スウィート・メモリーズ
〜ミッドランダーズD〜


その結末に、僕は溢れる涙を抑えられなかった。
知らなかった、大人の恋愛がこんなに辛くて苦くて、だけどだからこそ余計に甘酸っぱいなんてこと。
結婚して家庭のある男女が愛し合うなんて、醜くて歪んだことだと思っていたのに。
それでも、人が人を好きになることは、自分たちの意志ではどうにもならなくって、その想いを形にすればどうなるかわかっているのに――それでもやっぱり、惹かれ合うのを止められないのだ。
スクリーンの前にカーテンが降りて、客席にほんの気持ち程度に明るさが戻る。
古ぼけて赤茶けたシートが窮屈に並ぶ、こぢんまりとした映画館。
観客は僕一人。
普段は映画なんて観ない僕が、何故こんなところで、年齢に相応しからぬマイナーな恋愛映画を鑑賞しているのか、実は自分でも思い出せない。
さっきの作品で、もう何本目だったろうか。それっすらも既におぼろげだが――ただ、どの作品もやけにリアルで、生々しくて、そして人間の内面を鋭く抉っていた。それと同時に、人の心の奥の奥に横たわる、本質的な孤独や、理解されることへの渇望、愚かではあるがそれ故に哀れな、愛しい人間像を描写しきっていた。
「どうですか?良い映画だったでしょう?」
 いつの間にか僕の傍らに立っていた一人の男が、僕の耳元に囁きかけた。
 なんだか薄汚れた燕尾服に身を包んだ、針金細工のようのひょろ長い体格の男。髑髏と見紛うほどに痩せこけ、頬もげっそりとこけているが、何故かあまり不健康な感じがしない――最初からこのような形でこの世に生まれ落ちたかのような――不思議な印象の人物だ。
「感動、しましたか?」
 僕の横顔を斜め下から覗き込んで、興味津々の目つきで訊ねる。
 僕はゆっくり頷き、
「はい。人間って、馬鹿だけどそれでも素晴らしい生き物だと思いました」
聞いたこともないタイトルばかりで、観たことのないような出演者ばかりだったけれど、とても身近に、とても繊細に感じる演技をするし、映像も飾り気こそないが、だからこそ作っているという感じがまるでなく、素朴にして緻密だ。
 こんな傑作がどうして世に出ず、こんな場末の劇場でしか上映されていないのか、まるで分からない。
「ブラァヴォ」
針金男は、落ちくぼんだ眼下の奥の目を実に嬉しげに細めて、かさかさの掌を打ち合わせた。
「キミのような良い感性を持った観客を招くことが出来て、光栄ですよ。もっと、もっと、沢山の作品をキミに観て欲しいな。観てくれるよね?」
「うん、観たいけど、でも…」
 帰らないと。
 僕は、暗くなってゆく銀幕にうっすらうかぶ「Fin」の文字と、腕時計の針を見比べた。
 塾をさぼってこんなところにいる――塾に向かう途中だったはずなのに、どういう経緯でこの劇場に足を踏み入れたのか全く思い出せないのだけれど――が、もういい加減塾の授業も全て終わり、後で個別に指導を仰ぎにやってくる熱心な生徒もすっかり消え失せているはずの時間だ。
「もうそろそろ帰らないと、家族が心配します」
 針金男は、細い木の枝のような人差し指を額に当てると、心から残念そうな仕草でかぶりを振った。
「ああ。キミのような素晴らしい観客を迎えることができるのは、とても希有なことなのだけれど。キミはまだ若い、そのような事情もあろうさ。お別れは辛く悲しいけれど、出会いも別れもまた一つの物語であってみれば、それを無理に引き留めるなぞは愚の骨頂。最上級の鑑賞眼を持ったお客様に感謝の誠を捧げつつ、謹んでその背中を地面にめり込むほどのお辞儀でお見送りしましょう」
 そして、その言葉通りに床に頭頂部が届きそうなほど馬鹿丁寧に礼をした。
 僕は、思わず吹き出しそうになりながら、
