二度は死なない


「自分が一度殺意をもって殺した相手をどうしても生き返らせたくなる、なんてことはあるものかな、楠くん」
 いつものように楠想一郎の探偵事務所に難問を持って現れたらしい江田警部だが、今日の惹句はなかなかに魅力的だった。
 彼は彼で、毎度毎度楠に知恵を借りることに良心の呵責を感じているらしい。
 だからといって彼の助力無しでは解けない謎がなくなるわけではないので、せめて楠が興味を持ち、自主的に推理をしたくなる話の導入部を作るのに、心を砕いているようなのだ。
 しかし、ミステリ作家でもなんでもない、真面目で一本気ないち刑事にすぎない彼のこと、その試みは八割方失敗に終わっていると言わざるを得ないのだが――そんな時は、一応ミステリ作家の端くれである僕に相談してくれれば、いつでも相談にのるのだが、やはり職業柄そういうわけにもいかないのだろう――今日はどうやら数少ない成功例の一つに加えてもよさそうである。
「それは、十分あり得ることだと思います」
 楠は、ノートパソコンをぱたりと閉じて、最近書類仕事の時だけかけているらしいフレームの異様に細い銀縁眼鏡を外しながら言った。
「純粋に理性のみで考えれば、殺人ほどハイリスク・ローリターンな作業はそうそうありませんからね。人を殺そう、なんて真剣に考える時点で人間は緻密な打算という機能が脳から追い出されているわけですから、いざ事に及んだ直後にそれを不意に取り戻して、一気に後悔に襲われる……なんてことは割とよくありそうな事じゃないでしょうか」
 そして、外した眼鏡を指先でくるくる回しながら、
「そういう事件が、あったんですね?江田さん」
 楠は、どうかすると少女のようにも見える美しい貌に、妖しい笑みをうかべる。
「ああ。理解が早くて助かるよ」
 江田の台詞は、文章にするととても冷静だが、声色は黄色くひっくり返っていたので、彼が楠の反応をいかに気にしていたかが如実にわかる。
「すまんが、いつものようにきみの意見を聞きたい。よかったら、成河くんも一緒に考えてくれ」
 江田さんが僕の名前を出したのは、同席している僕に疎外感を抱かせないための気遣いというか優しさなのだろうが、やはりとってつけたような印象は否めない。まあ、いつものように、楠の推理の当て馬というか外れ籤を進んでひいて当たりの確率をよくするくらいの役には立つだろう。
「どうしたんですか成河さん、自虐的な笑みをうかべて。ほら、一緒に推理しますよ」
 楠は、にこにこと無邪気に微笑みかけるが、その笑顔の輝かしさが実は彼のサディストぶりの証明であることを僕は知っている。
「わかってるよ、楠くん。喜んで協力します、江田さん」
「すまんな、二人とも」
 江田は煙草に火をつけながら話し始めた。

「事件が起こったのは、S町にあるいくつかの商事会社が入った十階建ての雑居ビル、王仁島第三ビルの五階にある『地久慈エンタープライズ』という会社のオフィスだ。ちなみに、五階全体をこの会社が借りている」
 手帳を参照しながら淡々と話す江田さんを見る楠の目は、はっきり言ってあまり機嫌がよさそうではない。少なくとも舞台設定という点では、つまらなく思っているのがありありだ。
「そこで働いてたOL、光角由真二九歳が、今回の事件の被害者だ」
 江田は続ける。
「彼女は二月一五日の朝、細い紐か何かで絞殺されているのを、最初に出社してきた社員・北崎省吾に発見された。死亡推定時刻は、死後硬直と死斑の具合から一四日の夜一〇時から一五日の零時頃」
「なんでそんな時刻に、彼女はオフィスに残ってたんでしょう」
 楠は眼鏡のフレームを軽くたわませて遊びながら、
「だいたい、二月一四日ってバレンタインデーですよね。そんな夜に女性がそんな時間まで職場にいるのは不自然な気がします。いささかステロタイプに当て嵌めすぎかも知れないですけど。彼女は独身ですか?」
「ああ」
「容姿は?」
「まあ、それなりに美人だと言えると思う。少なくとも俺が生前の写真で見た限りでは」
 死体じゃ美人かどうかわからん、ということか。
 楠は小首を傾げて、
「だったら尚更、バレンタインデーは恋人とホットチョコのごとく熱く甘い夜を過ごすのが多数派のような気がしますが」
