隣で、何かしきりにメモしていた塚本刑事が、とぼけた顔で訊ねてくる。
 江田は重い動作でかぶりを振り、
「なんでもないよ。それで、ガイシャの身元はわかったのか?」
「ええ、免許証と勤め先の社員証をセットで所持してくれてましたから。模範的なガイシャです」
「こんな時に軽口を叩くな。不謹慎だぞ」
「すみません」
 塚本は、濡れた手で手帳をばらばららと不器用にめくり、
「淡屋吾朗29歳。倉崎建設という、この近くにある小さな建設会社の社員で、営業担当をしていたようです」
「そうか。ありがとう」
 聞いてみても、とりたてて面白いプロフィールでもない――そんなことを考える自分を戒めながら、江田は死体の横にかがみ込んだ。
 痩せて、色黒で背の高い、紺のスーツに身を包んだ男。
 自分の身に何が起こったか、全く理解できないまま絶命したのだろうか――
 他者から無理矢理に人生の幕を降ろさせられたにしては、随分無表情だった。
「凶器は?」
「刺し傷から考えるに、一般家庭用の台所包丁のようだ、と鑑識は言ってますが」
 塚本が生真面目に答える。
「スーパーやホームセンターでごろごろ売ってる、とてもオーソドックスな型の」
「オーソドックス、か」
 この3ヶ月、この言葉を何度聞かされただろうか。オーソドックスな凶器、オーソドックスな被害者、オーソドックスな手口――そして、それらとは反対に、実に個性的な犯人の志向。
 江田は、肺の中の空気を絞り出すような、深い溜息をついた。
「今日は何曜日だ」
 嗄れ声で訊く。
「は?」
「今日は何曜日だと訊いてるんだ!」
 彼が怒鳴ったので、塚本は狼狽え、
「はい。水曜日……です」
「ってことは、またヤツか」
 取調室のように、何か八つ当たりできる机か椅子のようなものがあれば良かったのだが、生憎ここは野外の殺人現場である。彼は、自分の拳を砕けんばかりに握りしめるしかなかった。
「まただ。『水曜日の雨男』の仕業だよ」
 それがこの3ヶ月、江田をはじめとする警視庁捜査一課の頭を悩ませている相手の渾名だった。
 何故だかはわからないが、雨が降る水曜日にのみ人を刺す、不可解な通り魔。
「その、古いムード歌謡のタイトルみたいなネーミング、やめましょうよ江田さん」
 塚本は顔をしかめる。
「ならなんて呼べばいい」
 江田が苛々と言うと、妙に嬉しそうな声で、
「そうですね。『キラー・オブ・レイニー・ウェンズデー』とか、どうですか」
「ほとんどそのまま、横文字にしただけじゃないか。おまけに長いし」
「頭文字で略してみたらどうでしょう――『KORW』って。今風でマスコミにも受け入れられやすいと思います」
「くだらん」
 そう言われてとても傷ついた表情をうかべる塚本を尻目に江田は、密集して壁のごとく現場を包囲している野次馬たちの顔を見回した。
 犯人は犯行現場に戻ってくる。
 この原則から考えて、この群衆の中に犯人が何喰わぬ顔で紛れ込んでいる可能性は極めて高い。
 この場に居合わせている人間の顔を一人でも多く記憶しておこうとするのは、刑事として習性だった。
(このどしゃぶりの中、本当にご苦労なことだ)
(余程暇なのか、それとも物珍しいのか)
 江田は憂鬱に考える。
 刺激がない、退屈だ、平和すぎてつまらない――毎日が無事で平凡であるということの、貴重さ希少さが全く理解されていなかった、バブルの頃あたりならいざ知らず。
 今や殺人も通り魔も日常茶飯事、身近な場所が犯罪の現場になることなど、そう珍しくもなかろうに。
 もしかして、純粋に殺人事件そのものが好きなのか、死体を見るのが趣味なのか。  
 仮にここにいる全員がそうだとしたら――我々の住む日常社会は相当深刻なレベルにまで病んでいると言わざるを得ないが――
(いや、違うか)
 彼は無精髭をさすりながら、
(日常茶飯事だから――誰の身に降りかかってもおかしくないから、自分の目で何が起こったか確かめずにいられないのかもしれん)
(もしくは、今日その災厄に出くわしたのが自分でないことを――自分が今生きていることを、他人の死に様を目の当たりにすることによって再認識しているのか)
 どちらにしろ、やはり何かが狂っていることに変わりはない。
 そう結論づけると、再び地道に不健全なギャラリーの特徴を頭に叩き込み始めた、その時――
「江田さん。また、あの女が来てますよ」
 塚本が、江田に耳打ちした。
「全く、気味悪いなあ。毎度毎度、一体なんなんでしょう」
「あの女?」
 江田は、塚本がこっそり指差す方を静かに振り向いた。
 その顔には、江田もたしかに見覚えがあった。
『水曜日の雨男』事件が始まって以来、事件の現場に必ず現れる女だ。
 何故かいつも、傘もささずにずぶ濡れのまま立ちつくして、現場検証をしている警察の様子(もしくは、検証されている死体の様子なのか)を見つめている。
 若く、美しいといえる顔立ちではあるが、亡霊のように痩せこけて青白いので、大きいアーモンド型の目も見事な長い黒髪も、清楚な白いワンピースもむしろ、禍々しさや不気味さを増幅させる役にしか立っていない。
 それだけならばまだ、見て見ぬ振りをすれば人畜無害であるのだが――
 他の野次馬連中とはっきり一線を画しているのは、彼女は現場に現れると、いつも、自分の恋人か親兄弟を殺されたかのように、激しく啜りあげて泣いているのだった。
 あまりにおいおいと大声をあげて泣くので、事件の関係者かと思われたが――調べたところ被害者と何の関係もない。実は『水曜日の雨男』その人かと疑われた事もあったが、アリバイその他からその可能性も早い時期に否定された。
 捜査一課の中には、彼女を『水曜日の雨男』と対にして『雨女』と呼ぶ者もいる。 
 その彼女は今日も、いつもと同じように、全く無防備で大雨の中に佇んでいた。
 淡屋吾朗の死体を血走った目で見つめながら、激しくしゃくりあげて泣いている。
 あれだけひどく泣き喚いているのに、江田や塚本が今まで気づかなかったのは、今日の雨がいつにも増して激しく、泣き声が幾分か雨音にかき消されていたせいだろう。
 江田は、大きく嘆息すると、人混みを掻き分けて、彼女の元につかつかと歩み寄った。
「また、あなたですか」
 ポケットからタオルを差し出して渡すが、この雨の中ではただの気休めにしかならない。
「どうしていつも、こんなところでびしょ濡れになって泣いてるんですか。こんなすごい雨じゃ、風邪どころか、肺炎になってしまいますよ」
 江田は、暗鬱な気分を押し殺して、極力が優しい声で話しかける。
 が、女は泣くのをやめない。むしろ反対に余計大声で泣き喚き始める。
 これも、いつものことだった。
「あなた、この事件とは何の関係もないんでしょう?お願いですから、こんなところでそんな風に泣かないで下さい。周囲の人間が心配するじゃないですか。
勿論、我々も」
「だって、可哀想じゃありませんか!」
 彼女は、金切り声で叫んだ。
「こんなところで殺されて、あんな風に雨の中で殺されて――ものすごく、可哀想じゃありませんか!」 
 そうして、また号泣し始める。
 江田はほとほと困り果てて、
「彼が可哀想なのはそのとおりですが、あなたが泣いたって何にもなりませんから。彼の冥福を祈るのなら、静かに見守ってあげて下さい」
「それじゃあ、泣いちゃいけないんですか。誰かが目の前で可哀想な目に遭ってても、関係ない人間は泣いちゃあ、いけないんですか」
 そう言って、今度は江田に食ってかかる。
「わかりましたから。あなたが優しい心の持ち主なのはわかりましたから」
 彼女の力は意外に強く、江田はやっとの思いで引き剥がす。
「お願いですから、どうかもうお帰りになって下さい。あなたが倒れでもしたら、我々の仕事がもう一つ増えることになるんですよ。その分、あの可哀想な彼を殺した相手を捕まえるのが遅くなる。彼を本当に憐れんでくれるのなら、とりあえずこれを着て、お引き取りになって下さい」
 江田は、嫌々ながら自分の雨合羽を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
 女は彼を恨めしそうにねめあげると、相変わらず泣きじゃくりながら、とぼとぼと歩み去っていった。
(一体、なんなんだあの女は……)
 江田はひどい脱力感を覚える。
(そういえば、姿を見た最初の2回くらいは確か、彼女は傘をさしてたと思うんだが。なんであんな風に、わざわざずぶ濡れで現れるんだろうか)
 そんなことをぼんやり思いながら、彼は別の雨具を調達するため、パトカーの方に向かった。