「大袈裟だなあ、おじさん。僕、この映画館が気に入ったから、また来ます。今日は本当にありがとう」
 針金男よりは随分軽めだけれども、心を込めてお辞儀を返した。
 彼は口角をあり得ない角度につり上げて笑うと、
「なんのなんの。礼には及びませんよ。だがしかし、だがしかし、この世界の裏側の更に端っこの端っこの劇場で、たった一人観客を待ち続けるこのちっぽけな映写技師めを哀れと思し召すならば、一つだけ聞いて欲しいお願いがあるんだなあ」
 僕は首を傾げる。
「何?」
「きみの物語を、僕に撮らせてもらえないか」
 一瞬、意味が分からなかった。
 言葉を額面通りに受け取るならば、それはつまり、
「僕をスカウトしてるの?おじさん」
 男は舌をちちちと鳴らしながら、節くれ立った人差し指をゆっくりと振る。
「それはある一面において正解だが、ある一面においては全く意味が違う。そう、顧みれば私の言い回しもいささか紛らわしかったようだ。私はきみの物語を、今から撮らせてもらいたいのではなく」
 その指先をくるりと一回転させ、ぱちんと鳴らす。
 すると、かたかたと映写機が回る音と同時に、スクリーンが再び白い光に満たされた。
 そこに鮮やかに映し出されたのは――
「ミ…ミロ……」
 僕は息を呑んで立ち上がり、ふらふらとスクリーンに歩み寄ろうとしたが、針金男の手が僕の肩を掴んで止めた。
「なんで、なんで、ミロが……僕まで……映ってる……なんで」
 ミロというのは、先月死んでしまった、僕が幼稚園の頃からずっと一緒に暮らしていた猫だ。
 ふわふわでまん丸くて、なんだかいつもとろくさい雄のペルシャ猫。
 掌に乗るくらい小さかった子猫の頃から、まるで兄弟のように一緒だった。おそろしくおっとりした性格をしていたので、余所の雄猫と喧嘩しても、一度も勝ったためしなかった。だからそのふわふわの毛はいつもそこはかとなく汚れていて、体のあちこちに細かな傷をこしらえていた。
 でも、とても穏やかで、もの静かで優しい子で、しかも人の心をよく読んだ。
 僕が母に叱られて泣いていると、そっと側に寄ってきて、涙に濡れた頬をぺろりと舐めて、声になるかならないかのような本当に小さな声で、一声だけ鳴いた。
 反対に、僕が母に我が侭を言って困らせているときは、普段の鈍重さからは想像も出来ない颯爽とした態度で足下に寄ってきて、僕をたしなめるように長く長く鳴いた。
 兄弟だった僕らは、この先もずっとずっと、一緒に暮らしていけると思っていた。
 いつかお別れが来るのはわかってはいたけど、それはずっとずっと先のことだと、無根拠に信じ切っていた。
 その彼が、近所の馬鹿な高校生の乗るやかましいスクーターにはねられて死んでから、まだ二週間ほどしか経っていない。
 彼の薄汚れたもくもくの毛で覆われた屍は、破れてうち捨てられたぬいぐるみか枕のように道路に転がり――何故か、飛び散った毛の塊だけが、空を流れる雲か羽毛布団の中身のように白くてきれいだった。
 その、大好きだったミロと僕が、じゃれて転がり回る様子が、僕の目の前のスクリーンには映し出されていたのだ。
「きみとミロの物語は、私の心を強く揺り動かした」
 針金男は、先ほどの戯けた口調とは打って変わって、厳かに言う。
「だから、私はきみをここに招いたのだ。ここは、多くの優しく美しい、あるいは激しく儚い心の持ち主たちの、小さくも輝かしい思い出の数々をフィルムの中に閉じこめた、世界にたった一つだけの映画館なのです。ここで上映される映画は、人々のまぎれもない現実の記憶そのもの。この美しい映画コレクションの中に、是非きみとミロの話を加えたいのです」
 銀幕の中でミロが、声になるかならないかのような本当に小さな声で、一声だけ鳴く。
「加えて、どうするの」