「一応、彼女の上司とビルの守衛には、深夜まで残業するので一人でオフィスに残る旨、事前に報告されていたそうだ」
 そこで、江田は男らしい眉を微妙に歪めた。
「が、その上司も守衛も、彼女の目的が仕事なんかじゃないことは薄々察してたらしい」
「はあ」
 楠の気のない返事。
 江田はばつが悪そうに頭をぽりぽり掻きながら、
「彼女には、世間一般でいわゆる男女の関係という間柄にある男性が、複数いた。会社の中にも、外にも」
 その後の展開が露骨に予想されてしまったらしく、楠は明らかに不機嫌な顔になる。
「はあ」
「そして、彼女の趣味は、他の社員が退勤した後の職場のデスクの上やら応接用ソファの上でセックスすることだったらしい。しかも常習犯だ」
「常習犯で他の社員や上司も知っているのなら、なんでそういうのを看過するんでしょうね」
「仕事の方では全く問題なし――どころか、社内での営業成績じゃ常に一二を争っていたらしいからな。下手に事を荒立てるよりは、黙認して会社に貢献してもらう方がいいと思ったんだろうさ」
 楠は片眉をつい、と上げて、
「弱みを握っておけば、会社に楯突かれた時の切り札に使えるし?」
「そういうことだろうな」
 江田は苛々と煙草を揉み消す。
「で、その夜もどうやら、無人のオフィスでバレンタインデート、ってことだったらしい。というか報告を聞いた上司と守衛は、そう解釈した。ところが、翌朝になってみると――というわけだ」
「そこまでは分かりましたが、江田さん」
 楠は、眼鏡のフレームを江田の鼻先に突きつけた。
「そろそろ、最初のキャッチコピーの意味を教えてくれないと、JAROに訴えますよ」
「ああ、わかってるよ。前置きが長くてすまなかったな」
 江田は悪びれもせずに言う。
「彼女は、首を細い紐のようなもので絞められて殺されていた。だが、絞めた痕は交差するような形で二本あるんだ。どうやら、それぞれ絞めた力が違うのが。新しい絞め痕の方が、明らかに強い力で絞めている。そして何故か、彼女の肋骨は何本か折れているんだが――その状態を見ると、彼女は何者かによって心臓マッサージを施されたらしい」
 事件の説明が始まってから初めて――楠の口元に笑みがうかんだ。
「なるほど、そういう意味ですか」
「そうだ」
 江田は嘆息する。
「つまり、光角由真は、一度首を絞められて、おそらくは一度意識を失うか心肺停止した後、心臓マッサージを受けて息を吹き返した。その後また改めて――今度はもっと念入りに絞め殺されたということになる」
 そして、顔色を窺うように楠と僕を上目遣いに見て、
「不可解だろう?」
「たしかに。何故、一度はっきりと殺意を持って絞殺した相手にわざわざ蘇生術なんか施すのか。それで、せっかく生き返った相手を、また殺すなんて真似をしないといけないのか。派手ではないけど、魅力的な謎です」
 楠はにっこりと微笑む。
「成河さんも、そう思うでしょう?」
「ああ、そうだね」
 我ながら職業病だと思うが、この謎を使ってミステリが書けないか、どんな真相なら読者をあっと言わせられるか、必死で考えている自分がいる。
「ミステリ作家魂を、大いにくすぐられる」
「そうでしょう」
 楠はリズム良く頷いて江田に向き直ると、 
「事件当夜のもっと詳しい状況、お願いします」
「ああ、いいとも」
 江田は新たな煙草に火をつけた。

「その夜、光角由真以外の社員は、夜八時までの間に退社している。最後の一人が退社したのは、七時四九分だそうだ」
「その後の時刻に、或いはビルに出入りした人間が怪しい、ということになりますね。該当者はいますか」
「ビル全体で見ると、結構多いんだよ、これが」
 江田は、煙草を持った手で頭を掻く。灰が頭にかかってフケのように見え、僕は昔のコントに出てくる金田一耕助のパロディを思い出した。
「このビルにゃ『地久慈エンタープライズ』以外の会社も、結構残業している社員がいて、最終的には一五日の午前一時にやっと無人になった」
「そういう、人の出入りを監視しているのは、さっき話に出てきた守衛さんですか?」
