鏡 男
その日、僕と楠は事件の捜査(僕の場合はこれが取材になる)の帰りに、駅前の喫茶「EVE」で休憩していた。
「楠君、調子はどうだい?」
聞き慣れた声。江田さんが快活を装って、こちらに接近してくる。
「なんだ、成河君も一緒か。ここ、いいかな?」
「どうぞ」
楠はコーヒーをすすりながら、小説現代メフィストなんぞを読んでいる。
横柄にも、全く視線を上げない。
「いやいや、参ったよ」
江田さんはアイスコーヒーを注文すると、おしぼりで顔を拭いた。見かけは決してオヤジ臭くない彼だが、悲しいかな、おじさんの宿命からは逃れられないとみえる。
「またまた、ダイイング・メッセージときたもんだ。全く、どうせならもっと分かりやすいヤツにしてくれたらいいんだがなあ」
「分かりやすいと、犯人に隠されちゃうでしょう」
楠は、素っ気なく言う。
「犯人には気づかれぬよう、かつ、死体の発見者にははっきりアピールできる。これが、ダイイング・メッセージの基本ですよ」
人の死に際に、基本もなにもないもんだ。
「で、今回は、どんな?」
「それがな・・・」
「今回はまた、ミステリ好きが泣いて喜びそうな事件だぞ」
江田はうんざりした調子で言う。
「雪の山荘で殺人、だからな」
「へえ。足跡のない犯人でも出てきたら、もう卒倒ものですね」
楠は相変わらずメフィストを読んでいる。意外と失礼なヤツだ。
「残念ながら、それはないよ」
江田は苦笑する。
「とりあえず、閉ざされた空間で起こった事件なので、被疑者は限定されてる。それだけが救いだな」
「で、どんな事件です?」
僕は身を乗り出して訊いた。
「長野の別荘地で、とある大学の学生どもが、教授と一緒に合宿してたんだ。殺されたのは、その教授で、法溝乱人 という。合宿の2日目、大雪で別荘が閉ざされてしまった夜、殺された」
「死因は?」
「棍棒のようなもので、頭を殴られたらしい。そして、死体の手には・・・小さな鏡が握られていた」
「なるほど。それがダイイング・メッセージらしいと」
「そうだ。ちなみに、一緒にいた学生は、島田純子、摩耶礼一、久野蘭造、南幸美の四人」
「人間関係で、不審な点は?」
「島田純子は、教授とその・・・男と女の・・・コホン」
江田は少し言いにくそうにしていると、
「愛人関係だったんですか」
楠が臆面もなく言う。店の客の何人かが、こちらを振り向いた。
「そうだ」
江田さんは顔を赤らめて、
「しかも、久野ともそういう関係だったらしいことが分かっている。それでな、問題は、凶器と思われる血の着いた棍棒が、久野の部屋から見つかったんだ。捜査陣は、痴情のもつれによる殺人ということで、追及してるが・・・」
「白状しない?」
「ああ」
江田はため息をつく。
「それに、どうも・・・俺の勘だと、久野はクロじゃないような気がするんだな」
「おい、楠君」
僕は楠の腕をつついた。
「何か、思い当たらないか?」
「そうですね」
楠はやっとメフィストから目を上げた。
「江田さん、容疑者のフルネームを漢字で書いたメモとか、あります?」
「ここに」
楠は、そのメモをしばらく眺めていたが、
「そうですね。少なくともこのダイイングメッセージから考えられる犯人は・・・」
そう言って、江田に耳打ちする。
江田は真剣に耳を貸していたが、不意に目をかっと見開くと、
「なるほど。そういうことか。よし、早速調べてみよう」
と、挨拶もそこそこに店を飛び出していってしまった。
「なあ、誰だったんだ?犯人」
僕が聞くと、楠はにやりと笑って、
「当ててごらんなさい」とだけ言った。
「全く、今回も、楠君のおかげで助かったよ」
楠が煎れたコーヒーを飲みながら、江田はほっと安堵の溜め息を漏らした。
「こちとら、想像力の欠如したしがない国家公務員だからな。聞いてみるとあんな簡単な答えでも、捜査中にはかけらも思いうかばない」
「ご謙遜ですね」
楠は、にこにこと笑う。
「僕は可能性を示唆しただけです。それを糸口にして真実までたどり着き、犯人を逮捕するだけの根拠を突き止めたのは江田さんですよ」
「そう言ってもらえると、少しは安心するな」
そう言って、江田はコーヒーを美味そうにすすり上げる。
「で、犯人は誰だったんです?」
僕は、我慢しきれなくなって訊ねた。
楠は目を細めて僕を見た後、江田さんを見た。そして、二人で顔を見合わ
せ、にんまりと笑う。
「困りますね、成河さん。この程度の謎が解けない貧弱な想像力じゃ、ミステリ作家なんて出来ませんよ」
「何いってやがる」
僕は憮然として反論する。
「僕は謎を作るのは得意だが、解くのは苦手なんだ。推理作家とはたいてい、そんなものさ。さあ、教えてもらおうか」
「そうですか。仕方ないですね」
楠はくつくつと笑い、
「江田さん。あの容疑者の名前が書いたメモ、まだお持ちですか」
「ああ」
江田はポケットから取り出す。
楠は頷き、
「じゃ、成河さん。僕の机の抽斗に小さな鏡があります。それでこのメモを映してごらんなさい」
僕は、言われたとおりに鏡を持ってきて、そのメモを映してみた。
「あ・・・・」
そこにきてやっと、僕は楠の意図が理解できたのだった。
「なるほどな。左右対称、か」
「そうです。鏡に映しても名前が普通に読めるのは、誰ですか?」
「南幸美。こいつが犯人か・・・!江田さん、こいつで正解だったんですか?」
「ああ」
江田はダンディな笑みを浮かべる。
「動機は、痴情のもつれだそうだ。こいつもまた、教授と愛人関係だったんだ。で、尻軽の島田純子と別れるよう、再三説得を試みたらしいんだが、教授はうんと言わない。で、可愛さ余って憎さ百倍・・・ってことらしい。久野の部屋に凶器を隠したのも、この女だそうだ」
「ははああ・・・そんな単純なことだったのか。そのくらい、僕にだって見当がついてたさ」
僕が負け惜しみを言うと、楠は眉の端を釣り上げ、
「そうですか。じゃ、これから成河さんには正解が出るまで答えを教えないことにしましょう」
「な・・・そりゃあないだろ。わかったよ、謝る。降参するよ」
「真実っていうのはね、成河さん」
楠が、ウインクしながら言った。
「人間が思っているのより、根っこはずっと単純なものなんですよ」