サトリ
〜ミッドランダーズB〜


 小さい頃に読んだり観たりしたSF漫画やらアニメやら映画やらに、よく「エスパー」と呼ばれる人々が登場して、未来を予知したり人の心の中を読み取ったりして、活躍したり薄気味悪がられて嫌われたりしていたのを、よく憶えているが――もし、そういう人間が実際にいるとしたら、俺のような人間のことかも知れないと思う。
 そう、俺には人の心の中が分かる。
 今、俺の肩に体重を預け、目を閉じて物欲しそうに唇を微かに開いている女の胸の内も、手に取るように把握している。
 厳密に言えば、「心の中」なぞ見えはしないし読み取れもしない。
 が、俺には彼女の心臓の鼓動、脈拍、体温の変動、呼吸音、発汗量――様々な局面での人体内外の微細な変化を、全て肌で感じ取ることができる。
 所詮、人間の感情など体内の化学物質の移動とそれに対する反応で形作られているものである。それらの全てを正確に観察し読解することができれば、その相手の心の動きを全て支配することも可能だ。
 今、彼女は俺に抱かれたがっている。
 その一方で、自分の肉体についてのいくつかのコンプレックスのため、俺に抱かれることに恐怖を感じているが――不安とか恐れとかいう人間の意識の深部に根を下ろした負の感情は、時と場合によっては欲望をより昂進させる役割も果たす。そんな感情を全て溶けてなくなってしまうほどに激しく、滅茶苦茶に壊されるほどの情事を彼女は欲していた。
 ちなみに、そのコンプレックスの起源についても、俺は概ね知っている。
 この間まで一緒だった同棲相手から、別れ話がこじれて大げんかになった際、暴力を振るわれながらさんざんベッドのときの癖から些細な肉体的欠点をなじられたのだ。
 この女と知り合ってから、こうしてホテルの一室に落ち着くまで、たかだか3時間。
 相手がリラックスできる状態に会話を誘導し、些細な質問を重ねてその都度真偽を『感触』で確かめながら更に一段階深い問いを繰り返す。
 その積み重ねだけで、これだけの情報が得られるのだから――人間とはなんとわかりやすい生き物なのか。
 俺が普通の男なら、この能力を使って女遊びに邁進するところなのだろうが――俺の趣味は少々特殊だ。
 女が、よりぴったりと俺に体を寄せてくる。
 甘い雌猫の声で、ベッドに俺を誘う。
 気の毒だが、俺は彼女の体になぞ何の関心もなかった。
 俺が犯し、しゃぶり貪りたいのは、彼女の『心』。
 我知らず、口元に笑みが浮かぶ。
 全身全霊を俺に委ねて、甘いささやきを求める彼女の耳朶に、俺は――この短時間で知り得た彼女の傷の全てをぐちゃぐちゃに抉る、邪悪な言葉の塊を注ぎ込んだ。

 ベッドに横たわる女は、ひとしきり絶叫した後、激怒も号泣も慟哭も凌駕した感情の噴出を起こした。無防備な状態で、このように存在の根幹を揺るがすような悪意に晒された場合、人間はむしろ静かで無表情になる。
 それなりに整って愛嬌のある顔で、美しいと言えないこともない女だったが、彼女の顔は今や蝋のごとく生気なく真っ白に、凍り付いていた。
 外面は静かでも、その体内では壮絶な感情の奔流が血液や体液に乗って荒れ狂う。皮膚温が超高速エレベーターで昇降するかのごとく上下する。
 その波動を余すことなく全身で感じて、俺は――何度も射精した。
 ヒトの心が壊れる過程で放出される、肉体全てが軋む声にならない叫び。
 これこそが、俺にとって何より性的興奮をもたらすのだ。
 他の誰も味わえないであろう、歪にして爛れたエクスタシー。
 それを求めて、俺は毎日夜の街を彷徨うのだった。
 いい音を立てて壊れてくれればいいのだから、性別も年齢も問わない。
 俺の、計算しつくした心にもない誘いにさえ乗ってくれる馬鹿な獲物は、この街には事欠かない。
 俺しか知らない、秘密の快楽だ。

