虚の船
〜ミッドランダーズC〜


 わたしは、石鹸水のような靄にうっすらと覆われた甲板の上を、ゆっくりと見回した。
 この船の甲板は、こんなにも広くて大きくて立派だったろうか。
 わたしが兄と一緒に乗り込んだときは、もっとこぢんまりしていて、むしろ窮屈だったような気がするのに。
 そういえば、わたしはこの船に、兄と二人きりで乗り込んだはずだった。
 なのに今、わたしたちの周り、甲板の手すりの前やどこかしこに、老若男女を問わず、多くの人影がくつろいだ様子で立ったりしゃがんだりベンチに腰掛けたりしている。
 わたしは思わず、知った顔でもいないかと探してみるが、どうやらわたしの記憶の糸に触れる顔は、一つとして見あたらなかった。
 と、いうより。
 ここにいる人々の顔は、わたしが目を凝らそうとすると何故か奇妙にゆらめいて、少しもその形がわたしの脳裏に入ってこないのだ。
 わたしは、安堵と諦めの入り交じった溜息をつくと、隣にいる兄の、彫りが深いが線は軟らかい、穏やかな横顔を見上げた。
 別に、ここがどこであろうと、周りに誰がいようと、知ったことではない。
 例えばこの大勢の船客が、人ならざるものであったとしても。
 ただわたしと兄が、二人でこうして遠くへ旅するのを邪魔さえされなければ。
 そもそも、二人で乗り込んだこの船が、一体どこへ行くのか――それすら、わからないのだ。
 ただ、鉛色の海の彼方の水平線には、東西南北どこを見ても陸らしき輪郭は少しも見えない。ただ、淡くしっとりとした靄がひたすら優しく海面を覆い尽くし、その中をたゆたうように、ゆっくりと船は進んでいく。
 別にこのまま、どこにも着かなくてもいい。
 わたしと兄が望むのは、ただ二人だけで、世界から放置されること。
 もう二度と、誰にも邪魔されたくない。わたしたちがこう在ることを拒む世界になど、戻りたくはない。

 別に、わたしたちが望んで、兄妹に生まれてきたわけじゃない。
 だけど小さいときからずっと側にいて、離れると自分が自分でいられなくて、もうこの先ずっと離れたくなくて――わたしたち二人とも、そんな風に同じコトを考えていたから、そんな風にしか考えられなかったから、ずっとそうしようと約束した――ただ、それだけだったのに。
 家族も、友人たちも、わたしたち二人を放っておいてはくれなかった。
 だから――いいのだ。
 わたしたちは、わたしたちが住んでいた、わたしたちを知る人ばかりのあの場所から離れることが出来れば、どこに連れて行かれようと、どこに閉じこめられようと、あるいはどこで抹殺されようと――願うのはただひとつ、二人がずっと側にいること。

「あなたがた二人に、ご相談がある」
 不意に、この船の乗って初めて、声をかけられた。
 わたしと兄が驚き振りむくと、そこには、髪をかむろに切りそろえた、華奢で美しい少年が立っていた。
 少年は、わたしと兄の名を確認するように呼んで、にっこりと微笑む。
 その笑顔は、蝋燭のような白い肌に、血のように赤い唇が映えて、なんだか人間離れした妖しい雰囲気を醸し出していて――それでいてどこか儚げで、優しげだった。
「ぼくの名前は、思議といいます。あの世とこの世の間の、魂のやり取りがスムーズに行われるよう、整理や 調整を行うのが、ぼくの仕事なんだ。わかってくれますか?」
「何の用?わたしは、お兄ちゃんと二人で、このままほっといてほしいだけ。あなたの仕事なんか、知らないわ。あっちに行ってよ」
 あの世とこの世の魂の――と聞いて、嫌な予感がした。
 まさかこの少年は、わたしと兄を元の世界に連れ戻す気なのか。
 思議と名乗る少年は、形のいい眉を少ししかめて、
「今あなたがたがいるこの場所が、一体どこなのかは、理解している?」