「そうだ。夕方六時以降にこのビルに出入りする人間は、必ず守衛室に申し出なければならないし、ビル内に残る場合も同じだ」
「ふむ」
 楠は、眼鏡のフレームに髪の毛を巻き付けながら、
「なかなか、管理が厳しいビルなんですね」
「ああ。おかげで犯人はこのビル内の会社で働く人間に絞られるから、大分楽なんだがな。この守衛がまた、なかなか細かくて頑固で、毎日つき合うのはしんどそうな感じの男ではあるんだが。ともかく、夜八時以降にこのビルに出入りした人間は割と多いが、実はその中に、明らかに動機がありそうな人間が二人いる」
「なんだ、もうそこまで絞られてるんですか。なら、別に僕みたいな部外者がしゃしゃり出なくても、解決は目前なんじゃないですか」
「そう簡単じゃないことはわかってるだろう、楠くん」
 江田は腕組みして唸る。
「動機はあっても、決め手はない。どっちもアリバイはない。容疑者が限定されている状況で全員にアリバイがないのは、全員にアリバイがあるのと同じだよ。いや、厳密には、片方は一度は現場に足を踏み入れているんだが、逆にそれを証明する人間もいないからなあ――」
「その決め手が、光角さんが二度殺された理由にある、と江田さんはお考えになるわけですね?」
「そのとおり。どうだい?何か閃いたか?」
 と、江田は身を乗り出した。
 楠は無情にかぶりを振る。
「その二人のことを教えてください」
「一人は、光角の会社のワンフロア上にある不動産会社の社長、今寺剛四七歳。光角の愛人の一人だ。仮にも会社社長なので、それなりに経済力がある。そこを彼女に目を付けられて、妻子ある身でありながら誘惑され、金蔓にされていたらしい」
「江田さんの話聞いてると、そっちが被害者みたいですね…」
「ああ、そうか。すまん」
 江田はまた煙草を揉み消した。そして間髪入れず新しい煙草を取り出す。
「彼は、定時の終業時刻である五時三〇分ごろに普通に家路についたが、八時三〇分にちょっと用事を思い出したと言い、戻ってきた。再びビルから出たのは、二時間後の一〇時三〇分頃。ちなみに彼の会社の人間は全員定時で退社しているので、彼が本当に自分のオフィスにいたかどうかは、証明する人間はいない」
「なるほど。じゃあ、もう一人は?」
「鞍田満彦。光角の担当する取引先の営業担当者だ。二七歳独身。仕事を通じてそういう関係になったんであろうことは想像に難くないが、彼は自分の勤める会社の重役の息子らしく、光角が取ってきた契約も、彼を籠絡してたぶらかした成果だ、と噂されてる。彼は、九時四五分ごろにやってきて、『地久慈エンタープライズ』に急いで届ける書類があるから、と守衛に声をかけた。そしてビル内に入り、出てきたのは一〇時一五分くらいだったそうだ」
「どっちも痴情関係ですか」
 楠は不快そうに額を押さえた。
「そうそう、大事な事を聞くのを忘れてました。生前情交形跡はあったんですか?」
「それがなあ」
 江田はまた溜息をつく。
「なかったんだ」
「それじゃあ、彼女がバレンタインの情事をオフィスで楽しむつもりだった、という推測も否定されるのではないですか」
「いや、それは違う」
 江田は慌てて、
「その点だけは、はっきりしてる。鞍田が彼女とのデート目的で会社にやってきた事は、彼自身が認めてるからな。だが、彼はあまりに性急に彼女に迫りすぎて、彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。チョコは貰えたものの、セックスはお預けをくらってオフィスから叩き出されたそうだ」
「それが犯行の動機、ってことじゃないんでしょうか」
 思わず僕は口走る。
「難しく考えるまでもなく、彼女に振られて頭にきて殺してしまった。だけど後悔して、一か八か心臓マッサージをしてみたら蘇生に成功した――」
「それで?」
 楠の視線は冷たい。
「その後また冷徹に引導を渡し直した理由は?」
「ええと、意識を取り戻した光角さんが怒って、警察に訴えてやる、とか何とか喚きはじめたので、またかっとなって…」
 最後の方は、自分でも聞こえなくなるほど小さく尻窄みになっていた。
