砂男


 そんな暗い表情の江田刑事を見るのは、滅多にないことだった。
 彼は目の下に、彫刻刀で削ったかと思うほどくっきりした隈を作り、胸部付近の骨が一本引き抜かれたのではないかと思うほどよれよれに肩を落として、楠の事務所に現れたのだった。
「全く・・・」
 彼は目頭を押さえながら溜め息をつく。
「こんな仕事してるとどうしても、『どうしてこの人がこんな目に』って言いたくなるような事件にもあわされるな」
「そうですか・・・」
 いつも江田さんを小馬鹿にしたがる楠も、今日は珍しく大人しい。彼はたしかに才能ゆえの生意気さも持っているが、人の気持ちを不用意には傷付けないデリケートさも、持ち合わせているのだ。
「江田さん、座ってください。で、よかったら話してくださいませんか?その事件のこと」
「ああ」
 江田はどっかりとソファに腰をおろすと、
「犯人、捕まえさせてくれ。楠君。今度の犯人は、どうしたって自分の手で手錠をかけてやらにゃ気がすまん」
 温厚な彼がそう呟くほどに、その怒りは深いのであった。
「どうぞ」
 楠は、ゆっくりと頷いた。

「今度殺されたのは、日下祥子。18歳の女の子だ。昨年交通事故に遭い、車椅子の身だ。おまけに喉が潰れて話すことができん」
 江田はむっつりと言う。
「まだ高校生だが、周囲の誰に聞いても悪くは言わない、良い子でな。それだけのハンデを背負いながらも、少しもめげない、芯の強い子でもあった」
「・・・」
 楠も僕も、何も言わない。江田の怒りの理由は、もう大方わかっている。
「その子はちなみに、大手出版社の重役の娘でな。父親の持ってる別荘に友達連中と出かけて、そこで殺された。包丁でめった突き、目も潰されてる。全く、ひでえ話だ」
「で・・・事件のときの状況は?」
「ああ。別荘に行ったのは、祥子ちゃんを含めて4人だ。彼女のクラスメートの麻生さくら。クラス担任の浜倉直也。元クラブの先輩だった山本美也子。浜倉と山本が買い出しに行ってる間に、事件は起こったんだ」
「あれ?麻生さくらは別荘にいたんですか?」
「ああ。風邪で寝込んでて、祥子ちゃんと二人で留守番だったそうだ。で、寝てると、何か祥子の部屋の方で大きな物音がする。で、行ってみると、彼女が血を流して倒れてた・・・ってことだそうだ」
「外部から侵入した形跡は?」
「ない。ちゃんと玄関のドアも窓も、鍵がかかっていた」
「ってことは、第一発見者の麻生さくらが一番怪しいのではないですか?」
「そうだな。が、彼女の服には返り血か一滴もついてない。彼女はすぐに警察に連絡して、近くに交番があったんですぐそこの巡査が駆けつけてる。そんなに短時間で殺した後の隠蔽工作をやれるとは思えんよ」
「と、いうことは」
 楠は、髪の毛を指先で結んだりほどいたりしながら、
「別荘の鍵を持っていたと思われる、買い物組の二人が怪しいですね」
「ああ。たしかに」
「二人のアリバイは?」
「それがな」
 江田は頭を抱えた。
「二人とも、町に出た後、それぞれに用があるとかで別れたらしいんだ。で、買い物した店のレシートやなんやかやでアリバイを主張するんだがな・・・」
「信用するには頼りない、ですか」
「その通りだ」
 刑事は重く頷く。
「おまけに、どっちもそれぞれ、少しずつ怪しい所がある」
「はあ。それは?」
「二人は、浜倉の車に乗って町まで出た。別れた後、車に乗って行動したのは浜倉だ」
「なるほど。移動時間を稼げるのは浜倉ですか。山本は?」
「新しい服を買って着替えて帰ってきた。おまけに、コインランドリーで洗濯までしてきてる」
「ははあ、なるほど。返り血を浴びた、服を洗濯して、着替えてきた可能性もあるわけだ」
「そうなんだ・・・でな、一番判断に困ってるのは、いつものほら、ダイイングメッセージだ」
「ふむ」
 楠の大好きなテーマのはずだが、今日は流石に神妙な顔で、
「どんなメッセージだったんです?」
「自分の血で、『スナオトコ』と書いてあった」
「砂男・・・・?」
 楠は首をかしげる。
「砂・・・あの、砂浜にあるスナ、かなあ・・・」
「わからんさ。カタカナだから。何か別の意味があるのかもな」
「ふむ。とりあえず、別荘に一緒にいた3人が一番怪しいとして・・・・」
 さすがの彼も、今回はインスピレーションがなかなか閃かないらしい。
「スナ・・・砂。砂が関係ある名前、いませんよねえ」
「ああ。だから、別の言葉である可能性が高いが、そうなると俺もさっぱりだ」
「ふむ・・・」
 楠は腕組みして考え込んでいたが、
「江田さん。そのメッセージの現場写真あります?」
「ああ」
 江田は懐から取り出す。
「見てくれ」
「ふむ・・・」
 楠の目が、不意に遠くなった。
「江田さん、聞いていいですか?」
「何だい」
「彼女は声を出せなかった。とすれば、意志の伝達手段は、手話かなにかだったんですか?」
「いや。手話はまだマスターしてなくて、専ら筆談だったそうだ」
「筆談・・・」
 楠の目は遠くなったままで、写真の上におちる。
「頭の『ス』という字が、他の字に比べてやけに薄いですね。それに、『ト』の周囲だけやけに血痕で汚れてる。まるで、この字だけ何か都合が悪くて、本当は消してしまいたかったかのように・・・・あ」
 楠は、不意に硬直した。
「そうか・・・そう言いたかったのか・・・」
「わかったのか?楠君」
「ええ」
 楠の目は潤んでいる。
「彼女が何を言いたかったのか、分かりました。なんて・・・可哀相な」
 そして、いつものように江田に耳打ちする。
「そうか」
 江田はすっくと立ち上がった。
「有り難う。必ず犯人を逮捕する」
 そうして、事務所から強い足取りで出ていった。
「江田さん、犯人を捕まえられるかな」
 僕は呟いた。
 楠は天使のような笑顔で、
「江田さんは、嘘がつけない人ですから。あの人が『必ず』なんて言葉を使うときは本当に『必ず』なんです。今までも、そうだったでしょう?」