「人が死ぬと泣き叫びながら現れる、蒼白い亡霊のような美女、ですか」
 楠想一郎は、江田が話している間に飲み終えたコーヒーのカップを片づけながら、興味深そうに言った。
「素敵じゃないですか。カーやロースンを地でいってる。そういえば、晩年のコナン・ドイルも心霊学がお気に入りでしたっけ」
「相変わらず不謹慎だな、楠くんは」
 江田は、ソファの背もたれにゆったりと体を預けながら、大きく溜息をついた。
「からかわんでくれよ。あの女に合羽をやったせいで、俺はその晩熱出したんだぞ。『水曜日の雨男』のせいで、風邪ひいても全然休めないってのに」
「不謹慎?殺人事件や被害者を茶化しているのなら、そう言われても仕方ないですけど」
 楠は、桜色の唇にエキゾチックな笑みをうかべる。
「僕が興趣を感じているのは、その謎の女の出現するシチュエイションそのものに対してですよ。死者の魂を軽んじて、人の身に起こった災いを面白がるような真似は、絶対にしません。ですよね、成河さん?」
「そうかなあ」
 いきなり話を振られて少し戸惑ったが、僕はついにやにやしながら言った。
「結構、人の不幸を楽しんでるところはあると思うけど?楠くんは」
「心外ですね」
 楠はぷっと頬を膨らませた。
「成河さんが僕のことをそんな風に曲解してたなんて。事務所に出入り禁止しようかなあ」
「おいおい、それだけは勘弁してくれ」
 僕は、心底困り果てながらも、楠想一郎の意地悪い一挙手一投足をも楽しんでいる自分に気づく。
 そう、売れないながらも本格ミステリ小説の執筆を生業としている僕にとって、彼ほど興味深く貴重な友人はいないのだから。
「じゃあ、さっき言ったことは潔く撤回して下さいね、成河さん」
「うう……」
 僕はしぶしぶ頷く。
 楠は、それを見て満足げに頷くと、江田に向き直った。
「ところで、僕にそんな話を聞かせるってことは、やっぱり江田さんはその女性が『水曜日の雨男』事件と深く関わっているとお思いなんですね?」
「いや、そういうわけでもないんだが」
 江田は困惑顔で無精髭をさする。
「正直に言えば、全く見当がつかないのさ。むしろ、だからこそ、きみに相談に来たんだが。彼女のことも調べても、被害者たちとはどこにも接点がない。まあ、通り魔事件の場合、必ずしも犯人と被害者の間に接点があるとは限らないが、それぞれの事件発生時のアリバイもしっかりしてる。普通に考えれば、彼女はやはり事件とは無関係だと考える方が自然だ。だがらこそ逆に、何故あんな風に事件現場に必ず現れて泣くのか、その理由をはっきりさせたいと思うんだ。それが事件と関係があるなら、それは貴重な手がかりだし、無関係だったら無関係だったで――我ながら嫌な言い方だとは思うが――公明正大に彼女を無視して、捜査を進めることができるわけだからな。彼女の行動原理を知ることは、捜査とは直接関係なくても、まぎれもなく我々に必要なことだと思う」
「僕も、それが賢明だと思います」
 楠はにっこりと微笑んだ。
「及ばずながら、僕もお手伝いさせていただきます。ですがそのためには、どうやら『水曜日の雨男』事件についても、詳細をきちんと知る必要がありそうです。江田さん、最初から説明お願いできますか」
「あ、それは僕も、是非聞きたいです」
 僕が思わず身を乗り出すと、江田はちょっと眉をひそめる。
「成河くん、また事件の話を小説のネタに使うつもりだな?」
「すみません」
 僕は素直に認めた。
「今月、また煮詰まってる原稿ありまして。締め切り、近いんです」
「まあ、きみにもいろいろ世話になってるから仕方ないか」
 江田はいかつい顔をふっとほころばせて、
「俺も、自分の頭の中で整理しながらじゃないと喋れないから、きみたちが新聞なんかで読んで知ってることなんかもあるだろうが――とりあえず、ひととおり聞いてくれ」
 いつもの低く落ち着いた声で、ゆっくり話し始めた。

「最初の事件が起こったのは、4月16日の水曜日、雨の日だ。この間ほどのどしゃ降りではないが、やはり本降りの雨が一日中降り続いていた。N町の公園の砂場に、作務衣姿の中年男性が、背中を何者かに刺されて倒れているのが発見される。被害者の名前は、焼津稲介58歳。同じ町にある小さな居酒屋の店主だ。死体が発見されたのは午後5時頃で、奥さんの証言によると4時頃に買い出しに行くと言って出かけたらしい。死体の傍らには買った品物は見あたらなかったし、商店街の顔なじみも、誰も彼を見ていない。どうやら、商店街に行く途中で背後からいきなり襲われたらしい。凶器は――」
「どこでも売ってるような、オーソドックスな形の家庭用台所包丁ですか」
 楠が、片方の眉をつい、と釣り上げながら言う。
「凶器自体は持ち去られていたけれど、刺し傷の深さ大きさから推定すると――?」
「そのとおり。そして指紋は残っていない。基本だな」
 江田は煙草をくわえて火をつけながら、
「そして、この後に続く四つの事件全てに、この特徴は共通する」
 そして、また大きく溜息を煙草の煙と一緒に吐き出す。
「その次の事件も、またN町で起こる。今度は住宅地の、暗い夜道だ。朝のうちは晴れていたが、正午頃から空模様が崩れ始め、3時には雨が降り始めた。しとしと小雨じゃあるが」
「それも水曜日なんですか」
 僕は思わず訊ねてしまった。
「日付は、いつ?」