 わたしと兄は、顔を見合わせて首を振る。
 思議は肩をすくめて、
「そんなことも見えないほど、あなたがたはお互いしか見てないんですね。まあ、少し羨ましくはあるが――ここはね、所謂三途の川と人間世界で呼ばれている場所です。まあ、川に見えるのは生前に得た死後の世界のイメージが純粋に視覚化されて人間の魂魄の内側に投影されているだけで、実際のところは……」
 きょとんとしているわたしたちを交互に見て、思議は嘆息する。
「いや、こんなことを説明しても意味がないですね。ともかく、あなたがたはこの巨大な船に乗って、所謂冥界に向かおうとしている。そのことは、わかりますね?」
「……なんとなく」
「あなたがたは、一艘の小さな船に乗って、この川に漕ぎ出した。それは憶えていますか?」
 頷くわたしたち二人。
 やはりわたしの記憶は、間違っていなかったのか。
 思議は少し安心したように相槌を打つ。
「うん。でも、今はこの船はこんなにも大きくなってしまった。おまけに、乗客までこんなに増えてます。何故だかわかる?」
 わかるわけがない。
 かぶりを振るしかないわたしたちに、思議はまた困ったような視線を向ける。
「あなたがたの思いは――あまりにも強くて、純粋で。この川で彷徨っている亡者の群れが、苦し紛れに絡みついて。それが雪だるま式に膨れあがって――こんなにも、大きなものに成長してしまったのです。苦痛から少しでも逃れようと、彼らはしがみつき合い、結びつき、ついには溶け合って、形ある妄念の塊になってしまいました。このまま彼岸にたどり着いても、彼らはまともな輪廻に加わることはできない。冥界のエネルギーバランスを破壊する、困った存在になり果ててしまったのです」
「それと、わたしたちに何の関係が?」
 おそるおそる尋ねてみる。
 わたしたちの気持ちが、この巨大な船を生み、それがあの世に仇なすというのなら――何を請われるのか、ある程度予測はつく。
 思議は悲しそうに目を細めて、
「この船を、降りてもらいたい。この船は、彼岸に辿り着く前に壊してしまわなければなりません」
「降りたら――わたしたちは、どうなるの?」
「降りて、この川の流れに身を委ねても、彼岸には辿り着けます。今のようにのんびり落ち着いてはいられないかも知れませんが、あの世に行けなくなるわけじゃない」
「わたしとお兄ちゃんは――一緒にいられるの?」
 わたしは、兄の手に指を絡め合わせた。兄の骨張った細長い指が、それに応える。
 思議は、残念そうに首を振り、
「その保証は、ありません。冥界には確実に辿り着けますが、この流れの中で二人のつながりが解けないことは難しいし、流れつく時間軸もばらばらになる可能性の方が高い」
 ならば答えは、決まっている。
 わたしと兄は身を寄せ合い、手すりに強くしがみついた。
 思議はまた溜息をついて、
「さて、どうしたものでしょうかね。こうなることは分かってはいたんだがな……」
「何をもたもたしている」
 刺々しい声と共にもう一人、人影が宙から舞い降りる。
 思議と全く同じ姿形をした、人外のものとしか思えぬ空気をまとった少年。
 だが思議と違い、眼光は剃刀のように鋭い。容姿はこんなにも瓜二つであるにも関わらず、それだけで彼らは全く似ても似つかぬ他人のように思えた。
「ああ、もう来たんですか、思案兄さん」
 思議の声は微かに震えている。
「本当にせっかちなんだから。今、説得しているところですよ」
「そんな暇がどこにある。こうしている間にも、この船は亡者を纏い付けて膨張しているぞ」
 どうやら、思案と呼ばれたこの少年は、思議の兄らしい。容貌から考えれば、双子の兄弟なのだろうが―― わたしと兄のような信頼関係は、あまり感じられない。
「だから、急いで言い聞かせているところなんだけど」