 楠は、いつものアルカイックスマイルをうかべると、弄んでいた眼鏡を僕の鼻先にひっかけて、
「細い紐で首を絞めるなんてのは、かっとして相手を殺す場合の方法じゃありませんよ。手近にあった鈍器で殴る、なんてのとは違って動作が多すぎますからね。予め殺す気でないと、咄嗟に身体は動きません。千歩譲ってそういうケースがあったとしても、そんな衝動的な殺人者には、冷静に心臓マッサージを施してまた殺すなんて七面倒なやり方、思いつけないと思います」
「なら、どういう場合なら思いつくのさ」
 僕はむきになって言う。ああ、いつものパターンだ、と自嘲しながら。
 楠は肩をすくめて、
「それを言われると僕も弱いんですよね。さっきの理屈だと、鞍田さんが最初から除外されてしまう格好になるし」
「じゃあ、単純に今寺氏が犯人なんじゃないのか」
 僕はここぞとばかりに言う。
「鞍田さんに罪を被せたくて、彼が帰った直後にオフィスに乗り込んで――」
「その可能性は否定できませんけど、やっぱり現時点で決め手に欠きます。ところで江田さん、確認したいんですが」
「ん?」
 楠と僕が喋っている間に、彼の煙草はまた新しくなっていた。
「何かな」
「先程から動機と機会の両面から、今寺さんと鞍田さんが怪しいのはわかりますが、純粋に動機がありそうな人間、というのは他にもきっといますよね?それほど男性関係が派手な人なら」
「ああ。現に同僚の中にも、彼女といざこざを起こした人間は男女問わず大勢いる。恋人を盗られて、殺したいほど憎んでいる、って女の子もいたぞ」
「そこで僕が気になるのは、そういう人たちがビルに侵入する手段が、本当に全くなかったのか、ということです」
「守衛の話を聞く限りでは、なかったことになるが――」
「でも、午後六時以降も大勢の人が出入りしていた、というのなら、いくら決まった時間に戸締まりをしていても、気まぐれを起こした誰かがどこかの窓を開けたり、オフィスの鍵を閉め忘れたりした可能性はありますよね?」
「守衛は、ないと言っている」
 江田は、自分の頭に乗っている煙草の灰に不意に気づいたらしく、軽く払い落としながら、
「自分は、一晩の間に何度も戸締まりを見て回っているから、そんなことは絶対にありえない、と。あの頑固さと神経質さならまあ、間違いないかなあという感じだが」
「ビルには玄関の他に、裏口とかないんですか」
「あるけど、そこも施錠してある。ちなみに、守衛が持ってるキーがないと、開け閉めはできない」
「屋上は?」
「同じだ」
 楠は、先程僕にひっかけた眼鏡をひったくると、フレームを口にくわえる。
「そうですか――なんだか、模様が違うんだけどなあ」
 捜査や推理の流れが、真相からずれた方向に走り始めているとき、彼は『模様が違う』という言葉を口にする。僕も、彼ほどではないが――なんだか、ここまでに江田さんが提示してくれている手がかりが、どうもどれもしっくり来ないというか上手に並ばなくて、居心地が悪く感じていた。
「そうだ」
 楠は、眼鏡を口から離した。
「守衛さん、一晩のうちに何度も戸締まりを見てるって言いましたよね。守衛さんは何人いらっしゃるんですか」
「一人だ。扇谷って元体育教師の爺さんで、退職後守衛をしてるらしい。だから意固地で厳しいんだな」
「なら、扇谷さんが戸締まりを点検しに回っている間、守衛室だか窓口だかは無人になるわけですよね。その間なら、彼のチェックなしにビルに出入り出来るのでは」
「巡回の間は、玄関も鍵をかけてあるそうだ。ちなみに、鍵の方式は裏口や屋上ドアと同じ。勝手には出られない」
 職務に忠実なのはいいが、はっきり言ってそれはビルで働いている人間にとっては迷惑なのではないか。
 楠は、ふう、と息をついてソファの背もたれに身体を預ける。
「なんか、病的なまでに戸締まりにこだわってますね」
「病的か。そう言われればそうかもな」
 江田は苦笑する。
「たしかに、俺があの爺さんに話を聞くとき、丁度巡回の時間だってんで一緒に回りながらだったんだが。明らかに施錠されてるドアとかわざわざ鍵かけ直してたもんなあ」
 楠の眉が、ぴくりと動いた。
「江田さん、すみません。それ、何時頃のことですか」