「曜日は言わずもがなだろう。日付は5月7日」
 江田は、嫌そうに答える。
 そもそも、連続通り魔殺人の発生日を曜日込みで全部暗記しているなどということ自体が、彼がいかにこの事件に困らされているかということの証明に他ならない。
「もっともこの時点で、事件が必ず水曜日の雨の日を狙って起きてる、なんてことに気づく人間はいなかった。まあ、たまたま気づいたところで、事件がたった2つじゃ偶然の一致かもしれないからな。被害者の名前は、秋沢英也。今度は大学生だ。サークル活動の帰りに、今度はすれ違いざまに刺されたらしく、脇腹をぐさり、だ。実はこの事件の場合は発生の瞬間の目撃者がいる」
「有力情報じゃないですか。なのに、まだ容疑者絞り込めないんですか」
 楠が無邪気に言うと、
「目撃者といっても、目の悪いお婆さんだったんだよ」
 江田は苛々と煙草をもみ消し、新たな煙草に火をつけた。
「黒いレインコートを着ていて、背は高くもなく低くもない――それくらいのことしか分からない。女だったのか男だったのか、若いのか中年なのか老人なのすら、全く不明だ。まあ、おそろしい速さで逃げ去ったらしいから、高齢者ってことはなさそうだが」
「それも、お婆ちゃんの基準での『おそろしい速さ』かも知れないと考えれば、全くあてにならなくなりますね?」
 楠は悪戯っぽい笑みをうかべた。
 彼はやはり、江田の苛立ちや困惑を完全に面白がっている。
 僕が先ほど口を滑らしたように、人の不幸を楽しむサディスティックなところが、彼にはある。間違いなく。
 江田は無気力に何度も頷くと、
「全くもってそのとおり。はっきり言って、目撃者はいなかったと思った方まだ諦めがつく。そして、次は5月28日。今度はどしゃ降り。N町商店街の路地裏で、書店を経営してる69歳の老人、中畑功夫氏が腹部を刺されて犠牲となった。今度も目撃者はなし。だが、この事件で誰かが気づいた。一連のN町で起こっている通り魔事件が、全て雨の降る水曜日に起こっていることに――」
「『水曜日の雨男』というニックネームの、誕生の瞬間ですね」
 僕が何気なく口にすると、江田はぎろりとこちらを睨んだ。
「きみまで、そんな嬉しそうにせんでくれるかな」
「あ、いや、そんなつもりは」
 ぼくがおろおろしていると、楠が涼しげな顔で、
「成河さんは、正直ですからね。思ってることがすぐ態度に出るんだから。人の不幸が大好きなのは、僕よりむしろ成河さんじゃないですか」
 さっきの仕返しか。
 僕はむっとはしたが、ここで下手に刃向かうと更に手ひどいしっぺ返しをくらいそうなので、
「すみません。悪気はなかったんです」
 素直に謝罪した。
 江田さんはまた煙草をひねりつぶす。
「ああ、俺もむきになって悪かったよ。とりあえず、話を続けるぞ。そして4番目は、萩野恵実。23歳、スナック勤務だ。事件発生日は6月4日。朝4時
の閉店後、小雨降る中を帰宅途中に路上で襲われた。今度は心臓を一突き。犯人が同一犯だとしたら、なかなかに熟練してきたらしい」
「通り魔も、回数を重ねれば手練れになる、か」
 僕は思わず呟きかけたが、江田さんがまた睨んだので口を塞いだ。
 彼は深呼吸して、
「はっきり言って、梅雨時なんでこの時期、雨の降る水曜日なんて全く珍しくなかった。俺たちゃあ、毎週水曜日には胃がきりきり痛んだな。それで、最後に、こないだの事件――6月25日の淡屋吾朗殺しだ。天気は、天の底が抜けたかと思うほどのどしゃ降りだ――さっきも話したとおり、な」
 彼は不意に身を乗り出すと、
「前にきみから教えてもらったよな、『ミッシング・リンク』とかいう話を」
「ああ、そういえば」
 楠は、あまり関心がなさそうに、指先に髪の毛を巻き付けて遊び始めた。
「そんな話もしましたね」
「一見無差別に見える連続殺人事件なんかの間にも、被害者の間に何らかの共通点があって、それが判れば犯人逮捕につながるかもしれないとか、そういう話だったよな?」
「おっしゃるとおりです」
 楠の態度は変わらない。
 江田は、急に卑屈な表情になって、
「なら、なあ――何か判らないかひょっとして。ここまでの話で、どうして犯人が水曜日の雨の日に人を無差別に襲うのか。どんな基準で標的を選んでるのか」
 楠はすっと目を細めて、
「江田さんは、事件現場にいる謎の女の事を相談にいらっしゃったんじゃなかったんでしたっけ」
「あ、いや」
 江田はまた取り出しかけた煙草を取り落としそうになりながら、
「無論、そうなんだが。この事件の捜査全体として、やっぱり手詰まりなんだよ。どんな小さなことでもいいから、気が付いたことがあったら。頼むよ、教えてくれ」 
「気づいたことは、ないことはないですが」
 楠は、思わせぶりな一瞥を江田に投げて、
「その話はまた後で。とりあえず、次は例の『雨女』さんの話を、もっと詳しく話してもらえませんか。身元なんかも、既に調べておられるんですよね?」
「『雨女』?ああ、うん、そうだな」
 江田はもやもやした表情で咳払いすると、再びソファに腰を落ち着けた。
「彼女の名前は、伊南彩佳というんだが――」

