死者の行水


「全く、死体、死体、また死体か」
 江田さんは、ビールをぐっと飲み干した後、溜め息と一緒にその台詞を吐き出した。 
「どうして世の中、こう殺しが多いのか。人間だけだぜえ、同族を自分が生きるため意外の理由で簡単に殺すのは」
「ものすごく、この場にそぐわない話題ですね」
 楠が、くすくすと笑う。
 確かに、ビアガーデンで話すことではない。が、捜査一課の刑事がアルコールを口にして吐き出す愚痴など、こんなものなのかもしれなかった。
 こうして僕と楠が彼の愚痴を聞いている姿は、端から見ると、若いカップルが呑んだくれたオヤジにからまれているようにしか見えないだろう。
 それは専ら、楠の24歳男性とは思えない外見上の特徴による。
 彼はホルモンの異常か何か原因はわからないが、どう見ても10代後半から20代前半くらいの女性にしか思われないのだ。本人はものすごく嫌がるが、小柄でほっそりした体格も、儚げなほどに繊細なつくりの顔だちも、蝋燭のように白い肌も、ことごとくそう見えるのだから仕方がない。
 今日も、このビアガーデンに来るまでに3度ほど女性と間違われてナンパされそうになったそうだ。
「しかも、最近の殺人は訳が分からない。いつぞやは、ラブホテルのベッドの下に死体が隠れてた、なんてのがあったし、この間の死体なんてな・・・ああ畜生」
「なんか、具体的に困ってることがありそうな口ぶりですね」
 楠がにやりと笑う。
 江田は自嘲ぎみに笑うと、
「君にはかなわんよ、全く。いつも君に迷惑をかけてるから、たまには自分で事件を解決してみよう、って思ってたんだがなあ・・・」
「警察に協力するのは善良な市民の義務ですから」
 楠は、涼しげな顔でビールを飲み干した。

「事件が起こったのは、とある小学校の、職員トイレだ」
 ますますこの場にそぐわない話題になっていく。
「殺されたのは、その学校の教頭。これがまた、叩けばいくらでもホコリが出てくる野郎でなあ。どうやら、子供に良からぬ悪戯を度々おこなっていたらしい。全く、教師ってのは、人間の模範にならなきゃならん仕事だぞ。それがなあ・・・」
 どうやら、酔い具合も丁度よさそうで、かなり無駄口が多くなっている。
「はいはい、そうですね」
 それでも楠は、笑みを崩さず、
「それで?」
「トイレの個室で、頭を鈍器で殴られて死んでいた。これがまた、奇妙な現場でね。とにかく、殺してからトイレ中に水をまき散らしたらしく、天井から床から壁から、便器に鏡に掃除道具に雑巾、トイレットペーパー、何もかもびしょぬれにされてたんだ」
「死体も?」
「ああ、そうそう、死体もだ」
 江田は再び大ジョッキに手を伸ばす。
「とにかく、何もかにもが水浸しなんだ。なんでそんな余計なことをしたのか、全くわからん」
「なるほど」
 楠は指先に髪の毛を巻きつけた。
「で、犯人の目星はついてるんですか?」
「ああ、それはな」
 江田は酒臭い息をまき散らしながら、
「一人、殺人のあった夜に学校に入るのを目撃された男がいる。悪戯された児童の父親で、動機も十分だ。だがなあ・・・」
「何か、問題が?」
「物証がないんだよ」
 また大きく溜め息をつく。
「いまのところ、情況証拠だけで拘留してる状況だ。特に、一体どこに隠しやがったのか、凶器が、まるでみつからん。無論、本人はだんまりを決め込んでるし、一体どうしたものやら、なあ・・・」
「なるほど」
 楠は、悪戯っぽく目をくるくるさせると、
「例えば、氷を使って撲殺したというのは?水浸しにしたのはそれを隠すためかもしれませんよ」
「いやあ、そうでもないらしいんだな」
 江田は頭を抱えた。
「死体が見つかったのは、死亡推定時刻からそう遠くない。せいぜい、1時間くらいだな。実験したわけじゃないからわからんが、人を殴り殺せるような大きさの氷の塊と言ったら、1時間くらいじゃ跡形もなく溶けはせんだろう。かけらくらいは残ってるんじゃないか?発見者はすぐ現場を詳しく観察したが、そんなものは見なかったと言ってる」
「なるほど、ねえ」
 楠の片眉が、ひょいと持ち上がった。
「じゃ、やっぱりあれだな」
「あれって?分かったのか?凶器が」
 江田は、とろんとして、
「わかったんなら、教えてくれ・・・お願いだから・・・」
 そのままテーブルに突っ伏して眠ってしまった。
「おやおや、ご苦労さんですね」
 楠は微笑むと、またビールを口にした。
「おい、本当に分かったのか?」
 僕は彼の顔をのぞき込む。
 彼は肩をすくめて、
「まあ、正しいかどうかは知りませんし、物証になるのかどうかも分かりませんが。塚本さんに電話しといてあげますか」
 と、ジャケットの懐から携帯電話を取り出した。ちなみに塚本というのは、江田の部下の名前だ。
「なあ、教えろよ」
「それは、容疑者が犯行を認めた暁に、ね」
 楠は、悪戯っぽく笑いながら、立ち上がってトイレの方に歩いていった。

