壁画
〜ミッドランダーズA〜


 あたしは壁になりたかった。
 いつも優しくただそこに在り、ただそびえてあたしたちを見守る壁。
 雨にも風にも炎にも脅かされることのない、不変で堅固で重厚な、一枚の壁。
 そんな漠然とした願望を抱きつつ、あたしは今日もその『壁』の前に立つ。

 学校から1キロほど離れたところにある廃ビルの裏にある、その壁面は、何故か他の壁と随分違っていた。
 その同じ建物にある他の壁には何もないのに、その壁だけには何故か派手な模様が描かれているのだ。
 人目につかないこんな場所だから、不良の溜まり場にもなりやすいし、そういった連中があちこちに落書きしたくなるのも自然なことだ――好ましくはないが。
 だが、他の壁には何もないのに――文字通りの落書き、公衆トイレのドアの裏あたりで見かけるような下品で陳腐でしかも妙に遠慮したような貧弱な筆致のものなら、そこそこ見かけるが――この壁だけに、こんなにも異様に手が込んで、しかも美しくて個性的で、ある意味の芸術性さえ感じられる絵が描かれているというのは――一体どういう理由によるものなのだろう。
 赤やオレンジ、濃いイエローを重ね塗りしつつ描かれた、複雑な幾何学模様。
 昔ものの本で見た記憶のある、魔法陣とかによく似ている気がする――あたしはそういった方面の知識に疎いので、なんとなく『気がする』程度のものであるけれど。
 そして、その文様を構成する線や円、角度の間に、青白かったりオレンジ色だったりする、人の顔がいくとも見え隠れしていた。
 見え隠れ、というのは、これまた人の顔なのかどうか、はっきりとした確証が持てないから。
 ムンクの『叫び』を連想させる、不思議な歪んだ楕円形の組み合わせ。
 しかしそれを、あたしはヒトのカオだと一方的に確信していた。
 このロールシャッハテストのような奇妙な円と滲みの集合体には、これまた奇妙なことだが、表情のようなものがあり――これは、これこそがムンクの『叫び』と決定的に違う部分ではあるのだけれど――とても穏やかで満ち足りた、幸福感あふれる静かな笑みをうかべているのである。
 あたしは考える。
 この絵を描いたヒトは、一体どんなヒトなんだろうと。
 こんなにも安らかな笑顔をたくさん描けるなんて――そう、ここに描かれている顔たちには、穏やかな笑みをうかべている以外、どれ一つとして同じものがないのだ――きっと、たくさんのヒトの幸せを眺めて、たくさんの優しさに触れてきたヒトなんだろうなあ、と。
 だったら、こんな人の目に触れない場所に落描きなんてしてないで、ちゃんとした絵描きさんになって、もっともっとたくさんのヒトにこの幸せを分けてあげればいいのに、と思う。
 夕日が射して、壁の赤やオレンジ色がより鮮やかに燃えるように染め上げられるのに見とれながら、あたしは壁にぴったりと頬っぺたと全身をくっつけた。
 肌に感じるひんやりした感触と、視界を覆う朱と橙の熱さのコントラストが、高いところから落下するときの眩暈にも似た、不思議な感覚をもたらす。
 ああ、この壁は、とあたしは考える。
 きっと、この絵が描かれる前からきっと、特別な力を持った魔法の壁だったのだ。
 だから、その優しさと力強さに惹かれて、安らぎを求める人たちの思いが、魂がここに集まり、宿り、こんな風に絵の中に違う世界を作り出したのだ。
 世界も、人の心も、うつろいゆき揺らぎ惑う、不安定で脆いものだ。
 だからこそ、『壁』のように広く大きく、不動で堅固な存在に自分を委ねてみたくなる――今の自分のように。
 このまま、壁の中に融け込み、一つになり、その一部となって、迷い続けるこの世界を、優しく見守ることができたら――

「いいよ」
 声がした。
 周囲には誰もおらず、人の気配もないのに。にも関わらず、あたしは少しも驚かなかった。
 それは、あたしの方こそが、いつかその言葉に出会えることを望んでいたから。
 その望み通り――
「いいよ、きみも、きなよ」
 その優しい、無機質なくせに艶っぽく聞こえる声は、壁の中から発せられていた。