「これがまた、考えれば考えるほど、よくわからない女性でな」
 江田は、腕組みして唸る。
「死体が発見され、野次馬が集まり、我々も現場に到着する頃には必ずいる。そして、先程話したように、おいおいと自分の身内の葬式みたく、心底悲しそうに泣き叫ぶのさ。あまり身なりに構わない方らしくて、服装も毎回同じ、白いワンピースだ」
「その、現場に行くと先にいる、というのは、最初の事件からずっとなんですか」
「あ、いや。言われてみると、一番最初は違ったような気がする」
 天井を睨みながら、必死で思い出そうとしている。
「最初の、焼津さん殺しの時には、俺たちが現場検証をしているところにいきなりやってきて、急にぼろぼろ涙を流し始めたんだったと思う。それが、どうかしたのか?楠くん」
「あ、いえ。ちょっと訊いてみただけです。それにしても、人の死に際して必ず現れ、泣き叫ぶ不吉な亡霊めいた美女、なんて」
 楠は遠い目をして、味わうようにゆっくりとその言葉を口にする。
「まるで、バンシーみたいだ」
「バンシー?」
 江田が首を傾げる。
 僕はその名前に聞き覚えがあったが、それがどこだったか思い出せないので、やはり一緒に首を傾げた。
 楠は指先に巻き付けた自分の黒髪を丁寧にほどきながら、
「アイルランドやスコットランドの伝説に出てくる妖精ですよ。家族の誰かが今まさに死を迎えようとしている家にどこからともなく現れて、その人間の死を予告し、憐れみ惜しむように泣き叫ぶんだそうです」
「あれ。それはデュラハンていうんじゃなかったっけ」
 僕は、どうやら僕の記憶は誤っているらしい。
「首なしの騎士の姿で、バケツ一杯の血を人に浴びせかけるやつ」
「よくご存じですね」
 楠は微笑んだ。
「デュラハンも、やはりアイルランドあたりの伝説に出て来る妖精で、死を予告するのも同じですけど、泣き叫んだりはしません。それに、バンシーの姿は若い女か老婆のどちらかだと言われてますからね。見かけから全く違います。ちなみに、高貴な家や人物のもとに好んで現れるので、不吉な時に現れる存在であるにも関わらず、それほど忌み嫌われることもなかったとか。彼女が現れるということは、その家が高貴であることを証明することにもなるので」
「この事件のガイシャのみなさんが高貴な血筋だとは思えないが」
 江田は憮然として言う。
 楠は、からかうような視線を江田に投げかける。
「それは、わからないですよ。血筋そのものはともかくとして、妖精が信じられていた時代のアイルランドと比較すれば、今の日本人の生活は王侯貴族並に贅沢なんでしょうから。そう思うと、ひょっとしたら、伊南さんって、バンシーの化身なのかも知れないですね」
「おいおい、よしてくれよ」
 江田は怠そうに手を振りながら、
「そもそも、なんでアイルランドだかの妖精さんが日本くんだりまでわざわざ出張してきて死の予告なんてするんだ。しかもご丁寧に、姿形まで日本人に化けてまで」
 普段の江田は、楠のこの手の蘊蓄には好意的である。彼が手がけて行き詰まっているような事件では、たいていの場合常識の枷を外したアプローチが必要で、そんなとき楠の一見何の関係もなさそうなペダントリーが意外と突破口になったりするのだ。
 が、そのことを承知しているはずの彼がこうも苛ついているというのは、よくよくこの事件に嫌気がさしているということなのだろう。
「そうですね」
 楠はくすくす笑いながらも素直に認めた。
「それに、バンシーはその人間が死ぬ前に姿を現しますけど、伊南さんは明らかに死んだ後ですもんね。あ、でも」
 不意に彼の目が、獲物を狙う猛禽類のそれのごとき輝きを放つ。
「もし伊南さんが犯人だとしたら、『死を予告しに来た』という見方も出来るのか」
「おい、聞き捨てならないぞ」
 江田が血相を変えて立ち上がる。
「ひょっとして、やっぱりそうなのか。やっぱりあの女、『水曜日の雨男』なのか。いや、その場合『水曜日の雨女』に改名すべきなのかも知れんが――」
「慌てないでください、江田さん」
 楠は艶然と微笑んで、
「彼女が犯人ではあることはまずない、と仰ったのは江田さんですよ。それより、彼女のパーソナルデータを詳しく教えてください」
「あ、ああ、そうだな」
 江田は夢から覚めたように目をぱちくりさせて、また腰を下ろす。
「伊南彩佳、28歳。事件が起こったのと同じN町在住の一人暮らし、勤め先もN町内にある大手商事会社の支社だ。美人なのに、恋人もいない。事件の現場に現れるときも色気がなかったが、どうやら日常生活もそうらしい。職場でも、真面目だが大人しくて地味すぎる、という評判だな」
「日頃大人しくて真面目だと思われてた人間が、裏でとんでもないことをしているのはよくあることですけどね」
 楠は肩をすくめた。
「他に何かありませんか。彼女の本質に迫るには、もっと血が滴るくらい生々しい手がかりがないと。特に、同僚の女性なんかが叩いてる陰口とか」
「えげつないことを言うなあ――きみは。まあ、そのとおりだとは思うが」
 江田は苦笑いして、
「まあ、存在感薄いとか何考えてるか分からないとか、俺たちが現場で彼女を見かけた時と同じような感情を、同僚達も抱いてるようではあったがな。そういえば――」
 と、彼は無精髭をさすりながら、
「あの人には、心がない、とか言っている女の子がいたな」
「心がない?」
 楠の眉がぴくりと動く。
 江田は、もそもそとブレザーの懐から手帳を取り出し、
「彼女と同期で入った女性社員が言ってたことなんだが。彼女にも昔は恋人がいてな。社内恋愛だったらしいんだが、可哀想に海外に出張中に交通事故で亡くなったんだそうだ」
「それはまた、劇的かつありがちなエピソードですね」
 楠は無表情に言った。
 江田はまた苦笑して、
「そういう言い方やめなさいって。でな、その不幸にあったとき、彼女は全く悲しむ表情を誰にも見せず、涙一滴流さなかったそうなんだ」
「だから心がない?馬鹿ですかその同僚女子社員は」
 楠は鼻で笑った。
「人の悲しみの表現方法なんて人それぞれだ。大地を引き裂かんばかりに泣き叫ぶ人もいれば、喪失感や絶望感のあまり、声一つあげられない人もいる。伊南さんはたまたま後者だっただけなんじゃないかと思いますけどね」
「彼女の周囲にも、そういう人間心理の機微が分かる友人がいればよかったんだろうがね」
 江田は眉間をおさえながら言う。
「丁度、その恋人が手がけていた仕事を、彼女が引き継ぐことになったらしいんだが。彼女は全く感情に流されることもなく、前任者が死亡したことによって起こったトラブルの後始末も含めて、完璧にやり遂げたらしい。その彼女を見て、少なくとも会社の同僚達の間では、あの人はなんて冷たい人なんだろう、彼の遺した仕事をしてるのに、彼を思いだして悲嘆にくれてる様子も全くない――きっと心がないのに違いない。そういえば日頃から表情に乏しい人だし、という結論になってしまったようだな」
「なんですかそれは。単なるやっかみじゃないですか」
 楠は、いささか呆れ顔である。
「最低の陰口だ。耳が腐りそうですね」
「それを話せって言ったのはきみだろうが」
 江田は顔をしかめる。
「まあ、兎にも角にも気の毒な話だ」
「同感です」
 楠も、珍しく相槌をうつ。
 江田は腕組みして唸った。
「きっと、恋人を愛してたからこそ、恋人が途中で果たせなかったことを自分が成し遂げなければ、と――涙を流す暇もないほど頑張った結果なんでしょうに。でも、そんなにも強い意志を持っている人が、どうして殺人現場ではそれほどおいおい泣くんだろう。同僚に涙は見せたくなくても、事件の野次馬や江田さんみたいに、知らない人の前だと平気なんでしょうか……?」
 楠の目が、不意にまた遠くなった。
「そうか。心がない――泣かない――泣けない――そうか、だからなのか」
 虚空を見つめ、ぶつぶつと呟く。
「バンシー、デュラハン、泣き妖精。死を告げ、悲しむ、無力な妖精。火と水、精霊の力を借りて――泣くべき時に、泣けないバンシー……」
 楠の様子は、トランス状態に入った霊媒のようだった。
 僕と江田は顔を見合わせて戸惑う。
 が、彼がこのような状態に陥るときこそ、真実の神が彼を依童にして真相を語らせんとしている時なのである。
 今まさに、彼の頭の中では事件の全貌が目まぐるしい勢いで組み立てられているに違いないのだ。    
「あ」
 楠の目に、正気の光が戻る。
「江田さん、『水曜日の雨男』事件の犯人、捕まえられるかも知れませんよ」
 それを聞いた瞬間、江田はソファから腰を浮かせて楠の手を握った。
「ほ、本当か、楠くん」
「ええ。多分。ただの直観ですから、単なる可能性のひとつでしかないんですが」
 楠は立ち上がると、応接セットの横にあるスチールの戸棚に歩み寄り、スクラップブックを数冊引っ張り出してめくり始めた。
「江田さん、すみませんが」
「何だい」
「一連の事件の被害者のフルネーム、ちょっと紙に書いてみてもらえませんか。漢字で」
 新聞記事をびっしり貼り付けたページを素早くめくりながら言う。
「ああ、わかった」
 江田はいまひとつ釈然としない顔をしながらも、素直に従った。手近にあった紙の切れ端とボールペンを取って、金釘流の字で五人の名前を書き記す。