「だから、そんな悠長なことをしているな、と言っている」
 思案は一切の反論を許さぬ様子だ。
「おまえがいつも妖物にやるように、『読んで』、壊せ。普通にやれば5秒で終わる」
「だから、それだとこの人たちが困るじゃないですか……こういうことは、納得してもらわないと、後々……」
 不意に、わたしたちの足下が揺れた。
 甲板がぐにゃりと歪む。
 まるで生き物のように激しく蠢動しながら、形を変化させはじめた。
 そして、船体のあちこちから、巨大な蛇か蛸の触手のような長く太い物体が突き生え、思議と思案の頭上に襲いかかる。
「おまえがぐずぐずしているからだ。責任をとっておまえが片づけろ」
 思案が冷たく言い放つ。
 思議はわたしたち二人に寂しげな一瞥を投げると、素早く、しかし厳かに一礼した。
「ごめんなさい。緊急事態だ。許してくれとはいわないけれど――好きでこんなことしてるわけじゃないのだけは分かって下さい」
 そして、脈動する甲板に掌を向ける。彼の目に、何かを悟ったような表情が宿る。
 どうやらこれが『読んだ』ということなのだろうか。
 その次の瞬間、彼の両手の指はワイヤーか何かのようにぶわんと伸長し――船体のあちらこちらに食い込んだ。
「溶け合ってるから、綺麗な継ぎ目が読み取れない。痛くするけど悪く思わないで下さい」
 指が――大きくしなって空気を裂く。
 同時に、この巨大な船は奇妙な白濁した液体を噴出しながら、幾千もの肉片になって飛び散った。
 わたしと兄は、宙に投げ出されて、そのまま澱んだ水面に呑み込まれる。
 船上からの眺めに反して、川の流れはおそろしく激しかった。
 わたしと兄は強く強く互いの手を握りしめていたが――疲労を感じて一瞬だけ気が緩んだその刹那、指がほどけ、引きはがされた。
 どうして。どうして。
 わたしは、泣きながら水中でもがき、叫んだ。
 ただ、二人で一緒にいたかっただけなのに。一緒に生きられないのなら、一緒に死にたかっただけなのに。
 あの世で一緒になろうだなんて、何億回使い古された言葉でも、やっぱり馬鹿馬鹿しくても信じたくって――自分を騙して、無理矢理信じて、信じて、しがみついていたかっただけなのに。
(お兄ちゃん)
 愛しく、狂おしくほとばしる、その叫びの先に、兄はいた。
 兄は、わたしの恐怖で引きつり歪みきった顔を見ながら、それでも、微笑んでいた。
 一緒に隠れてくっつきあっていた、あの幼いときと少しも変わらない、あの笑顔、あの笑窪。
(な……え……)
 兄は、かすれた声で、愛しげにわたしの名を呼んだ。
 こんなときに、なんで笑っていられるの。
 わたしは、また叫びそうになったが、ふと彼の気持ちを理解し、口をつぐんだ。
 そうか、こんなときだからか。
 離ればなれになるのなら、せめて相手の胸には一番いい顔を覚えて、刻んでいて欲しい――こんなときですら――こんなときだからこそ。
 なんてきれい事。なんて嘘っぱち。昔からわたしは、そんな兄の優しい嘘が大好きで――
 わたしは、最後の力を振り絞って、にっこりと満面に笑みをうかべた。
 ああ、わたしも嘘つきだ。薄れる意識の中で呟く。
 わたしはやっぱり、お兄ちゃんの妹だね。
 ずっと一緒にいようなんて。
 それもやっぱり、嘘になっちゃったね。わたしたちは、嘘つきの兄妹だね――いつまでも、いつまでも。

 三途の川の鈍色の水面の上で、思議は物憂げに佇んでいた。
 その傍らに、ゆっくりと思案が近づいてゆく。
「少しまどろっこしくはあったが、上出来だ」
 思案は、褒め言葉とは思えぬ抑揚のない声で言う。
「仕事は終わりだ。さっさと帰るぞ」
 思議は、答えない。ただ、気むずかしい顔をして、水面を凝視し続けている。
 思案は苛々と彼の肩を掴んで、
「また、余計な感傷に浸っているのか」