 あたしは、体を離して、少しだけ壁から距離を置き、炎や氷の中で安逸をむさぼる顔たちを見つめる。
 その中の、やけに大きな楕円形の顔と、目があった。
「きみは、優しいね」
 顔は、口元をものやわらかにほころばせて、言った。
「いろいろ辛いことがあって、本当は自分の周囲の人間とか世の中を責めたり呪ったりした方が楽なのに、そうはしないんだね」
 そう、あたしも、外から見てどう見えるのかは知らないが、女子高校生として、それなりに恋もすれば夢もある。たびたび、友人の些細なヒトコトに傷ついたり、自分が昔子供だったことを忘れたふりをしてる大人たちに、自分の気持ちを理解して欲しい、などと無理な願望をぶつけてみたりもしたくなる。
 だけれど、そんなことは全部無駄なことだし、自分の身の回りにあることも世の中全てに横たわっていることも、およそ問題とか苦難とか呼べるものの全ては、特定の誰か、もしくは何かが原因である、なんていうことはあり得ない。人の心が揺らぎ、迷い、惑い――変わり続けるものであり、そんな不確定なものの集合体であるこの世間というものが綻びだらけだというのは、当たり前のことだ。
 そんなものに対して、いちいち感情を動かすのは無意味なことなのだ。
 だからあたしは――壁になりたかった。
 何が起こっても、何を言われても、傷つけられても傷ついても、ただ揺るぎなく、そこに立っていられる壁に。
 壁の中の顔は続ける。
「きみの気持ちは、よくわかるよ。何も感じない、何ものにも脅かされない、壁のように強く安定して生きられれば、そんな楽な生き方はない。だけど、ヒトの体を持ち続け、ヒトの世界で生き続けている以上、痛みも苦しみも、悲しみも欲望も、己自身から引きはがすことはできない。それならばいっそ、本当の意味で『壁』になってしまえれば、一番楽になる――」
「あなたも、そうだったの?」
「そう。だから今、ここにいる。この壁に描かれている人たちは、みんなそう。誰かを傷つけたくなくて、壁の中で生きることを選んだ、優しい人たち」
 壁の人はにっこりと笑う。
「多分きみとも、いい友達になれる。きっとぼくらは、同じ魂の形をしているから」
「あなたは今、幸せ?」
 我ながら陳腐な質問だけど――あたしは訊かずにいられなかった。
 この人があたしと同じなら、この人が幸せになれたというのなら、きっとあたしも幸せになれるから。
 壁の人の顔の輪郭が――柔らかくゆるやかに、波打ち、ゆらいだ。どうやら、頷いたらしい。
 そして一瞬の後、壁の中から、オレンジ色の人の手が、つぷり、と泡立つような音を立てて生え出た。
「さ、おいで。この壁の中で、一緒に幸せに、いつまでも生きよう」
 そして再び、にっこりと笑う。その笑顔は、その色合いのせいなのかどうか、太陽のように輝かしかった。
 その笑みと言葉は、こんな非現実的な状況にも、関わらず、あたしの心に根強い信頼を抱かせるに十分だった。あたしは、手を差し出す。
「あなたの、名前は――?」
「聞いても意味がないよ。ぼくらはこれから、一つになるんだから。一つだから、わざわざここで教えなくても知ることができるし、逆に、知ろうが知るまいが関係もなくなる」
「わかった。あたしも、名前は名乗らない。だけど、よろしく」
「ああ、よろしく」
 あたしは、その燃えるような手を、しっかりと握りしめるべく、両手をさしのべる――

「やめなよ、馬鹿馬鹿しい」
 その声は、壁の中からではなかった。
 だからこそ反対に、あたしは驚いて、反射的に振り向いた。
 だってさっきまで、人の――どころか、生き物が何かいるような気配など、全くなかったのだから。
 もう日が暮れ始めて薄い闇がビルの頭上を覆い始めている。
 その暗闇を背負って舞い降りたかのように、その人影はそこに唐突に立っていた。
 真っ黒でつややかな髪を時代錯誤にもかむろに切りそろえた、猫じみて鋭角的な顔の、美しい少年。
 少年と言ったものの、年の頃はわからない。人間離れした雰囲気をまとっているので、小学校高学年の男の子にも見えれば、100歳もの年を経たあやかしの者のようにも思える。