 焼津稲介、秋沢英也、中畑功夫、萩野恵実、淡屋吾朗

 この名前の中に、何か手がかりが隠されているのだろうか。雨の日の水曜日に殺された、この哀れな犠牲者たちの間に横たわる、ミッシング・リンクが。
 楠は手を止めてそれを覗き込むと、してやったりと言いたげな笑みをうかべた。
 そして、再びスクラップブックをめくりはじめ、
「あった、これだ」
 彼は、そこに貼り付けてあった記事を見ながら、何事かメモ用紙に書き付けた。
「次の雨の日の水曜日、この人をマークしてみて下さい」
 江田は怪訝そうにそのメモを受け取って、楠の顔と交互に見比べた。
「わかったが……何故?」
「説明は、後でします。あまりにも他愛ない思いつきだから、先に言っちゃうといくら江田さんでも真面目に聞いてくれないかもしれないから」
「そんなことはないんだが……」
 江田は困惑の面もちでまたメモを見つめる。
「それで心許ないようでしたら」
 楠は、本棚からまた何か引っ張り出して広げた。今度は、N町付近の住宅地図である。
「ああ、あるある。これならまだ見込みはあるぞ」
 そう言って江田からメモを取り上げると、また何か書き付ける。
 それを再び受け取ると、江田はますます混乱しきったような表情になって、
「炭野、秋山、荻原――なんだこりゃ」
「次に狙われる可能性のある人の名前です」
楠はウインクした。
「N町の住民に絞れば、そう多くもないでしょう?さっきの人物が、その苗字の誰かのところに、雨の日の水曜日に現れれば――賭けは僕たちの勝ちです」
「きみがそこまで言うのなら、張り込んでみることにするか」
 江田は、未だ半信半疑のようだった。
 が、捜査が行き詰まっている以上何もしないよりはましだと思ったのだろう、のっそりと立ち上がると、
「じゃあ、犯人逮捕できたら連絡するよ。その暁には、お礼に何か奢らせてくれ」
「安いお店でいいです」
 楠は少し情けなさそうに、
「正直、そんなに大した問題でもないですから」
「謙遜するなよ。じゃあ、またな」
 江田は、疲れた背中をゆすりながら、事務所から出ていった。
「さて、と」
 僕は、我知らずにやけ顔になりながら、楠に向き直った。
「楠くん、僕には教えてくれるだろう?きみの推理」
 期待に満ちた視線で彼を見つめる。 
 が、楠は無慈悲にかぶりを振る。
「駄目です。江田さんが犯人確保に成功したら、その後で一緒にお話します」
 そして、小さく溜息をつき、
「そもそも、今回のは推理とも言えません。はっきり言って当てずっぽうに近い」
「その当てずっぽうが的中してるかどうか、僕に話せばはっきりするんじゃないか」
「当てずっぽうというのは、現実に正解でなければ何の価値もないから、当てずっぽうというんです。成河さんに話したからといって、少しも、僕の気持ちは晴れませんよ」
「なら、さ。実際に正解かどうかはともかく、きみがどういう答えを出したのか、ヒントくらいくれてもいいだろう」
 楠は、片眉をつり上げて、
「わかりました。この新聞記事を見て、成河さんも何か気づくことがあるんじゃありませんか」
 彼は、先程のスクラップブックを投げてよこす。
「そのページの、一番右上の記事です」
 僕は、胸を高鳴らせながら、その記事を貪るように読んだ。

 N町住宅火災 放火で男逮捕

 どうということはない、よくある放火事件の記事だ。
「これが、どうかしたかい」
 楠は、冷ややかな一瞥を投げる。
「犯人の名前を見て、面白いと思いませんか?」
「ええと、灰島浩輔45歳無職。リストラされて自暴自棄になり、犯行に及んだ模様。別に面白いとは思わないけど」
「誰も、そこまで読み上げろとは言ってないでしょ」
 楠は眉間に皺を寄せる。
「それだけ丁寧に読んでも、何も気づきませんか」
「気づかないぞ」
 僕は意地になって更に声を張り上げる。
「N町型枠大工、香坂有二さん51歳の自宅が全焼、妻時子さんが焼死体で――」
「もういいです」
 楠はぴしゃりと言う。
「そこまで読んで何も気づかないようなら、きっと何10回その記事を朗読しても、何10時間眺めても何もわからないでしょうね」
「そこまで言うか」
 僕はむかむかしたが、本当にわからないものはわからないので、仕方がない。
 その後もしばらく、いろいろ言葉を尽くして彼の機嫌を取り、なんとか答えを引き出せないかと試みたが、それらは全て失敗に終わった。
 我ながら馬鹿なことをしていると思う。
 楠が、見え透いたおだてやご機嫌取りに乗るような人間でないことは、僕が一番知っているというのに。
 ともかく、楠も事務机に向かい、僕を無視して本来の仕事に取りかかり始めたので、流石の僕も潔く諦めざるを得ず、1時間後には自分のアパートに帰って煮詰まった原稿との格闘に戻った。
 まあ、焦ることはない。
 江田が楠の推理通りに通り魔を逮捕すれば、その時には嫌でも真相ははっきりするのだから。
 そして、その二週間ほど後――水曜日に、N町に雨が降った。