 僕は、忘れもしないミロの賢く澄んだ瞳に見入ったまま、訊ねた。
 男は恭しく僕の傍らに跪くと、
「この映画館で、永遠に保存されます。きみのように美しい、素直で感受性に満ちあふれた観客が訪れたときのみ、上映されるのです」
「永遠に……」
 それはなんて甘美な響き。ここに来れば、僕の大好きだったミロの姿に出会うことができるのだろうか。
「その映画は僕も、観ることができるの?」
「勿論」
 男は力強く頷く。
「私に、きみの美しい記憶のカケラを――きみとミロの物語を、くれるね?」
 また、スクリーンのミロが鳴いた。小学一年生の僕の足下で、長く、長く。
 さしのべられた針金男の手を、僕は握りしめようとした――のだが。

「やめた方がいいよ。思い出なんてものは、自分の奥に大事にしまっておくから美しいんです。無駄に人目や空気に晒せば、風化や劣化は免れないよ」
 その声を聞いて、僕は銀のスプーンで同じく銀の皿を叩いた音をイメージした。
 どこから現れたのか、僕と針金男の前に、真っ黒でつややかな髪をヘルメットのように綺麗に切りそろえた、猫のような目と顔つきの、美しい男の子が立っている。年の頃は、僕と同じくらいかそれ以上か――それとももっと計り知れない年月を生きてきたかのような、不可思議な雰囲気をまとっていた。
 彼は、どうかするとミロに似ていなくもない穏やかな猫目を細めて、針金男にも負けないほど丁寧に深々と、頭を下げた。
「はじめてお目にかかります。僕の名は思議という。『不可思議』から『不可』を取り除けば、僕の名前になります。生者と死者の間に生まれた禁忌の一族、『思(シ)の民』の一員だ」
「『思の民』…だと?そうか、貴様、『ミッドランダーズ』の者か……!」
 針金男の目が、真っ赤に見開かれる。そして、先ほどまでのべた凪の海のような穏やかな声とは全く異なる、嗄れた刺々しい声で言う。
「何をしに来た?私は、貴様らに目をつけられるような事はした覚えはないぞ」
「その呼び名で呼ばれるのは、これで5回目ですね。特に感想はないけど」
 思議と名乗る少年は、滑るような不思議な足取りで針金男に接近した。
「目を付けるかどうか、いちいちあなたにことわる道理はありませんが、一応説明して差し上げましょう。あなた、この映画館を模した結界に、人の記憶を奪って閉じこめているよね?」
 僕は、はっとして針金男を見た。
 先ほどまで僕の魂を揺さぶり、心底からの涙や笑いを引き出した数々の物語は、誰かの頭の中にある本物の記憶、思い出だったというのか。だから、あれほどリアルで、飾り気が無くて、でも心の琴線に触れる何かを持っていたのか。
 針金男の目には、僕はもう映っていなかった。
 真っ赤な血が噴き出しそうなほど充血した眼は、思議の美しい相貌を突き刺すように見つめている。
 思議はその憎悪の視線を少しもひるまずに受け止めながら、歌うように続けた。
「どういう目的で、そんなことをしているのかは知りません。だけれど、人の記憶というものは、間違いなくその魂を構成する大切なパーツの一つ。しかも、その人間の最も深い部分に横たわる記憶となれば、尚更です。それを丸ごとごっそり切り取られたら、その魂は間違いなく崩壊する。もし、その時点で運良く崩壊しなくても、人間としては壊れてしまうし、死後は間違いなく転生不可能になります」
 そして、人差し指を男の鼻先に突きつける。
「我々の仕事は、現世と冥界の魂の個体数調整。転生できない魂の増加は、六道輪廻のバランスを壊す。よってその原因を作り出すあなたは、我々の的ということになります」
「敵ならどうするというのだ」
 針金男の口角が、偃月刀の切っ先のごとくつり上がる。
 思議は肩をすくめて、
