イーター&リーダー
〜ミッドランダーズ@〜


 人の怖がる顔が好きだった。
 自分の身に降りかかる唐突な暴力、悪意、死。
 そうしたモノを目の当たりにするときの人の顔は、顔面の筋肉や皮膚が最高にひき歪んで、あり得ない角度の絶妙な曲線を描き、どんな前衛芸術よりもセンセーショナルで深遠な造形物となりうる。
 そのことに気づいたとき、ぼくは人に刃を向けることをためらわなかった。

 そして今日も、ぼくは懐にナイフを忍ばせ、人気のない街角でじっと身を潜めている。
 狩り場は頻繁に変えた方が良い。
 どんなにいい顔をして恐れる連中が多くても、狩りすぎれば数は減るし、何より用心され始める。
 今夜の狩り場に定めたのは、照明が壊れたまま放置されて、人工的に造られた薄暮のような微妙な明暗を演出する、寂れた地下道。寂れてはいるが、何故か退屈しない程度には人が通る。
 一応はこの界隈の隠れた近道とされているので、夜遊びして帰る時間が遅くなった若者どもが、一夜のうちに何人かは危険を顧みずのこのこ足を踏み入れるのだ。
 今夜出逢う獲物は、どんないい恐怖の表情を見せてくれるのか。
 どんな断末魔の声をあげるのか。
 通路の薄闇の向こうから微かに聞こえる、ヒールの足音に耳を澄ませながら、ぼくは自分の心臓の鼓動が早まり、早くも全身が快楽の予感に震えるのを感じていた。
 ぼくは、懐のナイフに手を伸ばし、これから姿を現すであろう女のシルエットに、どんな姿勢で覆い被さり、どんな角度で凶器を振り下ろすかを脳裏でシミュレートしようとした――そのとき。
「見つけたよ、魂食いさん」
 さっきまで、たしかにぼくの背後には誰も立っていなかった。
 何故かぼくの背後は、このじめじめした地下道の行き止まりで、そこにあるのは水がじびじび染み出す汚い壁面と、その上を這うさび付いたパイプだけだったはず――なのに。
 その人影――小柄で、少年とも少女ともつかない華奢な体格の人物は、最初からそこにいたかのように、おそろしく自然で落ちついた物腰で立っていた。
「あなたの遊び場があまりにも広いから、割と尻尾掴むのに手間取っちゃったけど、もう逃がさないよ」
 ぼくを、追っていた?警察か何かか、こいつは。
 無論声やシルエットからは随分かけ離れた中身ではあるが――
 彼――もしくは彼女は、クスクス笑いをもらしながらかぶりを振った。
「違うよ。というか、あなたが人間の法律に照らしてどんな犯罪を犯そうと、それこそ人間を何人殺そうと、ぼくには何の関係もない。ただね、あなたの場合は少し――いや、かなりか――特殊だから」
 特殊?どういう意味だ。
 というか、なんだ?ぼくは今、何も言葉を発さなかったのに――こいつは、当たり前のようにぼくの心の中の疑問に答えやがった。
「ああ、驚かなくていいよ、って無理か――あなた、もう本質は人間じゃなくなってるけれど、頭の中はまだ人界の常識が残っているものね。ぼくは、全ての物事を『読む』力を持っているからね。というか、ぼくらはこの世界じゃ存在そのものが希薄だから、ある特定の概念に寄生して――というか自分の存在に根源的な意味を植え付けないと、生きていられないんだ。そして、ぼくが持つ『意味』が、『読む』ということなわけです。わかる?」
 無論、理解できない。理解する気もない。それ以前に、何故かこいつはぼくにそんなことをペラペラ喋るのか。口調もやけに親しげだが、こいつはぼくのことを――こんなふうに、人の恐怖の表情を観て愉悦する趣味のことを、知っているというのだろうか。
「あなたひょっとして、パニックになってる?」
 人影は、暗闇から一歩踏み出した。
 白い蝋か何かのように異様に白い肌と、全体のつくりが猫めいて鋭角的ではあるが、おそろしく整った小さな顔、時代錯誤にもかむろに切りそろえた黒髪。