「いやあ楠くん、本当に助かったよ」
 江田警部の喜びの声を、楠と僕は彼の行きつけの居酒屋『青葉や』の窮屈なカウンターで聞いていた。
 この集まりは無論、楠の推理による事件解決のお祝いで、当初の約束通り江田の奢りだ。ちなみに、リーズナブルなところも楠との約束通り。
「この間の水曜日に朝から雨が降ってたんで、一課の連中に無理言って、所轄から気心の知れた連中を借りて、きみの言うとおりの人物をマークしてみたら――どんぴしゃだ。いや実際、みんな魔法でも見てるみたいだって、大騒ぎだったよ。本当に、なんてお礼を言ったらいいかわからない」
「お役に立てて何よりですけど」
 楠はあまり嬉しくなさそうに、
「でも、犯人を逮捕して真相を吐かせてみたら――どうってこと、なかったで
しょう?」
 梅の入った焼酎のお湯割りを、ちびちび呑みながら言う。
 江田は大げさに首と両手を振って、
「そんなことはないさ。実際、被害者にあんな共通点があるなんてこたあ、俺も含めて警察の人間は、誰一人考えつきもしなかったんだからな」
「それはそうかもしれないですけど」
 楠は、江田のグラスにビールを注ぎつつ、
「僕がそのことに気づいたのも、はっきり言って偶然の産物以外の何ものでもないんですよね。あの放火事件にたまたま興味があって記憶していたから、そこから犯人や被害者につながる線を見つけられただけで。もし、誰しもに僕と同じような推理の材料が公平に与えられていたのなら、きっとしもが難なく解けた事件だと思いますよ」
「いやいや、そんな謙遜しなくても」
「あの」
 僕は、肩身の狭い思いをしながら、
「江田さん、上機嫌のところ申し訳ありませんが」
「何だ」
 江田さんは、既にほろ酔い加減である。
「遠慮しないで言ってみろ」
「多分、この3人で『水曜日の雨男』事件の真相を知らないの、僕だけだと思うんですが」
 楠と江田は、今初めてそのことに思い当たったかのように顔を見合わせる。
「そうか、まだ今日の時点では新聞にも載ってないからな」
 温厚で順当な反応を示す江田。
 だが楠は、横目で僕に軽蔑の眼差しを送ってよこす。
「なんだ、まだ気づいてなかったんですか。江田さんに話を聞いてから、何日経ったと思ってるんです?成河さん、本当に本格ミステリ作家なんですか」
 飽くまで手厳しい。
 僕は卑屈な笑みをうかべて、
「ああ、僕は何10時間あの記事を眺めても解答が分からない大馬鹿者だからね。自分で考えるのは早々に放棄してたよ。どのみち犯人が捕まれば、答えは自ずと分かるだろうと思ってね」
「拗ねてるんですか?成河さん」
 楠は、ふふん、と人を見下しきった笑いいを洩らす。
「いい大人が、可愛いこと言ってるんじゃありませんよ」
「きみの方こそ、いい大人いじめっ子みたいなことを言うな」
「わかりましたよ。説明すればいいんでしょう?」
 彼はポケットから件のメモを取りだして、僕の鼻先に突きつけた。
「ともかく、この名前を見て、もう一回考えて見て下さいよ。ほら、しっかり共通点があるでしょう?」
  