「楽しいですか?ヒトのココロを壊すのは」
 女を一人部屋に残してホテルから出た俺の背後で、いきなり声がした。
 驚いたのは言うまでもない。
 ほんのさっきまで、俺の周辺、半径5メートル以内にはいかなる生命の波動も感じられなかったのだから。
 俺は、動悸を押さえようと努めながら、ゆっくり振り向いた。
 そこには、小柄で華奢な体格の、はっきり言えばこんなホテル街なんぞにこんな時間にいるのは不自然きわまりない年頃の子どもが立っていた。
 とはいえ。
 一体この子の年齢が具体的にいくつぐらいなのか、さっぱり見当がつかない。
 顔の作りや体格からは、小学校高学年から中学生くらいに思えるが、妙に古めかしい雰囲気を全身にまといつけていて――何より、目の奥にちらちら見える不穏な輝きは、絶対数多の時を経て膨大な知恵を身につけた老哲学者のように、深く揺るぎなく得体が知れない。
 その肌の色は、先ほど俺が犯してきた女よりもずっと蒼白で、髪型はなぜかおかっぱなので、昔親戚の家で見た童子姿の人形のようだった。顔つきといい体型といい声といい、全てが中性的なので、少年なのか少女なのかも分からない。
 俺の戸惑いが面白かったらしく、その子どもはにんまり笑う。
「ああ、波動が感じられないんでびっくりしてるのか。それは仕方ないです、僕は世間一般に言われている意味では、『生きて』はいないんですから。生命の鼓動なんて、生まれたときから持ってない」
 俺は、ごくりと喉を鳴らした。
「何者だ、おまえ」
 彼――『僕』と自分のことを言っているので、便宜上こう呼ぶことにする――は、馬鹿丁寧にお辞儀して、
「僕は、思議といいます。生者と死者の間に生まれたので、両方の世界を行ったり来たりする仕事をしている。最近仕事中のおしゃべりが過ぎると兄にも叱られるので、手短に用件を述べますね。あなた、今の遊び、もう止めてくれませんか?」
 心臓の音が、自分でも聞こえるほど高鳴る。
「おまえ…俺のやってることを知ってるのか」
 このガキが何を言っているのか知らない。現に目の前で生きて動いているにもかかわらず何故、心の波動、生命の徴が感じられないのかも、全く分からない。
 だが、この少年が俺の能力とこの密かな遊びのことを知っているとなれば、やはり心穏やかではない。俺自身は格別、殺人とか窃盗とか、目に見える形での犯罪を行っているわけではないので、こいつが警察に行って何かを訴えたところで、何も都合の悪いことはないはずなのだが――にもかかわらず、俺の体内ではアドレナリンが荒れ狂い、この相手が危険だと告げている。
「知ってますとも。ああ、あなた、自分がヒトのことを知るのはいいけど、自分が知られるのはイヤなんだ。いけませんね、そんな風にご都合主義に物事を考えるのは」
 思議は、やれやれとでも言いたげにかぶりを振る。
「ともかく、用件を伝えます。あなたが心を壊した後の人間が、どうなるか知ってます?全部が全部とはいいませんが、かなりの確率で、それから何日かの間に自殺しちゃってるんですよね。そりゃまあ、あんな風に心をすっかり開いちゃってるところに、むき出しの悪意を込めて全存在を否定される言葉をぶち込まれたら、まあそこから這いだして普通に生活するのはなかなかに至難の業だから。問題は、その後です。そうやって死んでしまう人の心、魂は壊れ傷みきっているから、死の衝撃で完全に粉砕されて、消滅してしまうんですよね。あなたが知ってるかどうかはわからないけど、死んだら人間はあの世に行って、その後また生まれ変わるように出来ているんです。死後の世界は、俗に言う天国とか地獄とか、いろいろ行き先はあるけど、トータルでの魂の数は基本的に変化してはならない。まあ、多少のことはともかく、もし魂そのものの個体数が大きく減少したり増加したりしすぎてしまえば、あの世とこの世のバランスが崩れてしまうんです。僕の仕事は、そういう個体数を狂わせるファクターを見つけたら速やかに取り除くこと。分かってくれる?」
 上目遣いに俺をじっと見据える。
 話は、途中から全く聞こえていなかった。
 このような不可解な存在が、俺の秘密を知っていて、その前に立ちはだかろうとしている。それだけで俺は、もうすっかりパニックを起こしていたのだった。
「ぐちゃぐちゃとうるせえ。死ねよ、ガキ」
 俺は彼にとびかかり、その首を必死で絞めた。
 こんな方法で、この存在が殺せるのか消せるのか、全く分からない。だがともかく、体の方が反応していた。この存在を消さないと、俺は生きていられない――
 俺が全力で喉を締め上げているのに、頸骨をへし折らんばかりに握りしめて、宙づりにしているのに――思議の表情は、全く変わらなかった。
「ふうん。デリケートな能力持ってるくせに、こんな野蛮なことするんですね」
 見下げ果てたといった風情で、冷ややかに俺を見下ろしている。
「まあ、小さい頃にはいろいろ辛い目にも遭ったらしいから、できることなら平和的に解決してあげたかったけど――これじゃ仕方ないか」
 そして、にい、と彼の唇の端がつり上がり、
『なによ、あんた、気持ち悪い。いつも人の顔色ばっかり伺ってるんじゃないわよ』
 その声と言葉は、俺の心臓を鷲掴みにした。
 俺は絶叫して、投げ捨てるように思議を放し、尻餅をついた。
 その声は――その言葉は。
 まぎれもなく、小さな頃、自分の力に戸惑う俺を見て母親が口にした、嫌悪の言葉だった。
 思議は、相変わらず俺に侮蔑の眼差しを向けながら、
『あなた、嫌い。いつも、自分は何もかもわかってるみたいな顔して、人を見下して。ものすごく偉そうで、いや。それに、わたしが知って欲しくないこといろんなことまで知ってて、気持ち悪い』
 今度は、俺の初恋の女の声だ。初めて、生まれて初めて全てを知りたい、そして知って欲しいと感じた相手に、そのどちらもを完全に否定された瞬間の、禍々しい記憶。
「怖いですか?ぼくが」
 今度は、先ほど前の思議の声だった。
「あなたが壊した相手たちも、同じほど怖かったことだろうね。ねえ、もう一度だけ聞きますが、こんな不毛で悪趣味な遊びは、もう止めてほらえませんか?僕、この世界にある全てのことを『読む』力を持っているんですよ。だから、あなたの過去を『読む』のも造作のないこと」
 止める止めないは、もはや関係がなかった。
 俺は心を殺される。俺はこの相手を殺さないと殺される。俺よりもずっとずっと恐ろしい力で全ての傷を暴かれて、トラウマを引きずり出されて殺される――
 俺は、無我夢中でたまたま地面に転がっていた石ころをひっつかみ、彼の頭上に打ち下ろす――
「駄目ですか。残念だ」
 思議の目は細められたが――その奥には、ほんの少しだけ憐れみの光が宿っていた――俺には気づく術もなかったが。
「破壊させていただきます。あなたの全てを」
 ぎゅん、と音にならない波動が、思議の全身から発せられた。
 今まで、様々な生き物の発する波動を感じ取ってきた俺には、その波動がどういうものか知っていた。
 殺意。憎悪。
 それも生半可なレベルではなく、絶対にその対象がこの世に存在することを許さないほどの。
 死ね。殺す。消えろ。死ね。殺す。殺。死。滅。消。殺殺――
 地獄の業火のごとき暗い熱量と瘴気に満ちた、壮絶な全存在の否定。
 その、おそらくは人間何千人分にも相当するほどの強烈な悪意の渦は、俺の感覚を焼き尽くし、全神経と脳組織を瞬時に破壊した。