 こんなふうにやたら無邪気に喋るのでなければ、幽霊と見間違えても不思議はないほど、古風で、生気がなく、浮世離れしている。
「そんなにいっぱい一度に訊ねられても、答えられないよ」
「別に、俺が自分で訊ねたわけじゃない。答えて欲しいと頼んだわけでもない」
 いつしか、ヒールの音はほんの目と鼻の先まで近づいていた。
 が、ぼくはそれを惜しいと思いつつも、目の前のこの奇妙な存在――人なのかどうかも定かではない――にすっかり呪縛され、貴重な獲物がすぐ近くを通り過ぎてゆくのを、黙って看過するしかなかった。
「なんだ、まだ人間の言葉喋るんだ」
 彼――自分のことを呼ぶときの人称から、便宜上そう呼ぶことにする――は、肩をすくめた。
「なら、袖擦り合うも多生の縁だしね。一応自己紹介しておきます。ぼくの名前は思議といいます。ぼくは生きている人間と死者との間に生まれたこども。なので――というかそれが理由になるのかどうかぼくもよくわからないんですが――現世と、冥界とか常世とかあの世とかいう世界の間、交わるべきでない異界同士の境界線を踏み越えてしまった存在を、なんとかするのが仕事です」
 やはりまだよくわからないが、どうやらぼくは『境界線を踏み越えた』者、ということになるのだろうか。それを罰するために、この少年は現れたらしい。
「罰するなんてとんでもない」
 思議は激しく首を振る。
「ぼくが義務づけられているのは、『事態の収拾』、それだけ。境界を犯してしまったあなたが、双方の世界の狭間で災いをなすのを、止めることだけ。だから、ぼくが今、あなたに敢えてこんなふうに手の内晒してべらべら喋ってるのは、ぼくが口で言って頼んで、今やってることをやめてくれるのなら、こんなお互いにとって良い話はないからなんだけど――やめてくれますか?それ」
 無邪気なふうな動作で(言ってることの雰囲気は正反対だが)首をかしげ、ぼくを見る。
「何のことを言ってる」
 ぼくは、何となくしらばっくれた。
 こいつは人の心を読むのかもしれないが、だからといってこんなふうに、何もかも知ったふうな口をきかれて、素直に返事をする気になどなるものか。
 そんなふうに、他者から投げかけられたことを、周囲で決められたことを、押しつけられるルールを受容できるくらいなら――ぼくはこんなふうに、人殺しになどなってなかった。
 別に、社会が悪いから自分がこんなふうになったと言っているわけではない。
 顔も知らない誰かがどこかで勝手に定めた決まり事より、自分の欲求の方が大事なだけである。
「ぼくがどこで何をしようと、初対面のガキにどうこう言われる筋合いはない」
「そうはいきません」
 思議と名乗る少年は、じっとぼくを上目遣いで見つめる。責めるでも、憎むでもない、表情を伺わせない、ただ純粋に『見る』という動作にのみ特化された視線。
 ああ、これが『読む』ということなのかもしれない、とぼくは漠然と思った。
 思議は続ける。
「ぶっちゃけ、あなたがどこでどれだけ人を殺そうと、ぼくには関係ないんですよ。物理的な意味での人殺しを防いだり個体数の減少を食い止めるのは、ぼくの仕事ではない。というかむしろ、現世の人たちの仕事です。でもあなた、人を殺した後――」
 思議は、何故かぼくの耳元に唇を寄せ、小声で囁いた。
「『恐怖』、喰ってるでしょ。あれ、一緒に魂も喰われちゃうんで、まずいんですよね」
「…なんでだ?」
 だんだんぼくは、この少年の言うことに興味を覚え始めていた。普通に聞くと法螺話にしか聞こえない内容だが、少なくともこいつは俺の心をさっきから『読んで』いる。そんなやつの言うことなら、たとえフィクションでもなんらかの真実が含まれていそうだし、もしそれが本当のことなら――そんなことのできるぼくは、今目の前にいるこいつと同じように、特別な力を持っていることにならないか?