「神世の昔から、敵と味方は殺し合うのが一般的な流れではないかな」
「そいつは真理だ!」
 針金男の口が、顔の三倍ほどの大きさにがばっと開かれた。
 その口の中から、蚯蚓の大群か莫大な量の麺類のように見える塊が、思議の頭上にぶちまけられた。
 よく見ると、その蚯蚓もどきは、一本一本が小さな人の手や足や胴体が、複雑に寄り合わされで出来ている――僕は吐き気を覚えて、その場に突っ伏した。
 人体蚯蚓の奔流は、ものの数秒で思議の姿を覆い隠す。
 針金男はさも嬉しそうに、
「ここは、奪った記憶で構築した俺の結界だ。その中にのこのこ一人で乗り込んでくるとは、シギだかサギだか知らないが、ミッドランダーズとやらも大して賢くはないようだ。妖物どもが何故にこのような馬鹿者を怖れるのか」
 そして、僕の方を一瞥し、
「貴様の記憶は後でゆっくりいただく。まずは、この愚か者の記憶を全て奪い尽くして、ただの抜け殻にしてくれるわ」
 蚯蚓の山に手をずぶりと差し入れる。
 そうして、ざぶざぶと掻きまぜるように細長い腕を回した。
「おお、見つけた」
 どうやら、目的であるところの『記憶』を思議から吸い取っているのか、彼はしばらく恍惚して喉を鳴らしなつつ、体を揺らしていたが、不意にその表情が凍り付いた。
「な…なんだ、この記憶は……」
 小刻みに、その全身が震え始める。
「こんな記憶、こんな記憶しかないのか……ミッドランダーズというのは、そんな者どもなのか……」
 絶望的な呟きを洩らしつつ、その場にへたり込む。
 人体蚯蚓群の中から、思議のものと思われる白い手が生え出た。
「そんな者ども、とは失敬な」
 肢体のミニチュアを器用にかき分けながら、思議はゆっくりと全身を現す。
「あなたが見た記憶は、思案兄さんがあらかじめ僕に『書き込んで』くれておいたダミーの記憶ですよ。思案兄さんたら、一体どんな記憶を仕込んだんだか。もっとも」
 そして、がくがくと戦き続ける針金男の額に、ぴたりと掌を当てる。
「僕個人の記憶も、あなたごときに吸い取れるような生半可なモノではないですけれどね――おや」
 その口元に、うっすらと非人間的な笑みがうかぶ。
「なんだ。まだ思案兄さんの書いた記憶、大半残ってるじゃないか」
 猫ようなの双眸が、黄金色にぎらりと輝いた。
「遠慮はいらん――全部食え」
 ガラスをひっかく音にも似た針金男の絶叫が、映画館を揺らした。
 数秒の間、男の全身が激しく痙攣する。やがて、その眼窩や鼻や耳の穴から、どす黒いどろどろの液体を噴き出し、その場に倒れ込み――そのまま動かなくなった。
「やれやれ。なんか、今回は自分で仕事した気がしませんね」
 思議は、ふうっと小さく溜息をつく。
 そうして、僕に向き直り、
「さあ、出るよこんなところ。あるじが死んでしまったから、もうすくここは崩壊する」
 僕は、胸焼けをこらえながら、
「ここが崩壊してしまったら……あの、綺麗な映画たちはどうなるの?」
「映画?」
 思議は一瞬だけ首を傾げたが、すぐに僕の言う意味に思い至ったらしく、
「ああ、奪われた記憶ですね。可哀相だけれど、もうこの結界の中にきつく縫い止められているから、結界が消えるのと当時に消滅する。仮に結界から解放することができても、元の持ち主に返す方法はない」
「そうなんだ……」
 あんなに美しい、恋や、友情や、世界の果ての風景――人の心の最奥に深く深く刻まれた、大切な思い出の数々。それがこんな風に永遠に失われてしまうなんて。
 あの針金男が欲しがった、僕とミロの記憶。
 もし、それが奪われしまったとしたら、きっと僕は――僕ではなくなる。
 思議と針金男の会話はよく理解できかったけれど、一番大切な思い出を奪われるということがいかに恐ろしいことか、何となくわかる気がした。