「守衛の爺さんは夜が勤務時間だから、聞き込みも後回しにしたからな。もう、夜の九時くらいだったぞ」
「扇谷さん、一晩に何回巡回してるんですって?」
「二時間ごとって言ってたと思うが」
「彼の勤務時間は?」
「さあ。そこまでは訊いてないけど、六時以降が管理の管轄になるみたいだから、五時三〇分ごろからじゃないのかな。そこから、朝まで――」
「もう一度」
 楠は言った。だが、その目は江田ではなく、彼の背後を通り越してどこか遠いところを見ている。
 江田はきょとんとして、
「もう一度、さっきのことを言うのか?爺さんの勤務時間を?」
「もう一度、もう一度、もう一度」
 楠は繰り返した。別に江田の言葉を再度聞きたいわけではないらしい。
「傷の入ったレコード、最も確実な確認方法――」
「おい、楠くん――」
 江田が心配そうに声をかけようとすると、楠は弾かれたように立ち上がり、
「江田さん、分かりました。光角さんが二度殺された理由も、犯人も」
「なんだって」
 僕と江田とは顔を見合わせる。先程まで、あれほど八方塞がりに思えた謎なのに、そんな何の前触れもなく。
 いや、きっときっかけはあったのだ。ただそれを、僕と江田は見つけられなかっただけで――。
 楠は、江田の耳元に抱きつきそうな勢いで口を寄せた。そして、かれの唇がゆっくりと動く。
 僕には聞こえないが、それは犯人の名前と、真相をはっきりと告げているに違いなかった。
 江田は立ち上がる。
 楠に礼を言うと、堂々たる足取りで事務所を出ていく。
 その背中を見送りながら僕は、きっと今楠に真相を尋ねても、また教えてくれないんだろうなあ、と悲しく考えた。

 その翌日。
 各メディアで発表された犯人の名前を目にした僕は、楠の事務所に転がるようにして飛び込んだ。
「どうしました?成河さん」
 楠はいつもと変わらず、菩薩像のような柔和な表情で書類仕事をしている。
「き、き、昨日江田さんが持ってきた事件」
 僕がどもり気味になるのは、走ってきて息切れがするせいと、犯人の名に興奮しているせいと両方だ。
「犯人――犯人って」
 そう、犯人は今寺でも鞍田でもなかった。
 楠は、書類から目を上げ、涼しい顔で言った。
「そんなに以外ですか――?犯人が扇谷さんなのが」
「だって、他にも動機がありそうな人間いっぱいいるじゃないか。なんで、なんで扇谷さんが」
「動機がある人間が必ず人を殺すわけではないでしょう。そんなこと言ってたら、光角さんを殺した犯人は十人くらいいそうな感じじゃないですか」
 S警備会社勤務、扇谷一助、六八歳。
 それが犯人の名だった。
 新聞によると、異常に生真面目な彼は、日頃からビル内を汚したりオフィスの戸締まりをちゃんとしなかったり、決められたルールを守らない光角由真を腹立たしく思っており、その苛々が遂に殺意に変わった、ということらしい。
「でもね、新聞にはそこまで詳しく書いてなかったでしょうけど」
 楠は、くすくす笑いながら、
「単なる嫌悪感やストレスが殺意に変わったのは、光角さんがバレンタインのチョコに、食べかけの板チョコをよこしたからだそうですよ。堅物爺さん、あんたにはこれで上等よ、ってね。日頃よくお説教をされてた仕返しだったらしいですが。その夜光角さんがオフィスで危険な情事に耽ることを知っていた彼は、今夜なら、その相手に罪を着せることが出来る、と計算して犯行に及んだようです」
「なるほど――動機はわかったよ」
 僕は、どうにかやっと呼吸を整えながら、
「だけど、例の蘇生術の謎はどうなんだ。なんで扇谷さんは、光角さんをわざわざ生き返らせるような真似を」
「扇谷さんは、とにかく病的なまでに確認癖がある人でしたが」
 楠は髪の毛を指先に巻き付ける。
「江田さんの話を聞いていて、何か違和感があると思いませんでした?」
「いや――ものすごい心配性だな、とは思ったけど」
「あの巡回の話を聞いてたら、扇谷さんって、明らかに自分が施錠したはずのドアの鍵をかけ直したり、強迫神経症か何かじゃないかと思うくらい神経質なことをやってるんですよね。でも、考えてみてください。明らかに施錠したはずの鍵をかけ直す、ってことは動作としてはどういうことになるんでしょう?」