 そんなぼくの思考まで読まれているのかどうか。
 ともかく、彼は真剣そのもので語りかけてくる。
「魂と肉体の数は帳尻が合ってないと、いろいろ困ることが出てくるんです。現世で死んだら、魂は常世に渡る。きちんと常世に渡る魂の数が減ったり、魂そのものの個体数が減ったりすると、後々面倒なことになるんです。二つの世界の均衡が崩れる」
「…そうすると、どうなるんだ?」
 ぼくはますます面白くなってきて、訊ねた。思議は形の良い眉をしかめて、
「そこまではわかりません。ただ、大きな災いが起こる。ぼくはそう教わっています」
「なるほど」
 ぼくは、自分の口元にいびつな笑みが浮かぶのをこらえられなかった。
 こりゃあ、面白い。ぼくが趣味でやってるだけの殺しが、この世界の存続に関わってきたりするわけだ。
 魂を喰う、ということについては――目に見える自覚こそないが、心当たりはあった。
 ぼくは殺した相手の恐怖の表情を心から愉しみ鑑賞しているが、その相手の死の間際、なんだか自分の全身に力がみなぎってくるのを感じる。ただ単にぼくは、それを目的を果たした後の達成感が与える高揚と捉えていたのだが――それがどうやら、ぼくが無意識に相手の魂を『喰っている』ということだったらしい。
 ぼくは無意識のうちに、この世界の根幹に関わるものを喰い、犯し、揺さぶっていたわけだ。こんな楽しいことはない。こんな面白可笑しいことを――そんな簡単にやめられるか。
「わかったよ。言ってることは。ぼくも、自分の趣味を満足させるために、人様に迷惑をかけるつもりはないからなあ。もう、こんなことはやめるさ。そろそろ潮時だと思ってた頃でもあるからなあ」
 こんな嘘まみれの言葉で、人の心を読む相手を騙せるとも思えなかったが――意外にも、思議はにっこりと笑った。生気がなく、表情と言うにはあまりに固すぎるものだったが――その分、彫刻のような完璧に作り上げられた精緻な美しさがあった。
「そうですか。良かった」
「ぼくも、きみ――思議くんだっけ。大事になる前に、ぼくにいろいろ教えてくれてありがとう。これからは、人殺しなんてしないでまっとうな人生を送るよ。それじゃあ、またな」
 ぼくは、彼に背を向けて立ち去る素振りを見せながら――そう思わせて、一瞬の後にぐるっと体を反転させ、ナイフで彼の喉元のあたりをはらった。
 いくら人の心が読めても、読む前に攻撃をしかければ、避けるのは困難だろう。
 実際、ぼくの一撃は効き過ぎるほど思議に効いていた――思議の首は綺麗に切断され、皮一枚だけつながって彼の背中側にだらんと垂れ下がっていた。
「本当に感謝してるんだよ、マジでね」
 ぼくは本心から言った。いつものように恐怖の表情が見られたわけではないから、あの妙な気力の充満は味わうことができないが、ぼくの胸は別の爽快感で満ちあふれている。
「面白いことを教えてくれて、ありがとう。このクソな世界を横から押し倒して崩しちまうくらい、殺して魂を喰い尽くしてやるよ。安心して、あの世に帰りなよ」
 ぼくは、愉快でたまらず、とにかくげらげらと声をあげて笑った。今日はある意味、ぼくの誕生日だ。単なる通り魔にすぎなかった俺が、今日この日から、別の存在――世界を揺るがす力を持った強大なものに生まれ変わった。陳腐といえば陳腐な話ではあるが、面白い。取るに足らない脆弱な個人としてただ生きて死んでいくのよりは、何十倍も面白い。この思議という少年には、本当に心から感謝したいと本当に思わずにいられない本当に――
「良かった、本当に」
 その声に、ぼくはぎょっとする。
 思議。
 だらりと垂れた首から、その声は発せられていた。
「まあ、だいたいこうなることは予測できてたんですよね。だけど、ぼくって平和主義者だから、つい甘い顔しちゃって。でもまあ、本当に良かったですよ」
 思議の手は、自分の頭を掴んで持ち上げ、首の上に置き直した。
「これで、心おきなくあなたを消せる。生かす価値などないとわかったから」
 その言葉を言い終わる頃には、ぼくが作った首切断の傷は黒板消しで消されるチョークの線のようにあっさり消えていた。
「おまえ…なんで」
 我知らず、口をついて出る驚愕の言葉。
 思議は面白くもなさそうに、
「言ったでしょ。ぼくは死者と生者の間に生まれたこども。生きてもいないが、死んでもいない。現世のいかなる凶器でも、ぼくの存在を消すことはできない――ああ、今のあなたにこんな表現は理解できないでしょうね。ようするに、何をされても死なないってことで了解お願いします」
「…このおっ」
 ぼくは、認めたくはないが恐慌に陥っていた。そんなデタラメな存在に、ぼくの掛け替えのない娯楽を邪魔されてたまるか。
 ナイフを振り上げ、思議に向けて斬りつける。
「やめてくださいよ。死なないけど、少しは痛いんだから」
 鬱陶しそうに言う思議は、何故かいつのまにかぼくの背後に立っていた。
「くそ!」
 ぼくは振り返りざまにナイフを突き出す。
 今度は、思議はぼくの、ナイフを持つ右腕の関節をがっちり掴んで固めていた。
「ぼくが読めるのは、心だけじゃないんですよね」
 思議は気だるげに言う。
「あなたの動きも、一瞬後にどういう行動するかも、ぜーんぶ『読める』」
 そして、凄まじく速い動きで、ぼくの喉元を掴んだ。
 ものすごい圧迫感の後に、ごきりと鈍い音。
 どうやらぼくは、彼に片手で首をへし折られたらしい。枯れ木のように細い腕をしているくせに、凄まじい握力である。 
 一瞬意識がとぎれるのを感じたが、数秒の後にふと気づくと、ぼくは死んだと思しきぼくの肉体を、ぼくの頭上から見つめていた。
 そうか、さっき思議は魂がどうのこうの言っていた。ぼくの肉体は死んだけれど、ぼくの魂はやはり不滅なのだ。
 この後のぼくがあの世に行くのか、この世に留まり幽霊になってしまうのかはわからないが、ともかく今はここを立ち去ろう。
 霊魂には、物理的法則は関係ない。
 とにかく今は、こんな恐ろしい相手からは離れてしまわなくては――
「そうはいきません」
 ぼくの腕を、思議が掴んでいた。
 というか、霊魂になってるぼくを、なぜこいつは手で掴める?