「どうも、ミドルティーンの女の子っていうのは、不変とか永遠とかいうものに無駄な憧れを抱いて困りますね。永遠に一つの場所に留まり続けるなんてことは、人間の落ち着きのない魂には耐えられるものじゃあないよ。それにだいいち、壁に同化したからって永遠に生きていられるわけないじゃありませんか。ビルの壁なんてものは、壊されればそれまでさ。ときこのビル、半年以内に取り壊し決定してるらしいですしね」
 ぽかんとしているあたしに向かって、その人物は滅茶苦茶屈託のある笑みをうかべ、馬鹿丁寧にお辞儀した。
「こんにちは。ぼくの名は思議。不可思議から、『不可』を取ってください。ぼくは生者と死者の間に生まれた子供なので、望むと望まざるとに関わらず、両者の世界の間の番人として働かされてる。どうして、なんて訊かないでくださいね、ぼくらはそれをルールとして教えられるだけで、理由までは聞かされないんだから」
 生者と死者のあいのこ?番人?彼の発する言葉はどれ一つとして理解できなかった。同じ非日常的なものでも、この壁からの呼びかけには、あんなにも素直に頷けたのに。それは多分、その存在があたしの願望に沿っているかそうでないかだけの話なのだろうけれど。
「思議さん…その、思議さんが、一体あたしに、何の用なの?」
 おそるおそる訊ねる。
 思議は、不吉なほど真っ白い人差し指で壁の模様をなぞりながら、
「ぼくは、あの世とこの世の境目の管理をするのが仕事なんです。さっきも言ったけど。だから、人は死んだらあの世に行く――こんな当たり前のことが、当たり前に行われないような事態は阻止しなくちゃならないんです。ぼくのいう意味、わかるよね?壁妖怪さん。あなた、何十人もの人間の魂を、この壁の絵の中に閉じこめてるでしょ?困るんだよね、そういうの」
 彼の眼が、獲物を狙う獣のそれのようにかっと見開かれる。そして、細い拳に似合わぬ乱暴さで、どんと壁を殴りつけた。
 壁から生えた手が、わななくように震え、あたしを誘ったあの顔も、徐々に輪郭を禍々しく変化させていき、
「貴様…ミッドランダーズ…か」
 呻くように、言う。
 思議は、小馬鹿にしたような視線で、その顔をちらりと見ると、
「ああ、そういえばぼくら、最近はそんな風に呼ばれているらしいですね。真ん中の国の民、ねえ。ある意味正しいネーミングだけど、やっぱり正確じゃあないと思うよ。何故か」
 彼は猛禽の爪のような形に手を広げると、そのまま五本の指を壁の中に抉り込んだ。
 壁の顔が、地の底から響くような苦悶の声をあげる。
 思議は少しも表情を変えないまま、
「ぼくらは、どこにもどちらにも属さない――というか属せない定め。ぼくらに安住の地なんてないし、自分たちの国なんてない」
 ごりごり、と石と石を擦りあわせるような音がして、思議の手が手首まで壁の中にめり込んだ。
 壁の顔が、獅子のように吠えた。
 同時に、壁に描かれた顔の全てが、地獄絵図を思わせる凄絶な苦悶の表情をうかべ――壁の中から抜けだし、いっせいに思議に襲いかかる。まるでその様子は、極彩色のミミズが塊となってのしかかるような様子で――あたしは、咄嗟に後に飛び退き、そのまま転倒し――そこで、吐いた。昔の映画で、ゴカイだかミミズだかが群れをなして人に襲いかかる話を――あたしは思い出した。あれは誰に聞いた話だっけ、と場違いにも考える。
「ああ、ぼくは荒事は本当は嫌いなのになあ」
 その、虹色のミミズの群れの中に埋没しているのに――思議の声の調子は、少しも変化がなかった。
「ぼくはね、あらゆるものの中身、本質、そういったもの全てを『読む』力を持っているんですよ」
 塊の中から、白い腕がにょきりと生え出る。
「壁さん、あなたがどうやって生まれたかも、全部『読んで』知ってます。あなたももとは、この女の子と同じ、現実逃避しがちな若者だった。世界に絶望したあなたは、いっそ何も感じぬ壁になりたいと願いながら、この壁に絵を描いた。そして、壁の表面に結界を作り出し、人の魂をその中につなぎ止める魔法陣を」