「そういうわけではありません――いや、そういうわけか」
 思議はかぶりを振る。
「あの子たちは、別に兄妹だから愛し合ったわけではない。愛し合った相手が、たまたま血のつながった相手だっただけです。そのように選んで、生まれてきたわけでも死んだわけでもないのに、死んだ後まで無理矢理引きはがされないといけないとは、なんと酷い話かと」
「別に俺たちも、あの子らが酷いから追い打ちをかけたわけではない」
 思案の声は揺るぎない。
「亡者どもも、あの子らがああいう境遇だから群がったわけではないし、不成仏が群がりたがるのも、別に本人達がそういう風になりたいと願った結果ではない」
「そんなことは分かっていますよ」
 思議は、思案の手を振り払った。
「そもそも、ぼくたちがこんな風な仕事をしているのも、別にそうなりたくてなったわけではないし――因果律とは、そうした性質のものではない。そんなことは分かっているんです。それでも、ただ手を携えて逝きたいと願うことすら許されないとなると、ヒトの魂とは、何のためにあのようなカタチをしているのだろうと。何故に、そのような姿に作られたのかと。そんな風に、思っただけです」
「ただ、手を携えていたい、か」
 思案の目が、ほんの少しだけほころぶ。
 彼にはとても珍しい、ほんのわずかではあるが穏やかで優しい光が瞳に宿る。
「たしかに、そのくらいは許されてよかろう。と、いうより」
 彼は、ゆっくりと水平線の彼方を指さした。
「もう、許されている」
 思議は、訝しげな顔で、その先にのろのろと視線を送る――そして、その口元に、ゆっくりと笑みが広がった。
「思案兄さん……あなたは」
 川面を流れてゆく、二つの人影。
 激流に揉まれて姿はぼろぼろだが、先ほどの兄妹に間違いがない。
 その手はがっしりと互いに握りしめられ――その手首は、青白く輝く奇妙なひも状のもので結びつけられていた。
「『書いた』――のですか。二人の間に、死しても消えぬ、絆を。決して離れない、二人を離ればなれにしない、命綱を」
 思議が『読む』という概念に寄生して自分の存在を保ち、それにちなんだ力を用いるのと同じように、思案は『書く』という概念をその身に宿している。彼は分断されようとする二人の間に、一本の切れない線を『書いた』のだ。
 思議は笑みをうかべたまま、思案を振り返る。
「兄さんにしては、粋な計らいじゃないですか。どういう風の吹き回し?」
「さっき言ったとおりのこと。許されてもいい程度のことなら、手助けしてやろうと思っただけのことだ。おまえが仕事をし終えるまでの間の手慰みにすぎん。それに、ああして流れる間つながっていたからといって、別に冥界に到着した後も共にいられるわけではないし、輪廻の際には必ず分かたれる。ただの気休めだ」
 思案の目は、冷徹にして無表情ないつもの様子に戻っていた。
「くだらん。いつまでもぼーっと眺めているのではない。帰るぞ」
「了解しました」
 二人は、三途の川の上空に、風のように軽やかに舞い上がっていった。

 わたしは、兄ともう一度指を絡め合わせた。
 兄は微笑んだ。わたしも微笑んだ。
 わたしたちに出来ることは、ただほんのわずかでも、この瞬間が長く続くこと。
 ヒトの魂は何故だか――静謐で幸福な時間が、永遠に続きますようにと、願わずにいられないようにできている。
 だからわたしたちは、ただ願い続ける。そして、それが実現可能な真実であると、自分にすら嘘をつきつづけるのだ。
 ああ、わたしたちは嘘つきだ――わたしたちは、やっぱり兄妹なんだなあ、と。
 わたしは、思議という少年の悲しげな瞳を思い出しながら、呟いていた。

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