――焼津稲介、秋沢英也、中畑功夫、萩野恵実、淡屋吾朗――

 その名前の羅列を何度も目でなぞりながら、僕はあの新聞記事の事を思い返してみた。

 放火、灰島――そして、楠が江田に渡した、襲われるかもしれない人物の名前のリスト――炭野、秋山、荻原。

 自分も少し酔い始めているのを感じながら、それぞれの名前を凝視する。
 と、不意にレンズの焦点が合うように、それは前触れもなく僕の脳裏に閃いた。
「火……?」
 僕は、アルコールが入っているときの方が思考に柔軟性が出るのだろうか。
 この前には全く気づかなかったのに――僕は、声がひっくり返りそうになりながら言う。
「火だ。火だよ。この被害者全員、苗字の中に『火』が含まれてる――」
「やっと気づきましたか」
 楠は焼酎をぐびりと呑む。
 僕の顔は全く見ていない――少しくらい褒めてくれたっていいのに。
 そう、被害者の苗字の漢字の中には、偏、つくりを問わずどこかの部分に、『火』が含まれているのだ。
 そしてまた、香坂氏の自宅に放火した灰島の名前にも。
「もうわかっていると思いますが、犯人は灰島に自宅を全焼されられた、香坂さんです。彼は、灰島の放火によって、自分の家のみならず最愛の妻まで奪われた。しかし当の灰島はさっさと逮捕され、法の裁きを受けている。本来なら、彼に出来ることはもう何もないはずなのですが――」
「どこでどうなってそういう発想が生まれたのかは、未だにはっきりしないんだが」
 江田が説明を引き継ぐ。
「『火』を含む名を持つ『灰島』という男が火を用いて彼の人生を破壊した。だから、『火』にまつわる名前を持つ人間が、自分に災いをもたらす敵だ、と彼は思いこんでしまったんだな。ちなみに、今回犯行を未然に防いだ、被害者になるかも知れなかった相手の名前は、炭野さんだ」
「そう。自分の家の近所、N町に住んでいる『火』の名を持つ人物を探し出しは、つけねらい襲うようになった」
 楠は焼酎を妙に優雅な手つきでぐいっと飲み干すと、
「だけど香坂さんは一度、その『火』の者に敗北している。復讐をやり遂げるには、何かより強い力に頼らねばならない――」
 そこで、僕にも全てが腑に落ちた。
「それが、水曜日、雨の日、ってわけか」
「そのとおり」
 楠はくすくす笑いながら、
「五行相克、水は火に勝ち土に負け――というわけでもないのでしょうが。香坂さんには、格別オカルトの知識はなかったようですからね。なのに、随分趣深い発想をなさると思いませんか。火の精に勝つために、水の精の力を借りるのです。まあ、そんな大げさなものでなくても、火を消すには水、くらいの単純な発想だったのかもしれないですけど」
「趣ねえ……そんなもんで見ず知らずの人間に刺されるなんて、迷惑な話だな」
「そうですね。平たく言えば八つ当たりですから」
 楠は空のグラスを器用に指先で回して、
「彼の人生は、彼に全く責任がないところで無理矢理狂わされた。しかし、その張本人、憎悪すべき相手はさっさと目の前から消えてしまい、どこにも負の感情をぶつける場所がない。そこで、彼は自分の怒りの矛先を向ける相手を、自らの想像力で作り出してしまった――狂気は人を壊すかもしれないけれど、代わりに別の世界を見る力を与えてくれるのかも知れない――」
「それはともかく」
 江田は実に居心地が悪そうに、
「楠くんが言ったとおりの動機で、香坂は通り魔殺人を行った。今も取調中だが、『水曜日の雨男』事件として取り扱われている五件の殺人のうち、4件までは犯行を全面的に認めている」
「4件?全部じゃないんですか」
「ああ」
 彼は串カツに豪快にかぶりつきながら、
「何故かはわからんが、5件目の犯行――淡屋吾朗殺しに関してだけは、頑なに犯行を否認しているんだ。まあ、アリバイはないし手口も同じだし、まず香坂の犯行で間違いないだろうと思うんだが」
 しきりに首をひねる。
「何故、その一つの犯行だけをそれほど否定するのか、どうも釈然とせんのだが――」
「ああ、その件ですけど」
 楠は、しれっとした顔で、
「淡屋さんを殺したのは、香坂さんじゃありませんよ。多分」
「ええ?」
 僕と江田は、彼の顔をまじまじと見つめた。
 意外な展開ではあるが――その推理は、彼自身が看破したミッシング・リンクのルールとは合致しないのではないのか。
 楠は、僕と江田の表情を見て反対に、理解に苦しむという風に眉間に皺を寄せた。
「そんなに変なこといいましたか、僕は」
「言った」
 思わず即答する僕。
「淡屋さんだって、名前に『火』が入ってるじゃないか。おまけに二つも。見事なまでに香坂氏の標的になる要件を満たしているじゃないか。それに、いつもと同じ雨の水曜日の犯行だ。それでどうして、淡屋さん殺しだけ別の犯人、なんて話になる?」
「だから、淡屋さんは香坂さんの標的になり得ないんですってば」
 楠は、やれやれとでも言いたげなかぶりを振った。
「『火』に勝つために『水』にあそこまでこだわった香坂さんが、『水』を表すところの『さんずい』が含まれる名前の被害者を狙うはずがないでしょう?」
「あ」
 またも顔を見合わせる僕と江田。
「淡屋さんを殺した人間は、何度か通り魔の現場に居合わせて、雨の水曜日に『火』を含む名前の人間が殺されていることに何故だか気が付いた。だけれども、なぜ犯人が雨の日の水曜日にこだわるのか、その理由にまでは流石に気が回らなかったんですよ。だから、香坂さんの仕業に見せかけるために彼の小道具と演出をそっくり真似たのに、肝心の相手役の部分でミスキャストをしでかしてしまった」
「なるほどなあ……」
 江田は感心したように何度も頷く。
「だが、その論法でいくと、淡屋さんを殺した犯人は、別に殺されるのは淡屋さんでなくてもよかった、ということになるな。模倣犯ってことか?」
「ちょっと待った」
 僕は、強引に話に割り込む。
「淡屋さんを個人的に狙っている人間が、たまたま『水曜日の雨男』事件の状況を利用した、という可能性はないのかな」
「全く皆無、ゼロとは言えないんでしょうけど、考えにくいですね。通り魔の仕業に見せかけることを思いつき、なおかつ香坂さんの妄想から生まれた狂ったルールに気づくことのできる感性の持ち主が、計画殺人を犯すのに『雨が降る水曜日』なんて不確実極まりない状況をあてにするとは思えません」
「たしかに……」
 僕の動議をあっという間に粉砕してのけた楠の手際にいつもながら感心しつつ、『瞬殺』という言葉はこういう時に使うのだろうかと、僕はぼんやり考えた。
 楠は人差し指をぴんと立てて、
「淡屋さん殺しの犯人として考えられる人物の条件は、こうです。まず、香坂さんの一連の犯行を、一件残らず全て見届け、細かい部分まで観察している人――これは言わずもがなですが。そして、とにかく誰でもいいから人を殺したいと思っている人――これは、さっき江田さんが指摘して下さったとおりです。犯人にとって、殺される相手は淡屋さんでなくても別に良かった。たまたま、香坂さんの犯行に見せかけるために、淡屋さんは都合の良い存在だった――たったそれだけの理由でしかない」
「なんか、殺人狂って感じの犯人像だな」
 江田が、憂鬱そうに頭を押さえる。
 楠は静かに頷くと、
「『殺人狂』という呼び方はどうかと思いますが、そういう存在になりうる危険性は十分孕んでいると思いますね。そして最後に、その犯人にとっては、おそらく淡屋さん殺しを行うかどうかは死活問題だった。少なくともその人物の精神は、そこで誰かを殺さなければ、自分自身が壊れてしまう瀬戸際だったはずです」
「シリアルキラーにはありがちな心理じゃあるが……」
 江田は首を捻る。
「連続殺人犯なのは香坂であって、淡屋殺しの犯人じゃあない――ええい、ややこしいな、犯人Xとでもしとくか――Xではない。どうしても香坂の犯行を模倣して、淡屋殺しを実行しなくちゃならない理由って、一体なんだ。そこまで精神的に追いつめられる状況ってな、なんなんだ」
 楠の口元に、うっすらと妖しい笑みがうかんだ。