 その腕が、白蛇のようにぐいんと伸びた。
「その魔法陣のどこをいじれば、その結界が崩壊するのかも」
 その腕が凄まじい速さで壁の上を走り、指先がある一点で止まる。そして、その爪が、幾何学模様を形作る線の一カ所を、がりりと削り取った――その途端。
 激流のように、極彩色の塊が跳ねうねり悶え――いつの間にか、その中から思議は脱出し、何事もなかったかのようにあたしの隣に立っていた――台風のまっただ中の風の音に似た轟音が荒れ狂った。 
「見ちゃ駄目だよ。きみは、こんな世界のことは知る必要はありません」
 思議の手が、あたしの目をそっと覆う。その指は、氷のように冷たかったが、マシュマロのように柔らかかく――優しかった。
 目蓋に感触を覚えたとき、何故かあたしは悲しい気分になった。

 そこにあった空気を全て押し流すような騒音が去り、思議があたしから体を離すと――その壁から、あの美しい模様は全て消え去っていた。
 あたしは、その場にへなへなとしゃがみ込んで、呟いた。
「余計なこと、しないでよ…」
「別にきみを助けたわけじゃないから」
 思議は、抑揚のない声で言う。
「ぼくの仕事は、この壁がこれ以上魂を喰らって、現世と常世のバランスが崩れるのを防ぐことだけだから。きみの魂があの壁に喰らわれたら迷惑なので、それを止めただけです。説得して、聞いてくれる相手なら手を出さないのがぼくの主義だけど――今回は、今まさにきみが喰らわれようとしていたから、少々ことを急いだ」
「喰らう?あの壁の中にいる人たち、あんなにも幸せそうだったじゃない」
「まあ、彼らにとっての幸福は、あの壁に中にあったのかもしれないね」
 思議は肩をすくめる。 
「だけど、彼らは何も感じず、何も考えず、あの壁の一部としてエネルギーを供給するだけの存在と化していた。牢獄につながれてただ利用されるだけの存在に甘んずることを、きみは幸せと呼ぶんですか?それにさっきも言ったけれど、あの壁は近々壊される予定でした。壁が――そこに描かれた魔法陣が物理的に壊されれば、あの結界も壊れる。中の魂たちも、二度と現世にも常世にも戻ることなく消滅する」
「消えたって、よかった」
 あたしの頬を、涙が幾筋も流れた。
「あの人、あんたなんかよりずっとずっと優しかった。あの人と一緒になら、消えたってよかった。死んだってよかった」
「本当にそう思うの?」
 思議は、悲しげな顔をして、あたしの顔をのぞき込む。
「あの壁の正体見たとき、きみ吐いたでしょう。あの人とならどうなってもいい、って思うのなら、どうしてあの醜い姿も受け入れてあげられなかったの?」
「……」
 返す言葉が、なかった。あの壁の人の言葉は、たしかに温かくてあたしを理解してくれてたけど――あのぐちゃぐちゃに混ぜた絵の具のようなミミズの群れが現れたとき、あたしはたしかに恐怖を感じたのだ。そして――あの中の一部に、あたしはなるところだったのだ。
 思議は、あたしの頬をそっと両手で包み込んで、
「きみが壁になりたいと思ったのは、この世界がどんな形であれ、自分の形を変えてでも受け入れたいと、願ったからでしょう。ならば、そのままの姿でも、今の世界を受け入れてあげられる。当面、でたらめにでも適当にでもいいから、普通に生きてみてください。どうしても駄目なら、ぼくを呼ぶといい」
「あんたを呼んだら、なんとかしてくれるの?」
 泣きじゃくりながら言うあたしに向けた思議の笑顔は――この上なく優しく、冷たかった。
「ぼくらの仲間にしてあげる。永遠に、変わりたくても変わることのできない、どこにも逃げられない境目に住まわせてあげるよ。本当の意味の永遠が、不変であるってことが、どんなに気色悪くて胸が悪いものか、実感できると思うよ。ただ、実感できてももう遅いけどね」
 あたしは、恐怖のあまりその場に立ちつくしていた。
 我に返ったそのときには、もう街は夜の帳に覆い尽くされていて――思議という奇妙な人物の姿は、どこにもなかった。 


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