「もう説明も面倒くさいんですけど。というか、自分で考えてください、ぼくは、何と何の混血児でしたっけ?」
 思議は本当にうんざりした様子で、
「とにかく、あなたのしたことは死んだからって許される類のものではないんですよ。魂になったからってここで逃がしたら、後で何されるかわからないですからね。あなたには、魂ごと消えてもらいます」
 彼は、ぼくの霊体をぞんざいに引き寄せると、その端正な顔立ちにおそろしく不釣り合いな――というか構造上明らかに間違った大きさに、口を開いた。
(待て。ぼくを喰うのか)
 ぼくは、声なき声で叫んだ。
(魂を喰うのは駄目なんじゃなかったのか。世界のバランスがどうとかいう話はどうなった)
「あなたに言われるのは不愉快ですねえ。というか、あなたの魂は存在している方が有害だ。そういう魂は、喰っていことになってるんですよ」
 大口を開けた思議の、眼だけが不意に優しげに笑んだ。
「だから、ぼくは本当に嬉しいんですよ。あなたがそんなふうに同情の余地のない汚い魂なので、ぼくは久々に堂々と魂を喰る」
 なんだそれは。堂々とってなんだ。
 それじゃおまえも、こっそり魂を喰ってるんじゃないのか――わめく間も、ぼくの霊体は彼の口の中の真っ黒な深淵の中に近づいていく。
 いやだ、死にたくない。いやこの場合死ぬのではないけれども全部が全部自分であった者が完膚無きまでに消えてしまう死ぬよりもこわいこわいこわいやめてやめててまやめくらいくらい吸われる暗い暗いやめ

 思議は、人の恐怖を喰う妖物と化した男の抜け殻を見下ろしながら、佇んでいた。
「ご苦労だった」
 彼の後ろには、彼の双子の兄にして、彼の直属の上司である、『思案』が立っていた。
 思議とそっくりの外見をしているが、目元と口元はもう少し涼しく、鋭い。
「ああ、兄さんか。仕事、終わったよ」
 思議は今我に返ったようにぼんやりした反応を返す。
 思案は彼を静かに見据えながら、
「それは見ればわかるが。こんなところでどうした。帰らないのか」
「いや、帰るよ。少し考え事してただけ」
「考え事?」
「この男は、喰われて消えるのを本気で嫌がってた。けど、普通の人の魂みたいに、現世と冥界の間をぐるぐるたらい回しにされて、輪廻転生を繰り返して永遠に生かされるのと、存在そのものが全部消えて何も感じずに終わってしまえるのとは、どっちが怖いことなんだろうって。一体どっちが罰なんだろうかと思ってさ」
「そんなことは、俺たちが考えることではない」
 思案は、にべもなく言う。
「ただ、一番損をしているのは」
「え?」
「生まれたときから、どっちも選べない存在――俺たちだろうな」
 思議は、しばらく思案の顔を見つめていたが、やがて小さく笑って、小さく頷いた。
「そうだね。だけど、そんな風に生まれつくなんていうのは、一体どんな罪に対する罰なんだろう?」
「在ることそのものが、罪」
 思案はどこか遠くを見据えながら、言う。
「俺たちを使う存在は、そう教えた。俺たちの仕事は、その存在の穢れを少しでも祓うための、贖罪なのだと」
「理不尽だね」
「存在が理不尽なルールに律されてしまっているのは、俺たちだけではない。さっきおまえが消した、あの魂食いも、別にああいう存在になろうと思ってなったわけではなかろう」
 思議は、再び微かにほほえんだ。
「そうだね」
 思案は彼にくるりと背を向けると無感動な声で、
「帰るぞ」
「ああ、帰ろうか兄さん」
 二人が同時に小さく跳躍すると、その姿は最初から何もなかったかのようにかき消えた。
 後にはただ、空気が重く澱んだ地下道の、不純な闇だけがわだかまっているだけだった。


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