「鍵をかけ直すのが、そんなおかしなことかい?何度もやるのは変だとしても」
「普通に鍵がかかっているかどうか確かめるのなら、ドアノブ引っ張るだけで十分でしょう。でも、彼はそれでも気が済まなかった。彼は、一度施錠している鍵を一度解錠して、もう一度施錠しているんです」
「はあ」
 僕はピンときていない自分をいささか情けなく思いつつ、
「なんでそんなことを」
「まあ、あのビルのドアがどうだったかは知りませんが、調子が悪くて、普通に施錠しても必ずしもきちんと鍵がかかっていない場合がある、扱い慣れていないとちゃんと鍵がかかっているかどうか判断しにくい錠前があったとしますか」
「ふむ」
「さっき自分はその錠前の鍵をかけたはずだが、どうも上手くかかっているかどうか自信がない。ちょっと引っ張ったくらいだと開かないが、ちゃんとかかっていなければ、何かの拍子に外れるかもしれない。そういうときは、どうするのが一番確実に施錠を確認できると思います?」
「ものすごく引っ張るとか」
「それもありといえばありですが」
 楠は笑う。
「一番確実なのは、一度解錠して、もう一度施錠し直すことですよね」
「……」
 なんだ、その引っかけ問題みたいな答えは。
 憮然としている僕を見て、楠はまた笑う。
「納得いきませんか?でも、常に何かの不安にさいなまれている人にとっては、そういう『繰り返し』というのは無意味だとわかっていても、やらない安心できないものなんです。少なくとも扇谷さんはそういう人でした。その感覚が、殺人を行ったときにも活きていたとしたら、どうなります?」 
「……死んでいるかどうか確かめるには、生き返らないかどうか確かめるのが一番……てことかい?」
「そういうことです」
 楠は大きく溜息をつく。
「そんなに不安なら、殺さなければいいでしょうにね。そう、扇谷さんは、確かめた。心臓マッサージをしてみて、本当にちゃんと殺せているかどうか。もしかしたら、人工呼吸もしてみたかも知れない。彼の病的な神経質さを考えると、その方が自然ですね」
「人工呼吸なんてしたら、死体に痕跡が残ってしまうんじゃないのか。唾液とか」
「今時、人工呼吸するのに直接唇合わせてやる人なんていませんよ」
 楠は鼻で笑う。
「バイオハザードが生活圏のどこに隠れているかもしれない昨今、人工呼吸を行うときはハンカチなどを口にあて、少しでも感染症なんかにかかる危険を軽減させるのは、常識です。特に、相手の唇に傷がある場合は絶対です。それはともかく、彼の救命処置で、幸か不幸か見事に光角さんは息を吹き返してしまう。そこで改めて、今度はもっと念入りにより憎しみを込めて、彼は彼女を絞殺した――」
 そういえば、扇谷さんは元体育教師だった。心臓マッサージや人工呼吸などの救命処置は、ひととおり経験したことがあるだろう。
「くだらない」
 僕は我知らず毒ついていた。
「なんてくだらない事件。殺された相手もくだらなければ、殺した犯人もくだらない。こんなくだらない事件、正直小説にもしたくないな――」
 楠の言うとおり、そんなに不安なら、殺さなければいいのだ。罪など犯さなければいいのだ。
 楠は、静かに微笑む。
「ええ、たしかにくだらない事件でした。でも、人が殺したり殺されたりしたことを、いつもこうして批評してるだけの僕や成河さんは、もっとくだらないかもしれませんよ?」
 全く反論できない僕に、楠は優しい声で言った。
「でも、そんな僕らをそんなふうに批評しようなんて輩は、単純に順番で考えると、僕らよりもっともっとくだらない人間、っていうことになります。そんな人間の言うことなんて、耳を貸すことありませんよ。それに」
 そして立ち上がって事務所の窓のブラインドを引き上げながら、
「そもそも人一人の生き死になんて、生命の歴史や宇宙の広さからすれば糸屑ほどの価値もない。つまらないことの堆積物なんですよ、僕らの存在そのものが。だからこそ、面白くなきゃ意味がない。でしょ?成河さん」

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