「仕事は終わったのか、思議」
 悪意に全身を焼かれて死んだ男を見下ろす思議の隣に、彼の双子の兄である思案が舞い降りる。
 思議は兄をちらりと見て、
「せっかちですね、兄さん。さっき終わったところだよ」
「また、くだらない感傷に浸っているのではないだろうな」
 思案は無表情に言う。
「何千回、それを止めろと言ったか、俺はもう記憶していない」
「それなら、言わない方がいいんじゃないですか。多分、この癖は永遠に直らない。それだけの回数言っても直ってないんだから」
「偉そうに言えることか。とりあえず、今回は何を気に病んでいるのか報告だけはしろ」
「僕たちは、何かの概念に寄生しないと、この世に留まっていられない。それほどに存在そのものが無意味で希薄で薄弱です。そんなモノに全存在を否定されて殺されたこの男は、どこまで憐れなのか、と――」
 思案の表情は変わらない。
「今日の感傷はいつになく暗愚だな。咎人に憐れを催すなど」
「『読んで』、しまいましたからね、彼の全てを」
 思議は、寂しげな笑みをうかべる。
「彼が、こんな風に人を壊して遊ぶようになったのは、幾度もその力故に、その存在を否定されてきたから。そして、その死までもが、その傷の根源を抉られる形でもたらされたとなると、あまりに救いがないですよね」
「それでも、罪は罪、咎は咎、俺たちの仕事は仕事だ。やることは一つだ。いちいち迷っても何も変わらん」
 思案は無碍に言うと、
「帰るぞ」
 再び宙に舞い上がる。
「了解」
 思議も、溜息をつきながらも従う。
 思案は、その横顔に一瞬だけ視線を投げる。
「ならば、意味だけでも憶えていてやれ」
「意味?」
 思議は首を傾げる。
「たとえ邪悪でも、穢れていても、世界の理に反していても、なにがしかの『意味』はあったのだろう、一度はこの世に存在した以上。消されたことに憐れみを感じるのなら、とりあえず憶えていてやれ。そうすれば、全存在を否定したことにはならない。詭弁だが、間違いではない」
 珍しくよく喋る思案の顔を、思議は不思議そうに眺める。
 そして、小さく笑うと、
「そうだね」
 やはり、小さく頷いた。
 夜の闇の中に、二人の影は速やかに融けて消え失せた。

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