「やあ、楠君」
 江田は、意気揚々と事務所に入ってきた。
「ああ、いつものように成河君もいるな。元気でやってるか?」
「やけに嬉しそうですね」
 僕が言うと、
「犯人が自供したんですね」
 と、楠。
 そして江田は、晴れやかな笑みを浮かべる。
「ああ。楠君のおかげでな。これで、祥子ちゃんも少しは浮かばれるさ」
「そうでしょうか」
 楠は、悲しそうに言った。
「彼女を殺したのは、彼女がもっとも信頼する人物だったというのに」
「そう、だな」
 江田は、ソファに腰かけると煙草に火をつけた。「だが、そうでも思わんと、やりきれんよ」
「死後の世界は、死に逝く者の為にあるのではなく、今生きている人間のためにある」
 楠は、託宣のように呟く。
「死に逝く者の心を、生者は永遠に知ることはないのだから」
「で?犯人は誰だったんです」
 僕は、江田さんに向き直る。
「そろそろ、教えてくれてもいいでしょう」
「ああ」
 江田は溜め息と共にその名前を吐き出した。
「日下祥子を殺したのは、浜倉直也だ」

「浜倉はな、祥子ちゃんと人知れず交際していたんだ。彼女の体の不自由は承知で、だが彼女の家の財産目当てでな」
「下衆野郎ですね」
 楠が呟く。
 江田は重々しく頷いた。
「全くだ。それで、彼女を殺した動機というのも聞いてあきれる。彼は教育界のある実力者に気に入られて、縁談を持ちかけられた。そこで、あっさり乗り換えることにしたんだが、祥子との関係が外部にもれることを恐れて、彼女を殺したんだ」
「唾棄すべき男ですね」
 今度は、僕が呟く番だった。
「何から何まで欲得ずくですか」
「そうだ。幸いにも、天は彼の罪を見逃さなかった」
 江田には珍しい、神がかり的な台詞だ。だが今、彼は今度の事件の解決を心から天に感謝しているに違いなかった。
「奴は、法に則って裁かれる。彼女の受けた苦しみほどではないにしろ、正当な罰を受けるんだ」
「それで、どうして彼だとわかった?楠君」
 楠は肩をすくめる。
「大したことじゃないですよ。普通に考えれば、普通に解ける事件です」
「だから、どうやって」
「じゃ、まず。あの『スナオトコ』の字ですが、『ス』の字がやけに薄かった。どうしてですか?指に血を付けてメッセージを書いているんですよ。なのに、一番最初に書いた文字が一番薄いなんて事はありえません。ここから導かれる結論は一つ。この『ス』の文字は、後から書き加えられたものだと言うことです。ですが、瀕死の祥子ちゃんが後から自分でメッセージを訂正したとは考えにくい。となれば、犯人がそのメッセージを隠すため、細工を施したと考えるのが自然でしょう。そこで、このやけに周囲が汚れた『ト』の文字。この文字だけやけに汚されているということは、これも犯人が何かを隠すために故意に汚したと考えていいでしょう。『木は、森に隠せ』――成河さん、彼が隠したかったものは何でしょう?」
「濁点、か」
「そのとおり。この犯人のトリックによって、メッセージはもともとの姿を歪められ、意味不明の言葉に化かされてしまいました。では、もともと、祥子ちゃんは何と書こうとしたんでしょう?」
「ナオドコ・・・・?」
「そう。彼女は、筆談で自分の意志を伝えるのが習慣でした。彼女は、突然現れた殺人者に屠られながら、それでも最期に愛しい相手を呼び続けたのです。『ナオ、どこ?』ってね」
「浜倉直也・・・恋人同士の呼び名は『ナオ』か。彼女は、殺人者が浜倉であることは知らなかったのか」
「多分ね。彼女の目を潰したのは、あの下劣な男の、最後の良心だったのでしょう。己の恐ろしい姿を彼女に見せたくない・・・という、ね。それとも、彼女に姿を見られることが・・・彼女の目を見ることが恐ろしかったのか。少女が、今際の際に助けを求めたこのメッセージが、彼には地獄の底から響く告発の声に思えたことでしょう。それで、あんな細工を施した・・・」
 僕は、体を切り裂かれる苦痛に耐えながら、それでも愛しいたった一人の人間を呼び続けた彼女の気持ちを想像した。そして、すぐ止めた。あまりに辛すぎて。
「後味の悪い事件だな」
 江田が、ぼそりと呟いた。
「そうですね」
 楠は、力強いしぐさで立ち上がる。そして、窓際に行って深呼吸すると、
「だけど、日はまた昇る。僕らは生きている。そうでしょう?」
 僕と江田さんは顔を見合わせ、思わずほほ笑んだ。
「ああ、そのとおりだ」


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