 楠は、携帯電話を懐にしまいながら席に戻ると、再びビールを美味そうに飲んだ。
「塚本君、どうだった?」 
 僕が聞くと、楠はこくりとうなずいて、
「ええ。びっくりしてましたけど。丁度今取り調べ中だったらしいから、これから犯人にカマをかけるんじゃないかな。素直に喜んでくれてましたよ。探偵冥利につきます」
「そりゃあ、よかったな。でも、そんなことより」
 僕は、気持ち良さそうな江田さんの寝顔を横目に身を乗り出して、
「で、凶器はなんだって?」
「ほらまた、そうやって楽して解答に辿り着こうとする」
 楠は、桜色の唇をとがらせた。
「真実を手にするためには、人間は相応の代価を支払わなければならないんですよ。自分では何もしないで答えを知りたがるのは、子供の駄々こねてるのと同じだと思うなあ」
「そう解釈してもらって、いっこうに結構だ」
 僕は、開き直って言った。
 どのみち、しこたま飲んだ今の脳味噌では、真相を推理することなど不可能である。
「僕は、君のことを小説に書いて飯を食ってる、つまりは人様の不幸で金を稼ぐ、下劣極まりない人間だ。さあ、これでいいかい?」
「そうきましたか」
 楠は、眉をちょっとだけしかめて、
「仕方がありませんね。じゃあ、少しだけヒントを出しますから、考えてみてください」
「嫌だ」
 僕は徹底抗戦する。
「もう、泥酔状態だ。少しも頭は働かない」
「あ、そうですか」
 楠はにんまり笑う。
 この瞬間、ぼくはまた彼の罠にはまってしまったのを悟ったのであった。
「じゃ、今この謎の答えを言ったところで、覚えてないでしょうね。それなら、言わない方がマシだなあ」
「そんな・・・」
 完全に、楠のチェックメイトである。
「わかったよ、考える。だから、ヒントをおくれよ」
「はじめから、そう言えばいいのに」
 楠は、にっこりとほほ笑む。
「それじゃ、ヒントです。かのオーギュスト・デュパンが解いた、盗まれた手紙の謎を思い出してください」
「手紙・・・?」
 あの、一番隠したいものは一番目立つ場所に隠せ、というあれか。
 だが、それと今回の件に、どんな関係が?
 釈然としない表情の僕に、楠は再びほほ笑んだ。
「あの手紙の法則を、凶器にあてはめたら?」
「うーん・・・目立つ場所に隠す?凶器をか?」
「ええ。凶器を隠すのに一番盲点になりやすい場所は、どこでしょう?」
「うーん・・・」
 僕は、頭を抱える。
「灯台もと暗し・・・てんなら、犯行現場、だろうな」
「よくできました。凶器は、現場のトイレの中です」
「うーん・・・モップか何かか?」
「モップじゃ、何度も殴りつけないと人は死にませんよ。それに、これを鈍器と言うのは少し違うんじゃないかと思うんですが」
「ますますわからん」
 僕は、景気付けにビールをぐっと飲み干した。
「他に何があるというんだい」
「じゃ、もう一つ。どうして犯人は、現場を水浸しにする必要があったんでしょうか?」
「うーん・・・凶器が氷なら、溶けても分からないようにするためということも考えられるが・・・氷は違うって江田さん言ってたしな」
「そうですね。氷そのものではない。でも、何かを凍らせて使ったんだとしたら・・・?」
「え・・・」
 僕はますます頭を抱える。
「凍らせて使える、しかも現場に残ってて不自然じゃない・・・そんなもの、トイレにあったか?」
「一つだけね」
 楠はウインクする。
「びしょぬれでトイレに転がってても、誰も不思議がらない物。それでいて、人を殴り殺すのに十分な大きさの、濡らして凍らせることが可能なもの」
 可能なもの・・・可能なもの・・・楠の言葉が、脳裏でこだまする。そんなもの、本当にあるのか?大きさ、濡らせる、不自然でない・・・・
「あ」
 不意に、思考の焦点があった。
「まさか・・・あれか?」
「おわかりのようですね」
 楠は、くすくすと笑う。
「そう。正解は、トイレットペーパーです。濡らして凍らせておけば、大きな石ころくらいの凶器にはなります。おまけに、洗ってそのままトイレに捨てておけば、誰も怪しまない。凍結が溶けるのも氷の塊よりはずっと早い。念のために現場を水浸しにしておけば、氷の溶けた跡も隠せて、完全です」
「なるほどな・・・」
 僕は、また体の力が抜けるのを感じながら、ふらふらとテーブルに寄りかかった。
「また、僕の負けだね、楠君・・・」
 強烈な眠気が、僕を襲う。
「あ、ちょっと、成河さんまで。ちょっと、起きてください、ねえってば。誰が江田さん連れて帰るんですか。ねえちょっと」 
 楠の声とビアガーデンの喧噪を子守歌に、僕はそのまま眠り込んでいたのだった。
 それから当分の間、僕が彼の事務所に出入禁止になったのは言うまでもない。


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