虹男


 事務所のドアが開いて江田刑事が姿を見せた瞬間、楠と僕には彼の訪問目的がわかった。
「さて、今日は、どんな事件です?江田さん」
 楠が悪戯っぽく微笑む。 
 江田は溜め息をつくと、
「やれやれ。何もかもお見通しってわけか。君の慧眼には恐れ入るよ」
 この場合、楠の慧眼はあまり関係がない。単純に彼の表情がわかりやすいからである。
「また、知恵を借りるよ、楠君」
 江田は、ソファーに腰を下ろして、話をはじめた。

「今回殺されたのは、島辻夏太郎という画家だ」
 江田は、煙草に火をつける。
「死体が発見されたのは、彼のアトリエ。彼自身の愛用する果物ナイフで腹部を刺されて、出血多量でお亡くなりだ」
「もちろん、指紋なんてなかったんでしょうね」
「世にはびこる刑事ドラマやミステリ小説のおかげでな」
 江田は、早くも二本目の煙草に手を出している。
「この先生、それなりに評価されてて、十分自分の作品だけで食って行ける腕前を持ってたんだが、良くない癖があってね。名画の贋作を描いては、裏の世界に流して小遣いを稼いでいたらしい。んで、殺されるにあたっては、いくらでも理由が考えつくわけだ。が・・・この死体について少し気になる問題があってな」
 楠が片眉を釣り上げる。
「ダイイング・メッセージですか」
「図星だよ」
 江田は苛々と吸いがらを灰皿に押しつけた。
「島辻は、自分の描いた虹の絵を、しっかりと両手に抱え込んで死んでたんだ」
「虹の絵・・・?」
 楠が小首をかしげる。
「死んでから、何者かによって抱かせられたという可能性は?」
「ない」
 江田はぶっきらぼうに言う。
「指が食い込む程、死体はがっしりと絵を抱きしめていた。断末魔の苦しみの中で、壁にかけてあった絵をもぎ取り、誰にもはぎ取られぬようにと必死で守っていたんだ」
「その絵が、彼にとって何か特殊なものであると言うことは、ないですか?」
「そうだな。周囲の人間に聞く限り、そんな事実はないようだ。絵そのものは、暇な時間に遊びで描いた程度のものらしいし。中に何か隠されているということも、ない。そのことから、我々はダイイング・メッセージ説を考えたんだが・・・」
 江田はまた大きく溜め息をついた。
「意味はさっぱり、ですか」
「ああ。一応捜査の成果として、3人の容疑者が浮かび上がっている。綾月有彦、森拓、鮎部黎、というんだが・・・全員、島辻の贋作売買に関わってた人間だ。丁度おあつらえ向きに全員アリバイがない。だが、そのかわり」
「犯人を限定する決め手も、ないんでしょう」
 楠は、小悪魔の笑みを浮かべた。
 江田は無精ひげをばりばりとかきむしり、
「ああ、そうだよ。だから、また君の灰色の脳細胞にすがらねばならなくなったわけだ」
「さっき、容疑者の名前を出したのには理由がありますね」
 楠は淡々と、
「『虹』という言葉が関係した名前がないかどうか、考えたんでしょう」
「そうさ。で、何時間もいい大人がこいつらの名前の漢字とにらめっこしたが、どうしても思い浮かばない。ちなみに、こいつら以外の関係者にも『虹』が関係ある名前の人間はいない。ニックネームかとも思ったが、それもいない。いったい、『虹』の絵に意味があるのか・・・だんだん、俺にも分からなくなってきてる所だ」
 そこで再び、大溜め息。
「そうですか」
 楠はしれっとした顔をして、
「ところで、僕が考える犯人はですね・・・」
「おい、ちょっと待て」江田はぎょっとして、「もう犯人が分かったって言うのか」
「はい」
 楠はにっこりと笑う。
「あくまで推論ですから、証拠を更に洗っていただかないと、逮捕の根拠にはならないかもしれませんが」
 そう言って、彼は江田に耳打ちをした。
「そうか!」
 江田は目を真ん丸くして、立ち上がった。
「なるほど。そういう事か・・・なんだ、くだらない、そんな簡単なことだったのか。わかった、楠君、ありがとう!」
 彼は脱兎のごとく、事務所を飛び出していった。

 犯人逮捕のニュースを眺めながら、僕は楠に言った。「また、お手柄が一つ増えたね」
「シンプルな事件ですよ」
 楠は無表情に、
「実に、簡単なクイズです。ダイイング・メッセージそのものはね。それより、証拠が挙がるかどうかの方が 心配でした。でも、さすがは江田さんだ――ちゃんと、犯人の首根っこ押さえたんだもの」
「なあ」
 僕は、推理作家としての当然の誘惑に打ち勝てなかった。
「そろそろ教えてくれよ。あのダイイング・メッセージで、どうしてあの犯人だとわかったんだ?」
「くだらない、ことば遊びですよ。聞いてから文句言いませんか?」
「言わない。絶対」
「じゃ、種明かししましょう」
 楠は、面白くもなさそうに、「虹イコール、『にじ』と考えて下さい」
「は?」
 僕は、一瞬何を言われているのかわからなかった。
「そして、『にじ』イコール『二字』。事件の容疑者で名前が二字なのは、誰でしたっけ?」
「あ・・・」
 僕は、呆気に取られたまま、
「森・・・森拓・・・」
「そういうことです」
 楠は肩をすくめる。
「他愛ないでしょ?」
「そんな・・・そんな馬鹿らしいことだったのかよ」
 僕は、全身の力が抜けていくのを感じた。
「文句は言わない約束ですよ」
 楠はころころと笑う。
「さ、江田さんのところに遊びに行きましょう。解決祝いで、何かおごってくれるかもしれませんよ」


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