 それでも――ここに映画として保存されている間は、少なくともその思い出は美しいまま――針金男の言葉を借りるならば――永遠に輝き続けるのだ。
「この結界を、残す方法はないんですか?」
 思議は、きょとんとして僕を見た。
 やがて、僕が何を言わんとしているかを悟ったらしく、切なげに眼を細めた。
「ないことは、ないですね」
「本当ですか?一体、どうすれば」
 思議は僕の頬をそっと撫でると、
「きみが見た思い出たちを、きみの思い出にしてしまうこと」
「え……」
 僕は、彼の言う意味がわからず、彼の白い顔をまじまじと見つめた。
 彼は、ほんのわずかに口元をほころばせて、
「この結界そのものを残すことは、できません。だけど、きみがその思い出たちに触れて、たしかにその心に何かが刻まれたのなら、それはもう、きみの思い出だ。妖物に魅入られてこんな空間に入り込んでしまったのは災難だったけれど、それもまた、現実にきみが経験した記憶の一つです。忘れなければ、それは失われたことにはならない。詭弁だけど、間違いじゃない――なんて、これは僕の兄の受け売りですけどね」
 僕は、ほんの今し方まで、眼前で繰り広がれれていた、激しく、熱く、あるいは優しく穏やかに生きた人々の、胸を打つ幾多の物語を思い浮かべた。
「忘れません。僕が、あの沢山の記憶を引き継ぎます。決して失われることのないように、大切に。僕が生きている限り」

 記憶を集めたがる妖物に捕まりかけた、無垢でいたいけな少年を現世に送り返した後。
 思議は崩壊を始める結界の中に戻り、一人でスクリーンの前に座っていた。
 映写機が回る。
 誰かにとって大切な、愛し愛された記憶、傷つけ傷つけられた記憶、癒し癒された記憶――数限りない物語が、今一度上映されていた。
「もうすぐ結界が解けるというのに――何を遊んでいる。こんな無駄な時間を与えるために、おまえに手を貸したのではないぞ」
 思議の兄思案が、彼の背後にすいと姿を現す。思議と瓜二つの白く端正な面差しは、苛立たしげに曇っている。
 思議は、銀幕に見入ったまま、静かに答えた。
「……嘘つきに、なってしまいますから」
「何を言っているのかわからんが、この結界はもうすぐ消える。もし脱出し損ねて一緒に消滅するような間抜けなことになれば、俺は永遠におまえを許さんぞ」
「そんなことは、しない。けれど、この結界を、このまま消すわけにはいかないのです」
 思議は、あの少年に言った。
 彼がこの結界で見た物語を忘れなければ、その記憶は失われたことにはならないと。
 だがしかし、妖物に触れた人間の記憶を、そのままにして現世に帰すことはできない。
 もしそのままにして帰せば、その記憶そのものがまた別の妖物を呼び寄せ――その身を危険にさらすことになるのだ。
 あの少年が見て、その胸に刻んだ記憶。
 それが完全な無にしてしまわないためには、誰かがその出来事を憶えていなくては。
「その役を、おまえがやるというわけか」
 思案は、苛立たしげにかぶりを振る。
 思議は、彼の方を振り向きもせず、
「詭弁だけど、間違いにはしたくない。好きにさせてください」
 思案は、束の間、眼を細めて彼を見下ろしていたが、
「わかった。好きにするがいい。だが、俺がさっき言ったことを忘れるな」
 そして、彼の姿は、映画館の空気の中に溶けいるように、すいと消えた。
 思議は、変わらずスクリーンに見入っている。
 少しずつ歪み、ほころんでいく映画館の輪郭の中で、彼はどこの誰とも知らない人物の、何十年連れ添った妻との永遠の別れを眺め続けていた。 
 

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