「淡屋さんの一人前に殺された、萩野さんの事件の発生日から淡屋さんの事件まで、何度も『雨の降る水曜日』はありました。にも関わらず、事件の起こらない期間がかなりあった。もし、香坂さんの犯行の法則性にいち早く気づき、『雨の降る水曜日』を常にマークして、その行動を心待ちにしている人間がいたとしたら――?」
「待ちきれなくなって自分で殺したってか」
 江田は、顔面蒼白になる。
「狂ってる。そんな奴を俺は見逃して野放しにしてるのか」
「そうですね。香坂さんが逮捕され、『水曜日の雨男』事件が事実上の終焉を迎えた今、その人物が後継者を買ってでて新たなシリアルキラーの誕生、ってことになる可能性は極めて高いかも」
 楠はこともなげに言う。
 江田は苛々と煙草に火をつけ、
「楠くん。きみには、もうその犯人はわかってるのか」
「はい。証拠はないですが、さっき述べた条件にぴったり当てはまりそうな人物を知っています」
「教えてくれ!」
 江田は楠の肩を掴んで揺さぶる。
「せっかく『雨男』を逮捕したのに、また同じような事件が続くかも知れないなんて、俺には堪えられん」
「江田さんも成河さんも、その人物のことをもうかなり詳しくご存じのはずですよ。実際に会ったか会ってないかはともかく」
 楠は肩をすくめる。
 そう言われたなら、僕にも思い当たる人物は一人しかいない。そもそも今度の事件では、『生きた』登場人物は、香坂を除けばこの人しかいない。
「――伊南彩佳か」
 僕が言うと、江田はすごい形相で振り向いた。
「なんでそんな事になる。たしかに彼女は変わり者かも知れんが、人の死を見てあれほど本気でおいおい泣いている子が、自分の手で人を殺せるわけがないだろうが」
「常識で考えると、そうなんですけどね」
 楠は、さきほどおかわりした焼酎をまたぐびりと呷って、
「反対に、人の死を見ないと泣けないんだとしたらどうなります?」
 江田の顔が強張る。
 楠は深呼吸して、
「『泣きたがり症候群』、ってご存じですか。ストレスを上手く発散できない人が最近よくかかるらしい、神経症のごく軽い症状のひとつらしいですが」
 江田は硬直したまま無言なので、僕が代わりに言う。
「続けて、楠くん」
 楠は、静かに、ゆっくりと説明を始めた。
「日頃、滅多に涙を流したり悲しんだりする素振りを見せない人がいたとします。その人はたいてい、感情を表に出さない、冷たい人として周囲に認知されています。ですが、そんな自分自身が急に不安になって――他人が言うような冷たい人でなしなんかではないことを確かめたくなって、レンタルビデオ屋で試しに『泣ける』ビデオを借りてくる」
「…………」
「そうすると、その人――とりあえずAさんにしときましょうか――彼は、そのビデオを見て素直に感動し、涙を流せた。自分が人並みに涙を出てくることに安心したAさんですが、日常生活の中ではやはり涙は流れない。だから不安になって、またビデオ屋に足を運ぶ。そうこうするうち、『泣けるビデオ』を観ないと泣くことが出来なくなっている自分に気が付く。彼女の場合、雨の日の水曜日に起こる通り魔事件の犠牲者の死に様が、Aさんにとっての『泣けるビデオ』と同じだったんじゃないでしょうか」
 江田は、金縛りにあったように固まったまま、楠の顔をまじまじと見つめる。
 楠は、その視線を真っ向から受け止めながら、
「江田さん、最初の2回くらいは、伊南さんはちゃんと傘をさして現れたような気がする、と仰ってましたよね。それが、いつの間にかびしょ濡れでやって来るようになった。これは、伊南さんが当初は偶然に事件に居合わせただけだったのが、『水曜日の雨男』の犯行のルールに気づいて、なりふり構わず、雨具の用意も忘れて事件を追跡するようになったことを示しているんじゃないでしょうか」
「……どうして、そうまでして泣く理由を探さないといけないんだ」
 江田はやっと口を開いた。
「別に泣かなくても――人の死体を探し回らなくても、ましてや人を殺さなくても、そこまでしないと泣けなくても、別段死にはしないだろうが」
「愚問ですね――失礼ながら」
 楠はかぶりを振った。
「人の『泣く』という行為は、れっきとした人間が生きるのに必要な行動の一つですよ。そのことでいろんな心理的負担が軽減され――なんてことを言うまでもなく、世間では『泣ける』ことがあらゆる創作・著作物の評価を決める要素として、大きな顔でのさばってるじゃありませんか。ビデオショップや書店には『泣ける』作品コーナーが設置され、『店員のオススメ』なんて広告があるかと思えば、『泣けます』『涙が止まりません』なんて宣伝文句が安売りのように書き連ねてある。本当は、『泣く』ということはその作品が心を揺さぶるものだったり優れていたりすることに対する結果であって、価値を判断して秤に掛ける言葉に容易く使うべきではないと思うんですけどね――それはともかく。『泣く』ということが内なる感情を安全な形で発散させるアース線である以上、それが出来なくなってしまった人間にとって、問題は深刻です。その人の内面が、繊細で多感であればあるほど。外部からの刺激を受け取るだけ受け取って、受け流すことが出来なければ、ショートします」  
 江田は、また口をへの字にして黙りこくっている。
 楠は、そんな彼を哀しげに見つめながら、
「だから、彼女はバンシーになった。自分自身の心が壊れてしまわないために。あるいは、かつてその死にあったとき、涙を流してあげられなかった恋人のために――その恋人のために敢えて堰き止めていた大きすぎる悲しみを、全て絞り出しつくすためには、無惨に殺された何人もの屍が必要だったのかもしれない。だから彼女は、人の死を見届けて涙を流す、殺される罪なき者の魂を迎えに来る、泣き続ける妖精になった。だけれど」
 彼は、静かに目を閉じ、
「見知らぬ誰かのために泣き続けて、自分自身のために泣くことが出来なかった妖精はいつか――泣きながら人を食らう、魔物になった――」 
 詠うように言って、話を締めくくった。
 江田は、むっつりした顔のまま立ち上がると、
「楠くん、ありがとう。ここ、俺の名前でツケきくから。ゆっくり呑んでくれ」
 重い足取りで『青葉や』を出ていった。
「……哀しいな」
 悲壮感にあふれた江田の背中を見送りながら、僕は呟いた。
「泣いて、笑って、怒って、さ。僕たちみんな、あたりまえのようにしてることなのにな。それが出来ないっていうのは――もしかして、本人にとっては手足を縛られたり目隠しをされたまま普通の人間と同じように生きて行け、って言われているのと一緒なのかもしれないな」
「現実世界で普通に生きるってことは、既にしてそういうことですよ」
 楠はふうっと吐息をもらす。
「だから、わざわざ『泣ける』本や映画なんてものをみんな探すんです。人間っていうのは本当に不器用な生き物ですね」
 そして、急に悪戯っぽい笑みをうかべて僕の顔を覗き込むと、
「せめて僕らは、あたりまえに自由に、泣いたり笑ったりしましょうね、成河さん」
 僕は、なんだかもやもやした気分で、
「そうだな」
 言って、グラスに半分ほどのビールを一気に飲み干した。

 伊南彩佳が逮捕され、まさに楠が看破したとおりの動機で淡屋吾朗を殺害したことを自供した、という知らせが江田から届いたのは、それから数日後だった。
 仕事にも行かずずっとアパートの自室に籠もりっきりだった彼女は、逮捕状を持った江田の姿を見た途端――通り魔の現場に現れたときと同じように、おいおいと泣き始め、そのまま取り調べが終わるまで、ずっと泣きじゃくり続けたのだという。
 そのことを僕と一緒に聞いたとき、楠はこう呟いた。
「やっと、人間に戻れたんですね」
 僕は、彼が『青葉や』で江田に言った言葉を反芻する。
(見知らぬ誰かのために泣き続けて、自分自身のために泣くことが出来なかった妖精はいつか――泣きながら人を食らう、魔物になった――)
 泣けない、バンシー。
 泣くために妖魔と化してしまった、哀れなバンシー。
 そのために犯した罪は拭えないし、犠牲は大きすぎたかも知れないけれど――それでも、彼女はやっと、人間に戻れたのだ。
 泣きながら生まれ、泣きながら生きていく人間に。

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